副題に「全体主義はよみがえるか」とある。その問いに対する答えはこう記されている。
「もうすでに現在の日本は、いくつかの局面では全体主義の様相を帯びていると考えてもいいでしょう。・・・「下からの」というより「上から」静かに統制を強めるような、冷めた全体主義です」
島薗のこの意見に、ボクは同意する。そういう時代が、急速に実現している。1980年代から構想され、徐々に変えられてきた日本という社会は、小選挙区制などの制度改変を経て、全体主義的な社会へと組み替えられてきている。
そしてこの本を読むボクの視点は、ではどうすればそれを阻止できるかというものだ。その際、ボクの視野は、近世後期から始まる。
本書も、同様の視野を持つ。「国学」である。しかし島薗は、こういう視点も提示する。これはボクの視野に入っていなかった。
「幕末の尊皇論から維新へと導いた王政復古へとつながる思想では、儒教の影響にも十分、注意を向ける必要があります。」として、後期水戸学が背景としたものは儒教であり、明治初期に宣言された「祭政一致」は、「上からの」統合をめざす、非常に儒教的な要素の強いもの」と。
儒教について、もっと勉強を深めなければならないと思った。もちろん国学がでてくる背景に近世儒教の流れがあることは知っていたが、王政復古や祭政一致にも儒教が関わっているという認識はなかった。
また国家神道について、1890年から1910年ころの20年間で、「国家神道を普及させる制度やシステムが確立」し、「国家神道は国民自身が担い手となる「下からの」運動という性格を帯びていく。つまり、民衆が自ら自発的に国家神道の価値観を身につけ、その価値観をもとに行動していく」と指摘する。
最近の教育行政や教科書、道徳教育の強制などの動きを見ると、同じような制度やシステムを再構築しようとしているのではないかと思う。
近代日本の「右翼思想」の担い手は、日蓮主義が多いが、親鸞の他力本願を奉じる蓑田胸喜のような人物もいる。この蓑田の激しい行動が「自由」を日本社会からなくしていったのだが、こういう事実を指摘されると、親鸞に任せておけばよいという町田の住人のことが思い浮かぶ。
さて、以下の島薗の指摘は、近代日本史研究の重要性を知らされる。
全体主義は昭和に突如として生まれたわけではなく、明治初期に構想された祭政教一致の国家を実現していく結果としてあらわれたものです。つまり、明治維新の国家デザインの延長上に生まれたものです。
現在の全体主義のゲネシスを近代日本の初発に求める作業は、これを克服するためにも求められているのだと思う。
いろいろな点で刺激を受ける本である。
「もうすでに現在の日本は、いくつかの局面では全体主義の様相を帯びていると考えてもいいでしょう。・・・「下からの」というより「上から」静かに統制を強めるような、冷めた全体主義です」
島薗のこの意見に、ボクは同意する。そういう時代が、急速に実現している。1980年代から構想され、徐々に変えられてきた日本という社会は、小選挙区制などの制度改変を経て、全体主義的な社会へと組み替えられてきている。
そしてこの本を読むボクの視点は、ではどうすればそれを阻止できるかというものだ。その際、ボクの視野は、近世後期から始まる。
本書も、同様の視野を持つ。「国学」である。しかし島薗は、こういう視点も提示する。これはボクの視野に入っていなかった。
「幕末の尊皇論から維新へと導いた王政復古へとつながる思想では、儒教の影響にも十分、注意を向ける必要があります。」として、後期水戸学が背景としたものは儒教であり、明治初期に宣言された「祭政一致」は、「上からの」統合をめざす、非常に儒教的な要素の強いもの」と。
儒教について、もっと勉強を深めなければならないと思った。もちろん国学がでてくる背景に近世儒教の流れがあることは知っていたが、王政復古や祭政一致にも儒教が関わっているという認識はなかった。
また国家神道について、1890年から1910年ころの20年間で、「国家神道を普及させる制度やシステムが確立」し、「国家神道は国民自身が担い手となる「下からの」運動という性格を帯びていく。つまり、民衆が自ら自発的に国家神道の価値観を身につけ、その価値観をもとに行動していく」と指摘する。
最近の教育行政や教科書、道徳教育の強制などの動きを見ると、同じような制度やシステムを再構築しようとしているのではないかと思う。
近代日本の「右翼思想」の担い手は、日蓮主義が多いが、親鸞の他力本願を奉じる蓑田胸喜のような人物もいる。この蓑田の激しい行動が「自由」を日本社会からなくしていったのだが、こういう事実を指摘されると、親鸞に任せておけばよいという町田の住人のことが思い浮かぶ。
さて、以下の島薗の指摘は、近代日本史研究の重要性を知らされる。
全体主義は昭和に突如として生まれたわけではなく、明治初期に構想された祭政教一致の国家を実現していく結果としてあらわれたものです。つまり、明治維新の国家デザインの延長上に生まれたものです。
現在の全体主義のゲネシスを近代日本の初発に求める作業は、これを克服するためにも求められているのだと思う。
いろいろな点で刺激を受ける本である。