不適切な表現に該当する恐れがある内容を一部非表示にしています

浜名史学

歴史や現実を鋭く見抜く眼力を養うためのブログ。読書をすすめ、時にまったくローカルな話題も入る摩訶不思議なブログ。

「賢明な」大阪人

2011-11-27 20:22:01 | 日記
 早々とマスメディアが、大阪維新の会の勝利を伝えた。これは「朝日新聞」配信の記事。

維新の会の橋下氏・松井氏が当選確実 大阪ダブル選関連トピックス橋下徹

 大阪市長、大阪府知事の同日選が27日に投開票された。一騎打ちとなった市長選は、地域政党・大阪維新の会代表で前府知事の橋下徹氏(42)が当選確実となり、知事選でも維新の会幹事長の松井一郎氏(47)が当選を確実にした。維新公認の両氏は今後、公約に掲げた大阪都構想を推し進める方針。

 市長選で再選をめざした無所属現職の平松邦夫氏(63)は、民主、自民両党府連などの支援を得たが、及ばなかった。知事選にはほかに、前大阪府池田市長の倉田薫氏(63)、共産推薦の梅田章二氏(61)ら6人が挑んだが、いずれも松井氏に届かなかった。



 大阪府民、大阪市民は何と「賢明」なことか。橋下府政がどのようなでたらめな政治をやっても、当選させるという大阪人の「賢明さ」。よかった大阪に住んでいなくて!!

 今までも、暴力的な橋下府政について、様々な指摘があった。今でもそれは続いている。悪政が行われても、借金が増えていても、テレビに出ていた橋下、良くテレビに出ている橋下が大阪人は好きなのだ。ああテレビの力は偉大なり。テレビでは、実際の橋下府政がどういうものか、橋下府政の提案した条例がいかに常軌を逸しているかなんか、報道しないから。そういう面倒くさいことは考えずに、テレビに出ていた橋下、そして彼が率いる集団を大阪人は好むのである。
http://blog.goo.ne.jp/raymiyatake/e/201f142eb4dcfc9c536a4daf4f53862c

http://blog.tatsuru.com/2011/11/24_2042.php

 それでも当選させる。やはり大阪人はすごい。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

戦争の本

2011-11-25 16:49:33 | 日記
 今、12月の歴史講座の準備のために、ずっと前に読んだ本を読み返している。

 昨日読み終えたのが、上前淳一郎『太平洋の生還者』(文春文庫)である。これは対米戦争を戦った兵士の中で、捕虜になった人々の物語である。

 日本軍は、捕虜をださないことを原則としていたから、捕虜になった日本兵の氏名を第三国経由で日本政府に知らせても、受け取らなかったそうだ。

 日本軍は捕虜になることを許さなかった(捕虜になる前に死ね!)から、捕虜になったらどう対応するかという教育を全然していなかった。日本兵の捕虜は、捕虜になったからにはもう日本には帰れない、だからということで重要な機密に近い情報をも米軍に提供したそうだ。そういう本が最近発売されたそうだが、私は読んでいない。

 この本は、ハワイにあった日本兵捕虜収容所についての話である。ここでは米軍が日本各地に撒布した伝単(ビラ)の類を作成していたとのこと、ポツダム宣言やそれに対する日本政府の対応も、日本政府は公表しないだろうということから、捕虜達が日本語に翻訳してそれが撒かれ、日本政府の戦争終結に少しの影響を与えたことなどが書かれていた。

 また飯田進『地獄の日本兵 ニューギニア戦線の真相』(新潮新書)を読んだ。ニューギニアはじめ、日本兵士の圧倒的多数は餓えやそれによる病気などでいのちを落としている。その背景には、日本の生産力の限界もあるが、日本軍の軍指導部の無謀な作戦によるものが多い。ノモンハン、ガダルカナル、インパールがその代表的なものだ。

 日本兵が、太平洋やアジア諸地域で、戦時下どういう状況におかれていたのかを知ることも重要である。そしてその作戦指揮した者たちが責任も取らず、のうのうと天寿を全うしている姿も知るべきである。鬼畜米英を叫んでいた者たちが、戦後はどう生きたのかも知るべきである。戦後の日本は、そういう者たちがつくってきたともいえる。

 戦争は、振りかえることが必要である。忘れてはならない。


コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

小田実『玉砕/Gyokusai』(岩波書店)

2011-11-21 16:42:56 | 日記
 ずっと前にサイパン島の玉砕について調べて書いたことがあった。12月7日、それについて話す機会に恵まれた。ちょうど対米英戦争開始70年であるから、ちょうどよい。

 しかし書いたのはもう10年以上前。書いた原稿は残っているが、詳細はあまり覚えていない。話すときには、書いていないことも頭に入っていないと、うまく話すことは出来ない。そこで、その後に購入した本も含めて、読み直している。

 書くときには読んでいなかった本も何冊か買ってあった。その一冊がこれ。

 小田実の小説でもっとも好きなものは、『アボジを踏む』だ。この『玉砕』は読んでいなかった。しかし、この小説はすばらしい。「玉砕」の場にいることを余儀なくされた日本人や朝鮮人が、米軍との死闘を繰り広げる。その戦闘には思想やイデオロギーは入ってこない。ただ殺し、殺されるしかない。その緊張した現場を、書いたのだ。

 アッツ島玉砕の現場にいた日本文学研究者であるドナルド・キーン氏との対談の中で、「みんながそれぞれ自分たちの原理をもっていたんだけども、結局生きるか死ぬかの戦いになってしまう、これはやっぱり戦争の一番根本だと思うんです。生きるか死ぬか、つまり殺しあいのなかに自分の生命が入ってくる。」と小田は語る。

 もちろん、そこに至る日本のある意味で独特の事情というものがあって、それはきちんと書いてある。その独特の事情とは、日本兵の死ぬためだけの「バンザイ突撃」の背景、軍隊の中の朝鮮人の置かれた状況など、それらは忘れてはいない。

 だが、玉砕それ自体を描くだけでは、何かが足りない、その何かを小田は「愛」だとしている。どういうことか、それは本書を読んでもらうしかないが、私は「愛」=希望だと思う。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

低レベルの中傷

2011-11-20 23:45:09 | 日記
 昨日の『中日新聞』に面白い記事がある。経産省の資源エネルギー庁が大金を使って低レベルの調査をしていることが判明した。その記事を掲げる。4年間で一億円以上もつかってこうだから、経産省の「質」もわかろうというものだ。

 新聞には、この記事の他に、「核心」として、詳細な紹介がある。「記事の誤りをチェックする」のではなく、ただ感情的に難癖をつけているだけ。まったく建設的ではない非難がならぶだけ。大金を使ってこれだから、天下り機関に金を回してるという漢字。粗雑な内容にあきれる。

反原発の記事 中傷 エネ庁への報告 詳細判明   2011年11月20日 朝刊

 経済産業省資源エネルギー庁(エネ庁)がメディアの原発報道を監視してきた問題で、チェックされた報道の詳細が、本紙が情報公開請求で入手した同庁資料で分かった。エネ庁は事業の趣旨を「不正確な報道の是正」と説明してきたが、事実関係が正しいかどうかにかかわらず原発の推進に反する記事が収集され、「低俗な社説」「勝手な反対派を勇気づけるだけ」などと中傷されていた。 

 資料によると、二〇〇八~一〇年度までの三年間で新聞や週刊誌の記事計二百七十五件が「不正確」として報告された。事業は外部委託で行われ、各年度とも異なる財団法人が受注しており、いずれも電力関係者らが役員を務めている。

 報告記事は、原発に関する日々のニュースを伝える一般記事のほか、社説、読者投稿、広告まで及び、漫画も含まれていた。

 地球温暖化対策として原発推進に言及した環境相に苦言を呈した二〇〇九年九月三十日の南日本新聞の社説に対しては「このような幼稚な社説を掲載する論説委員の質が問われる」と指摘。原発反対を訴え徒歩で旅をする男性を取り上げた同年四月十四日の佐賀新聞の記事には「目立ちたがりの行動をなぜ写真入り、三段抜きで報道するのか。勝手な反対派を勇気づけるだけで、社会の大多数のための政策の推進を阻害する」と報告した。

 同年一月六日の朝日新聞に掲載された電機メーカーの広告は、太陽光発電への取り組みをPRする内容で原発に触れていないにもかかわらず「原子力の数倍の発電量を生み出せるような誤解を招く」と指摘していた。

 報告された二百七十五件の八割は、主に原発が立地する自治体をエリアとする地方紙の記事で、最多は県内に伊方原発がある愛媛新聞の二十八件。以下、柏崎刈羽原発を抱える新潟日報が二十五件、玄海原発がある佐賀新聞が二十一件と続いた。

 新聞や週刊誌を対象とした同事業は昨年度で終了しているが、本年度はブログやツイッターなどのインターネット情報に対象を変更して継続。外部委託費の総額は四年で一億三千万円に上る。エネ庁によると、これまでメディアに訂正を求めたことは一度もない。
◆あくまで検討資料

 資源エネルギー庁原子力発電立地対策・広報室の話 正確な情報の発信が必要かどうかの観点から情報を分析しており、「原発推進に反する記事の収集」との指摘は当たらない。委託先の判断により不正確と思われる情報を当庁に提供してきたものであり、あくまで当庁として正確な情報の発信を検討するための途中段階の資料だ。

◆全てエネ庁に報告

 09年度の事業を受注した日本科学技術振興財団の話 「不正確情報」は外部の原子力の専門家三~四人に作成してもらい、職員が内容を確認した上で、全てをエネ庁に報告した。できるだけ多くの判断材料を提供した方が良いと考えたからだ。何ら間違ったことはしていない。


コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

塚原史『20世紀思想を読み解く』(ちくま学芸文庫)

2011-11-20 11:59:07 | 日記
 副題の「人間はなぜ非人間的になれるのか」に惹かれて買い、また読んだ。20世紀の思想家とそれに準ずる人々の言説や絵画などが、所狭しと広げられ、副題のテーマに迫ろうとするのだが、しかしテーマの中心、すなわち副題に対する回答にはたどり着かない。

 「人間」という語は、近代西欧の発明品であった。近代草創期の啓蒙思想家、いや現代に生きる我々さえ、人間は理性を持った主体的な人格を持った個人、というイメージで想起される。だが20世紀、そうした理念型の人間に対する異なった人間像が対置される。狂気、無意味、野蛮・・・・が、発見されるのである。

 この本を読んでいて、現実に存在する人間は、理性的かつ主体的であるという面と、それと対立し否定しようとする狂気、無意味、野蛮などが同時的に共存するものだということを、めぐりめぐって20世紀の思想が再発見したのだということではないかと思った。

 だから「人間はなぜ非人間的になれるのか」という問いには、人間は非人間的でもあるからだ、と答えるしかないようだ。現存する人間がすべて人間的であったらどうなるのかを、塚原はSF小説を題材にして示しているが、それはまったく面白くない世界だ。

 21世紀思想はどうなるのか、だが、おそらくそれを総括する書物には出逢えないだろう。人間は絶対的に死ぬからだ。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

内田樹『昭和のエートス』(バジリコ)

2011-11-19 20:51:46 | 日記
 図書館でふと借りた本である。内田の本は、とにかくどんどん読ませる。ふむふむ・・・、なるほど・・・・と読んでいくのだが、しかし読み終えてしばらく経つとどんなことが書かれていたのかほとんど記憶にないのだ。

 今日『昭和のエートス』を読み終えて、そうか内田は教養主義的な啓蒙的な文を書いているのだと思い当たった。読む際に大脳を駆使しなければならないような本もあるのだろうが、それは知らない。

 内田の言うことは、ほとんど正しい。納得しながら読むことが出来る。だがその先がない。この本に「人の知的な深みは、その人が抱え込んだ葛藤の深さと相関する」(26)とあった。つまり内田の本を読んでいても、葛藤が生じないのである。

 おそらく私が内田とほぼ同時代を生きてきたこと、問題意識に於いてそんなに変わらないからだと思う。

 しかし時になるほど!という指摘に出会うことがある。同じようなことは考えているのだが、その考えてることを的確に表現しているのだ。安倍晋三という人物が「戦後レジームからの脱却」を訴えていた。それについて「「戦後レジームからの脱却」というのは言い換えれば敗戦を「断絶」として受け容れることを拒否するということである」(30)と内田は書く。その通りだと思う。しかしこういう簡潔な表現はしてこなかった。

 長いのでここでは引用しないが、84~5頁に記された神についての議論、なるほどそういうように考えるのかと、ここではじめて印象的な葛藤を得た。でもレヴィナスの論理なら、神はやはりいなくてもよい、ということになる。

 最近の若者の労働の仕方についての議論も参考になる。「バイト労働に慣れた若者には「ジョブ・デスクリプション」に規定された以外の労働をする理由がわからない」(121)そうか、若者がやるアルバイトの仕事の内容は、「誰でもできるマニュアル化された労働」で、その「互換性の高さ」により評価され、「余人をもって」自由に変えられるところにある(120)。与えられた仕事だけをやり、それ以上、それ以下の仕事をしない。そういうディシプリンを受けた人びとが労働現場に入ってくると、「与えられた仕事」しかしない、のである。

 教育や学校について書かれていることも、ほぼ同意出来る。

 私は、高等学校に選択科目が存在するが、そんなものはなくせばよいと思ってきた。芸術科目はそれぞれ内容が明確であるから選択でよいが、私が受けてきた教育のように、とにかくすべてを学ぶということが最善であるということだ。物理も化学も生物も地学も学ぶ、日本史、世界史、倫社、政経、地理・・・とにかくすべてを学ぶのだ。そしてそれを学ぶ意味は問う必要はない。教養として、森羅万象を理解する前提として、知っておいた方がよいものはすべて学ぶのである。

 学校教育に「消費者」という概念が入り込んできてから、学校はおかしくなってきた。市場原理とは、まったくなじまないのである。

 しかし、日本政府は、アメリカ的な思考を執拗に導入してくる。まさに「属国」としての面目躍如である。

 この本、教養を得るための導入として読んでも良いのではないかと思った。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

棄民

2011-11-19 11:09:30 | 日記
 国家は、市民社会に基礎づけられているけれども、市民社会の動向に規定されているわけではない。国家は国家自体の 論理をもって、自己の存続のために行動する。国家は、基礎にある市民社会に敵対することでも平気でやる。その敵対が どうしようもなくなったとき、おそらく革命が起きる。

 だが市民社会が、自らと敵対的な行動をしている国家の動静に無関心でいるとき、革命は起きず、知らぬうちに市民社 会は崩壊の一途をたどる。もちろんその場合、市民社会全体を崩壊させれば、国家はその足場を失うわけであるから、国 家は市民社会全体を崩壊させるわけではない。

 国家にとってもう必要ないと判断された市民社会の構成員を、国家は無慈悲にも棄てる。歴史的に振り返れば、そうい うことはいくつでもさがすことが出来る。満洲移民がそうだ。また鎌田慧が数多くの著作で、戦後のそういう事例を詳細 に報告している。

 さてここで紹介するのは、炭鉱労働者である。日本国家がエネルギー政策を大きく石炭から石油へと転換する際、多くの炭鉱労働者が棄てられた。

 炭鉱労働者については、上野英信の『地の底の笑いの話』(岩波新書)が有名で、今も版を重ねている。また最近ユネスコの世界記憶遺産にされた山本作兵衛の絵画がある。


 さて、山本も上野も、九州の炭鉱労働者住宅で知己の間柄であった。

 昨年上野の子息・上野朱(あかし)の『父を焼く 上野英信と筑豊』(岩波書店)が刊行された。上野英信その人とその周囲にいた人々との暖かな交流、そして上野亡き後の自分自身をえがいたものだ。さすがに父に似て良い文章である。文に情感がある。

 私は上野が編集した『写真万葉集・筑豊』を数冊持っている。それにはエネルギー政策の転換で消えていった九州筑豊炭鉱の写真がたくさん掲載されている。ボタ山も映っている。

 その本にはボク宛の上野英信のサインがある。友人の新聞記者S氏が上野氏を訪ねたとき、ボクのことを説明してサインをもらってきたのだ。

 今までに国家が行ってきた棄民政策を振り返ると、そのありさまは非情と言うしかない。その非情さは、上野のような記録者がいてこそ明らかにされる。幾重にも折り重なる歴史の重さのなかに埋められるわけにはいかないのだ。国家というものの本質を明確にすべく、棄民とされたひとりひとりの顔をいつでも浮き彫りにすることができるようにしておかなければならないのだ。

 今私はいくつもの記録すべきものを抱えている。その一つは、「平成の大合併」で棄民とされつつある山間僻地の住民達だ。おそらくTPPにより、その棄民政策はさらに促進されるだろう。

  

 
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

いのちから出る光

2011-11-18 15:33:14 | 日記
 昨日二冊の本を購入した。一冊は『20世紀思想を読み解く』(ちくま文庫)、もう一冊は『重い障害を生きるということ』(岩波新書)である。前者は、「人間はなぜ非人間的になれるのか」という副題に惹かれたからである。後者をぱらぱらと見たら、著者である谷清氏は滋賀県にあるびわこ学園の園長さんだった医師である。

 びわこ学園と言えば、映画「夜明け前の子どもたち」を思いだす。びわこ学園の重度の心身障害をもった子どもたちを撮影したものだ。私はその映画を見て感動し、涙を流したことを覚えている。ずっと寝たきりの子どもを、ある暑い夏の日、指導員が他の子どもが入っているプールにそっと入れる、すると今まで喜怒哀楽の感情表現すら出来なかった子どもが笑う。その笑顔に、私はたいそう感動し、落涙した。また、石運びをしている子どもたちをじっと見ている子どもがいる。その子どもは片手に、片時も離そうとしない命綱を握りしめている。でもそれを握っていては、友だち達の石運びに参加出来ない。その子どもは、命綱を落として、遊びに加わっていく。

 ボクは、そこで二つのことを学んだ。一つは、どんな人生を生きていても、生きている唯それだけで、他者に感動を与えることができるということ、もう一つは、発達とは一人ひとりの子ども自身に即して考えられなければならないということだ。

 一つめのことに、ボクは「人間の尊厳」とはなにかを学んだ気がした。そして二つめのことは、まさに教育のあるべき姿を示しているということである。障害を持った子どもに対する教育は、教育の原点であるということを知った。

 この映画の話をことあるごとに、ボクは語ってきた。しかし、ボクはびわこ学園に行ったこともない。またこの子どもたちの存在がどのような意味を持つのか、さらに考えようとしなかった。

 昨日書店の店頭で見て、これは買わなければならないと思い、今読み終えた。予想した通り、すばらしい本だった。「夜明け前の子どもたち」から教えられたように、この本からも教えられた。

 「夜明け前の子どもたち」の最初の子どもから教えられたこと、それをびわこ学園の創設者糸賀一雄氏は、こう記している。

 「どんなに遅々としていても、その存在そのものから世の中を明るくする光がでるのである」「人間のほんとうの平等と自由は、この光を光としてお互いに認めあうところにはじめて成り立つということにも、少しずつ気づきはじめてきた」「排他的でないところに、この光の照らす世界の特質がある」(171頁)

 ボクは、子どもからこの光を浴びたのだ。

 糸賀氏は、学園の子どもたちと接するなかで、子どもたちに光が湛えられていることを感じる。「それは何も欲張らず、何もわがままを言わず、ひたすら「いのち」を生きる姿」であり、「「いのち」そのものの大事さを、その「からだ」が表現している」からだ(168頁)。

 そして「他者実現とともにある自己実現」という言葉を示す。私はこのことばと同じようなことを考えてきた。だがそれを言葉で表現できないできた。「他者実現とともにある自己実現」、これこそ人間の本来的な生き甲斐であると思う。私の「いのち」を他者との関わりの中で他者に刻むのである、同時に他者は私の「いのち」に他者の「いのち」を刻むのだ。

 谷氏は、こう記している。

 「自然界でもっとも弱かったと考えられるヒトが、絶滅せずに生き残り発展してきたのは、弱かったからこそ「協力」「分配」をおこない、「共感」のこころもまた生まれてきたためではなかっただろうか。」(185~6頁)

 まさにその通りだと思う、そうだからこそ、人間とは何かと問うとき、人間同士が支えあい、共感し合い、助け合う、そこに人間の本質がある、人間とはそういう存在なのだ、と答えることが出来るのだろう。

 私は、人間の社会に「協力」「分配」「共感」がなくなったとき、ヒトは滅びるのだと思う。

 今大きな力をもつ新自由主義という考え方は、まさに「協力」「分配」「共感」を最大の攻撃対象として襲いかかった来るものだ。新自由主義は、ヒトを滅ぼす考え方であると断じても良いと思う。

 その他、過去現在未来のとらえ方についても、大きな示唆を受けた。

 すばらしい本だ。こう言う本に出会うことが出来て、よかった。

 『20世紀思想を読み解く』はしたがってまだ読んでいない。しかし人間が非人間的になるということは、人間の本来的なあり方を破壊するということだ。破壊する兆しには、断固として闘うのみである。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

こんなふうになる!!

2011-11-15 17:00:06 | 日記
 TPP参加を表明した野田売国奴政権。野田がめざしているのは、格差社会(日本も同様だけど)のアメリカ。「国益」を守るなんていっているけど、それはない。

 今まで、数々の日米間の難問が生まれているが、いずれもアメリカの言いなりになっている。今度も最初から、「すべての物品及びサービスを貿易自由化交渉のテーブルにのせる」なんて発言を、野田はしているようだ。米や健康保険制度を守るなんて発想はないようだ。野田民主党政権は、「訂正」を求めないって言うんだから、言ったも同然。以下は『読売新聞』。


米国に訂正まで求める必要はない 官房長官

  藤村修官房長官は15日の記者会見で、日米首脳会談で野田総理がTPP交渉参加に向けて関係国と協議に入るとしたさいに「すべての物品及びサービスを貿易自由化交渉のテーブルにのせると語った」とするアメリカ側発表について、「アメリカ政府に説明を求めたところ、日本側がこれまでに表明した基本方針や対外説明を踏まえて、アメリカ側において解釈したものであったとの説明があった」とし、野田総理が発言していないとしていることが事実であることを裏付けた。

  一方で、藤村官房長官は「アメリカ側発表資料の発表箇所は、総理の発言そのものを引用しているものでなく、訂正までは求める必要はないと考えている」として訂正を求めない考えを示した。

  アメリカ側が日本はすべての物品及びサービスを貿易自由化交渉のテーブルにのせると認識している表れと受け取れる中で、藤村官房長官は「アメリカ側はアメリカ側の判断であろうと思う」と述べるにとどまり、日本政府として即座に修正していく姿勢を示さなかった。

  この日の参議院予算委員会では自民党の山本一太議員が「相手が正式に発表した資料を訂正しなければ事実になるのではないか」とアメリカ側に報道資料の訂正を求めるよう政府に求めたが野田総理は「首脳会談で発言はなかったと認めている」として、その考えのない旨、示した。(編集担当:福角忠夫)


 さてアメリカのようになるとどうなるか、よい説明がある。見てみよう。君たちの未来は、さらに真っ黒くなるんだよ。


http://labaq.com/archives/51712278.html
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

もうあの顔は見たくもない

2011-11-14 16:30:17 | 日記
 野田首相の顔が「売国奴」に見える。ニュースにあの顔が出ると、切ってしまう。もう見たくもない。

 野田は日本では話さず、すべて外国でアメリカ向けに話すという売国奴だ。

 以下は「朝日新聞」の記事。おそらくアメリカの発表が正しいのだろう。アメリカに日本を捧げようとする民主党・野田政権。こうなったらアメリカに根こそぎ奪われるだろう。


すべての物品自由化? 日米会談、米発表資料に訂正要求

 環太平洋経済連携協定(TPP)交渉では例外なき貿易自由化について協議すると、野田佳彦首相が約束した――。12日の日米首脳会談で、野田首相がオバマ米大統領にこんな発言をしたと米ホワイトハウスが発表し、日本側の指摘で訂正する一幕があった。

 会談直後に米側が発表した資料には「大統領は、野田首相が『すべての物品及びサービスを貿易自由化交渉のテーブルに載せる』と発言したことを歓迎する」とあった。日本国内にはTPP参加で、主要農産物の関税撤廃や保険診療の崩壊への懸念が根強い。それだけに、首相がいきなり柔軟姿勢を示した印象を与える内容だった。

 驚いた日本側は「発表内容が事実と異なる」と米側に説明を要求し、米側と協議した上で日本側が訂正資料を発表。それによると、米側は「日本側がこれまでに表明した基本方針や対外説明をふまえ、米側において解釈したものであり、会談でそのような発言はなかった」と説明したという。

 菅前政権が昨年11月に閣議決定した「包括的経済連携に関する基本方針」では、「センシティブ品目(重要品目)について配慮を行いつつ、すべての品目を自由化交渉対象(とする)」としている。早くも米側が揺さぶりをかけた形だが、外務省は「深読みすべきではない」(幹部)と沈静化に躍起だ。(ホノルル=土佐茂生)



 しかし、その「朝日」もTPP参加路線。これについて五十嵐氏の重要な指摘がある。


http://igajin.blog.so-net.ne.jp/2011-11-13

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

TPPへ参加だって?

2011-11-12 16:51:23 | 日記
 日本の官僚や政治家、そしてマスメディアの多くは、アメリカ金融資本の使い走りである。

 田中龍作氏がブログで報じるように、アメリカ金融資本は、日本の富に狙いを定めた。その狙い通りにさせてあげようと、日本にいるアメリカ金融資本のエージェントが動き始めた。民主党には、そういう輩がたくさんいる。

 超格差社会を作り出した米金融資本は、自国庶民の富を食い尽くし、次は世界最高水準にある日本の個人資産に狙いを定めたようだ。

 オバマ大統領の再選戦略が、米国の対日政策をさらに強硬なものにする。雇用状況の改善は喫緊の課題だ。TPPに加盟し米国の自由主義が持ち込まれたら、競争力のない企業の倒産が相次ぎ、失業者は巷にあふれるだろう。国民皆保険も崩壊を免れまい。


http://tanakaryusaku.jp/2011/11/0003174

 『東京新聞』も、はっきりとではないが、TPP参加を慫慂しているようだ。しかし今日のコラム「筆洗」にはこうある。

いわゆる「巌流島の決闘」に宮本武蔵は遅刻した。佐々木小次郎を焦(じ)らすためだったということになっている▼つまり、決闘は二人が面と向かった時ではなく、もっと前に始まっていたということ。遅れて登場することで、武蔵が、いつ勝負を始めるか、のタイミングを支配した。小次郎は、鞘(さや)を投げ捨てる前、既にこの時点で「敗れたり」だったのかもしれぬ▼さて、予定より一日遅れはしたが、首相は、結局、昨日、環太平洋連携協定(TPP)交渉への参加を表明した。根強い慎重論を押し切り、バタバタと決断に至ったのは、十二日からのアジア太平洋経済協力会議(APEC)首脳会議に間に合わせるよう、米国にさんざんせっつかれ、脅されたゆえらしい▼いわば日本の参加決断という“勝負開始”のタイミングを米国に支配されたのである。政府はこの大問題をじっくり考える時間さえ確保できなかった。協議のテーブルにつく前に、既に交渉に負けている▼慎重論の核心は「交渉でどんな約束をさせられるかはっきりしない」ということ。賛成派は「交渉に入らねば中身も分からぬ」という。ならば、せめて、内容次第では交渉を離脱すると明言すべきだが、政府は米国に気兼ねして曖昧なことしか言わぬ▼勝つのはおろか逃げるのも覚束(おぼつか)ない…。さて、こんな頼りない交渉に、国の命運をかけてよいものか。

 今までの日米交渉、交渉というものではなく、アメリカの要求をひたすら呑まされるというものであった。TPPもおそらくそうなるだろう。そして日本国民の富は、アメリカ金融資本に奪われるのだろう。

 関税自主権を奪われた明治国家は、それの回復のためにすさまじい努力を重ねた。その歴史を学ばない権力者がアメリカと組んで日本の富をアメリカに対して差しだそうとしている。

 日本国民は、富を奪われてから、気がつくのだろう。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

上原善広『日本の路地を旅する』(文藝春秋)

2011-11-06 07:58:31 | 日記
 「路地」という語を、作家中上健次はつかった。自分自身が生まれ育った被差別の村、それを「路地」と呼んだ。和歌山県新宮市にある「路地」であった。中上はその「路地」を真正面から見つめた。

 ほぼ全国各地に「路地」はある。点として、あるいは面として存在し、あるいは消えた。静岡県にも「路地」はある。浜松市にもある。
 
 上原は、全国各地にある「路地」を訪ねる。その軌跡を本にした。「路地」に残る食、文化、あるいは生業。自らも「路地」出身であるが故に、あちこちに「故郷」を発見する。

 私も静岡県内の「路地」について、とくに文献に基づいて調べたことがある。ただその静態的な状況ではなく、「路地」にまつわりついていた差別や貧困をどのように自らの力で、あるいは行政の力をつかって克服しようとしてきたか・・について調べ、また書いた。しかしそれぞれの「路地」の生活について、あるいはそこに生きる人々の息遣いについては調べなかった。

 上原は、そこを書いた。

 「路地」に住む人々の仕事は、突然時を飛びこえるが、戦国大名にとって必要不可欠であった。だから大名は、自らの版図を変える毎に、「路地」の人々を帯同した。また地域で農業で生きる人々は、猪などの襲来を防ぐべく、「路地」に住む人々を招いた。

 「路地」に住む人々は、差別されながら、同時に必要不可欠の存在として存続していた。

 今、「路地」をある意味で際立たせていた生業や文化は、消えつつあり、見えなくなった。しかし、おそらく、時にそれは生業や文化と切り離されたところから、ふと顔を出すことがある。その顔は、「差別」という事態である。何の存在理由を持たない「差別」だけが取り出されるのだ。

 さて本書でもっとも気になったところは、沖縄の「京太郎」のことである。琉球に「路地」はない。だがただひとつ、日本にルーツを持つと思われる「京太郎」の存在があったという。その姿そのもののほとんどは消えている。

 「路地」の生業と文化は、記録されなければならない。「差別」とはいかなるものであるのかをえぐり出すために、同時に「差別」の息の根を止めるために。

 
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

いったいどうなるの?

2011-11-05 21:57:59 | 日記
 今日の新聞の放射能汚染関連。こういう事態はいつまで続くのか・・・・・

 


どうなる? 補償基準/千葉 東京新聞 11/5

負担 9市で10億円超 膨らむ放射線対策費/千葉 東京新聞 11/5

龍ケ崎の市民団体 市に除染強化を要望 放射性物質検出確認で 東京新聞 11/5

魚サンプル調査へ 市民不安受け市原市 高濃度セシウム排水 千葉日報 11/5

精神的損害や自主避難賠償で東電、前進回答なし 福島民友 11/5

堆肥のセシウム検査で120点が基準値超え 福島民友 11/5

南相馬の乳幼児の7%、尿から放射性セシウム 読売新聞 11/5


政府や東電は、なんとか幕引きをしていこうとしている。忘れない!!監視続ける!!これが肝心。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

アリバイ

2011-11-05 21:09:37 | 日記
 今日、「人権フォーラム2011 in 静岡 第11回ハンセン病問題に関するシンポジウム」が開かれた。私は差別問題の歴史について研究してきたが、これからはハンセン病について研究をしていくつもりなので、参加した。

 なおこのシンポジウムの主催は、厚生労働省、法務省、静岡県、浜松市、全国人権擁護委員連合会である。

 会場は「浜松市福祉交流センター」であった。会場に入ると、スタッフの数がとにかく多い。受付、会場内、とにかくスタッフが多い。黒ずくめのスーツに身を固めた若い人が多く、おそらくこのシンポジウムの設定・進行に莫大なお金を投入して、税金の無駄遣いをしているのだなあと思った。この人たちに支払われる日当は高いのだろう。

 さて開会後、まず浜松市立高校合唱団の合唱。これはまあいい。

 その後、主催者あいさつ。厚労大臣(代読)、法務省(代読)、静岡県副知事、浜松市長。そして会場にいる来賓の紹介。県会議員、市会議員など。

 そしてシンポジウム。司会石井則久(国立感染研究所ハンセン病研究センター長)、パネリストは池間哲郎(NPO法人アジアチャイルドサポート代表理事)、花井十伍(NPO法人ネットワーク医療と人権理事)、小鹿美佐雄(国立駿河療養所駿河会会長)。どういう活動をしているかを話したのが、池間、花井。小鹿はハンセン病(もと)患者の療養所について説明し、今後の療養所の行方に不安を持つことなどを指摘していた。それぞれがそれぞれの話をするだけで、討論などなし。「ハンセン病問題に関するシンポジウム」というのに、花井はエイズについて話すなど、これが「ハンセン病問題に関するシンポジウム!」と驚いた。まったく焦点が絞られないシンポジウムであった。とにかくシンポジウムはまったくの短時間で終わった。主催者のあいさつや議員の紹介を省けば、もっと有益なことができたのではないか。

 休憩となったので退席。プログラムによると、その後は沖縄の子どもたちによる演劇「光の扉を開けて」があったはず。

 このシンポジウムは、アリバイづくりのためのもの。政府はこのようにハンセン病問題に取り組んでいるのです、というポーズを示すだけのもの。そして莫大な金を投入する。

 行政が主催するものが、いかにひどいものであるのかを再認識した。

 こういう不当な扱いをされるハンセン病問題に、私は取り組む決意を新たにしたのであった。




コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

おしどりの活躍

2011-11-04 23:04:08 | 日記
おしどりマコ・ケンが、原発問題で活躍している。その一端が、「ニュースの深層」でみられる。以下は、you tube のアドレスだ。見る価値がある。


http://www.youtube.com/watch?v=5gHku2r96Fc


http://www.youtube.com/watch?v=PFlw1-d-ATQ&feature=related

http://www.youtube.com/watch?v=wFPLKYg-QPI&NR=1
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする