クラシック音楽へのおさそい~Blue Sky Label~ というサイトがある。著作権が切れた(?)レコードをネットで聴くことができる。今日久しぶりにアクセスしたら、ジャクリーヌ・デュ・プレのチェロによるエルガーの協奏曲が聴けるようになっていた。
私はもちろんこのCDを持っている。それどころか、デュ・プレが演奏したすべてのCDを私は購入している。
デュ・プレの演奏、特にドヴォルザークとエルガーのチェロ協奏曲がよい。両方とも、一期一会の演奏である。誠心誠意、この一曲に、彼女の生まれてきてからの生と演奏しているその時の生とが、ぶち込まれている。
ドヴォルザークのチェロ協奏曲を初めて聴いたときは、全身が耳となってチェロの奏でる音を追い、受け止め、すぐにそれを購入したいと思った。もちろんこの両方、車のなかで聴くことができるようになっているが、特に夜走っているときに聴くと、私も何らかの表現活動をするときには、誠心誠意、全力で取り組まなければいけないという気持ちがわきおこるのだ。
とはいえ、彼女のその生き方に、悲痛さを感じることがある。彼女は精神に異常を来して、若いうちに亡くなっているからだ。短い一生を全力で走り抜いてこの世から去っていった。その足跡が彼女が残した演奏である。
http://www.yung.jp/yungdb/op.php?id=3175
私はもちろんこのCDを持っている。それどころか、デュ・プレが演奏したすべてのCDを私は購入している。
デュ・プレの演奏、特にドヴォルザークとエルガーのチェロ協奏曲がよい。両方とも、一期一会の演奏である。誠心誠意、この一曲に、彼女の生まれてきてからの生と演奏しているその時の生とが、ぶち込まれている。
ドヴォルザークのチェロ協奏曲を初めて聴いたときは、全身が耳となってチェロの奏でる音を追い、受け止め、すぐにそれを購入したいと思った。もちろんこの両方、車のなかで聴くことができるようになっているが、特に夜走っているときに聴くと、私も何らかの表現活動をするときには、誠心誠意、全力で取り組まなければいけないという気持ちがわきおこるのだ。
とはいえ、彼女のその生き方に、悲痛さを感じることがある。彼女は精神に異常を来して、若いうちに亡くなっているからだ。短い一生を全力で走り抜いてこの世から去っていった。その足跡が彼女が残した演奏である。
http://www.yung.jp/yungdb/op.php?id=3175
この本、かなり前に読んだ本である。本には朱線が引かれ、たくさんの付箋がついている。しかし、私の脳裏には、その内容が深く刻印されてはいない。つまり、衝撃的な内容がないと言うことでもある。
最近の私の頭脳は、よほど刺戟的な内容でない限り、その本の中身が記憶として残らなくなっている。以前は、読めばどういう内容が書かれていたかある程度の記憶が残っていたのだが、最近はそれがなくなっている。これが老化なのだろう。
要するに本書は、ジャーナリズムの現状に対する批判である。私は、Journalismという雑誌も購読し、メディアの動向には気を遣っているから、ここに書かれている内容は、新鮮というものではない。
報道の自由度が世界72位、メディアが「巧妙な戦略に乗せられて」いること、情報が飛び交うネット社会で「何を信じる」か、など、そうした現状はすでに認識している。著者は、「あるべき姿への道」を提示しているが、それが実現できていないことが問題なのだ。
本書の中で、
リベラルの言説は視聴者に人気がない、うんざりだという人が増えて視聴率が取れない(149)
という記述があった。最近大学生と話をしていて、リベラルではなく、右翼的な言動をすることが大学生の間で「フツー」になっていることを知らされた。今まで、社会的なことに関心を持っていなかった者が、ネット社会に放り込まれてネットサーフィンをすると、そこには右翼的な言説が、さも真実であるかのように記されている。ある意味、基本的な知識(それは学校で教えられているはずだが、試検が終わればさっさと頭の中から流れ去る)をもたない者にとって、右翼的な説明はある意味新鮮なのだ。それで食いついていく。
だがそれは、若者だけではなく、私が時々行う講座の参加者からも同様の意見を伺うことがある。ネット社会というものは、ある意味恐ろしいものなのだ。
私は、何かを調べようとするときは、基本的には文献で調べ、書くときには何を根拠にしているかを明示する。しかしネットにはそういうものがないものが多い。だからネットに記述されているものを根拠とすることはまったくあり得ない(韓国の「従軍慰安婦」について著書を発行した朴裕河氏が、その立論の根拠としてネットの記述をつかっていることに驚いたことがあるが、学問の世界では基本的にありえない。もちろん、研究論文・本そのものがネットにあり、それが充分学問的に意味があるものについては、それを明示して使用することがある)。
若者の書いた文を読んでいると、ネットから引用し、それをつないだものと予想できる場合がある。学問的な手続きとして、それだけで失格である。
本書にはまた、
主にネットの普及から何もかもがフラット化し、どのような分野であれプロの仕事がリスペクトされずに素人と同列に扱われるのが一般的になった世の中にあって、ジャーナリストは少なくとも一定程度のプライドを取り戻さなければならない(177)
と記されていた。
私たちは、「プロの仕事」をもとにして、それらを踏まえて新しい世界へと向かうのだが、その「プロの仕事」がそれとして認知されない時代に入っている。
情報の入手方法などがきちんと認識されていればそんなことはないのだが、ネットは接続すれば欲しい情報が正確であるかどうかは別としてとにかく存在している、人々は安易にそれに飛びつく。吟味し、批判的に扱うという作業がなされていない。
学問の世界では、膨大な文献を渉猟して新しい研究が次々と発表されているが、しかしそれは普通の人々の日常世界とはどんどんかけ離れていくように見える。研究会での発表をきいたり、研究書を読む度に、その乖離を感じる。
学問研究の成果は、社会の中に存在していない。だからこそ、学問に生きる者たちは、社会の中でもっと語るべきだと思う。
最近の私の頭脳は、よほど刺戟的な内容でない限り、その本の中身が記憶として残らなくなっている。以前は、読めばどういう内容が書かれていたかある程度の記憶が残っていたのだが、最近はそれがなくなっている。これが老化なのだろう。
要するに本書は、ジャーナリズムの現状に対する批判である。私は、Journalismという雑誌も購読し、メディアの動向には気を遣っているから、ここに書かれている内容は、新鮮というものではない。
報道の自由度が世界72位、メディアが「巧妙な戦略に乗せられて」いること、情報が飛び交うネット社会で「何を信じる」か、など、そうした現状はすでに認識している。著者は、「あるべき姿への道」を提示しているが、それが実現できていないことが問題なのだ。
本書の中で、
リベラルの言説は視聴者に人気がない、うんざりだという人が増えて視聴率が取れない(149)
という記述があった。最近大学生と話をしていて、リベラルではなく、右翼的な言動をすることが大学生の間で「フツー」になっていることを知らされた。今まで、社会的なことに関心を持っていなかった者が、ネット社会に放り込まれてネットサーフィンをすると、そこには右翼的な言説が、さも真実であるかのように記されている。ある意味、基本的な知識(それは学校で教えられているはずだが、試検が終わればさっさと頭の中から流れ去る)をもたない者にとって、右翼的な説明はある意味新鮮なのだ。それで食いついていく。
だがそれは、若者だけではなく、私が時々行う講座の参加者からも同様の意見を伺うことがある。ネット社会というものは、ある意味恐ろしいものなのだ。
私は、何かを調べようとするときは、基本的には文献で調べ、書くときには何を根拠にしているかを明示する。しかしネットにはそういうものがないものが多い。だからネットに記述されているものを根拠とすることはまったくあり得ない(韓国の「従軍慰安婦」について著書を発行した朴裕河氏が、その立論の根拠としてネットの記述をつかっていることに驚いたことがあるが、学問の世界では基本的にありえない。もちろん、研究論文・本そのものがネットにあり、それが充分学問的に意味があるものについては、それを明示して使用することがある)。
若者の書いた文を読んでいると、ネットから引用し、それをつないだものと予想できる場合がある。学問的な手続きとして、それだけで失格である。
本書にはまた、
主にネットの普及から何もかもがフラット化し、どのような分野であれプロの仕事がリスペクトされずに素人と同列に扱われるのが一般的になった世の中にあって、ジャーナリストは少なくとも一定程度のプライドを取り戻さなければならない(177)
と記されていた。
私たちは、「プロの仕事」をもとにして、それらを踏まえて新しい世界へと向かうのだが、その「プロの仕事」がそれとして認知されない時代に入っている。
情報の入手方法などがきちんと認識されていればそんなことはないのだが、ネットは接続すれば欲しい情報が正確であるかどうかは別としてとにかく存在している、人々は安易にそれに飛びつく。吟味し、批判的に扱うという作業がなされていない。
学問の世界では、膨大な文献を渉猟して新しい研究が次々と発表されているが、しかしそれは普通の人々の日常世界とはどんどんかけ離れていくように見える。研究会での発表をきいたり、研究書を読む度に、その乖離を感じる。
学問研究の成果は、社会の中に存在していない。だからこそ、学問に生きる者たちは、社会の中でもっと語るべきだと思う。
私は、政治のレベルでは、筋を通すことがとてもたいせつなことだと思っている。しかし見ていると、筋を通す姿勢を保持しているのは、残念ながら共産党くらいしかいない。他の政党は、あるいは議員は、いったい何を考えているのか、いかなる政治的立脚点にあるのかが判然としない。民進党議員なんか、とりわけ訳が分からない。
自民党安倍政権ががたがたしているときに、野党第一党である民進党は、ぐらぐらしていていったい何をしようとする政党なのか、皆目わからない。今回の民進党の代表選挙に立候補した前原議員なんかは、自民党に行ってもいいくらいの人物だ。
また共謀罪に反対した山尾議員、極右の横浜市長・林某を応援している。いったい何を考えているのか。
まあいいさ。日本の国会議員がいかに信用できない者たちで構成されているのかがよくわかる、というものだ。
こうして政治不信は深まっていく。
筋なんかない議員、時流に乗るだけが自らの仕事と心得ている者が多すぎる。
自民党安倍政権ががたがたしているときに、野党第一党である民進党は、ぐらぐらしていていったい何をしようとする政党なのか、皆目わからない。今回の民進党の代表選挙に立候補した前原議員なんかは、自民党に行ってもいいくらいの人物だ。
また共謀罪に反対した山尾議員、極右の横浜市長・林某を応援している。いったい何を考えているのか。
まあいいさ。日本の国会議員がいかに信用できない者たちで構成されているのかがよくわかる、というものだ。
こうして政治不信は深まっていく。
筋なんかない議員、時流に乗るだけが自らの仕事と心得ている者が多すぎる。
そもそもテレビに出る評論家や学者なんか信用できない、というのが私の持論である。テレビ出演する者は、時流に流されている者が多い。その時々のながれに対応した発言をすることができること、それがテレビが求める「人材」である。
したがって、そういう人物には、一貫性がない。持続する意志がない。
田原もそういう人のようだ。下記の記事でも、「タヌキジジイ」としている。
http://lite-ra.com/2017/07/post-3350.html
したがって、そういう人物には、一貫性がない。持続する意志がない。
田原もそういう人のようだ。下記の記事でも、「タヌキジジイ」としている。
http://lite-ra.com/2017/07/post-3350.html
日本の高級官僚は、官僚になってから政府のカネで、つまり税金でほとんどがアメリカに留学する。そしてアメリカをある程度学んで帰国し、アメリカの真似をする。
アメリカは訴訟社会である。日本の政策は、基本的にアメリカ化といってもよいほどに、あらゆる政策がアメリカと似ている。アメリカが訴訟社会なら、今後日本がアメリカ化を図れば訴訟がもっと増えるに違いない、それなら、と、今までは法科大学院に行かなくても法曹の資格をとることができた(司法試験に受かれば、のはなし)にもかかわらず、入学生にとっては莫大なカネがかかる法科大学院をつくってそこを卒業した者に司法試験の受検資格を与えるような制度を導入した。そして司法試験合格者を増やしていった。
ところが司法試験をうかっても、増えすぎたために弁護士としての仕事ができない者が続出。日本は政府が予想したように訴訟社会にならなかった。
弁護士として仕事をするためには、「〇〇弁護士会」に入会するのが原則であるが、その会費が高い。今までたったら支払うことができる会費ではあったが、仕事をとれない弁護士はそれが払えない。司法試験に受かっても・・・という事態が生じてしまった。
司法試験に受かっても・・・という事態となってから、高額の学費を払って法科大学院に入る者が減っていった。そして下記の新聞記事のようになってしまった。
だがこれとて、そうした法曹改革が行われる前から、政府が期待したようにはならないこと、司法試験合格者に失業者が生まれることは予想されていた。しかし法曹界の賛成を経て実施されてしまったのだ。おそらく法務省内でこれを制度設計をした者は栄転しているだろう。官僚は数年で部署が替わるから、結果が悪くても誰も責任をとらない。制度設計した者は、「今私が云々する立場ではありません」。現在の担当者は、「私は前任者の仕事を受け継いだだけですから」。
かくて官僚はその責任をとらず、その制度改革に期待して法科大学院に入学した者が損をする。
https://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20170731-00000007-asahi-soci
アメリカは訴訟社会である。日本の政策は、基本的にアメリカ化といってもよいほどに、あらゆる政策がアメリカと似ている。アメリカが訴訟社会なら、今後日本がアメリカ化を図れば訴訟がもっと増えるに違いない、それなら、と、今までは法科大学院に行かなくても法曹の資格をとることができた(司法試験に受かれば、のはなし)にもかかわらず、入学生にとっては莫大なカネがかかる法科大学院をつくってそこを卒業した者に司法試験の受検資格を与えるような制度を導入した。そして司法試験合格者を増やしていった。
ところが司法試験をうかっても、増えすぎたために弁護士としての仕事ができない者が続出。日本は政府が予想したように訴訟社会にならなかった。
弁護士として仕事をするためには、「〇〇弁護士会」に入会するのが原則であるが、その会費が高い。今までたったら支払うことができる会費ではあったが、仕事をとれない弁護士はそれが払えない。司法試験に受かっても・・・という事態が生じてしまった。
司法試験に受かっても・・・という事態となってから、高額の学費を払って法科大学院に入る者が減っていった。そして下記の新聞記事のようになってしまった。
だがこれとて、そうした法曹改革が行われる前から、政府が期待したようにはならないこと、司法試験合格者に失業者が生まれることは予想されていた。しかし法曹界の賛成を経て実施されてしまったのだ。おそらく法務省内でこれを制度設計をした者は栄転しているだろう。官僚は数年で部署が替わるから、結果が悪くても誰も責任をとらない。制度設計した者は、「今私が云々する立場ではありません」。現在の担当者は、「私は前任者の仕事を受け継いだだけですから」。
かくて官僚はその責任をとらず、その制度改革に期待して法科大学院に入学した者が損をする。
https://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20170731-00000007-asahi-soci
昨日は姪の結婚式で上京。久しぶりの東京であった。しかし、いつもは上京したついでに美術館などによるのだが、猛暑を心配して結婚式のみ。
東京行きの「こだま」は、途中からたくさんの人が乗り込み、立っている人も。いつも「こだま」はすいている、というのが私の頭にあったので驚いた。なかでも中国語がたくさん飛び交っていた。
数年前宮崎に行ったが、あまり有名ではない観光地に、中国からの観光客がいて驚いたことがある。
中国人観光客が減ったと報じられていたがそんなことはないのではないかと思った。
東京都心は休日とあって混雑はしていなかったが、駅はよくもまあこんな人がいるものだと、いつもの感想。
思っていたほど暑くはなく、また帰りの「こだま」はすいていた。
車中、『矢内原忠雄』を読み続けた。あと少しで読み終える。矢内原は、キリスト者の立場で軍部国家の専制と闘っていたが、その闘い方に「現実的」というか、当時の民衆の意識と遊離していなかったように思えた。これについては読み終えてからまた記そう。
東京行きの「こだま」は、途中からたくさんの人が乗り込み、立っている人も。いつも「こだま」はすいている、というのが私の頭にあったので驚いた。なかでも中国語がたくさん飛び交っていた。
数年前宮崎に行ったが、あまり有名ではない観光地に、中国からの観光客がいて驚いたことがある。
中国人観光客が減ったと報じられていたがそんなことはないのではないかと思った。
東京都心は休日とあって混雑はしていなかったが、駅はよくもまあこんな人がいるものだと、いつもの感想。
思っていたほど暑くはなく、また帰りの「こだま」はすいていた。
車中、『矢内原忠雄』を読み続けた。あと少しで読み終える。矢内原は、キリスト者の立場で軍部国家の専制と闘っていたが、その闘い方に「現実的」というか、当時の民衆の意識と遊離していなかったように思えた。これについては読み終えてからまた記そう。
伊丹市で、ヤマカガシという蛇にかまれた子どもが一時意識不明になったという報道があった。
私の家の周辺や畑では、今も蛇をみる。シマヘビなどであるが、子どもの頃はヤマカガシもいた。
私は子どもの頃、蛇と戯れることがあったが、あるときヤマカガシを棒で突っついていたとき、急にヤマカガシが鎌首をもたげて向かってきたことがあった。私はたいへん驚いて逃げたことがある。
ヤマカガシに毒があることを知ったのは大人になってからだ。
今夏、実家の庭に、シマヘビの子どもを見つけた。それと同じような蛇が道路で死んでいたので、もういなくなったと思ったら、最近また庭を這っていた。
子どもの頃のように蛇を痛めつけるようなことはしないが、いて欲しくない動物であることは確かである。
私の家の周辺や畑では、今も蛇をみる。シマヘビなどであるが、子どもの頃はヤマカガシもいた。
私は子どもの頃、蛇と戯れることがあったが、あるときヤマカガシを棒で突っついていたとき、急にヤマカガシが鎌首をもたげて向かってきたことがあった。私はたいへん驚いて逃げたことがある。
ヤマカガシに毒があることを知ったのは大人になってからだ。
今夏、実家の庭に、シマヘビの子どもを見つけた。それと同じような蛇が道路で死んでいたので、もういなくなったと思ったら、最近また庭を這っていた。
子どもの頃のように蛇を痛めつけるようなことはしないが、いて欲しくない動物であることは確かである。
『毎日新聞』記事の一部。
心境は「空」--。南スーダン国連平和維持活動(PKO)の日報隠蔽(いんぺい)問題で引責辞任した稲田朋美防衛相は28日午後、就任以来約1年間トップを務めた東京・市谷の防衛省を去った。退庁する際、記者団に心境を問われると、「空ですね、空」とだけ語り、吹っ切れたようにほほ笑んだ。
テレビは全く見ないので、新聞では、「空」を何と読んだのかがわからない。私は「から」ではないかと想像する。
この人は、何も考えない、頭の中には思考の蓄積もない、ただただ今までの人生をチャラチャラと生きてきて、現在に至っているようにみえる。要するに「から」なのだ。空虚。
学生時代には、派手な格好をしてチャラチャラとキャンパスを歩いていたというが、それがそのまま大臣となったのだ。大臣に任命した人も「から」だ。勉学や思考の蓄積もなく、おのれの妄想をもとに日本を「改造」しようという暗い野望があるだけ。同じような人間だ。安倍政権やそれを支える者どもは、首相と同類項。
そういう人間どもが権力を掌握している。恐ろしいことだ。
彼らは事実を隠蔽して、「一点の曇りもない」という。要するに「から」なのだ。彼らによって政治は「から」(空虚)の塊となって国民に襲いかかる。
私たちは、不幸な時代を生きている。
心境は「空」--。南スーダン国連平和維持活動(PKO)の日報隠蔽(いんぺい)問題で引責辞任した稲田朋美防衛相は28日午後、就任以来約1年間トップを務めた東京・市谷の防衛省を去った。退庁する際、記者団に心境を問われると、「空ですね、空」とだけ語り、吹っ切れたようにほほ笑んだ。
テレビは全く見ないので、新聞では、「空」を何と読んだのかがわからない。私は「から」ではないかと想像する。
この人は、何も考えない、頭の中には思考の蓄積もない、ただただ今までの人生をチャラチャラと生きてきて、現在に至っているようにみえる。要するに「から」なのだ。空虚。
学生時代には、派手な格好をしてチャラチャラとキャンパスを歩いていたというが、それがそのまま大臣となったのだ。大臣に任命した人も「から」だ。勉学や思考の蓄積もなく、おのれの妄想をもとに日本を「改造」しようという暗い野望があるだけ。同じような人間だ。安倍政権やそれを支える者どもは、首相と同類項。
そういう人間どもが権力を掌握している。恐ろしいことだ。
彼らは事実を隠蔽して、「一点の曇りもない」という。要するに「から」なのだ。彼らによって政治は「から」(空虚)の塊となって国民に襲いかかる。
私たちは、不幸な時代を生きている。
民進党、もう解党したらどうか。日本社会党が存在していたときが懐かしい。民進党は、信用できない。
http://saigaijyouhou.com/blog-entry-17833.html
こんなに安倍政権が追い詰められているのに、民進党は攻めるどころか空中分解。もうダメだな。
http://saigaijyouhou.com/blog-entry-17833.html
こんなに安倍政権が追い詰められているのに、民進党は攻めるどころか空中分解。もうダメだな。
愛媛新聞のコラム。
対等から始まる理解
2017年7月28日(金)(愛媛新聞)
「障害者に思いやりと優しさを」。その言葉を目にするたび心がざわつく―。最近、難病で車いす生活の女性が語るのを聞き、心を揺さぶられた▲
レストランでは店員が自分の方を見ることなく介助者に注文を聞く。電車に乗るときも駅員は介助者に行き先を聞く。まるでその場にいないかのように。「同等に見ないままの『優しさ』では何も変わらない」▲
先日亡くなった評論家の犬養道子さんは、紛争地に出向いて難民救済に当たる一方、1997年から2年半、当時の聖カタリナ女子大・短期大で教壇に立った。福祉の道を目指す学生に伝え続けたのは、対等な立場で相手を理解する大切さ▲
支援活動を始めて間もなく、ベトナム難民の少年から届いた手紙に教わった。「先生は僕より一段高いところに立って奨学金や衣服をくれる。けれど僕の気持ちは理解してくれない」。恥じ入った。「理解する」の英語「understand」は「下に立つ」と読める。上から見下ろすのでは理解はできないと▲
大学でも一人一人との交流を信条とした。教授室を開放し、扉に「空気と学生はノックせずに入れ」の貼り紙。膝を交え、悩みや希望に耳を傾けた▲
共生社会が求められて久しい。「自分がつらいことは他人もつらい。共感が原動力」「相手を見て聞いて、何が必要か考える癖をつけよう」。分け隔てなく共に温かな社会を築こうとした犬養さんの思いを、胸に刻む。
対等から始まる理解
2017年7月28日(金)(愛媛新聞)
「障害者に思いやりと優しさを」。その言葉を目にするたび心がざわつく―。最近、難病で車いす生活の女性が語るのを聞き、心を揺さぶられた▲
レストランでは店員が自分の方を見ることなく介助者に注文を聞く。電車に乗るときも駅員は介助者に行き先を聞く。まるでその場にいないかのように。「同等に見ないままの『優しさ』では何も変わらない」▲
先日亡くなった評論家の犬養道子さんは、紛争地に出向いて難民救済に当たる一方、1997年から2年半、当時の聖カタリナ女子大・短期大で教壇に立った。福祉の道を目指す学生に伝え続けたのは、対等な立場で相手を理解する大切さ▲
支援活動を始めて間もなく、ベトナム難民の少年から届いた手紙に教わった。「先生は僕より一段高いところに立って奨学金や衣服をくれる。けれど僕の気持ちは理解してくれない」。恥じ入った。「理解する」の英語「understand」は「下に立つ」と読める。上から見下ろすのでは理解はできないと▲
大学でも一人一人との交流を信条とした。教授室を開放し、扉に「空気と学生はノックせずに入れ」の貼り紙。膝を交え、悩みや希望に耳を傾けた▲
共生社会が求められて久しい。「自分がつらいことは他人もつらい。共感が原動力」「相手を見て聞いて、何が必要か考える癖をつけよう」。分け隔てなく共に温かな社会を築こうとした犬養さんの思いを、胸に刻む。
昨日、浜松アクトのホールでこんにゃく座“まげもん”を観た。
私は高校生の頃から演劇が好きで、大学に入ってからも東京労演の会員となって見つづけ、卒業後田舎に帰ってからもずっと見つづけてきた。
しかし仕事が忙しくなり、いつの間に演劇鑑賞から遠ざかった。最近、友人の強い勧誘でまた足を運ぶようになったが、演劇から遠ざかっていた間、私は難しい本を読んだり、歴史を書いたりして、どちらかというと右脳を使ってこなかった。いつも左脳をつかって、何ごとかを理解しようとし、何ごとかを考え、何ごとかを書き綴ってきた。
そういう習慣が続いていたので、演劇をみても「理解する」ことが優先となって、つまり左脳で演劇をみることをしていた。昨日も私は難しい顔をして、あたかも難しい本を読むように演劇に対していた。
ところが、こんにゃく座のこの「オペラ」は徐々に私のそうした姿勢を崩し、演劇やこういうミュージカルは、感性のレベルで受容していくものだということを思い出させてくれた。若い頃、私は演劇についていろいろ書いたこともあった。だが、長い間遠ざかっていたために、演劇鑑賞の仕方を忘れていたのだ。
こんにゃく座は「オペラ」と謳っているけれども、一般的に言えばミュージカルだろう。この“まげもん”、台本演出が鄭義信、彼は「焼き肉ドラゴン」でとても有名になった人。私はこれをテレビで観ている。とても感動した。その作者のものだから、という気持ちもあったかもしれない。
簡素な舞台装置を縦横無尽に利用し尽くし、テンポよく、演劇空間のなかに私を引き込み、私は笑わされ、心を洗われ、感動させられ、そして主題歌(?)が歌われたときには、目が潤んでしまった。
舞台の袖で演奏されるピアノ。それをバックにして歌う歌詞が、心の中にすっと入り込む。
演劇では、演じる者とそれを見る者、ホールにいるすべての者の目や耳が、声、音、光すべてのものを感受し、それらが交錯するなかで、きわめて創造的な時空が生み出される。
そうした時空に漂うことの快適さを取り戻してくれたのが、昨日の“オペラまげもん”であった。
http://www.konnyakuza.com/
追記:花火が描かれた傘はすばらしかった。
私は高校生の頃から演劇が好きで、大学に入ってからも東京労演の会員となって見つづけ、卒業後田舎に帰ってからもずっと見つづけてきた。
しかし仕事が忙しくなり、いつの間に演劇鑑賞から遠ざかった。最近、友人の強い勧誘でまた足を運ぶようになったが、演劇から遠ざかっていた間、私は難しい本を読んだり、歴史を書いたりして、どちらかというと右脳を使ってこなかった。いつも左脳をつかって、何ごとかを理解しようとし、何ごとかを考え、何ごとかを書き綴ってきた。
そういう習慣が続いていたので、演劇をみても「理解する」ことが優先となって、つまり左脳で演劇をみることをしていた。昨日も私は難しい顔をして、あたかも難しい本を読むように演劇に対していた。
ところが、こんにゃく座のこの「オペラ」は徐々に私のそうした姿勢を崩し、演劇やこういうミュージカルは、感性のレベルで受容していくものだということを思い出させてくれた。若い頃、私は演劇についていろいろ書いたこともあった。だが、長い間遠ざかっていたために、演劇鑑賞の仕方を忘れていたのだ。
こんにゃく座は「オペラ」と謳っているけれども、一般的に言えばミュージカルだろう。この“まげもん”、台本演出が鄭義信、彼は「焼き肉ドラゴン」でとても有名になった人。私はこれをテレビで観ている。とても感動した。その作者のものだから、という気持ちもあったかもしれない。
簡素な舞台装置を縦横無尽に利用し尽くし、テンポよく、演劇空間のなかに私を引き込み、私は笑わされ、心を洗われ、感動させられ、そして主題歌(?)が歌われたときには、目が潤んでしまった。
舞台の袖で演奏されるピアノ。それをバックにして歌う歌詞が、心の中にすっと入り込む。
演劇では、演じる者とそれを見る者、ホールにいるすべての者の目や耳が、声、音、光すべてのものを感受し、それらが交錯するなかで、きわめて創造的な時空が生み出される。
そうした時空に漂うことの快適さを取り戻してくれたのが、昨日の“オペラまげもん”であった。
http://www.konnyakuza.com/
追記:花火が描かれた傘はすばらしかった。
経産省が発表した。静岡県は、伊豆半島を除き、「好ましい地域」。浜松市長が手を挙げるのではないかと心配している。
http://www.nikkei.com/article/DGXLASGG28H1D_Y7A720C1000000/?dg=1&nf=1
http://www.nikkei.com/article/DGXLASGG28H1D_Y7A720C1000000/?dg=1&nf=1