毎年この時期になるとクレオメが咲く。何年か前、種を購入し、それからは咲いた後の種をとっておいて毎年咲かせている。
夏にふさわしい、少し涼やかな感じである。
http://www.kagiken.co.jp/new/kojimachi/hana-cleome_large.html
ところがこのクレオメをめざしてモンシロチョウがやってきて卵を産み付ける。幼虫は葉を食べて成長するのだが、私は残酷にも、毎日葉を点検して、青虫を殺している。放っておくと、葉がなくなってしまうからだ。家人からは、食べさせてあげればいいのに、といわれる。
だが、花を育てたことのない家人には、私の悔しさがわからない。
今日も強い日差しである。戸外が、心なし白っぽい感じがする。
昨日届けられた『ユリイカ』、野見山の年譜を除き完読した。野見山の文はいうまでもないが、その他の方々の文も味があって、得をした気分である。ただし最後の人の文は、どうにも意味不明である。
野見山は、窪島誠一郎の「無言館」設立に大いに協力した画家でもある。戦時下に東京美術学校に在学した彼は、学友が戦地へと動員され、その多くが帰ってこないという経験をもつ。自身も戦地へ行かされたが、病の中で、戦闘には加わらなかった。
野見山の絵は、初期の頃はともかく、近年のものは実はよくわからない。野見山は、絵を描くことが目的であって、それ以外ではないという。野見山の絵はみずからの絵のためにある、ただそれだけだ。何も考えずに、ただ見つめるだけでよい。絵を通して何かをみようというのも、考えてみれば邪道なのだ。
野見山の文を読んでいて、彼は過去の一瞬一瞬を「光景」として記憶しているのだと思う。別にその「光景」をメモしているのではなく、脳裏にしまっているのだ。それを引き出して文にする。しかしその「光景」をそのまま字に置き換えるのではない。画家らしく、やはり自分なりに加工している。その加工が、自然なのだ。絵を描くように配置される。
描かれた絵にはそれをこえる空間と時間が描かれるように、野見山の文も同じように時間と空間が描かれる。
画家ならではの文だと、納得する。