浜名史学

歴史や現実を鋭く見抜く眼力を養うためのブログ。読書をすすめ、時にまったくローカルな話題も入る摩訶不思議なブログ。

読むべき論説

2012-07-28 22:19:00 | 日記
 NHKのニュースは、批判的姿勢のなさに、怒りを覚えるのだが、同じように考えている人が、ここにもいる。

 是非読んで欲しい。


http://www.doi-toshikuni.net/j/column/20120726.html
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酷暑・汗・幽霊

2012-07-28 21:43:26 | 日記
 とても暑い日が続く。この暑い日々、私は午後3時頃から、庭仕事や農作業に従事する。蚊取り線香をあちらこちらにおいて、麦わら帽子を被り、クビのあたりにタオルを巻き、さらに顔には日焼け止めを塗る。

 この時間は酷暑の中である。水を飲み飲み、また塩飴をなめ、熱中症にならないように気をつけて体を動かす。

 もちろん全身汗まみれである。

 暑いからといって冷房の中にいるなら、暑さに耐えられない体になってしまうことを私は恐れている。また一日に一回は汗をだすことも必要だろうと思う。

 ところで、暑い時には幽霊やお化けの話をして涼もう、ということなのか、今月号の『芸術新潮』の特集は、“美女と幽霊”である。

 その最初のところで、安村敏信氏は、幽霊と妖怪をどう位置づけるかを記している。今まで考えたこともなかったのだが、妖怪は「異界」に住み、幽霊は「他界」に住むのだという。では生霊はというと、それは「祀られぬ霊」である妖怪の一種だが、人間の姿で現れる幽霊のカタチをとるから、これは幽霊と妖怪のクロスするところに位置づけよう、と提案している。

 私はこの種のものを信じないが、しかし古今東西の絵師や画家は、妖怪や幽霊を描いてきている。今月号は、そうしたものがたくさん掲載されている。

 それらの絵に共通しているのは、幽霊には足がないと言うことだ。なぜ足がないのか。足がなくても、幽霊は動く。足がないから音を立てずに行動できる、あるいはかなり自由に移動できるから?

 幽霊の絵を見ながら、いろいろ考える。

 幼い時は幽霊の存在を信じていたが、中学生の頃から信じなくなった。その理由は以下の通りだ。もし幽霊がいるなら、たとえばヒロシマで原爆死を強制された人々は、当然自分たちを死に至らしめた人々に生き霊として出てくるべきだ。しかしでない。非業の死を強制された人々は、すべからく生き霊としてでてくるべきなのだが、出てきていない。

 ならばいるわけがない、というものだ。
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景色に白がかかる

2012-07-26 21:18:41 | 日記
 近年の暑さのなかで、私は日向の景色に白がかかっているような気がしている。あまりに太陽からの強い光線が、戸外のなにもかもに突きささっている、それが白っぽくしているように思える。

 しかしその暑さの中、用事があれば出かけていかなければならない。午前中は、知人の家を訪問した。花の苗をもっていき、上がり込んで長時間話をしてしまった。

 昼食に帰った後、会合があったので参加した。30人ほどの人間が集まり、3つのグループに分かれて話し合いをするというのだ。

 私が参加したグループは、一つのテーマに集中できない。しばらく一つのテーマに沿って話していたが、その話に終止符が打たれていないのに、別の参加者が隣の人と勝手に別のことを話し始めてしまった。その後も、一つにまとまったり、あるいはばらばらになったり、それを繰り返して話し合いは終わった。一般の人々にとって、討論はなかなか難しいようだ。結論がでないまま、話し合ったという経験だけが残った。

 その後、私は実家の庭の除草作業を行った。もちろん汗まみれである。この時期になると、草は競争するかのように、刈られては伸び、刈られては伸び、を繰り返す。私は、その草の生長のスピードに追われながら、草を刈る。

 その間、またヤブ蚊との闘いが繰り広げられる。蚊取り線香を周囲に置き、煙に囲まれながら刈るのだが、その隙を狙って、ヤブ蚊が私の身体に突進してくる。

 このような夏が、これも繰り返される。暑さが増しているのに、この生活はずっと続いている。

 さて、私は『明石海人歌集』(岩波文庫)を購入し、まずその解説を読んだ。明石は、沼津出身の歌人である。しかし明石については、もうひとつ説明を加えなければならない。明石はハンセン病であった。

 私は、静岡県におけるハンセン病を、歴史的に考えようという決意をもっている。だが日々の雑事や、いろいろな頼まれ事などをこなしているからか、なかなかその決意を実行に移せないできた。

 今月岩波文庫から新刊として出版されたことを契機に、一歩を踏み出そうとしているのだが、解説を読んでいると、明石についても様々な文献があることがわかった。読んでないなあ、とみずからの不勉強を恥じる。

 この文庫の最初、「癩は天刑である。・・・・・・・人の世を脱れて人の世を知り、骨肉と離れて愛を信じ、明を失っては内にひらく青山白雲をも見た。癩はまた天啓であった。」は、私の目をその先に進ませない。癩=ハンセン病者は隔離され、また中には失明する人もいた。その境遇で、明石が発見したことの重さにたじろいでしまったのだ。

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クレオメ、そして『ユリイカ』

2012-07-25 09:28:44 | 日記
 毎年この時期になるとクレオメが咲く。何年か前、種を購入し、それからは咲いた後の種をとっておいて毎年咲かせている。

 夏にふさわしい、少し涼やかな感じである。

http://www.kagiken.co.jp/new/kojimachi/hana-cleome_large.html

 ところがこのクレオメをめざしてモンシロチョウがやってきて卵を産み付ける。幼虫は葉を食べて成長するのだが、私は残酷にも、毎日葉を点検して、青虫を殺している。放っておくと、葉がなくなってしまうからだ。家人からは、食べさせてあげればいいのに、といわれる。

 だが、花を育てたことのない家人には、私の悔しさがわからない。

 今日も強い日差しである。戸外が、心なし白っぽい感じがする。

 
 昨日届けられた『ユリイカ』、野見山の年譜を除き完読した。野見山の文はいうまでもないが、その他の方々の文も味があって、得をした気分である。ただし最後の人の文は、どうにも意味不明である。

 野見山は、窪島誠一郎の「無言館」設立に大いに協力した画家でもある。戦時下に東京美術学校に在学した彼は、学友が戦地へと動員され、その多くが帰ってこないという経験をもつ。自身も戦地へ行かされたが、病の中で、戦闘には加わらなかった。

 野見山の絵は、初期の頃はともかく、近年のものは実はよくわからない。野見山は、絵を描くことが目的であって、それ以外ではないという。野見山の絵はみずからの絵のためにある、ただそれだけだ。何も考えずに、ただ見つめるだけでよい。絵を通して何かをみようというのも、考えてみれば邪道なのだ。

 野見山の文を読んでいて、彼は過去の一瞬一瞬を「光景」として記憶しているのだと思う。別にその「光景」をメモしているのではなく、脳裏にしまっているのだ。それを引き出して文にする。しかしその「光景」をそのまま字に置き換えるのではない。画家らしく、やはり自分なりに加工している。その加工が、自然なのだ。絵を描くように配置される。

 描かれた絵にはそれをこえる空間と時間が描かれるように、野見山の文も同じように時間と空間が描かれる。

 画家ならではの文だと、納得する。
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文章

2012-07-24 16:05:13 | 日記
 世の中には、すばらしい文を書く人がいる。その反対に、ひどい文を書く人もいる。

 まず悪文家について。某大学の名誉教授である某氏は、ひどい悪文である。あまりにひどいので、何を言おうとしているのかよくわからない。主語と述語も呼応していない。一応学者であるから論文を書いていたが、これがまとまりのない、結論が不明確なものばかり。私はなぜこの人が学者になれたのだろうかといぶかしく思っていたが、あるとき衒学的なわけのわからない文を書くからこそ、人々はありがたがって、彼の論文を過大評価したのではないかと思い当たった。わからない文章を読んでいるとき、わからないのは読み手の私の能力が低いからではないか・・などと、誠実な人は思ってしまうのだ。

 この人は、周囲の過大評価により、今も文を書く現場にいる。かつて私は、彼の文をひたすら読み、検討した。その結果、この人は学者としての資格がないと断定しているが、多くの人は私のように検討しないから、今もありがたがって書かせようとしている。

 私が名文家と思う人は、まず長田弘だ。ずっと前、『私の20世紀書店』(中公新書)を読んで、何とすばらしい文なのかと感動した。書物に関する短い文が書かれているのだが、そこに書かれた内容が、書かれた文=書かれた内容ではないのだ。文の背後に広い広い世界が描かれていたのだ。それ以降、長田弘の本はできるだけ読むようにしている。

 もちろん私には、長田のような文は書けない。書いた文=書いた内容という等式が成り立つような文しか、書けない。これは本多勝一の『日本語の作文技術』で文の書き方を学んできたからだ。

 もうひとりの名文家は、画家の野見山曉治である。この人も、長田のような文を書く。

 たとえば、

「すべての景色はうつろうものだ。今ある形は束の間のことだ。魔性を孕んでいるものは美しい」

 書かれている文の背後に、広がる世界がある。書かれた文<<書かれた内容、なのだ。

 今日、『ユリイカ』の臨時増刊号、「野見山曉治 絵とことば」が届き、野見山の絵と文、そして野見山について書かれた多くの人の文を堪能している。

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映画

2012-07-23 22:17:28 | 日記
 一昨日は、『誰も知らない基地のこと』をみた。主に、沖縄の米軍基地をとりあげている。

 アメリカは、世界中に基地を持つ。戦争を仕掛けては基地をつくる。基地をつくるということは、つくられた国の主権が侵されることでもある。アメリカ国内には、他国の軍事基地はない。

 沖縄の普天間基地は、世界で最も危険な基地だ。住宅や学校などに囲まれている。米軍機は、自衛隊機と異なり、騒音がひどい。基本的に米軍基地は、米国では人里離れたところに置かれているから、騒音は気にしなくてよい。

 今日、危険な「未亡人製造機」と呼ばれるオスプレイが岩国基地に搬入された。日米政府の方針では、日本国内で(本土でも)低空飛行訓練を行う。

 事故が起きる可能性が高い軍用機だ。しかしもし事故が起きても、その補償をするのは日本政府であるから、アメリカ軍は日本で訓練したいのだろう。

 沖縄県民は、怒っている。本土の我々が、こういう日米政府の蛮行を止められないというのが悔しい。

 映画は、世界各地に散らばる米軍基地を写す。その背後に、巨大化した産軍複合体があることを示す。軍事も、結局は利権につながる。

 シネマイーラで、7月27日まで。

 そして今日、『別離』をみた。イラン映画だ。アカデミー賞(外国語映画賞)ほか様々な賞を獲得している。複雑なストーリーだ。といっても、現実に存在しうる内容であった。それぞれの人々が、悪意なく、普通に生活している中で、次々と亀裂が生じていく。その亀裂を、人々の何とかしようとするなかで生まれる真実と虚偽が折り重なって、広げていく。

 そしてやはり、最終的に「別離」となる。

 シネマイーラで上映されるものは、エンターテイメントでないから、いろいろ考えさせられるものが多い。しかし映画は、こういうものでなければならない。
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2012-07-23 22:06:06 | 日記
 晴耕雨読の日々をおくっている。ゆとりある時間の一部をつかい、花を育てる。苗を買うのではない。種から育てる。

 今夏は、チトニアを育てた。インターネットで調べたら、以下のように記されていた。

メキシコ、中央アメリカ原産の草花で、古代アステカ帝国の国花だったと言われています。およそ10種が知られていますが、その中でも一般に栽培されているのは、チトニア・ロツンディフォリアで、園芸ではチトニアというと本種を指します。花後に枯れる一年草で、日本では春にタネをまいて夏から秋に花を楽しみます。メキシコヒマワリ、ヒロハヒマワリの別名がありますが、ヒマワリの仲間ではありません。

草丈は1m~2mで茎は直立し、葉は長タマゴ型でフチにぎざぎざが入ります。枝先から長めの花茎を伸ばして、その先端に濃いオレンジ色の花を1輪咲かせます。花の大きさは8cm~10cm、花茎は中空で柔らかい毛で覆われており、花びらの裏は黄色くなります。花首の部分で折れ曲がりやすいですが、切り花にも利用できます。タネは黒っぽくて、冠毛がかたく尖った芒(のぎ)に変化しており、刺さると痛いです。

園芸品種の’トーチ’は草丈が1m~1.5mほどの矮性種(わいせいしゅ)で、タネも広く出回っています。チトニアの名前は、ギリシア神話に出てくる若者、ティトヌスにちなみます。


http://www.yasashi.info/ti_00004.htm

 種袋には、別名メキシコひまわりとあったが、キク科だそうだ。今、次々と花をつけている。大きな葉がたくさん茂り、そのうえに橙の花が咲き乱れる。花を見て、これは日本にはあわないと思ったりする。葉が多すぎるし、花は思ったより小さい。草丈は、私の背より高くなっている。

 これに対し、これも種から育てたのだが、百日草はよい花だ。咲き始めてからだんだん花弁が増えていき、豪華な感じだ。これは日本的でもある。色も多彩で、近所にも苗をあげたので、そこかしこで咲いている。

 今、これらが咲き誇っている。
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【本】外岡秀俊『震災と原発 国家の過ち』(朝日新書)

2012-07-22 10:26:57 | 日記
 朝日新聞は、現在、支配権力の一角に大きな位置を占めるまでになっている。朝日の社説をはじめ、その内容は現在の支配権力の宣伝機関と化している。

 だからといって、朝日の記者のすべてがダメということではない。中には、ジャーナリズムの精神、つまり批判的精神のことであるが、をもって、記事を書き続ける者もいる。

 外岡秀俊は、そのなかのひとりである。

 本書も、副題の通り、「国家」のあり方を俎上にあげている。第三章の「「帝国」はいま」において、「大日本帝国」について、それが「虚妄」であり、「敗戦の蓋をあけてみれば、そこには虚ろな形式だけしかなかった」と鋭い批判を浴びせている。島尾敏雄の小説を例にして、「「虚妄」の支配に対して、人は「虚構」で立ち向かうほかない」として、現在もその「虚妄」が存続していることを示唆する。

 家父長主義、あるいは温情主義としてのパターナリズムは、「何の情報も与えず、その結果の責任をとらないという体制において」、「権威を維持するための支配原理となる」と外岡は指摘しているが、権威だけではなく利権も含まれているだろう。権威は利権と一体化しているはずだ。

 この本は、震災と原発とを古今東西の文学と関連させて論じていくというものだが、随所に外岡の批判的精神が散りばめられていて、考えさせられる内容となっている。

 詳細な報告は記さないが、読むべき本の一つであることは間違いない。
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電力会社の人材

2012-07-18 19:30:34 | 日記
 政府主催の原発の稼働に関する意見聴取会で、中部電力会社の社員が、驚くべきことを語った。社員はその場で「放射能の直接的な影響で亡くなった人は一人もいない。今後5年10年たっても、それは変わらない」と話したという。

 これは驚くべき発言である。原発事故で福島県を中心とした地域に住んでいる人々が、どれほどの苦汁をなめているかをまったく想像できない、人間性のかけらもない輩の発言としかいいようがない。こういう輩が中部電力の原発に関わっているというのだから、中部電力がいかなる会社で有るか、およそ想像できる。彼は課長という管理職でもある。

 今日の『東京新聞』の「筆洗」。

 まるで、呪文のように原発推進派から吐き出される言葉がある。「放射能の直接的な影響で死んだ人は一人もいない」。福島第一原発の事故で放出された大量の放射能の影響が将来どんな形で出るのか、専門家の間でも意見が分かれているが、そんなことは関係ないらしい

▼逆に想像してみたい。事故がなかったら、どれだけの人が死ななくて済んだか。国会事故調査委員会によると、事故直後の約三週間、避難区域になった二十キロ圏内の病院と介護老人保健施設で、少なくとも六十人が避難後に死亡したという

▼農業や酪農の先行きを悲観した人、職を失った人、避難生活のストレスでうつ病になった人…。多くの人が自ら命を絶った。その姿は想像できないようだ

▼将来の原発比率はどうあるべきか。政府主催の意見聴取会(名古屋市)でもこの呪文が飛び出した。個人の意見として「放射能で死んだ人はいない」と言い切ったのは、20~25%案を支持した中部電力の課長だ

▼仙台市の意見聴取会では、社の意見を代弁する形で東北電力の部長が原発の維持を強く訴えた。利害当事者側が「国民の声」を名乗ることに強い違和感を覚える

▼これまでの聴取会は、選ばれた発言者が持論を述べるだけだった。政府が目指すという国民的議論からはほど遠い。「議論は尽くした」というアリバイ工作に利用されてはたまらない。


そしてもう一つ。中部大学の武田教授のブログから。

2011年3月12日に爆発した福島原発。小雪の降る極寒に地震で打撃を受けた福島の人たちに放射性物質が追い打ちをかけた。

2011年3月31日午後2時2分に共同通信から配信された情報によると、警察当局は、原発から10キロメートル以内に震災、凍死、あるいは放射線の打撃で亡くなり収容できないご遺体が数100から数1000あると推定していると報じた。

その頃、上杉さん達の事実を伝えたいというジャーナリストは必死になって現場に入る許可を政府に求めていた。「少しでも情報があれば、まだ救われる人がいる」と叫んだが、政府は許可を与えなかった。

3月27日には福島原発から5キロの大熊町でご遺体から高い放射線を測定した。ご遺体の除染を必要とする基準として警察が定めていた10万cpmの測定器が振り切れて県警がこのご遺体の収容を断念した。

寒風吹きすさぶ福島の地に「汚染されているから」という理由で放置されたご遺体。私は日本人として心が痛み、涙をこらえることができない。ああ、すみません。こんな原発をやって・・・

この地域のご遺体は、地震によって家屋の下敷きになったり、津波で服が濡れ折からの寒風で体温が下がった人が多かった。でも、放射線が強く救援が届かない。餓死、衰弱死、病死でなくなった方が多いとされている。

あのときの寒さは酷かった。寒空の中でこれまで真面目に生きてきた日本人を見殺しにしたのは事故を起こした東電と、救援を拒否した政府だった。

その時、東電の勝俣元会長と先日、公聴会で発言した中部電力課長はどこにいて、暖房をつけていたのだろうか? 私は大阪に閉じ込められ寒さに震えていた。大地震の後で家族と離ればなれになり、寒さに震えて死んでいった人たち、原発の事故で救援が来ないなか無念の死を遂げた人たち・・・私は許せない!

(平成24年7月18日)



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『中日新聞』(『東京新聞』)は、頑張っている!!

2012-07-17 08:01:00 | 日記
 今日の『中日新聞』第一社会面は、昨日東京・代々木公園で行われた「さよなら原発」集会の記事で覆われていた。

 がんばっている。

 市民の公正な意見をこのように紙面に反映させる姿勢に、ジャ-ナリズムの顕現をみる。

 さて今日の「中日春秋」、これがよいのだ。

 
<世間をひろく見渡すに、欲で商いをする者はたとえ成功しても小さくしか成功せず、かりに大きく成功してもすぐほろぶ>。司馬遼太郎さんの小説『菜の花の沖』のモデルである江戸後期の豪商高田屋嘉兵衛は、「欲」と「利」の違いを配下の者たちに言い聞かせてきたという

▼利を追うのは商人の本能だが、我欲が強ければ目が曇る。淡路島の貧しい農民から廻船(かいせん)業者に。やがて幕府の「蝦夷御用船頭」に任じられ、北海道開拓の礎を築いた男の戒めだ

▼我欲で目が曇っていないか、と電力会社の姿勢に思う。東京電力や関西電力が原発再稼働に固執するのは、廃炉によって発電所の資産がゼロになり、債務超過に陥るのを恐れているからだ。なのに「電力不足」ばかり言い募る

▼関電の原発の比率は約五割。地震列島でそこまで比率を高めたのは経営判断の誤りだろう。その責任に頬かぶりし、計画停電を持ち出して利用者を脅す姿は醜悪だ

▼東電の再建策には再稼働を前提とした資金調達案が盛り込まれた。巨額の債権を持ち、再稼働を求めている大銀行は不良債権の処理で欠損を出し、十年以上、法人税を納めていなかった

▼東京・代々木公園できのう開かれた「さようなら原発10万人集会」には主催者発表で十七万人が集まり、全国各地でも脱原発を訴えるデモがあった。欲に迷う商人たちに声を聞かせたかった。



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記憶

2012-07-16 21:50:08 | 日記
 知った人々が、ひとり、またひとりとこの世から去っていく。それぞれの人について、もちろん私の脳裏に、多くの記憶がつくられている。

 訃報を聞くたびに、あざやかな記憶が幾重にもよみがえってくるのだが、これ以後、新しい記憶はつくられることはなくなる。

 永遠の別れとは、新しい記憶がつくられることがなくなるということ。

 昨日、ひとりの知人の訃報が届けられた。30年間ほど、研究会や歴史の調査や、あるいはそのほかの場で、記憶をつくってきた。

 しっかりとした、味のある文章を書く人だった。話をしている時、話を割って、全く別の話をする人だった。研究会では、女王蜂のような存在だった。

 今年一月、明治維新の研究者・原口清先生の90歳を祝う会で同席したのが最後だった。プレゼントに赤いマフラーを買ってきて欲しいと頼まれ、それを持って行った。

 その後入院されたと聞いた。まさか死へとつながるような病気とは思ってもいなかった。

 長田弘『記憶のつくり方』という本を読んだ。

 「あとがき」にこうあった。

 記憶は、過去のものではない。それは、すでに過ぎ去ったもののことでなく、むしろ過ぎ去らなかったもののことだ。とどまるのが記憶であり、じぶんのうちに確かにとどまって、じぶんの土壌となってきたものは、記憶だ。 

 逝去された知人の記憶も、私の記憶にとどまり、私の精神の土壌になっていくのだろう。
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野田民主党政権、恐るべし

2012-07-08 08:32:14 | 日記
 野田政権は、「国家戦略室」なるものを設置して、これからの日本をどうするかの設計図を加工としている。昨日、その報告書が公表された。その内容は、恐るべしである。下記にアクセスすれば、その内容を読むことが出来る。

 http://www.npu.go.jp/

 その一部が、日本経済新聞に報道された。
http://www.nikkei.com/article/DGXNZO43478440X00C12A7EA2000/


 何と「40歳定年制」が出てきている。その「繁栄のフロンティア部会報告書」には、自民党・公明党政権時代を上回るような、資本、企業がさらに金儲けできるような社会の設計図が書き込まれている。

 21世紀は、庶民にとって、暗澹となるしかない時代となろう。

 どのようにしたら、現状を変革できるか、真剣に考えないとたいへんな時代になる。
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金儲けこそが資本主義の本質

2012-07-08 08:12:43 | 日記
 今まで、政府や自治体が、利潤を追求しない仕事を、市民サービスとして行ってきた。たとえば図書館である。自治体が市民サービスの一環として、書籍などを購入し、市民に貸し出している。当然儲かるサービスではない。

 ところが、そこで働いている人々の多くは自治体の正規職員ではない。館長を除き、ほとんどが非正規職員である。

 また近年は、図書館の運営も自治体が行うのではなく、指定管理者制度を利用して民間企業に管理運営を任せるケースが増えている。その目的は経費削減である。今まで自治体が直接管理運営していた経費を下回る管理運営費を支払って、民間企業にまかせるのだ。当然利益が上がる仕事ではないから、民間企業は利益を出すためには低賃金労働者を雇うということになる。それ以外に利潤をうみだすことはできない。

 自治体、すなわち公的機関が低賃金労働者を生み出している。「官製ワーキングプア」である。

 利潤を追求しない自治体の仕事が、こうして民間企業のカネ儲けの手段となっているのである。

 つくられた財政危機のもと、自治体は、経費の削減ができるから喜んでいるかもしれないが、しかし低賃金労働者は所得が少ないから、所得税をあまり払わないし、さらに市民税・県民税もあまり払わない。

 低賃金労働者を生み出すということは、政府や自治体の収入が増えないということでもある。非正規労働者の平均年収は200万円以下だという。これでは結婚や子育て、家の新築などできるわけがない。

 ちなみに政府の「少子化対策」などは口先だけで、実際に取り組むことはしていない。真の「少子化対策」とは、若者に家族を養える所得を保障することである。

 話が少しずれたが、今資本(増殖するカネ)は、ありとあらゆるものを金儲けの手段と化している。

 震災瓦礫の処理もそうだ。たとえば東日本から北九州市に瓦礫を運搬し。試験的に処理する費用は、何と1400万円だそうだ。本格的な処理になるとどれほどの金額になるか。震災を口実に、全国の企業に金をばらまいているのだ。

 資本主義は、その野蛮な本質を隠そうとはしていない。
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戦略としての財政危機

2012-07-08 08:09:54 | 日記
野田民主党政権による犯罪的な消費税増税。その法案が衆議院を通過したとき、テレビのニュースの街角インタビューでは、財政危機を理由として、増税を容認する声が聞かれた。何という市民のお人好し。これも仕方がない。マスメディアのほとんどが、増税策推進の広報機関と化しているからだ。

新自由主義の政策展開を振り返ると、財政危機は戦略として、あえてつくりだされたものであることを知っておいた方がよい。まずそもそも、市民には、政府や自治体の借金について責任はないのだ。

新自由主義の政策は、1980年代、イギリスはサッチャー、アメリカはレーガン、日本は中曽根によって開始された。

少しさかのぼって1920年代のアメリカ。アメリカは好況であった。企業に対する規制はなく、富裕者への課税率は低く、労働運動も低調で、富裕者は思う存分カネ儲けに走った。1923年から29年にかけて、所得増加の70%が1%の超富裕者に帰属し、下層の90%は15%増加しただけだった。この状態が、1929年の世界恐慌を招いた。無秩序な資本主義は社会を破壊するという深刻な体験から、アメリカはニューディール政策を展開した。金融市場への統制、完全雇用政策、財政出動による景気刺激策など。第二次大戦後、この政策は全面的に開花した。労働運動も発展し、アメリカには巨大な中間階級が出現した。その一方で、富裕層の力は削がれていったが、彼らは1920年代の復活を虎視眈々と狙っていた。

1970年代、石油危機などに見舞われる中、利潤率と株価の低落に際会した富裕者は反撃を開始した。資金を集め、大学にカネを寄付して知識人を丸めこみ、メディア支配を強めた。そして、彼らはみずからの利益の代弁者としてレーガンをホワイトハウスに送り込んだのだ。

レーガンは、金融市場の規制緩和、富裕者への大幅減税、労働運動に対する抑圧などの政策を展開し、その結果、上位1%の富裕者の所得は50%上昇した。それとともに、軍拡を推進して巨額の財政赤字をつくった。レーガン政権の予算担当者(デヴィッド・ストックマン)は、後に「計画は、まず財政赤字をつくり出し、その次にそれを利用して、社会的保護や社会福祉プログラムを削減ないし廃止する口実にすることであった」と告白している。

財政危機は、彼らの戦略なのである。財政危機を口実に、庶民増税を行い、企業や富裕者の負担を軽減し、同時に社会保障を削減していく。

この戦略は、日本で成功を収めつつある。政府や自治体の税収の減少は何に起因するか。富裕者や法人への減税策、これである。だが財政危機を叫びながら、権力者たちは、法人税や富裕者への増税を語らない。誰も、それをとがめようとしない。

新自由主義という考え方、それに基づく政策は、彼らの階級的な戦略なのである。それに理解を示して、「財政危機だから増税は仕方がない」などと唯々諾々と従うのは、奴隷根性というしかない。


こうした戦略に、私たちは怒りを持たなくてはならない。
今、資本主義は、みずからの野蛮な本性を明らかにしてきているのだ。
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企業のための政治

2012-07-05 20:58:48 | 日記
最近『浜松市政情報』Ⅰ、Ⅱを刊行した。今までも「地域協議会」など部分的に浜松市政について検討したことはあるが、今回はかなり広汎な問題を検討した。その結果、いわゆる「新自由主義」の政策が、市政にも貫徹されていることがよくわかった。

 「新自由主義」とは、「企業の自由が最大限に保証されるときにはじめて、一人一人の人間の能力が最大限に発揮され、さまざまな生産要素が効率的に利用できるという一種の信念に基づいて、そのためにすべての資源、生産要素を私有化し、すべてのものを市場を通じて取引するような制度をつくるという考え方」、「水や空気、教育とか医療、また公共的な交通機関といった分野については、新しく市場をつくって、自由市場と自由貿易を追求していく」、「儲けるために、法を犯さない限り、何をやってもいい。法律や制度を「改革」して、儲ける機会を拡げる。そして、パックス・アメリカ-ナを守るためには武力の行使も辞さない」(宇沢弘文・内橋克人『始まっている未来』岩波書店、17~8頁。下線は引用者)というものだ。

 浜松市は、ごみの収集を民間委託し、また公共の建物の管理運営を、指定管理者にまかせている。その最大の目的は、経費(人件費)の削減である。ということは、そこで働く人々の賃金は低く、非正規雇用に依存していることが容易に想像できる。こうした外部化した事業だけではなく、市役所内でも非正規職員を多く雇用して人件費の削減に努めている。公的機関も非正規雇用に邁進しているのである。今や労働者の三分の一が非正規雇用である。

 新自由主義は、働く人々の生活なんか顧慮しない。使い捨てでよいのである。その一方で、企業には儲けの機会を提供するだけでなく、様々な補助金を与えている。

 たとえば2012年度予算では、「企業立地促進助成事業」に10億円、「新産業創出事業補助金」として1億5千万円、「企業用地整備事業」に約1億円というぐあいである。

 また浜松城を中心としての「セントラルパーク構想」というものがある。浜松城公園を整備するだけではなく、新美術館や新文化センターの建設が予定されている。

 鈴木康友市政は、行革審の「命令」によって、市民生活や住民自治に関わる事業については「倹約」の方針を採用している。ところが、巨額の費用がかかる新美術館や市民センターの建設は実行する方向である。なぜか。

この二つの「ハコモノ(箱物)」は、浜松商工会議所の提案によるものだからである。行革審の会長は、同時に商工会議所の会頭である。つまり、浜松市政は、商工会議所の意図のままに動いているとも言えよう。

 現在最大の悪税である消費税の増税を、民主党内閣が自民党、公明党と共に企んでいる。「税と社会保障の一体改革」として、まず税だけ上げるのである。しかしこれとて、2008年の日本経団連「税・財政・社会保障制度の一体改革に対する提言」を基礎にしている。その内容は、増税し、同時に社会保障水準を切り下げ、企業の負担を軽減することを内容としている。

 このような企業(とくにグローバルに展開する企業)のための政治は、国政だけではなく、地方自治体でも行われているのである。
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