ノーベル平和賞を受賞した日本被団協代表の演説を聴いていたら、自然に涙がでてきた。
先に、「何が正しくて何が間違っているかという基準がない。価値論や倫理の問題が脱落」したことを指摘した。そのなかで、虚偽がはびこり、「無知」の「無恥」が幅をきかすようになった。
〇安倍晋三~青木理『安倍三代』(朝日文庫)をもとに考える
安倍晋三は、成蹊大学法学部政治学科卒業
▲「可もなく不可もなく、どこまでも凡庸で何の変哲もないおぼっちゃま」(225)
▲ ゼミ担当教授=成蹊大学法学部・佐藤竺(あつし) 地方自治制度などの研究者
「(ゼミで)そもそも発言したのを聞いた記憶がないんですから。他のゼミ生に聞いても、みんな知らないって言うんです。彼が卒業論文に何を書いたかも「覚えていない」って佐藤先生がおっしゃっていました。「立派なやつ(卒論)は今も大切に保管してあるが、薄っぺらなのは成蹊を辞める時にすべて処分してしまった。彼の卒論は、保存してる中には含まれていない」」(255)
▲学歴詐称 「1997年成蹊大学法学部政治学科卒業、引き続いて南カリフォルニア大学政治学科に2年間留学」
▲神戸製鋼時代の安倍の上司・矢野信治(同社、もと副社長)「彼が筋金入りのライト(右派)だなんて、まったく感じませんでした。普通のいい子。あれは間違いなく後天的なものだと思います。・・・・(政界入り後)に周りに感化されたんでしょう。まるで子犬が狼の子と群れているうち、あんな風になってしまった。僕はそう思っています」(281~2)
▲宇野重昭・もと成蹊大学学長(国際政治学)「・・彼を取り巻いているいろいろな人々、ブレーン、その中には私が知っている人もいますが、保守政党の中に入って右寄りの友人や側近、ブレーンがどんどん出来ていったのも大きかったのでしょう。彼の場合、気の合った仲間をつくり、その仲間内では親しくするけれど、仲間内でまとまってしまう。情念の同じ人とは通じ合うけれど、その結果、ある意味で孤立していると思います。・・・・彼ら(自民党)の保守は「なんとなく保守」で、ナショナリズムばかりを押し出しますが、現代日本にあるべき保守とは何か。民衆は生活のことを第一に考える穏健の保守を望んでいる層が大半でしょう。自民党がもっとまともな保守に戻って、そうした民衆の想いを引っ張っていってほしい。」(302~305)
▲2013年3月29日(問)「総理、芦部信喜さんという憲法学者、ご存知ですか?」(答)「私は憲法学の権威ではございませんので、存じ上げておりません」
◎まっさらな「白紙」(無知)状態で、政治家になって後、「仲間」からいろいろなこと(情報)を受け容れていった。今まで蓄積された「知」を持っていないが故(無知)に、また仲間から受容した「知」しかないが故に、さらに「仲間」と思う人だけを信じて共に行動することが当たり前となった。そしてそうした自分自身に羞恥心をもたない(「無恥」)。
◎国のトップに準じて、人々は「知」を蔑視ないし無視するようになった。そしてそれを恥ずかしいことだと思うこともなくなった。
以下の文は、2009年に書いたものである。
1945年4月16日付『静岡新聞』に、「天晴れ聾唖生徒」という見出しの記事がある。浜松聾唖学校の生徒が1944年9月から「職場に進軍」し、増産に励んでいる、というものである。この記事については既に『静岡県史』(通史編6 近現代二)で、「戦時下の障害児」(足立会員執筆)という項に「学徒動員」の一つとして紹介されている。
だが驚くことに、動員されたのは、初等部の子どもたちであった。『静岡新聞』1945年4月15日付の記事には、「聾唖学徒が「翼」生産」という見出しで、静岡聾唖学校中等部の生徒9名が静岡飛行機工場で働いているという記事がある。このように、軍需工場に動員されたのは、中等部以上というのが一般的な理解である。
浜松聾唖学校は、1923年4月、私立浜松盲学校内に併設(浜松市鴨江町在)され、1945年7月財団法人浜松聾唖学校となり、1948年県に移管され静岡県立浜松聾学校となった。戦時下、同校には初等部(1~6年)、中等部(1~5年)があり、校長は湯浅輝夫であった。
子どもたちが動員されたのは、名古屋造兵廠関係の工場で、浜松市野口町にあった三協機械製作所(『浜松市戦災史』資料四)と馬込町にあった大日本機械製作所(聞き取りによる)である。三協機械は『浜松市戦災史』によると工作機械をつくる従業員230人の工場であるが、大日本については詳しいことはわからない。
三協機械に動員されたのは、10歳(初等部5年から18歳(中等部5年)までの31名、1944年9月1日から。大日本機械には、10歳から14歳までの15名で、同年11月1日からであった。
その証言をまず記しておこう。
太田二郎さん(1934年1月生、5年)は三協機械に動員された。1944年9月1日に登校すると、今日から工場に働きに行くと言われ、その日から働き始めた。労働時間は8時30分から16時30分、初等部の子どもはヤスリがけ、中等部は部品づくりであった。月給は5円であった。
花村光雄さん(1934年9月生、4年※聾唖学校は、入学時の年齢が一定していない)は、大日本機械に行った。1944年11月1日からで、当初午後だけであったが、途中から一日中働くこととなった。男子は弾丸のヤスリがけ、女子は50ずつ算えて箱に入れるという作業であった。
1945年5月19日の空襲では二人の子ども(女)が亡くなった。三協機械構内にあった防空壕への直撃であった。
ところでなぜ小学生が軍需工場に動員されたのか。推測ではあるが、まず湯浅校長の功名心である。4月16日付の記事中、湯浅校長談話に「私は彼等を全国に率先職場入りをさせた」とあり、また聞き取りからそのような傾向をもった人物であったようだ。そしてもう一つ。1941年8月から翌年8月にかけて旧浜北市を中心に15人が殺傷されるという強盗殺人事件(通称「浜松事件」)が起きている。その犯人は、同校生徒(検挙時は中等部1年。但し年齢は20歳か)であった。1942年10月浜松聾唖学校内で逮捕され、1944年2月静岡地裁浜松支部で死刑が言い渡され、同年6月大審院で死刑が確定、7月には刑が執行された(『静岡県警察史』下巻)。この事件の後から、工場への動員が始まる。事件の「汚名挽回」という面があったのかもしれない。
※柴田敬子『聴力障害者たちの戦中戦後』を参考にした。
「知性が衰退する時代」として「平成」を捉えたが、それは「令和」になってさらに加速している。
G・オーウェルは、「全体主義の真の恐怖は、「残虐行為」をおこなうからではなく、客観的真実という概念を攻撃することにある。それは未来ばかりか過去までも平然と意のままに動かすのだ。」(「思いつくままに」、『オーウェル評論集』岩波文庫、所収)と書いているが、その通りの時代の中にわたしたちは入っている。
まず「百田尚樹現象(『ニューズウィーク日本版』2019年6月4日号)」を紹介する。
①百田尚樹=1956年、大阪市生れ。同志社大学中退。放送作家として「探偵!ナイトスクープ」等の番組構成を手掛ける。2006年『永遠の0』で作家デビュー。他の著書に『海賊とよばれた男』(第10回本屋大賞受賞)『モンスター』『影法師』『大放言』『フォルトゥナの瞳』『鋼のメンタル』『幻庵』『戦争と平和』『日本国紀』などがある。彼は、右派思想の持ち主・改憲論者である。
②百田尚樹はなぜ読まれるか?
ⅰ)読みやすさ ⅱ)山場をいくつもつくるストーリー展開と構成力 ⅲ)おもしろさ ⅳ)反権威主義 ⅴ)アマチュア ⅵ)「感動」を重視 ⅶ)「普通の人々」に
したがって、そこでは、事実や学問研究の成果を重視しない。近年の動向として、事実や学問研究(知的営みによる成果)を無視ないし軽視する文化がはびこっているように思える。
③加藤典洋の指摘
加藤は、島尾敏雄・吉田満『新編 特攻体験と戦後』(中公文庫、2014年)の「解説」で、両者の対談と『永遠の0』とを比較する。そしてこう記す。
※島尾は奄美・加計呂麻島で特攻用の「震洋」隊の隊長、吉田は戦艦大和の生き残り。戦後は日本銀行勤務。
「いまは、誰しも、特攻に関連し、また戦争の意味に関連し、賛否いずれのイデオロギーなりともたやすくある意味ではショッピングするように自在に手にすることができる。それだけではない。着脱可能と言おうか、小説を書くに際し、その感動が汎用的な広がりを持つよう、そのイデオロギーをそこに「入れる」こともできれば、「入れない」でおくことすらできる。イデオロギー、思想が、いよいよそのようなものなってきたというだけでなく、私たちがある小説に感動するとして、その「感動」もまたそのような意味で操作可能なものとなっているのである。」「私は『永遠の0』を読んだ。そしてそれが、百田の言うとおり、どちらかといえば反戦的な、感動的な物語であると思った。しかしそのことは、百田が愚劣ともいえる右翼思想の持ち主であることと両立する。何の不思議もない。今ではイデオロギーというものがそういうものであるように、感動もまた、操作可能である。感動しながら、同時に自分の「感動」をそのように、操作されうるものと受け止める審美的なリテラシーが新しい思想の流儀として求められているのである。」
島尾、吉田、ふたりの対談を読み、加藤はこのように思う。
「言葉を変えれば、特攻体験をそのまま受けとめる限り、そこから「感動」に結びつく物語は生まれてこない、ということになる。」
現在は、思想や、イデオロギー、感動が、ショッピング可能な、操作できるものとして登場する時代なのである。
「アイデンティティ」ということばがある。「自己同一性などと訳される。自分は何者であるか,私がほかならぬこの私であるその核心とは何か,という自己定義がアイデンティティである。何かが変わるとき,変わらないものとして常に前提にされるもの (斉一性,連続性) がその機軸となる。」(『ブリタニカ国際大百科事典』)と説明されるが、石戸諭による百田尚樹の人物像から考えると、「私がほかならぬこの私であるその核心」がない、その時代時代の時流に沿って変化していく、それはカネ儲けのためでもあるし、権力とつながるためでもあるし、名誉を得るためでもある。いわば「アイデンティティ」の流動化ともいうべき様相を見せているのである。それが「平成」という時代の特徴かも知れない。
学問的知が無視ないし軽視される時代のなか、権威というものも崩壊への道をたどった。それは学問の分野でも起きたことである。「ポストモダン」というある種の「流行」があった。
(1)「ポストモダン」という考え方
● “現代は「大きな物語」が消え、歴史の終焉に入ったと考える。普遍性が破壊されたこの状況下では、「小さな無数のイストワール(物語=歴史)が、日常生活の織物を織り上げ」(『ポスト・モダン通信』)、言説は多様化する。”(リオタール)
●近代哲学の問題の構図は「主観」と「客観」との一致→言語論的転回=主観ー言語ー客観。「世界の正しい認識は可能か」=「言語はその認識を正しく表現できるか」。
●相対主義(「唯一絶対の視点や価値観から何ごとかを主張するのではなく,もろもろの視点や価値観の併立・共存を認め,それぞれの視点,価値観に立って複数の主張ができることを容認する立場」『世界大百科事典』第2版)→何が正しくて何が間違っているかという基準がない。価値論や倫理の問題が脱落。
●ポストモダンとは、「近代」を相対化した。そのなかで、近代が獲得してきた個人主義原理、人権、民主主義などのポジティヴな価値の相対化。※「個人主義原理」=個人の尊厳(権利の主体)と自己決定(自立と自律)
今まで、共通だと思われていた価値に疑いがもたれるなか、倫理的なことさえも疑われるようになり、普遍的な価値観や倫理観が、個々バラバラに解体されていき、「何でもあり」という時代に突入した。
◎「構造改革」の展開
日本の政治社会構造を新自由主義的に「改造」する改革がすすめられた。
一般に新自由主義とは、「政府などによる規制の最小化と、自由競争を重んじる考え方。規制や過度な社会保障・福祉・富の再分配は政府の肥大化をまねき、企業や個人の自由な経済活動を妨げると批判。市場での自由競争により、富が増大し、社会全体に行き渡るとする」(「デジタル大辞泉」)考え方である。
先鞭を付けたのは、イギリスのサッチャーだった。
サッチャー(1925~2013)は、1979年に首相となり、それから1990年まで新自由主義的な改革を断行した。
サッチャーは「小さな政府」を志向した。「小さな政府」を実現するため、彼女は政府支出の削減と減税を行った。彼女が最初に行ったことは、教育、社会福祉、公衆衛生、住宅等への政府支出の切り詰め、公営企業等への援助金などの縮小であり、その一方で軍人と警官の優遇、軍事費の増額であった。減税は所得税に対して行われ、他方支出税(消費税)が増税された(高所得者への優遇と中・低所得層への冷遇)。
ところでイギリスでは1984年から1985年にかけて、炭鉱の大幅な合理化案に反対する全国炭鉱組合による大規模なストライキが行われた。サッチャーは対決姿勢を鮮明にし、ストライキを組合側の全面的な敗北に導いた。この炭鉱争議は、サッチャーにとって、労働運動を衰退させるための突破口であった。この争議を抑圧するために、サッチャーは政府支出の削減を唱えているにもかかわらず、巨額の費用を投入した。1982年にはアルゼンチンとフォークランド諸島をめぐって戦争が開始されたが、彼女はこれにも巨費を投入した。
サッチャーのものの見方は単純で、すべてを善か悪か、正か邪かで判断する二元論で、悪(邪)とみなしたものを徹底的に攻撃する。彼女にとって「悪」は福祉制度であり、公衆衛生であり、労働組合なのである。そして「善」は納税者である。納税者は政府の株主であり、大金持ちは大株主でもあるから、サッチャーは大口の納税者(大金持ち)の発言には耳を傾ける(「納税者の理論」)。かくて政府は、金持ち階級の「御用政府」となる。(森嶋通夫『サッチャー時代のイギリス』岩波新書、1988年を参照した。)
日本でも、このような改革が推進された。まず「労働規制の撤廃」である。
例:派遣労働の規制緩和(自由化) 労働者派遣法の展開
1985年 専門業務派遣13業種のみ
1996年 専門業務26業務に拡大
1999年 原則自由、臨時的・一般的業務も解禁(期間1年)
2003年 専門業務派遣(原則3年、更新可能)、臨時的・一般的業務(原則1年、3年まで)、製造業派遣も可能
2012年 規制を強化,派遣期間が 30日以内のいわゆる日雇派遣は原則禁止,期限付きで働く派遣労働者が無期限の雇用者となれるよう派遣元が支援すること,派遣労働者と派遣先の労働者との待遇の均衡化に努めること。
2015年 専門26業務の区分が廃止され,すべての業務に関して,派遣先の同一の事業所における派遣労働者の受け入れの上限が原則 3年。派遣元には,派遣先への直接雇用の依頼など雇用安定措置や派遣労働者のキャリアアップ措置の実施が義務づけられた。
またサッチャーの炭坑労働組合への強圧的な動きは、日本では国鉄の分割民営化としてあらわれた(1987年)。このなかで、国鉄労働組合は、徹底的に差別され、抑圧された。
小泉内閣は新自由主義的改革を推進した。「構造改革なくして日本の再生と未来はない」と、小泉は叫んで推進した。その内容は、
①不良債権処理(貸し渋り、貸し剥がし)→倒産、失業
②民営化(「民間部門の活動の場と収益機会を拡大する」)
③「小さな政府」→公務員の減少 しかし、「官製ワーキングプア」
④「規制緩和」
新規参入の自由化
構造改革特区
⑤歳出抑制(財政健全化)
そのような改革の背後にいたのが、経団連などの財界、そしてアメリカであった。
その結果はどうだったのか。
① 経済成長せず
② 大企業だけが内部留保をため込む 「法人企業統計」 大和総研
2016年 社内留保 30兆円+内部留保(利益余剰金)406兆円 +法人企業統計上の内部留保 48兆円(その状態=投資有価証券 304兆円(179兆円)+現預金211兆円(147兆円) 有形固定資産455兆円(464兆円)) ※( )内の数字は2006年の数字
③ 格差社会
④ 人口減少
「日本はもはや、誰もが豊かさを享受する国でも世界の先端を行く国でもない。失敗と迷走を重ねる不安と課題でいっぱいの国なのだ」(吉見俊哉『平成時代』岩波新書、2019年)
◎「企業に奉仕する公共」(政治)
残念ながら、何度も書いてきたように、政府や自治体は、集められた税金を企業へばらまいている。本来、「公共」とは、provided by the government from taxes to be available to everyone: とされています。誰もが利用できるように、税金を政府が提供することなのであるが、実際は企業や自民党、公明党の「お友だち」に税金が拠出されている。
消費税が10%となり、庶民は重税に「ゼイ、ゼイ」と苦しんでいるが、「法人税実効税率」は、 1988年には 51.55%であったものが、2019年には29.74%と減らされている。また「所得税最高税率」も、 1988年では60%であったものが、2019年には45%となっている。1988年、消費税は0%であったが、2019年からは10%である。つまり累進課税である所得税を減らし、大衆課税である消費税に徴税の軸足を移してきているのである。
それに、消費税が導入されてから、2022年までの消費税総額が224兆円、法人税の減税額がそれとほぼ同じの208兆円、つまり、法人税の減税分を消費税が埋めているという現状なのだ。
また自治体も、企業への補助金支出を行っている。浜松市の例を示す。
浜松市は、自動車メーカーのSUZUKIへ約35億円の企業立地補助金(県を含めると52億円)を交付した。SUZUKIによる検査不正が行われた時期なのに、浜松市はSUZUKIに補助金を支出したのである。
浜松市にはかつて「行財政改革推進審議会」があり、そこでは鈴木修が積極的に動いていた。そこでの彼の発言を紹介しよう。
「補助金の件数を減らすことも重要ですけど、絶対金額を減らすことがもっと重要」 「(日赤浜松病院に対する市の補助金について)僕は他の病院は移転しても、もらってるかもらってないか知らないが、今後こういう5年にも10年にもわたって何十億円なんていう補助金の出し方、企業誘致だとか何とかという問題についても、40億円の補助金をもらって企業誘致を受けたなんて会社はないでしょう。あるいは、釣った魚にエサはやらないってことで、今市内にある企業が1千億円設備投資したって市は1銭も払ってないわけです。だから、47億円というのは重要な問題。そういうことが二度と起きない取り決めというか、ルールを作っておくことも私は必要ではないかと思います。」(第二次、第四回)
補足しておくと、浜松市の基幹病院のひとつである日赤浜松病院はほぼ中心部にあり、拡張することはできないために、郊外へ移転することになり、浜松市が補助金をだしたのである。それに鈴木修は噛みついたわけである。
鈴木修が中心となってまとめられた『第二次行革審答申』(2008年3月19日)には、「補助金は、過去のしがらみを断ち切り統一的な制度のもと、公益性、公平性の視点により、行政が税金で負担すべきものか徹底的に事業内容を検証することが重要である。さらに市民は補助金に頼るのではなく、何ができるか、何をすべきか自ら考え行動する必要がある。」と書かれていた。
しかし、なんと、SUZUKIは補助金を受けとったのである、補助金削減を強硬に主張していた鈴木修、自分(自社)への補助金はいいのか。ちなみに、この答申により、浜松市が支出していた公益団体その他への補助金は廃止されたり減額されたりしたという。
このように、この例のように、国も地方自治体も、企業(とりわけ大企業)に補助金を交付したり、税制上優遇したりして厚遇しているのである(研究開発減税、受取配当益金不算入制度、外国子会社配当益金不算入制度、連結納税制度・・・)。さらに「消費税還付制度(輸出免税制度)」がある。例えば、50万円の商品を下請けから仕入れたとき、メーカーは消費税率10%を上乗せし、55万円を下請けに支払う。下請けはこの売り上げから5万円を税務署に納める。メーカーはそれを加工し、税込み110万円の商品を作ったとする。国内では販売に際し、消費税10万円を消費者から受け取る。10万円から、仕入れの際下請けに払った5万円を引き、残る5万円をメーカーが税務署に納める。これを年間でまとめて計算して支払う。一方、海外に輸出する場合は輸出免税により価格は税抜きの100万円となるため、仕入れの際に支払った5万円が相殺できない。これを国庫から還付金として補填する制度。消費税還付金には、年率1.6%の利息に相当する「還付加算金」が上乗せされるから、2018年度分で3683億円の還付を受けるトヨタは、単純計算で約59億円が利息として入ってくる。
輸出企業にとって、消費税は多額の「益税」なのである。
◎「平成」におきたこと
〇まず日経連が「新時代の『日本的経営』-挑戦すべき方向とその具体策」(1995)を提出したことである。それには労働者を三つのグループに分けることが提案されている。
①「長期蓄積能力活用型グループ」( 期間の定めのない雇用契約/管理職・総合職・技能部門の基幹職/月給制か年俸制・職能給/昇給制度あり/賞与=定率+業績スライド/年金 あり/役職昇進 職能資格昇進
②「高度専門能力活用型グループ」(有期雇用契約/専門部門(企画、営業、研究開発等)/年俸制・業績給/昇給無し/賞与・成果配分/年金 なし/業績評価
③「雇用柔軟型グループ」(有期雇用契約/一般職 技能部門 販売部門/時間給制・職務給/昇給なし/賞与・定率/年金 なし
これによると、正社員は①のみで、②③は非正規となる。目的は、人件費の抑制であり、その結果、低賃金の非正規労働者は増え続け、全労働者の約4割が非正規となっている。
その効果は1997、8年から出始め、その頃から賃金の下降、全世帯の所得金額が減り始めた。
〇されにそれを推進したのが、1997年の転換、「橋本行革」であった。
1996年1月 第二次橋本龍太郎内閣が誕生し、「構造改革」を打ちだした。「財政構造改革」(歳出抑制見直し)、「教育改革」、「社会保障構造改革」(給付と負担の均衡)、「経済構造改革」(規制緩和)、「金融システム改革」(金融の自由化)、「行政改革」(中央省庁再編、公務員減らし)が実施され、①消費税増税(3%から5%へ)、所得税・住民税の特別減税廃止、②公共投資の抑制、③不良債権処理→金融機関の破綻、④アジア通貨危機→輸出の減により、賃金減少、消費の減退、景気悪化が進んでいった。
その「構造改革」がどういったものであるかは、次回に綴る。
「平成」の時代、どんなことが起きたかを記しておこう。
〇中曽根康弘内閣(1982年11月~1987年11月)
1983年1月「日米は運命共同体」、「日本列島不沈空母化」発言。/1985年7月「戦後政治の総決算」主張。/1985年8月、靖国神社公式参拝/1985年9月、プラザ合意→円高・ドル安へ/1985年10月、国鉄分割民営化、閣議決定。/1986年4月、経済構造調整研究会、「前川レポート」(内需拡大)/1986年12月、防衛費がGNPの1%枠突破。
1987年4月、国鉄分割民営化。/臨調「行革」路線=「個人の自立・自助」、「小さな政府」
1989年
4月 3%の消費税実施(約6兆円) 6月 天安門事件 9月 日米構造協議始まる 11月 連合発足・総評解散
1990年
6月 日米構造協議決着(公共投資10カ年計画、総額430兆円、大店法改正など) 8月 イラク、クウェート侵攻 10月 東証株価2万円を割る(バブル崩壊へ)
1991年
1月 湾岸戦争(湾岸戦争支援として90億ドル約1兆2,000億円援助)4月 自衛隊掃海艇ペルシャ湾へ、12月 ソ連崩壊 ※バブル(1986~91)崩壊
※ 1985年のプラザ合意(ドル安円高政策)を反映した金融緩和政策のため日本では資金の過剰流動性が生じ,低金利が長く続き,株式や土地に資金が集中してこれらの価格をつり上げた。1989年以降日銀が金融引締めに転じたため,株価や地価が急落,バブルは崩壊し,その後遺症で金融システムが機能しなくなり,景気も極端に悪化,人々はその影響に苦しめられた。
1992年
1月 大店法改正(規制緩和)施行 6月 国際平和維持活動(PKO)協力法成立
1993年
8月 細川護煕非自民連立内閣成立
1994年
1月 政治改革4法案成立、衆議院議員小選挙区比例代表並立制決定
6月 松本サリン事件発生 6月 村山内閣 10月1995~2004年度の公共投資計画、総額630兆円に。
1995年
1月 阪神・淡路大震災発生 3月 地下鉄サリン事件発生 4月 1ドル=80円を切る 5月 日経連「新時代の『日本的経営』」 11月 windows 95 日本発売
1996年
1月 橋本龍太郎内閣 4月 安保再定義 9月 民主党結党 10月 第41回総選挙(初の小選挙区比例代表並立制)
1997年
4月 消費税の税率、3%から5%に引き上げ 9月 新ガイドライン 12月 介護保険法公布
1998年
1月 大蔵省不良債権金額76兆円と発表 4月 周辺事態法案など閣議決定 7月小渕内閣
1999年
5月 周辺事態法などの新ガイドライン3法成立。7月 憲法調査会設置の改正国会法成立。8月 国旗・国歌法成立。通信傍受法、組織犯罪処罰法、改正住民基本台帳法成立。
12月 労働者派遣法改正、派遣対象事業を原則自由化。
2000年
4月 介護保険制度開始 森内閣 12月 教育改革国民会議、教育基本法見直しを提言。
2001年
1月 中央省庁再編成 4月小泉内閣 6月 経済財政諮問会議、「聖域なき構造改革」の具体策まとめた基本方針決定 9月 アメリカ同時多発テロ 10月 テロ対策特別措置法、成立
2002年 1月 1府12省庁、始動 5月 日韓共催のサッカーW杯開催 7月 郵政関連法成立、「日本郵政公社」2003年4月発足 9月 「日朝平壌宣言」に署名
2003年
3月 イラク戦争 SARS集団発生 5月 個人情報保護法 6月 有事関連3法、改正労働者派遣法成立、経済財政諮問会議、三位一体改革と規制改革決定 7月 国立大学法人化法など関連6法成立、イラク復興支援法成立
2004年
1月 陸上自衛隊先遣隊がイラク・サマワ到着 5月 小泉訪朝、拉致被害者の家族が帰国 6月道路公団民営化関連法成立 10月 新潟県中越地震で死者40人 12月スマトラ沖地震
2005年
4月 JR福知山線脱線事故 9月 宮城県南部地震 10月 郵政民営化関連法が成立
2006年
1月 日本郵政株式会社が発足 6月 厚生労働省、2005年の人口動態統計で出生率は1.25と過去最低と発表 9月 安倍晋三内閣が発足 12月 改正教育基本法成立
2007年
2月 「年金記録漏れ」5000万件判明 7月 新潟県中越沖地震、死者15人、参院選で自民歴史的惨敗、民主第1党に。9月 安倍首相が突然の退陣、後継に福田首相 10月 民営郵政スタート
2008年
4月 後期高齢者医療制度発足 6月 秋葉原通り魔事件 9月 リーマンショック(株価大暴落)
2009年
6月 新型インフルエンザ流行 9月 民主党政権成立 10月 厚労省、日本の貧困率を15.7%発表(先進国最悪)
2010年
1月 日本航空破綻 3月 平成の大合併終了 6月 鳩山内閣退陣→菅直人政権
2011年
3月 東日本大震災・原発事故 9月 野田内閣 10月 歴史的円高、一時1ドル=75円32銭(政府・日銀円売り介入。介入額は1日としては最大の7兆7000億円程度)
2012年
8月 社会保障と税の一体改革の柱である消費増税法成立(8%へ。民主、自民、公明)。
12月 第二次安倍政権
2013年
12月 特定秘密保護法成立(施行は2014年)
2014年
4月 消費税5%から8%へ 5月 内閣人事局設置 7月 安倍内閣、集団的自衛権行使容認の閣議決定(解釈改憲)
2015年
9月 安全保障関連法が成立
2016年
4月 熊本地震 5月 オバマ大統領が広島を訪れる。8月 天皇が「象徴としての務め」で見解表明
2017年
1月 トランプ米大統領に 6月 「共謀罪」法が成立 ※森友・加計・南スーダン国連平和維持活動日報問題
2018年
3月 財務省、森友文書改ざん認める
2019年
10月 消費税10%へ 12月 中国で新型コロナウイルス
1995年について『世界』が特集したことを、先に紹介した。1995年に焦点をあてて講演したこともあったが、今そのレジメがどのUSBメモリーにあるのか捜し当てていない。そこで、「「平成」を振り返る」というテーマで話したこともあるので、それを紹介していこうと思う。
「平成」とは、 1989年1月8日から2019年4月30日までの期間である。約30年、その30年について、わたしは、 Ⅰ「企業に奉仕するシステム」(政治・経済)、Ⅱ「知性が衰退する時代」(社会)、Ⅲ「対米従属から自発的対米隷属へ」(政治・外交)として、3回に分けて話した。
「平成」という時代においては、内閣は短期間で変わっていた。小泉内閣、安倍内閣は長かったが、それ以外は短命内閣であった。それを示すと、次のようになる。
竹下登 1987(昭和62)年11月6日~1989(平成元)年6月3日
宇野宗佑 1989年6月3日~1989年8月10日
海部俊樹 1989年8月10日~1991年11月5日
宮沢喜一 1991年11月5日~1993年8月9日
細川護熙 1993年8月9日~1994年4月28日
羽田孜 1994年4月28日~1994年6月30日
村山富市 1994年6月30日~1996年1月11日
橋本龍太郎 1996年1月11日~1998年7月30日
小渕恵三 1998年7月30日~2000年4月5日
森喜朗 2000年4月5日~2001年4月26日
小泉純一郎 2001年4月26日~2006年9月26日
安倍晋三 2006年9月26日~2007年9月26日
福田康夫 2007年9月26日~2008年9月24日
麻生太郎 2008年9月24日~2009年9月16日
鳩山由紀夫 2009年9月16日~2010年6月8日
菅直人 2010年6月8日~2011年9月2日
野田佳彦 2011年9月2日~2012年12月26日
安倍晋三 2012年12月26日~2020(令和2)年9月16日
「平成」という時代について、吉見俊哉編『平成史講義』(ちくま新書)では、「失敗の30年」、「戦後日本社会が作り上げてきたものが崩れ落ちていく時代」、「苦難の30年間」、「失われた30年」、「沈滞した時代」などと否定的なことばで総括される。わたしは、「平成」を、「庶民を切り棄てるシステムを構築した時代」として捉えたい。グローバル資本主義、新自由主義(民営化・規制緩和)、政治改革、自己責任、「小さい政府」など、すべてが「庶民を切りすてるシステム」につながっていると考えるからだ。
大日本帝国は、1910年から朝鮮を植民地として支配していた。しかし、アジア太平洋戦争の激化のなかで、大日本帝国政府は不足する労働力を確保するべく、朝鮮人を強制的に労務動員に駆り立て、また中国人を拉致・連行して日本の鉱山などで働かせた。それだけでなく、軍属として戦地にも派遣した。さらに、朝鮮人を兵士にもした。大日本帝国政府は、反抗精神ある朝鮮人を兵士にすることにためらいはあったが、1938年2月、朝鮮陸軍特別志願兵令、43年2月には海軍特別志願兵令、同年10月には陸軍特別志願兵臨時採用施行規則が公布され、朝鮮人学徒も動員されることとなった。
日本兵が戦死したり戦傷を受けたりしたと同様に、朝鮮出身の軍人・軍属も、戦死したり戦傷を受けたりした。
1945年8月、敗戦。日本国政府は、戦死し、戦傷を受けたもと日本兵に対しては国家補償を行った。「戦傷病者及び戦没者遺族への援護」の各種制度である。しかし、1952年に制定された「法律第百二十七号 戦傷病者戦没者遺族等援護法」の付則には、「戸籍法(昭和二十二年法律第二百二十四号)の適用を受けない者については、当分の間、この法律を適用しない。」とあり、大日本帝国下、戸籍法に登載されなかった大日本帝国臣民であった朝鮮や台湾などの軍人、軍属には、援護がなされず、それは今も一貫している。
戦時下では、朝鮮人や台湾人らは「大日本帝国臣民」として戦場に送られたのに、戦争が終わってみれば、「あんたらは大日本帝国臣民ではあったが、戸籍法に登載されていなかったから援護はしないよ」というわけである。
だからこういう映画が、大島渚監督によってつくられた。
「忘れられた皇軍」である。
第二次大戦前、スターリンのソビエト連邦とヒトラーのドイツは、ポーランドを分割してみずからの支配下に置いた。そして
「1939年9月から41年6月にかけて、ドイツとソ連は合わせて推計20万人ものポーランド人を殺害し、およそ100万人を強制追放した。」(247頁)
ソ連もドイツも、ポーランド人を殺したが、その殺人行為には正当性はまったくなかった。みずからの支配に都合がよくなるように、「意図的にポーランド社会の上層部を抹殺して従順な大衆だけを残そうとした」のである。
『ブラッドランド』のブラッドとは、bloodである。血、である。無数の血が流された。その血を流させたのは、ソ連でありドイツであった。『ブラッドランド』を読み進めているのだが、ソ連のスターリンが極悪人であることは当然であるが、その命令を受けて積極的にポーランド人その他を殺しまくった輩がいる。
官僚制は、今の役所でもそうだが、上からの命令を素直に実行することが役人の仕事となる。役人は、すべきではないことであっても、命令があれば実行する。そうした輩によって、官僚組織は運営されている。
スターリンが処刑する計画数を呈示する、すると官僚はそれを上回る数の人間を処刑する。そうした事例がたくさん記されている。
中東欧で起きていた事態の詳細を、わたしは知らなかった。中東欧の諸民族の動きは、虐殺の歴史を背負っていたことを知った。それはまた、今後も背負い続けるだろう。ドイツとソ連による虐殺は、20世紀の出来事だから、虐殺された人びととつながる人びとは、決して忘れていない。
この本『ブラッドランド』上巻を、まもなく読み終える。
次々に登場する悲惨な現場に読者は立ち会うことになる。悲惨な現場をへて今がある。中東欧の動きは、過去の悲惨な現場抜きには、理解し得ないことがよくわかった。
三回にわたる歴史講座「戦争と画家」の三回目のレジメを作成しおわった。
第一回目は、浜松出身の画家・中村宏が戦争画を描き始めた。自らが戦時下、浜松で幼少期を生きた時に起きた、B29による空襲、米艦載機による銃撃、そして遠州灘沖から行われた艦砲射撃を描いたものだ。若い頃から批判的精神をもった中村は、しかし戦争を描くことはなかった。ではなぜ彼は描き始めたのか。ロシア・ウクライナ戦争、イスラエルによるパレスチナへのジェノサイド、そして沖縄における自衛隊の基地増設など、国家が戦争を準備していることに危機感を持ったのではないかと、わたしは思っている。
この回では、藤田嗣治、向井潤吉らの「作戦記録画」を紹介し、どのような気持ちでそれらを描いたかを話した。そして通常は彼らがどういう絵を描いていたかを並べ、戦後、そのような絵を描いたことをどう振り返ったかを語った。他方、「作戦記録画」に協力しなかった画家も紹介した。
第二回目は、召集され、中国で従軍した浜田知明、満洲に行きその後シベリアに抑留された香月泰男、この二人の絵を紹介した。この二人は、軍隊や戦争に対して鋭い批判を持ち、それらを作品に遺している。
第三日目は、「無言館」に関わる画学生についてである。遺された絵は多くはないが、そこには絵を描きたい、描き続けたい、生きて絵を描きたいという思いがこめられている。しかし彼らは戦死、ないし戦病死した。彼らの短かった人生をふり返り、戦争の非情さを話すことにした。
戦死した画学生のなかで、山口県出身の久保克彦は、東京美術学校卒業までに、ほぼ自分の絵を完成させた。おそらく、召集されたら死ぬしかないという気持ちから、自分の短い人生の中で、学んだこと、考えたことをすべて絵に込めたのではないかと思う。逸材であったと思う。
戦没した画学生のなかで、『きけわだつみのこえ』に手記やデッサンが載せられている者が二人いた。一人は静岡県出身の佐藤孝である。書庫から『きけわだつみのこえ』をとりだして、あらためて読み進めた。
学徒動員、特攻作戦など、批判的知性をもった教養あふれる若者たちを、あえて戦死させようとした作戦であったのではないかと思うようになった。
講座が終わったら、それぞれについて考えたことを紹介するつもりである。
今まで、新しい資料をもとに、わたしは中国人の強制連行、南京事件、朝鮮人女子勤労挺身隊、朝鮮人の戦時強制動員など、「大日本帝国」の加害に関わる問題を研究し発表してきた。「新しい資料」とは、わたしが自治体史に関わる中で新たに発見した(自分自身が担当した分野で資料を博捜するなかで出て来たり、あるいは偶然出て来たりして)ものである。それらをもとに、新たな事実を提示した。
調査のために、あるいは現場を確認するために、わたしは韓国や中国に何度も行った。そのとき、オモテには出さないけれども、日本人としての(加害)責任をいつもこころのなかに感じていた。そして心の中で謝り続けていた。わたしは戦後生まれであり、「大日本帝国」が行った植民地支配や侵略戦争に、直接的な責任はない。しかし「大日本帝国」が行ったことを知っているわたしとしては、日本人として謝罪せざるを得ない気持ちであった。
『世界』9月号に、胡桃澤新さんが「「加害責任」の世代間伝播」という文を載せている。
胡桃澤さんの祖父は、戦時中長野県河野村の村長だった。彼は、当時の国策にのって、村から分村移民を送出した。しかし移民として渡「満」した人たち70名以上が亡くなったことから、その責任を痛感して自死したのであった。
胡桃澤さんはその事実を知らなかった。それを知ったときの驚き。
わたしも「満洲」移民について何度か書いたことがある。その一つが、現在川根本町になっているが、平成の大合併によりなくなった中川根町の歴史である。中川根町は、戦後、中川根村と徳山村が合併してできた町だ。「満洲」移民に対してこのふたつの村は異なった対応をした。中川根村は国策にのって、分村移民を送出した。そして1945年、悲惨な結末を迎えたことは、他の地域と同様であった。徳山村は、送出しなかった。村長が、南米移民はいいが、「満洲」は行ってはいけないとしたのである。徳山村の村長は、勝山平四郎。勝山は中泉農学校の出身で、校長の細田多次郎は「鍬をかついで南米へ、鉄砲かついで満洲行くな」と主張していた。その教えを、勝山は我がこととしていたのであった。そして徳山村では、村民を村外に出していくのではなく、土地を分配することによって農林業兼営の自作農をつくっていくという方針を打ち立てていたのである。昭和恐慌以降の経済的に難しい時期に、この二つの村は、別の道を歩んだのである。
小さな村にとって、国策にのって「満洲」に移民を送出する途しかなかったわけではないことを、徳山村の歴史は教えている。
だから、「満洲」に移民を送出した胡桃澤さんの祖父は大きな責任を感じたのだろう。胡桃澤さんは、「祖父には自死ではなく、生きて責任を果たしてほしかった」と書く。そして「祖父は侵略に加担した。侵略された中国の人たちを思う言葉が遺書にはない。謝罪もない。」とも。おそらく村民を多数死なせてしまったという自責の念が強かったのだろうし、当時の人びとと同様に、「加害責任」を感じることもなかっただろう。人びとが「加害責任」を考えはじめるには、もっとながい時間が必要であったのである。もし「祖父」が自死しなければ、中国に対する「加害責任」を、いずれもつことになっていただろうと思う。
移民政策を推進した張本人たちは、「満洲移民政策」の失敗、多数の移民を死なせてしまったこと、それらへの責任など何も感じていなかった。少なくとも、「祖父」は、村民への責任を厳しく自らに問うたのである。責任感が強い人物だったと思う。
胡桃澤さんは、自らが住む東大阪市では、育鵬社の教科書がつかわれていると書いている。そして排外主義者のスピーチと育鵬社の記述の「同じ根っこ」に、「大日本帝国」があることを指摘している。
「大日本帝国」は、支配層のなかに依然として根を張っている。それが行政や司法、教育など、折に触れて姿を現す。「大日本帝国」は、「亡霊」にはなっていないのである。永田町や霞ヶ関では、いまだ息づいている。
胡桃澤さんは、「「加害責任」の後の世代への先送りを防ぎたい」と書く。「加害責任」にピリオドを打つためには、国家権力の内部に巣くう「大日本帝国」を消し去らなければならないと思う。たいへんな事業となるだろう。
9月26日、重大な判決が出される。静岡地方裁判所、袴田事件の無罪判決である。判決は、無罪以外はない。
判決の中に、袴田さんを犯人に仕立て上げようとした捜査機関による捏造が書かれるかどうか。
「原形のまま残っていることは極めて不自然」検証「袴田事件」(1)疑惑の証拠 9.26再審判決
そして検察が控訴するかどうか。
今日、東京・日比谷野音で、「今こそ変えよう!再審法~カウントダウン袴田判決」という集会が開かれた。
9年前、静岡地裁で村山裁判長が再審開始の判決を下したとき、わたしも静岡地裁前にいた。
人びとの動きが、再審開始をもたらしたのである。
国家権力は、人びとが監視していないと暴走をはじめる。暴走させない!!とりわけ、控訴させないように、人びとは動かなければならない。
今の制度では冤罪は無くならない!?諸悪の根源「再審法」のグズグズっぷりについて
家庭内暴力の報道が多いなあと感じる。わたしの家庭には暴力はなかった。父がわたしが幼い頃に肝硬変で亡くなったからである。父の記憶は、いっさいない。父は召集されて中国戦線に動員された。陸軍砲兵であったので、おそらく直接中国の人びとを殺害したことはなかったのではないかと思う。
ところで、直接中国大陸その他で、ふつうの庶民を殺した日本兵士は多いはずだ。「三光作戦」とか、「南京虐殺事件」とか、日本軍兵士は、あたかもイスラエルがガザのパレスチナ人を無差別に殺しているように、同じようなことをしていたからだ。
加害者としての日本軍兵士に、わたしは何度か聞き取りをしたことがあるが、ほとんどの人は戦場での話しを避けた。言えないことをした、ということなのだろう。
ところが、加害者としての日本軍兵士も、そういう残虐な行為をすることによって、みずからの精神を深く傷つけたのである。それは日本だけではなく、ベトナム戦争その他に従軍したアメリカ軍兵士にも同じこと、戦争によるPTSDが発生しているからだ。
帰国した元兵士たちのなかには、無気力のまま一生を過ごしたり、あるいは家庭内で暴力を振るったり、戦争で体験したことが引き金となっての精神の異常が発生した。
戦場での暴力が、帰国しての家庭内での暴力となり、そしてその暴力が子どもたちにも伝えられていく。暴力のある家庭で育った子どもが長じて暴力を振るうことが多い。
戦場の暴力は、日本国内で消えてはいないのである。
【狂った父親】凄絶な戦地の記憶 家族に向いた狂気 復員兵のPTSD 『精神疾患』発症 幻聴や幻覚に悩まされた復員兵 終戦後「カルテ」の焼却を命じた軍 軍医たちがひそかに保管〈カンテレNEWS〉
はじめに
金原明善(1832~1923)についての研究会に参加した。そのレジメで、「「偉人」金原明善を捉え直す必要がある」と記しながら、例会では「偉人」ということばが何度も使用されていた。また「いま、金原明善に熱い視線が注がれている」とあるが、さてどこで注目されているのだろうか。
金原明善と地元
私の実家は浜松市中野町にある。昔からの地名で言うと、萱場村である。
萱場村は安間村の東隣に位置する。実家から明善生家は 100 メートルほどだ。安間村から天竜川堤防に行くには、萱場村と中ノ町村を通って行かなければならない。天竜川に接するこの地域(中野町)では、明善に対する評価は高くはない。
明善家の本家は、萱場村にある。村は異なっていても、両家は隣り合っている。本家の金原家は、JR 天竜川駅ちかくにある日蓮宗の名刹妙恩寺(建立は 1311 年とされる)と深い関係にある。妙恩寺における地位は、金原本家が上にくる。そうであっても、長い間、明善家の方が経済的に豊かであった。言い伝えでは、明善家は高利貸により財産を殖やしてきた、明善自身も、生家の前で、東海道を浜松方面に行く者にカネを貸し、たくさんの利息をとったということも聞いている。明善は「高利貸しだった」という記憶が、地元では強い。こういう記憶が残されているということは、明善の治水事業は、地元の支持の下になされたものではないということを表しているのだろう。
この問題については、斎藤新さんが『近代静岡の先駆者』(静岡新聞社)の「金原明善」の項目で、「・・明善が、「愛国」に熱中するあまり、地域社会との間の信頼関係を培うことができず、そのために有志による天竜川改修事業という彼の構想が頓挫した」と指摘していたこととつながっていく。またみずからの全財産を捧げて改修事業に取り組もうとしたという言説であるが、明善家の家産は治河協力社解散時に返還されている(斎藤さんはこの治河協力社についても、その私的性格を指摘している。重要な指摘である)。また『明治前期地方政治史研究』下(原口清、塙書房)にも、明善と地域社会との対立についての言及がある(283~5 頁)。なお同書には、明治 14 年から 16 年までの静岡県の四大河川の堤防費国庫補助金下付請願運動(国庫補助金は明治 14 年に打ち切られた)の説明があり、その請願運動に対し明善は、「頓着なし」、「評議には」関与していないという報道が紹介されている(289 頁)。
明善を「偉人」とする言説が、今も尚、浜松市内の学校で教えられている。「偉人」とは「すぐれて立派な人。すぐれた能力、性格などを備え、偉大な業績をなし遂げた人。」(『日本国語大辞典』)と定義されている。
いったい、明善はいつ頃、どのような経緯から「偉人」とされるようになったのか。私は、天竜運輸、天龍木材など地域に於いて様々な事業を展開した明善を、「偉人」とするよりも、実業家として顕彰すべきではないかと思う。
金原醇一と明治社会主義
金原本家には、明治社会主義と深い関係をもった金原醇一がでている。金原醇一(1886 ~ 1969)は、浜名郡中ノ町村萱場に生まれた。いつの頃からか社会主義に関心を抱き、大逆事件の際には警察の取り調べを受けた。
金原醇一(以後醇一とする)を最初に紹介したのは杉山金夫で、本稿は、杉山の調査を土台に、新たに私が調べたものを付け加えて記すものである。
醇一は、中ノ町村長などを歴任した金原鉄平の次男として生まれ、日露戦争に志願兵として参戦した。醇一がどのような経緯で社会主義に近づいたのかはわからないが、1907年 九段坂下ユニバーサリスト教会での社会主義夏期講習会(8 月 1 日~ 10 日)に参加し、幸徳秋水、堺利彦、また地方の社会主義者とも交流し、とりわけ信州の新村忠雄と懇意となった。
※この講習会の内容は以下の通り(『週刊社会新聞』第 10 号、第 11 号、1907 年 8 月
4 日、11 日による)。
田添鉄次 社会主義史(5 時間)/幸徳秋水 道徳論(4 時間)/堺利彦 社会の起源(5時間)/山川均 社会主義の経済論(5 時間)/片山潜 労働組合(5 時間)/西川光次郎 同盟罷工の話(4 時間)、会費 80 銭、臨時一回聴講券 10 銭で、講習会の出席者は、毎夜 80 余名。懇親会は 8 月 6 日 11 時から、角筈十二社で開催され、来会者 40 余名、片山、田添、森近、幸徳の演説、福田英子の二弦琴演奏。その後十二社杉林の中で写真撮影が行われ、5 時頃散会した(その写真は、『幸徳秋水全集補巻 大逆事件アルバム』にあり、新村、醇一の姿もある。なお辻潤も参加していた)。
金原醇一の足跡
杉山は、大逆事件で処刑された新村忠雄(金原宅へ宿泊もしている)、森町三倉の中川栄太郎、池田村の杉村光市との交流を記しているが、処刑された新宮のドクター大石誠之助の「住所氏名録」にも醇一の名は記されている(大石のそれには、静岡県内の 23 名の氏名が記されているー後掲)ので、醇一は各地の社会主義者等と幅広く交流していたことがうかがえる。
醇一はその後、『社会新聞』、『熊本評論』にも原稿を送っている。『社会新聞』については杉山が紹介しているので、『熊本評論』をここに掲げる。
※☆遠州だより(『熊本評論』24 号、1908 年 6 月 5 日)
勇敢なる未見の同志熊本評論社諸兄足下、僕此度当地の同志杉村氏と倶に、遠陽同志同盟の組織中に有之候/今や東西の同志諸兄、猛闘奮迅頻りなる時、独り我遠陽の地は寥淋閉塞の状態に空過する久候、亦以て僕等冷顔坐視に不忍、僭越を冒して、遠陽同志諸兄に此の結盟の義を諮り、聊か以て此の大主義大理想に盡さんと致すものに候、敬曰(5 月 20 日 浜名郡中野町に於て)
☆『熊本評論』25 号(1908 年 6 月 20 日)
熊本評論社諸兄足下、吾が微弱なる遠陽同志同盟も漸次其の議論趨向を宣言して広く労働者、青年の糾合に努め隠密の間大動力の養成に勉め、以て機を窺、変に乗じて大いに事を為さん宿志に候。/諸兄足下、今の世革命を叫んで天下に咆哮せんとす、必ず先づ労働者伝導の緊急なるは言を俟たずと雖ども、亦須らく青年に融通せずんば在るべからず候。/夫れ青年は高潔熱誠也、真摯敢為也、則ち是れ吾人が旧守頑迷なる白髪の老年に説くを欲せずして、只管青年伝導を口にする所以にて候。
また醇一は、新村忠雄が編集発行人であった高原文学会の会員となり、同会発行の『高原文学』」(第一巻第四号、1908 年 10 月、長野市で発行)にも「本能論」という文を載せている。
醇一が具体的にどのような活動をしたのかはよくわからないが、書簡や投稿などによれば、杉村と社会主義者の組織として「遠陽同志同盟」(遠陽同志会という異なる名称もある)を結成しようとしていたことは判明する。
大逆事件とその後
大逆事件とは、1910 年 5 月各地で多数の社会主義者,無政府主義者が明治天皇暗殺を計画したとの理由で検挙され,翌年 1 月 26 名の被告が死刑その他の刑に処せられた事件であるが、醇一も拘束され、取り調べを受けた。杉山の調査によれば、親族らが大審院宛ての嘆願書を提出したり八方手を尽くしたという(明善がそのために動いたという事実は確認されていない)。その後、掛塚の中村喜三郎方に謹慎していた。
醇一は、のちに平野紙店の婿養子となり、実業家への途を歩むことになる。醇一は紙店だけでなく、妻の父の山林経営にも関わっていく。その傍ら美術分野にも進出し、渡辺崋山等の文人画などを収集する一方、醇一は自適斉素芸(そうん)と称し、みずから南画も描いていた。
平野家は、その後丸八製材所を経営し、さらに不動産業(丸八不動産)にも進出していった。醇一をはじめとした平野家は、多くの美術品を収集し、それらを展示する美術館として、1989 年平野美術館を開設した。それらの事業は継続され、現在に至っている。
おわりに
「金原家異聞」として、明善と醇一を紹介した。明善も醇一も実業家として生きたといってよいだろう。明善は「偉人」とされたことから、学校教育でも取り上げられ、明善生家を訪問する者も多い。また膨大な史料が一橋大学に寄贈されたことにより、研究者にも注目されている。
醇一は、社会主義に目覚め、また大逆事件の荒波に呑み込まれそうになったあと、実業家として生きた。醇一が収集した美術品は、今も平野美術館で展示されている。しかし残念ながら、醇一に関する史料は多くはない。
私としては、明善よりも醇一に関心を持つ。何故に醇一は、社会主義に傾倒したのか。その交友関係はどうであったのか・・・・。明治の時代にあって、社会主義者は少数者であった。そうした少数者に着目することが、歴史研究の醍醐味だと思う。
※大石誠之助「住所氏名録」 (注)□は解読不能のため
磐田郡長野村前野 和泉幸市郞/沼津通横町 (死亡) 中村岩次郎/遠州掛川町□町 120川島 武/浜名郡中の町村かやば 金原醇一/磐田郡池田村池田 杉村光市/榛原郡萩間村白井 中田新平/安倍郡長田村手越 44 近藤恵寿子/静岡市北安東 27(京都へ) 延原天民/静岡市梅屋町 石井浜吉/浜松利町 413 ノ□ 谷 忠行/静岡市両替町 3 丁目 栗生末治/引佐郡麁玉村 伊藤□泉/遠江榛原郡御前崎灯台 小林栄造/沼津町城内 130 山本/安倍郡長田村赤目川 鈴木辰五郎/静岡市本通り1 長谷川吉蔵/静岡市一番町 12 □井準治/磐田郡佐久間村中部 斎藤白露/周智郡三倉村一之瀬 中川栄太郎/榛原郡御前崎村御前崎灯台 杉(?)生繁卓/小笠郡掛川町掛川 内藤長之助/磐田郡二俣村川口 和田のぶ子/田方郡田中村 中島省一