浜名史学

歴史や現実を鋭く見抜く眼力を養うためのブログ。読書をすすめ、時にまったくローカルな話題も入る摩訶不思議なブログ。

裁判のこと

2024-12-13 19:57:12 | 

 昨日届いた『週刊金曜日』(12月13日号)には、裁判所に関する記事が多かった。東京高裁の白石哲、東京地裁の村主隆行、東京高裁の相澤真木、これらの裁判長が、白石哲がすべきことをせずに(違法である)結審させたことを、村主、相澤の両裁判長もその不始末(違法)を追認したことが記されている。裁判長が違法なことを次々と追認するという、裁判所の無能ぶりを記していた。手続き法を踏みにじった行為が平然と行われたことに、わたしも呆れかえった。

 全国の医師、歯科医師による「マイナンバーカードを使った健康保険のオンライン資格確認を義務づけられるのは違法」だとして、東京地裁に訴えたのだが、裁判長・岡田幸人が請求棄却した。この訴訟は、当然原告が勝訴すると思っていたのだが。

 裁判所の位置が、行政の追認組織となっていることは、もうふつうのことになっているように思う。1970年代、極右の石田和外が最高裁の長官になってから、裁判機構をひどく右傾化させ、強権的に司法の独立を奪った。それ以降、裁判所の右傾化が続き、裁判所の本来の役割が失われていった。

 そしてそのなかでも、数少ない良心的な裁判官、上昇志向をもたない裁判官がいた。それが、西川伸一の「政治時評」で紹介した、もと裁判官・木谷明であった。

 残念ながら、どこの組織でも同じだが、良心的なそういう人間は少ない。しかし、そういうマイノリティがわたしたちの道行きを照らすのだ。

 

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【本】ハン・ガン『別れを告げない』(白水社)

2024-12-12 08:54:49 | 

 この本は、もう二日前には読み終えていた。しかしなかなか読後の気持ちを書こうとは思わなかった。

 わたしがこの本を読むなかで、何度も活字を追うのを止めて空を見つめることがしばしばであった。それだけではなく、読みはじめると、異次元の世界に入り込んだような気持ちになってしまい、現実の日常生活と『別れを告げない』の作品世界との間に、大きな懸隔があることにきづいた。何度も立ち止まり、立ち止まりつつ、やっと読み終えた。

 1948年韓国済州島では、あらんかぎりの暴虐が吹き荒れた。アメリカ軍、李承晩政権、軍隊、警察、そして右翼青年たち。国家のお墨付きを得た者たちが、次々と残酷な死を多くの人びとに強いた。

 きょうの新聞に、作者のハン・ガンのノーベル賞受賞記念講演で語られたことが記されていた。そこには、「私と肩を寄せ合いながら立っているこの人たちも、通りの向こう側の人たちも、一人一人が独自の「私」として生きている」と書かれていた。ハン・ガンらしい指摘である。

 たくさんの人びとが虐殺されるとき、それは数で表される。どこでも同じである。しかし、そこで表された数だけ、「私」があったのである。

 おそらくハン・ガンであろうこの小説の主人公キョンハは、友人のインソンとともに、済州島で虐殺された「私」を探っていく。インソンの母は、あの虐殺のまっただなかにいて、多くの血縁者、地域の人びとを殺された。インソンの母は、連行されていった兄の行方を探索していた。しかしインソンは、母が亡くなるまでそれを知らなかった。

 母も、兄もその他の人びとは、すでにこの世にはない。ならば、その「人びと」の「私」を知るためには、死後の世界に入りこむしかない。もちろん、生きている者が死の世界に入り込むことはできない、生と死のすれすれのところで、インソンもキョンハも母の行動をたどる。残された資料には、「私」に関する事項は残されている。しかし、それは「私」ではない。「私」には、怒り、悲しみ、歓びなどの感情がある。しかし資料には、「私」の感情は記されていない。母という「私」がどのように、人びとの死をたどったか、その足跡も記されていない。

 ならば、生きている者たちは、「私」を、どうして生の世界だけで知ることができよう。

 ハン・ガンは、「窮極の愛についての小説」を書いたという。愛情をもつ「私」が、亡くなった者たちの、同じく愛情を持つ「私」を掴み取るのである。掴み取らなければ、さまざまな感情を抱き、その感情を表していた亡くなった者たちの「私」は、わからないではないか。

 人間は、愛の対象でもあり、愛の主体でもある。しかしその人間が亡くなるということは、愛する、愛されるという主体・客体が同時に消えていくということである。愛によって結ばれていた人間の関係が、断たれること、それが死なのだ。

 その死が、突然、何者かの暴力によってやってくる。暴力は、人間を死に至らしめるだけではなく、愛によって結ばれていた無数の人間関係をも断つ。

 ハン・ガンは、そうした人間の死、そしてその死によって断たれた関係を、それぞれの心理の奥深くまで、静かに静かにさぐっていく。その先にあるのは、おそらく人間をつなぐ愛なのであろう。

 この小説の色は、黒と白と赤である。赤は、血の色だ。黒は木々であり、殺された人びとである。そして白は雪である。雪は、色を隠していくが、同時に、生きる者を包むものでもある。

 ハン・ガンは先のノーベル賞受賞記念の講演で、「文学を読み、書くという営みは、同じく必然的に、生を破壊する全ての行為に真っ向から対立するということです。この文学賞を受賞する意味を、暴力に真っ向から立ち向かう皆さんと分かち合いたい」と語る。

 暴力が吹き荒れる現在の世界で、「生を破壊する全ての行為に真っ向から対立する」ハン・ガンが受賞した意味は大きい。被団協のノーベル平和賞受賞と共に、その意味は大きい。

 ハン・ガンの小説は、続けて二度読まなければならない深みをもつ。もう一度、わたしも読み直さなければならない。

 なお、訳者あとがきに、1948年に済州島で起きた事件の内容が、記されている。この事件は、日本にも影響をもたらした。済州島から日本に逃れてきた人びともいた。作家の金時鐘らがそうである。

 ちなみに、この事件の背景には、日本の植民地支配があったことを認識しておかなければならない。

 

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『現代思想』12月号 「田中美津とウーマンリブの時代」

2024-12-11 19:49:08 | 

 『現代思想』12月号、特集は、「田中美津とウーマンリブの時代」である。

 田中美津という名前は、若い頃から知ってはいたが、彼女の本は一冊も読んでこなかった。同じ時代の空気を吸っていたのに、要するに関心がなかったということである。

 その田中美津さんが亡くなった。そこで、『現代思想』が特集を組んだというわけだ。同時代に生きた、とはいっても当時でもかなり上の年令であったが、その名は知っていたし、彼女が始めたウーマンリブの運動については、その関係の雑誌記事は読んだことがあった。

 『現代思想』が田中美津の特集をするというので、田中美津とは何だったのかを知りたくて購入し、読んだ。

 田中美津のインタビューが、あった。それを見ていて、田中美津は、悩み、深い思考をへてたどり着いた彼女なりの論理があり、それが普遍性をもった内容として存在することを知った。だから、田中美津は振り返られるのである。

 さまざまな人びとが田中美津を論じているのが、『現代思想』12月号である。それを読んで、田中美津を通じていろいろなことを知った。

 人間はいろいろな矛盾を抱えて生きている。矛盾の中で、あるべきこととあるべきではないことが発見されるのだが、通常は、あるべきことを取り出し、あるべきではないことを捨て去ることを試みるのだが、田中美津はその矛盾を抱えて生きることから出発することを主張する。

 田中美津が主張したことには、もちろん多くの論点があるが、「今、生きている」、これこそがすべてだという主張に、わたしは感動を持った。

 いろいろ書きたいことはあるが、本書を読んで、ウーマンリブ運動の先駆けだった人間の、その体験などに基づいた創造的な思想に、刺激を受けた。

 やはりすごい人だ。

 

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1995年という年

2024-12-07 20:24:03 | 

 『世界』1月号が「1995 終わりと始まり」という特集を組んだ。そこには、村山政権、沖縄における米兵による少女暴行事件とその後の「米軍基地の整理縮小」問題、オウムの地下鉄サリン事件、「慰安婦」問題、阪神淡路大震災が取り上げられている。

 たしかに1995年は、大きな転換点であった。わたしも1995年に焦点をあてて、その後の変化、庶民にとっては悪化について、さまざまな統計をつかって話したことがある。

 それについては近いうちにアップしようと思うが、わたしは1995年という年を取り上げる場合は、日経連の「新時代の日本的経営-挑戦すべき方向とその具体策」に触れる。これは労働者を三つのグループにわけて、労働者の総賃金を減らしていこうという経営者たちの方針を示したものである。

 その「具体策」は、労働者を、「長期蓄積能力活用型グループ」「高度専門能力活用型グループ」「雇用柔軟型グループ」にわける。「長期・・・」はいわば「正社員」であり、「雇用柔軟型・・」はパート労働、アルバイトなどの非正規労働者であり、後者を大いに活用しようという提言であった。それ以後、30年にわたって日本だけが労働者の賃金が上昇しないという事態をつくりあげたのである。なお「高度専門・・・」は、公認会計士などである。

 この提言をまとめた日経連の幹部が、『東京新聞』のインタビューに応じた記事がある。非正規雇用の活用を30年前に提言したら…「今ほど増えるとは」 労組側「やっぱりこうなった」

 1995年を取り上げるなら、この提言に触れるべきであった。

 

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【本】将基面貴巳『反逆罪ー近代国家成立の裏面史』(岩波新書)

2024-12-07 13:27:09 | 

  何となく購入し、何となく読み終えた。どのようにこの本の内容を記していけばよいのかわからない。しかし、読み続けていったのだから、何ともいえない魅力が存在したのだろうと思う。

 「反逆罪」を中心にして、イギリス、フランスの歴史が叙述されているのだが、それがなかなか興味深く、読んでしまった。著者は映画にも詳しくて、数カ所に映画の紹介がなされていた。そのひとつ、フランス映画の「デリシュ」(Amazon Prime)をみたが、これがなかなかよかった。フランスの農村部の美しさ、そしてフランス革命へと向かう社会の状況がそのなかに描かれ、深部での民衆の意識の動きが静かに描かれていた。

 本の内容については、著者が終章でまとめているので、それを読めばよい。

 印象に残ったのは、「反逆罪」であるから、当然その罪を犯したとされれば処刑される。その処刑の方法がまた残酷極まりないものであった。首つり、内臓を抉って焼却、首の切断、身体を四つ裂きにする、これはひとりの人間に対しておこなわれる処刑である。首の切断までは受刑者は生きているわけだから、何とも凄まじい。これはイギリスのことであるが、フランスでは特権身分の者は斬首、民衆は絞首刑。その後、すばやく受刑者を死に至らしめるための「人道的な」方法として、ギロチンが生みだされた。これは身分に関わりなく「平等に」おこなわれた。

 人間の歴史は、暴力の歴史でもある。古今東西、暴力が吹き荒れていて、溜息が出てしまう。

 「反逆罪」についての認識も、時代の流れと共に変化していくが、近代国民国家の成立のなかで、ナショナリティーを国民がもつなかで、国家権力だけではなく、庶民までもが「国賊」などということばで、「反逆者」を糾弾するようになっていく。

 著者は、「反逆罪」を考察するにあたって、「マイェスタス」をキー概念にして論じている。「マイェスタス」とは、古代ローマの「威光」という意味のことばである。ヨーロッパ法は、ローマ法やゲルマン法の影響を受けながら発達していくのだが、「反逆罪」に関してはローマ法の「マイェスタス」概念が生きつづけたようだ。

 著者は末尾で、こう書いている。

戦後80年が経過しようとしている今日、政治に対する無関心が広がっている印象が強い一方で、SNSを中心に反逆罪のメタファーによる政治的レトリックが巷にあふれている。ある特定の政治的主張をもつ個人や集団を「国賊」、「非国民」あるいは「反日」などという言葉で罵倒する行為は「あまりに品性を欠き卑劣で真剣に受け止めるに値しない」と無視したくなる誘惑にかられるかもしれない。だが、こうした政治的レトリックが幅を利かせることで露わとなる政治的分断は、決して坐視して済ますことのできない問題をはらんでいる。が反逆罪のレトリックの背後には、究極的な忠誠対象に必ず随伴するマイェスタスへの崇敬感情が潜んでいるからである。自分が信奉する忠誠対象のマイェスタスが「国賊」によって毀損されているという危機感が少なからぬ人々の間で共有されているのである。

 これは日本のネトウヨの動きについてであるが、しかしわたしは彼らが「国賊」とか「反日」とか汚いことばで罵倒するとき、かれらのなかに明確な「マイェスタスへの崇敬感情」が存在しているとはとても思えない。彼らは、半ばうっぷん晴らし、あるいは遊びとして(彼らはいつもニヤニヤしている!)そうした行為をおこなっているのであって、「自分が信奉する忠誠対象」を明確に意識しているわけではないだろう。ある意味で、罵倒する行為に対する「忠誠」とでも言いうるのではないだろうか。

 【付記】昨日から、急にアクセス数が増えている。このブログで、いったい何に関心を持ったのだろうか。このブログには「アピールチャンス」というのがあるようだが、わたしは一度もつかったことはない。書きたいことを書く、それにアクセスする方がいる、それだけでうれしい、と思いながら綴っている。

 

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【本】ティモシー・スナイダー『ブラッドランド』下巻

2024-12-05 19:36:26 | 

 やっと読み終えた。他の本と並行して読んでいるので、なかなか読了できなかった。

 さて、黒海からバルト海に至る「ブラッドランド」では、ナチスドイツとスターリンによって1400万人が殺された。

 「1400万というのは、ナチス・ドイツとソ連が故意におこなった大量殺人政策により流血地帯で殺害された人々のおよその数である。」とスナイダーは書いている。

 もちろん、この数字には、様々な脱落がある。詳しくは本書にあたって欲しいが、すべての死亡者数ではない。もっともっと多くの人が亡くなっている。

 なぜ人間は、このような大量殺戮をおこなうことが出来るのか?ソ連ではスターリンが命令し、ドイツではヒトラーが命令した。その命令を受けた人々が、殺戮に手を貸した。実際に殺戮をおこなった者たちはどのような人間で、彼らに責任はなかったのか。

 ハンナ・アーレントの結論は、彼らは「凡庸な人間」であった。命令に従順になる人、殺戮すれば上司の覚えがよくなると思った人、そうすれば出世すると思った人・・・・・・・

 そして大量殺戮がおこなわれたあとに生き残った人びとは、みずからを「被害者」と位置づける。

 「20世紀の大戦争や大量殺人は、すべて最初に侵略者や犯罪者が自分はなんの罪もない被害者だと主張するところからはじまっている。」(263)

 日本国政府もご多分に漏れず、「ABCD包囲陣」により、戦争を余儀なくされたのだ、被害者だと主張することと同じである。

 ブラッドランドでは、たくさんの人が殺されたが、戦争に関わったそれぞれの国は、「戦争犠牲者」として死者の数を「盛っている」。死者は、ナショナリズムや「被害者だと主張する」なかで、水増しされる。

 スナイダーは、1400万人という死者の数を、このように考えるべきだと主張する。「1×1400万人」。つまり殺されたひとり一人に着目させようとする。その通りだと思う。

 さて今も、イスラエル国家は、ガザをはじめ、周辺の国地域に住む人びとに爆弾の雨を降らせている。イスラエルに来たユダヤ人のなかでも、このブラッドランドから生き延びてきた人が多いという。ブラッドランドはでは、その名の通りたくさんの血が流された。そういう体験をもった人びとが、イスラエルに移っていった。

 暴力に囲まれて生きていた人びとは、暴力を憎むのだろうか、それとも自分が暴力を振るうようになるのだろうか。

 歴史は、ここだけではなく、地球上のどこでも、暴力が吹き荒れ、多くの血が流された事実を刻む。

 人間とはいかなる存在なのか。この問いは、今でも考える意味がある。

 

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【本】パク・ヨンミ『生きるための選択』(辰巳出版)

2024-11-28 09:37:27 | 

 朝鮮民主主義人民共和国から逃げてきた若き女性の自伝である。

 同国が閉鎖された、凄まじい、金日成の家系による独裁国家であるという認識は、ずっと前に読んだ『凍土の共和国』で知っていた。それから同国の内部事情について書かれた本は読んで来なかった。この本を読んで、『凍土の共和国』から良くなるどころか、ますますひどくなっていたのを知った。

 在日コリアンの女性が、「ディア・ピョンヤン」、「スープとイデオロギー」、「愛しきソナ」というドキュメンタリー映画を制作していて、それはAmazonPrimeでみることができる。大阪の朝鮮総連の幹部をしていた夫婦には4人の子どもがいた。そのうち、うえ三人の息子は、朝鮮民主主義人民共和国へと「帰還」した。ひとりの娘だけが残った。彼女が同国を訪問して映画を制作した。

 三人の息子は、ピョンヤンに住んでいる。彼らの元へ、その夫婦がたくさんの物資やカネを送っていることから、ピョンヤンに住む息子家族たちは、ある程度の生活を保持している。それでも、ドキュメンタリーを制作した娘は、同国に対しては懐疑的である。

 通常いわれているように、ピョンヤンに住むことが出来ている人びとは、「選良」だけである。そうでない人びとは、貧しいいなかに住み、何度も停電する暗闇のなか、食べるものもないような生活をしている。

 自伝を書いたヨンミも、そうしたところに住んでいた。父親が持ち前の才覚で密売をすることにより、経済的に一定の豊かさを享受できた時期もあったが、そうでなければ何日も食べることも出来ない、極貧の生活が待っている。朝鮮民主主義人民共和国は「社会主義」を標榜しているが、一応学校は「無償」とはなっているが、教員に賄賂を渡さなければ通学も出来ない。だから彼女は、学校を満足にいくことができなかった。彼女の学力は、8歳程度であった。

 同国は、「出身成分」と賄賂とコネが社会全体を覆う世界である。大日本帝国支配下で、小作農や労働者であったものはよい成分とされ、地主階層であった者らはわるい成分とされ、同国の社会では冷遇される。

 人びとは「人民班」に組織され、自由に話すことが出来ない。密告が大きなちからを持った社会である。自由もなく、学校では何でも丸暗記、正解は一つだけだ。正解はもちろん国家が決める。

 だから彼女は「脱北」を決意する。母と共に、鴨緑江を超え、中国へ逃げた。しかし中国では、同国から逃れてきた女性たちが人身売買されるところだった。レイプはあたりまえ。しかし朝鮮民主主義人民共和国にいるよりはマシだと、彼女たちはそれに堪えながら生きる。そして韓国への入国を画策する。

 ヨンミと母は、ゴビ砂漠を越えて、モンゴルに入ることを決意する。瀋陽からバスで、中国からの出国を手助けしてくれる人がいる青島まで行く。そしてはるか西方にあるエレンホトまで行き、ゴビ砂漠を歩いてこえ、モンゴルに入国する。もちろん非合法である。

 彼女たちは韓国に逃れることができた。しかしそこは朝鮮民主主義人民共和国とはまったく異なった世界であった。

 彼女は、韓国でいろいろなことを学ぶ。まず自由であることについて。「自由がこんなに残酷で大変なものだとは知らなかった」「自由であるというのは、つねに頭を使って考えなければならないことなのだ」(261)。脱北者にとって、「自由は苦痛」だった。

 彼女は学びの遅れを取り戻すために、ひたすら本を読んだ。 

 「ひたすら本を読んだのは、頭のなかをいっぱいにして、忌まわしい記憶を封じ込めるためだった。でも、読めば読むほど、考えが深まり、視野が広くなり、感じ方も豊かになるのがわかった。韓国には、私の知らなかったたくさんの語彙があり、世界を表現する言葉が増えれば、複雑なことを考える能力もより向上する。北朝鮮では、政府が国民にものを考えさせないようにしているし、微妙さを嫌うあらゆるものが白か黒で、灰色がない。たとえば、北朝鮮で表現することの出来る“愛”は指導者への敬愛だけだ。こっそり観ていた映画やテレビドラマで、“愛”という言葉がべつの意味で使われるのを聞いたことはあったが、北朝鮮の日常で家族や友達や夫や妻に対してそれを使う機会はなかった。でも韓国では、両親や友達、自然、神、動物、そしてもちろん恋人に対して、さまざまに愛を表現する方法があった。」(274)

自分のなかに育つ言葉がなければ、本当の意味で成長したり学んだりすることはできない。そのことがわかってきて、自分の脳が文字どうり生き返るのを感じた。暗く不毛だった土地に新たな道が出現したみたいに。読書が、生きていることの意味、人間であることの意味を教えてくれた。」(275)

 おそらく朝鮮民主主義人民共和国では、こうした自由な読書ができないのだろう。わたしも、読書は、彼女が発見したように、人間にとってきわめて重要な営みであることを認識している。最近、多くの人が本を読まなくなっていることを憂う。

 彼女は、中学校卒業、高校卒業の認定試験を受けて合格し、東国大学へと入学する。

2012年3月から、私の大学生活が始まった。大学はまるで、目の前に並べられた知識のごちそうの山で、食べても食べても追いつかなかった。一年目は、英文法と英会話、犯罪学、世界史、中国文化、韓国史とアメリカ史、社会学、グローバル化、冷戦などの講義をとった。そのほかに、ソクラテスやニーチェなどの西洋の哲学書を読んだ。何もかもがとても新鮮だった。私はようやく、食べ物や身の安全以外のことを考えられるようになり、より人間らしくなれた気がした。知識から幸せが得られることはその時まで知らなかった。子供の頃の私の夢は、桶いっぱいのパンを食べることだった。今ではより大きな夢を持つようになっていた。」(285)

 そして彼女は「脱北者」としてテレビにも出演するようになり、それで得た金でフィリピンの語学学校に夏季休暇を利用して行った。さらにキリスト教の慈善活動に参加するために、アメリカへも行った。

 そこで学んだことは。

奉仕活動をしている中で、「・・・私がそこにいるのは、他人のためではなく、自分のためだったのだとわかってきた。コスタリカのホームレスの人々は、私が彼らのために食事をよそったり、ゴミを拾ったりしていると思っていたかもしれない。でもそれは、本当は私自身のためだった。人を助けることで、自分の中にずっと人を思いやる気持ちがあったのだとわかった。ただ、そのことを知らず、表現することができなかっただけなのだ。人を思いやることができれば、自分自身を思いやることもできるようになるのかもしれない。」(298)

 朝鮮民主主義人民共和国では、このような精神は育たない。ピョンヤンではあるのかもしれないが、他の地域では生きるのが精一杯で、生きるためには賄賂を使ったりしなければならない。また密告をおそれなければならない。誰が密告するかわからない世界。そのようなところでは、「思いやること」を排除する。

 わたしは、最後の、韓国で彼女が学んだことに、とくにこころを動かされた。本書の眼目は、朝鮮民主主義人民共和国の生活、脱北しての中国での悲惨な脱北者の生活、国境を超えることの大変さ・・・など、彼女が体験したことを知ってもらいたいということなのだろう。それはあまりに壮烈としかいいようがないものだったが、それを克服して、ひとりの人間として生きていこうという積極性に、わたしはもっとも感動した。

 なお、朝鮮民主主義人民共和国は、大日本帝国時代の日本の相似形だと、わたしは思っている。同国をそのようにした日本による植民地支配の罪深さを感じる。同時に、民主化以前の韓国の独裁政権にも、それを感じる。

 朝鮮民主主義人民共和国の悲惨な状況を知るにつけ、大日本帝国が、朝鮮半島の人びとに、多くの災厄をもたらした事実を知っておかなければならないと思う。

 よい本である。なおこれは図書館から借りたものである。

 

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【本】斎藤真理子『本の栞にぶら下がる』(岩波書店)

2024-11-22 07:43:42 | 

 良い本だった。昨日のブログでも紹介したものだ。

 いろいろな本が紹介されている。読まなければならない本がたくさんあるのに、この本を読んでさらに読みたい本が増えた。

 自治体史などで歴史を調査し叙述している頃は、資料調査ででてくるテーマに関する本をひたすら読んでいたことを思い出す。そのために、そういう文献が蔵書として、どんどん増えていった。あの頃は、読みたい本を読めなかった。でてきた資料を日本の歴史、地域の歴史に位置づけていくためには、資料に関する智識をきちんと持たなければならない。それに、それに関する研究の動向をも視野に入れなければならないから、歴史を書くということはとてもたいへんなことだ。今、そういう仕事から足を洗ったので、好きな本を次々と読み進めている。至福の時である。

 さてこの本は、図書館から借りた。もう本を増やしたくない、という気持ちが強いからである。

 この本は、著者が今まで読んできた本について綴られている。巻頭は、『チボー家の人々』である。この本は、今も書庫にある。著者はこの本にいたくこころを動かされたようだ。わたしの場合は、やはりロマン・ローランの「ジャン・クリストフ」だな。高校生の頃読みふけり、日記にこころを動かされた部分を書き出している。自分自身の精神の持ち方が、これによって決定づけられたような気がする。「ロマン・ロラン全集」で購入して読んだのだが、今はこの全集は処分した。字が小さくて二段組み。誰も読まないだろうと思い処分した。

 次は林芙美子と郷静子、林については読んでいない。郷は『レクイエム』だけ読んでいる。次は、永山則夫。『無知の涙』だけ読んだことがあり、小説は未読である。鶴見俊輔、後藤郁子、茨木のり子。鶴見の本はよく読んできた。茨木も同様。しかし後藤郁子は知らなかった。

 次に『詩の中にめざめる日本』(岩波新書)。これは最近、もう一度読み直そうと思って書庫からだしてきて、今足元にある。著者は、そのなかから沖田きみ子の詩をとりあげている。

 順に書いていくのが面倒になってきたので、いくつか割愛。読みたくなったのは、長璋吉、「朝鮮短編小説選」(岩波文庫)、堀田善衛。堀田の本は何冊か読んではいる。もう一度読む必要があると思った。田辺聖子、森村桂。この二人については読んだことがない。朝鮮の文学を翻訳している長璋吉の本は、読まなければと思った。中村きい子の『女と刀』は読んだ。みずからの筋を通すということで、大いに学ばされた。

 それから、李浩哲の『南のひと北のひと』(新潮社)。

 他にも紹介されている本があるが、この辺で。こうした本に関するエッセイめいたものは好きだ。知らなかった本で、きっと読みたくなる本が紹介されているからだ。

 読みたい本がたくさんある。まだまだあの世にはいけない。

 

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次々と読んでゆくいきおい

2024-11-21 19:12:52 | 

 『ブラッドランド』下巻を読み進んでいるのだが、あまりの死者(殺された人)の数が多くて、どこそこで何万人、ここで何万人、合計で数百万人・・・とか、あまりの数の多さに辟易している。表された数には、ひとりひとりの人生があったのに。ヒトラー率いるドイツ、そしてスターリンのソ連、さらにそれに協力した国籍はいろいろの人びとが、殺人者となって、人びとに銃口を向け、ガス室に追い込んでいく。殺害の命令を下すのは、ヒトラーやスターリンであるが、それに協力し、実行する者の多さに、人間とはいったいいかなる存在なのか、と思わざるを得ない。

 今日、図書館に行って、姜尚中本を返却し、あらたに斎藤真理子『本の栞にぶら下がる』(岩波書店)を借りてきた。彼女は、ハン・ガンら韓国作家の作品を翻訳している。 

 だからこの本には、朝鮮半島出身の作家のことが多く書かれている。こういう本を読むと、そこに紹介されていて、いまだ読んでない本を読みたくなる。

 とっても読みたくなっているのが、脱北者のパク・ヨンミの『生きるための選択ー少女は13歳の時、脱北することを決意して川を渡った』という本である。

 そこには、「愛」ということばへの言及があった。北朝鮮において、「「愛」という言葉で表される感情は指導者への敬愛の念だけで、家族、友達、夫や妻に対してその言葉が使われるのを見たことがなかった」という文に、目がとまったのだ。彼女は、「韓国に来て、愛という言葉が人間だけでなく自然や神、動物にまで使われることを知」って、驚いたというのである。

 そして「韓国には、私の知らなかったたくさんの語彙があり、世界を表現する言葉が増えれば、複雑なことを考える能力もより向上する」「自分のなかに育つ言葉がなければ、ほんとうの意味で成長したり学んだりすることはできない。」と。

 ということは、北朝鮮は語彙が少ないということになる。語彙が少ないということは表現する力が弱いということであり、思考や感情が狭くなるということであり、自由がないということでもある。

 ※ついでに記しておけば、今の若者のことばも、語彙が少ないと感じる。日本語には豊かな語彙があり、異なった場に於て、同じ意味のことばでも、異なった言い方がある。語彙が豊富なら、表現力も高まる。そのためには、良書を読むしかない。

 斎藤さんは、その後で、金元祚『凍土の共和国』も紹介する。1984年に出版された。わたしもこの本を、刊行と同時に買って読んで、北朝鮮の真実の姿を、驚きと共に知った。誰かに貸してあげた記憶はあるが、今その本は不明である。

 斎藤さんのこの本、いろいろ知的刺激を受けつつ、明日には読み終えるだろう。

 昨日、ハン・ガンの『別れを告げない』(白水社)が来た。図書館から借りようと思ったが、たくさんの人がついていたので買った。これも読まなければならない。

 あまり人と交わることがなくなっているので、触発を受ける手段は、本しかない。他人との会話から触発を受けることが、めっきり少なくなった。人生の晩年とは、さびしいものだ。

 

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【本】チームK『私たちは売りたくない』(方丈社)

2024-11-20 10:22:04 | 

 コロナワクチン接種後に亡くなられたり、重篤な後遺症に苦しまれている方がたくさんいる。しかし、コロナワクチンがもたらしたこうした事態について、メディアはほとんど報じない。あたかも報道統制が行われているようだ。それでいて、コロナワクチンの過大な効能については、大いに報じられてきた。

 わたしはコロナワクチンがたいへん大きな問題を抱えていることを、ワクチン接種が始まってからしばらくして知った。わたしはコロナワクチンを2回も打ってしまったが、もっと早く知れば良かったと後悔している。

 報道機関で、コロナワクチンの問題を一貫して報道していたのは、名古屋のCBCテレビの「大石解説」という番組だけだ。わたしはYouTubeで、コロナワクチンに関する同番組をずっと見てきた。それこそ、報じているのは、今も、この番組だけと言ってよいだろう。

 この番組で、本書の存在を知り、すぐに購入した。悪税を含めて1760円である。

 世界初の「レプリコンワクチン」を販売する「明治製菓ファルマ」の現役社員がかいた書である。

 同社の社員が、コロナワクチンの二回目を接種して三日後、亡くなった、とても健康で、仕事にも熱心に取り組んでいた社員が、突然亡くなったのだ。その死は、コロナワクチンによるものだと認定されている。

 同僚が亡くなっているのに、同社は「レプリコンワクチン」を販売し、人びとに接種しようとしているが、それは危険だと著者たちは警鐘を鳴らす。

 そしてファイザーやモデルナのコロナワクチンを接種させるために、厚労省などが、虚偽のデータをつかい、また証明がなされてもいないことを、学者やテレビなどのメディアを通して流していたということを、公表されたデータをもとに書いていく。

 たとえばワクチンを打てば、「発症予防効果は95%」と宣伝されていたが、この数字は「常識外」だと、本書は記す。通常のインフルエンザワクチンの有効性は、4割から6割とされていて、コロナワクチンのこの数値は「異常」だという。

 わたしの知人は、2回目のコロナワクチンを打った直後に、コロナに感染した。それを知ってから、わたしは疑問を抱いて調べはじめ、以後は打つことをやめた。

 2022年に厚労省のアドバイザリーボードで示された「10万人当りの新規陽性者数」のグラフは、未接種者の陽性者がすべての年代で高くなっていた。ところがそのグラフに疑問を抱いた名古屋大学名誉教授の小島勢二氏がおかしいと指摘し、その結果厚労省は訂正したのだが、それをみると、ワクチンを接種したから感染予防効果があったとはいえないということが判明した。40代、60代、70代では、未接種者より2回接種者の方が新規陽性者が多いという結果となったのである。

 しかしテレビなどに出る学者たちは、それでも「感染予防効果」がありつづけると言い続けた。

 アベ政権は、国会などでウソを言い続けたが、厚労省の官僚たちも虚偽ノデータをつくってウソを平気で言い続けたのである。平気でウソをつくことが、この国では習い性となってしまったようだ。

 京都大学の西浦博教授、この人もテレビに出まくっていたが、「ワクチン接種をしなければ、死者数は36万人にのぼっていたはずだったが、コロナワクチンの接種によって1万人に抑えられた」と言っていたが、しかし、国民の多くがコロナワクチンを接種したあとの、2021年死亡者は予測値を上回り、22年、23年にはさらに増加している。

 著者は、「それほど死者抑制率が高いワクチンを、世界のどの国よりも頻回にわたって接種してきたこの日本で起きている2022年、2023年の爆発的な死者激増は、一体どんな理由によるものですか?」と問う。

 以下書くことは、この本には書かれていない。

 わたしがふと思うことを書いておく。ひとつは、コロナワクチンを製造しているファイザー、モデルナ両社はアメリカの企業である。アメリカの属国である日本国家は、ずっと自国が損してもアメリカに多額のカネを渡してきた。キシダ内閣の軍事費43兆円というカネの多くも、アメリカの軍事産業へとわたっていく。日本政府は、コロナを契機にして、多額のカネをアメリカの軍需産業につぎ込むように、製薬企業にカネをわたそうとしたのではないか。もうひとつ、数年前から高齢者を中心として多くの人が亡くなっている。コロナワクチンを接種させて、高齢者の数を減らそうとしたのではないか。

 本書を読んでいて、わたしのふと思ったこと、それは事実なのでは、と。

 この本に、わたしはたくさんの付箋をつけた。製薬企業に勤務しているだけあって、根拠としているデータなどは確かである。

 このコロナワクチンに関しての報道は、おかしかった。コロナワクチンが多くの人々を苦しめている実状を、ほとんど報じない。コロナワクチンのマイナス面がほとんど報じられなかったことをふりかえると、情報統制が行われ、マスメディアもそれに応じていたのではないか、と疑ってしまう。マスメディアへの不信が云々されているが、それは当然である。マスメディアが報じなければならないことを報じないので、ネットという玉石混淆の情報が飛び交っている世界へ、人びとは誘われるのである。

 

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もう一度(暴力についての考察 6)

2024-11-17 22:11:09 | 

 暴力は、人間の命を奪う。1980年5月の光州では、多くの市民の命が奪われた。奪った者たちははっきりしている。全斗煥の命令の下に、光州市民を殺しに来た殺人軍隊である。

 『少年が来る』の少年、トンホと友だちのパク・チョンデは殺された。チョンデの方が早かった。チョンデの姉・チョンミも殺された。いつどこでかはわからない。

 そのチョンデを探して、トンホは遺体置き場に行く。そして、そこで手伝いをするようになる。そのとき知り合ったのは、イム・ソンジュ姉さん、キム・ウンスク姉さん、キム・チンス兄さんであった。

 トンホは、チンス兄さんらとともに、道庁に残った。中学生のトンホは、母やソンジュ姉さんらから家に帰るように言われたのに、道庁に残った。

 道庁を襲撃していた軍人たちに、チンス兄さんらは銃口を向けなかった。そして捕まった。トンホはほかの若い高校生らと、両手を挙げて道庁からでてきたときに、軍人に射殺された。

 チンスは、囚われの身となり、激しい拷問にあった。激しい拷問が、彼の肉体を傷つけ、精神をも傷つけた。生きていくことが困難となって、彼は自死した。

 ウンスク姉さんも生き延びた。あの夜、ウンスク姉さんらは病院にいた。事件後、大学に行ったりしたが中退して出版社に勤めた。しかし、事件の記憶は、決して消えることはなかった。彼女も、精神に大きな傷を受けていた。

 ソンジュ姉さんは、光州市内で軍隊に囚われた。そして激しい拷問を受けた。釈放されたあと、労働運動の経験があるソンジュ姉さんは、その関係の事務所に勤めたが、その後テープ起こしの会社に入る。ソンジュ姉さんは、事務所の人びとと打ち解けることなく働く。

 ソンジュ姉さんも、肉体と精神に大きな傷をもっている。

 暴力は、人間の命を奪う。吹き荒れる暴力のなかで、なんとか生き延びた人びとは、それぞれが肉体と精神に、深い、深い傷を負ったまま生きざるを得ない。

 チンス兄さんと共に道庁にこもり、軍隊に囚われ、生き残った「私」に、ハン・ガンは、こう語らせる。

私は闘っています。日々一人で闘っています。生き残ったという、まだ生きているという恥辱と闘うのです。私が人間だという事実と闘うのです。死だけが予定を繰り上げてその事実から抜け出す唯一の道なのだという思いと闘っているのです。(165頁)

 生き残ることが出来たとしても、いつも死を意識しながら生きていかなければならない苦しさ。人間というものに、深い懐疑を抱いてしまった苦しさ。

 ソンジュ姉さんは、トンホがどのように殺されたのかを、釈放されてから知る。

君は道庁の中庭に横たわっていた。銃撃の反動で、腕と足が交差して長く伸びていた。顔と胸は空を向き、両足はそれとは逆向きに開いた状態で、その爪先は地面を向いていた。脇腹が激しくねじれたその姿が、いまわの際の苦痛を物語っていた。つまりあの夏に君は死んでいたのね。私の体がとめどなく血をあふれ出させているとき、君の体は地中で猛烈に腐っていたのね。(211~2頁)

 ソンジュ姉さんは、トンホに命が助けられたと思う。何によってか。「心臓が破けるような苦痛の力、怒りの力で」。

 『少年が来る』は、暴力を振るわれた人間たちの「怒り」についてはほとんど触れていない。しかし、表現されなくとも、「怒り」は、静かな力となって存在していたはずだ。ただ、その「怒り」は、暴力とつながらない。

 暴力が、いかに人間を破壊するかーハン・ガンは、光州で実際に起きたことをもとに、フィクションのなかに編み上げた。

 『少年が来る』を二度読んだ。読み終えたとき、モーツァルトの「レクイエム」を聴きたくなった。それを聴きながら、パソコンを打っている。

 1980年5月、光州でおきたことを知れば知るほど、「人間は、根本的に残忍な存在なのですか?」(163頁)という問いに、そうではないよ、と言えない自分を発見する。だからKyrie eleison(主よ、憐れみたまえ) を聴きたくなったのだ。

 

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【本】ハン・ガン『少年が来る』(クオン)(暴力についての考察3)

2024-11-16 17:21:41 | 

 一字、一字を追いながら読む。わたしの脳裡に、光州でおきたことが、そしてその事件が人間に何を刻印したか、それがおぼろげながら像を結ぶ。

 韓国の国家権力の、想像を超える激しい暴力。その荒れ狂う暴力の前に、人間として敢然と立った人びと。その暴力は、ただそこにいたという人びとを含めて、人びとの命を奪い、さらに生き残った人びとに、消すことの出来ない「記憶」を残した。その「記憶」とは、こころのなかの「記憶」だけではなく、みずからに振るわれた暴力の、からだの「記憶」でもある。

 『少年が来る』にでてくるのは、少年・トンホに関わった人びとである。虐殺された人びとの数からすれば、数少ない人びとの肖像ではあるが、かれらの生と死は、光州市民が体験した荒れ狂った暴力の象徴であるといえよう。

 この本には、暴力とはいかなるもの・ことなのか、暴力が人間の命を破壊するだけではなく、たとえ生き残ってもこころを破壊するのだということを、明確に伝えている。

 「暴力」について考えようとする場合、この小説を読まないと始まらないというほどに、暴力を描いている。

 そして暴力に抗するものは何であるのかも示唆する。それは「良心」。「この世で最も恐るべきものがそれです。」(140頁)と、記されていた。

 わたしは、道庁に残った人びとは、全斗煥の命令に従い押し寄せてきた戒厳軍の兵士と撃ち合ったと思っていたが、

 「・・(道庁に残った市民軍の)大半の人たちは銃を受け取っただけで撃つことはできなかった。」

とある。そのような立場に、もしわたしが立ち会っていたとするなら、おそらくわたしも引き金を引けないだろう。

 文中に「つまり人間は、根本的に残忍な存在なのですか?」(163頁)という問いがある。

 たしかに、韓国軍兵士は「残忍」だった。その兵士も、人間なのだ。そしてあまりに非道な暴力をふるわれながらも、「良心」にしたがって生きた人びとも、人間なのである。

 人間は、ほんとうに不可解なのである。

 拷問の叙述がある。読んでいて、日本の特別高等警察が植民地時代の朝鮮半島に「導入」し、それがそのまま続いてきたのではないかと思った。

 重い、重い小説である。著者のハン・ガンには、文字で表した世界のその背後に、無限の、この光州の出来事に対する想念があるはずだ。その想念の世界を知るためには、一度読むだけでは不可能のように思える。

 ハン・ガンがノーベル文学賞を受賞したが、今、世界ではウクライナ、ガザその他で暴力が吹き荒れている。暴力を振るう者たちが、自分自身の暴力がいかなるものかを知るために、『少年が来る』は最良のテキストとなるであろう。

 

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・・・・・・・(暴力についての考察2)

2024-11-16 11:46:08 | 

 ハン・ガンの『少年が来る』(クオン)を、アマゾンで買った。そして読みはじめた。

 読んでは立ち止まり、遠くをみつめ、再び本に目を落とす。そして止まる。読み進んでいくと、お腹に重いおもりがあるかのように、からだ全体でその重みを感じる。

 光州事件。光州のふつうの市民や学生などが、韓国の軍隊の銃弾などによって殺害された。事件そのものが重くのしかっかってくるのに、この小説は、そのなかに息を吸って食べ物を食べる人間が登場する。しかし周りは軍隊によって殺された遺体が並び、また運ばれてくる。

 もっとも激しい暴力が吹き荒れ、ひとりひとりの人間の命を奪い、その人間に関わる人間たちの深い悲しみを生みだす。

 暴力がふるわれるとき、そしてその暴力によってころされたとき、人間は、人間の魂は・・・・

 ハン・ガンは、この小説で、暴力の本質を穿つ。暴力がもたらすこと・ものを描く。それは重い。その重みを感じる。それはまた人間の重みである。

 まだ途中である。少しずつ、少しずつ読み進める。時間がかかる。

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【本】姜尚中『維新の影 近代日本150年、思索の旅』(集英社)

2024-11-15 17:13:52 | 

 本書は、共同通信が配信した、姜さんの「思索の旅」を書籍化したものである。したがって、研究書ではないし、一般向けに書かれているので、深く掘り下げた内容ではないが、姜さんらしく、きわめて知的で、読んでいていろいろ刺激を受ける。

 それぞれのテーマに関して深く掘り下げているわけではないが、記述の裏に厖大な知の集積があることがよくわかる。記述の中に、文献が引用されているが、それ以外の記述に於いても、たくさんの文献を渉猟し読んでいることが推測できる。

 2018年が明治維新から150年ということで企画されたもので、当然、過去を振り返るのだが、現在に対する鋭い問題意識をもって振り返るので、記述は過去と現在が響き合う。

 第一四章と終章が、全体のまとめとして有意義である。維新以降の歴史が、現在ともつながり、敗戦が介在していても、変わらないものがあることを示す。それは国家の「酷薄さ」であり、「むごさ」であったし、また変わらぬ「精巧な機械のように合理的に行政を処理できる組織としての官僚」であった。それらが引き起こす災厄のなかで捨てられていった人々。

 姜さんは、そういう人々への共感を示し、同時に知識人と言われる人々の「無力」を記す。

 たしかに、わたしが若い頃の知識人は躍動していて、あるべき世論を創り出していたように思う。しかし今、知識人は、一方では国家に組みするようになり、他方、知識人達の国家への影響力、社会全体への影響力は大きく減じている。

 本書は、近代150年の歴史と現在に、どのような影があったのかを探索し思索する、姜さんの旅をしるしたものだ。

 あまり難しくないので、通読することをすすめたい。

 

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『みぎわ』64

2024-11-13 19:15:25 | 

 無教会派のクリスチャン、浜松聖書集会の方々が毎年刊行している『みぎわ』が届いた。仕事が立て込んでいたため、しばらく机の傍らに置いておいたのを、やっとざっと読みとおすことができた。

 巻頭は、故溝口正先生の文章が並べられていた。溝口先生が語っていたこと、書いていたこと、生前、何度か先生から同じ話を伺っている。溝口先生は、心から平和を望んでいた、そしてそのために全力を尽くされていた。

 一切の妥協をみずからに許さない、強固な意志を持っていきておられた。

 その、いわば同志の皆さんが、それぞれ文を書いている。わたしはクリスチャンではないので、聖書の解釈についてはよくわからない。しかし多くの方が、主体的に聖書に向かい熟考する姿が、行間から浮かび上がる。

 この世界に生きていると、さまざまな事件が起きる。それらをクリスチャンの立場から何とか解き明かそうと試みる論稿があった。「この世的精神に抗して」である。「こういう現実を前にして、キリストの福音は何を語りうるか」を考えるのだ。

 あのジェノサイドが繰り広げられているガザで、治療に当たる医療従事者、そしてガザで起きていることを報じるジャーナリストの姿に、筆者は「神の支配、神の国を見る」。そして「イエスの復活」に関する文献を紹介しながら、「イエスの復活」を証明する直接的なものはないこと、したがって、「イエスの復活は、それを信じるか信じないかは、単なる頭の中で納得できるか否かの問題ではなく、自分の実存を賭けての生き方の問題」であると論じる。これについては、クリスチャンではないわたしも同感である。イエスは十字架刑により亡くなった、しかしイエスは復活した、と言われる。しかしそれは、常識的にはあり得ない、あり得ないが故に、クリスチャンは、それをおのれの「実存を賭けて」信じるのである。そうでしかあり得ない。

 「プーチンと一体化したロシア正教」を、筆者は「この世的キリスト教」とする。また、「この世での武力や経済力や人々の人気や数の力を用いて、この世での栄光、覇権の追及こそが、人が求めるべきもっとも価値あるものだとの信仰のようなものです。それは裏返せば、真理の権威だとか真実の追求だとか道義の力だとかいったものの尊重は、この世で負け犬の遠吠え、理想主義者の幻想だとして捨てて省みない姿」を「この世的精神」とする。

 そして「イエスの復活」を信じるとは、「この世での敗北を恐れない」ことだとして、文を閉じている。忌むべき現実をどう理解し、その現実が大きな重しとしてのしかかってきても、「敗北を恐れない」という意志、それは溝口先生も持っていたものだ。

 敬虔なクリスチャンは、謙虚に、しかし強い意志をもって生きる。たとえば、山のハム工房ゴーバルとして、あるいはデンマーク牧場で福祉に従事しながら。

 『みぎわ』を通読して、共通する精神は、「~と共に」である。「~」には、神(イエス)、クリスチャン、そして「みんな」が入る。もちろんクリスチャンではない、「わたし」も入る。

 

 

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