この本も、ぜひ、ぜひ読んで欲しいと思う。素晴らしい本だ。新大久保で生まれ育った著者は、新大久保の路上でおこなわれるヘイトスピーチにノン!を突きつける。
著者・加藤は、そうした現在の動きを根底から捉えるために、1923年9月を振り返る。そこには、軍や警察、そして一般庶民による朝鮮人虐殺があった。この本に紹介されているそれぞれの事件はおぞましく、活字を追う眼をそこで停止したくなるほどだ。だが、事実は事実として、きちんと視なければならない。
ボクは、静岡県に於ける在日朝鮮人の歴史を調べ書いたりしているから、そして大杉栄・伊藤野枝・橘宗一虐殺について調べたりしているから、もちろん関東大震災に於ける朝鮮人虐殺は知っているし、山田昭次さんの本も読んでいる。
だが、この本は、過去の歴史的事実を明らかにするという視点だけではない、著者の脳裏には、常に現在のヘイトスピーチの問題がある。現在の問題を理解し、解決しようとして、そのために歴史の襞に分け入っている。まさに歴史研究の大道を行っている。
ボクはこの本を読んで、教えられたことがいくつかある。まず1923年の虐殺の前、メディアが朝鮮人を「不逞鮮人」として、書きたてていたようなのだ。
1923年9月に至る数年間も、日本の新聞は毎日のように「不逞鮮人の陰謀」を書きたてていた。
そしてプロレタリア作家の中西伊之助の「朝鮮人のために弁ず」(『婦人公論』1923年11月12月合併号)を引用する。
爆弾、短銃、襲撃、殺傷、ーあらゆる戦慄すべき文字を羅列して、所謂不逞鮮人ー近頃は不平鮮人と云ふ名称にとりかへられた新聞もありますーの不逞行動を報道しています。それも新聞記者の事あれかしの誇張的筆法をもって。
そして今も、週刊誌や新聞などが、中国や韓国への敵愾心を煽っている。その書き方に、ボクはやはり中国や韓国への蔑視を感じる。他国を批判すろとき、たとえば欧米のどこかの国を非難する時の書き方とは、絶対に異なる。
さらに政治家・石原慎太郎の、「三国人」発言。外国人に対する蔑視と威嚇を含んだ、いやそれを前面に出した演説など。
1995年、阪神淡路大震災が起きた時、ボクは、関東大震災における朝鮮人虐殺を想起した。真剣に心配した。しかしそういう事態は起きなかった。ああそれでも歴史は進歩したんだなあと思い、ホッとした記憶がある。
だがその頃は、現在のような反韓、嫌韓の思潮はなかった。メディアによる同調もなかった。だが今はある。
首都直下型地震が想定されるなか、東京は、もう一度あの歴史を繰り返すのだろうか。
これもこの本で教えられたことであるが、2005年アメリカ南部に上陸したハリケーン・カトリーナが莫大な災害を引き起こした。そのさなか、白人の「自警団」により、黒人に銃撃が加えられたり、非白人が略奪しているという流言飛語が飛び交ったりしという。1923年9月の事態が、アメリカで再現されたのだ。
加藤は、こう記す。
週刊誌やネットでは「韓国」「朝鮮」と名がつく人や要素の「間」化の嵐が吹き荒れている。そこでは、植民地支配に由来する差別感情にせっせと薪がくべられている。「中国」についても似たようなものだろう。
その「間」化に抗するものとして、加藤は「共感」を対置する。彼らは「「共感」というパイプを必死にふさごうとする」、だからこそ、1923年9月、「名前をもつ誰かとしての朝鮮人や中国人や日本人がそこにいた」こと、そこには国籍を超えた「共感」があったこと、それを加藤は示そうとしている。
本書で紹介されているレベッカ・ソルニット『災害のユートピア』(亜紀書房)は、注文している本だ。これも絶対に読まなければならない。
あの歴史を、絶対に繰り返してはならぬ。
著者・加藤は、そうした現在の動きを根底から捉えるために、1923年9月を振り返る。そこには、軍や警察、そして一般庶民による朝鮮人虐殺があった。この本に紹介されているそれぞれの事件はおぞましく、活字を追う眼をそこで停止したくなるほどだ。だが、事実は事実として、きちんと視なければならない。
ボクは、静岡県に於ける在日朝鮮人の歴史を調べ書いたりしているから、そして大杉栄・伊藤野枝・橘宗一虐殺について調べたりしているから、もちろん関東大震災に於ける朝鮮人虐殺は知っているし、山田昭次さんの本も読んでいる。
だが、この本は、過去の歴史的事実を明らかにするという視点だけではない、著者の脳裏には、常に現在のヘイトスピーチの問題がある。現在の問題を理解し、解決しようとして、そのために歴史の襞に分け入っている。まさに歴史研究の大道を行っている。
ボクはこの本を読んで、教えられたことがいくつかある。まず1923年の虐殺の前、メディアが朝鮮人を「不逞鮮人」として、書きたてていたようなのだ。
1923年9月に至る数年間も、日本の新聞は毎日のように「不逞鮮人の陰謀」を書きたてていた。
そしてプロレタリア作家の中西伊之助の「朝鮮人のために弁ず」(『婦人公論』1923年11月12月合併号)を引用する。
爆弾、短銃、襲撃、殺傷、ーあらゆる戦慄すべき文字を羅列して、所謂不逞鮮人ー近頃は不平鮮人と云ふ名称にとりかへられた新聞もありますーの不逞行動を報道しています。それも新聞記者の事あれかしの誇張的筆法をもって。
そして今も、週刊誌や新聞などが、中国や韓国への敵愾心を煽っている。その書き方に、ボクはやはり中国や韓国への蔑視を感じる。他国を批判すろとき、たとえば欧米のどこかの国を非難する時の書き方とは、絶対に異なる。
さらに政治家・石原慎太郎の、「三国人」発言。外国人に対する蔑視と威嚇を含んだ、いやそれを前面に出した演説など。
1995年、阪神淡路大震災が起きた時、ボクは、関東大震災における朝鮮人虐殺を想起した。真剣に心配した。しかしそういう事態は起きなかった。ああそれでも歴史は進歩したんだなあと思い、ホッとした記憶がある。
だがその頃は、現在のような反韓、嫌韓の思潮はなかった。メディアによる同調もなかった。だが今はある。
首都直下型地震が想定されるなか、東京は、もう一度あの歴史を繰り返すのだろうか。
これもこの本で教えられたことであるが、2005年アメリカ南部に上陸したハリケーン・カトリーナが莫大な災害を引き起こした。そのさなか、白人の「自警団」により、黒人に銃撃が加えられたり、非白人が略奪しているという流言飛語が飛び交ったりしという。1923年9月の事態が、アメリカで再現されたのだ。
加藤は、こう記す。
週刊誌やネットでは「韓国」「朝鮮」と名がつく人や要素の「間」化の嵐が吹き荒れている。そこでは、植民地支配に由来する差別感情にせっせと薪がくべられている。「中国」についても似たようなものだろう。
その「間」化に抗するものとして、加藤は「共感」を対置する。彼らは「「共感」というパイプを必死にふさごうとする」、だからこそ、1923年9月、「名前をもつ誰かとしての朝鮮人や中国人や日本人がそこにいた」こと、そこには国籍を超えた「共感」があったこと、それを加藤は示そうとしている。
本書で紹介されているレベッカ・ソルニット『災害のユートピア』(亜紀書房)は、注文している本だ。これも絶対に読まなければならない。
あの歴史を、絶対に繰り返してはならぬ。