浜名史学

歴史や現実を鋭く見抜く眼力を養うためのブログ。読書をすすめ、時にまったくローカルな話題も入る摩訶不思議なブログ。

『逍遥通信』第七号

2022-10-30 21:19:06 | 

 『逍遥通信』は、北海道札幌の雑誌である。私は、外岡秀俊追悼号しか知らないけれども、文芸雑誌のようである。

 外岡秀俊追悼の第七号は、高校の同期生や朝日新聞で同僚であった者などが執筆しているが、外岡を追悼しながらも、執筆者や社会、朝日新聞社の動きなどを描いていて、素晴らしい内容となっている。

 昨日届いたが、私はすでにほとんど読んでしまった。

 午後、私は畑に行く日常生活を送っているが、この本を読むために、今日は畑に行きたくないなあと、はじめて思った。

 北海道でこうした雑誌が発行されていることに、北海道の文化レベルの高さを感じる。

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読書の秋

2022-10-30 21:19:06 | 読書

 今2冊の本を読み進めている。一冊は斎藤真理子『韓国文学の中心にあるもの』(イースト・プレス)である。昨日図書館から借りてきた。最初から読むのではなく、終章から読みはじめた。終章には、柴田翔の『されど、われらが日々』が取り上げられていたからだ。この本を、僕は高校生か大学の頃に読んだ。詳細は覚えていないが、とても感動した記憶がある。今日、書庫をさがしたがなかった。僕は『贈る言葉』も感動した記憶がある。

 斎藤のこの本は、買った方がいいかと思った。韓国の小説をたくさん読んでいるわけではないが、こういう記述を読むと、もっともっと読まなければ、と思う。

 今まで見てきた 韓国の小説の多くが、 歴史が負った傷をさまざまな視角から描いている。または個人の傷に潜む歴史の影を暴いている。それだけ満身創痍の歴史だったともいえるし、韓国の文学者たちがそれを描くことを大事にしているからでもある。そして何より、歴史を見つめるのは現在と未来のためだという感覚を多くの作家が共有している。

世の中は初めから欠陥だらけである。歴史も傷だらけである。それを一人が一人分だけ、一生かけて、修復に修復を重ねて生きていく。(293頁)

 確かに韓国の歴史は、「満身創痍」のそれであった。植民地支配、南北分断、朝鮮戦争、独裁政権・・・・韓国の文学者はそうした歴史を見つめる、それも現在と未来のため、だというのだ。引用した末尾の2行は、私に生きる力を与えてくれた。

 もう一冊は、今日届いた。『逍遥通信』第七号である。「追悼 外岡秀俊」とある。分厚い。『週刊金曜日』の植村隆さんの「ヒラ社長が行く」で紹介されていたので、読みたくなって発行人の澤田展人さんに連絡した。すぐに送っていただき、読みはじめたのだが、これがまたいい。

 というのも、もと朝日新聞記者の外岡秀俊さんと僕は、ほぼ同時代を生きてきた。そして同じような時代の空気を吸い、現実に対してプロテストする姿勢をもった。プロテストの方法は独自ではあるが、プロテストの精神は共通する。この本には、北岡さんの高校(札幌南高校)時代の同期生がたくさんの文章を寄せている。僕はまずそれらを読んだ。外岡秀俊のことを書きながら、その時代の空気が描かれていた。僕の高校時代の雰囲気と共通するものがあった。この頃の高校生は、背伸びしていろいろな本を読み、話し合った。そして相互に刺激し合っていた。

 僕は良い時代を生きてきたと思う。その頃考えたこと、書物などで学んだことなどが、今も僕の内部に生きていることを感じる。

 この二冊、とても、とてもよい本である。今は亡き外岡秀俊さんの本も、である。

 

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利用されない郵便

2022-10-29 19:58:44 | 社会

 郵便配達が土日にはなされなくなった。それだけではなく、投函してから配達されるまでの期間が長くなった。

 私は他人との連絡は、メールも使用するが、主にハガキをつかっていた。そういう習慣をもっていたので、たくさんの絵ハガキを購入して持っている。

 しかし最近、土日の配達がなくなり、投函から配達まで時間がかかるようになってから、郵便物が極端に減ったような気がする。

 それまでは、毎日わが家のポストには何らかの郵便物が入っていたが、最近ほとんど見かけなくなった。毎週木曜日に配達される『週刊金曜日』など、購読している雑誌だけとなっている。個人的な手紙はほとんどなくなっている。

 人びとが郵便をつかわなくなっているのである。

 手紙は文化であると私は思う。

 歴史の研究でも、個人がだした書簡が重要な史料として重要視される。メールは便利ではあるが、味気ない。

 

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美術表現への弾圧

2022-10-29 12:44:12 | 政治

 何とまあ、息苦しくなったもんだ。表現の自由とは、みずからが表現しようとする要素ー現実、歴史、未来に対する批評、喜怒哀楽・・・・・そうしたものを様々な手段をつかって一定のかたちに表現し、それを他者に公開する、それにいかなる制限も加えられないということである。

 ところが、近年の国家や自治体は、みずからの価値観から「検閲」をおこない、みずからの価値観を絶対化し、それにあわない作品を排除するようになった。

 地方自治体の正式名称は、地方公共自治体である。「公共」がつくのである。地方公共団体の行為は、首長の価値観に沿って行われるものではない。とりわけ芸術表現に対して「検閲」を行い、それを排除することはあってはならないことだ。

 しかし東京都はそれを行った。

 私は、それを担当した東京都の公務員の低劣さを感じる。公務員は宣誓をしなければならない。その文面は、こういうものである。

宣誓書

 

私は、ここに、主権が国民に存することを認める日本国憲法を尊重し、且つ、擁護することを固く誓います。
私は、地方自治の本旨を体するとともに、公務を民主的且つ能率的に運営すべき責務を深く自覚し、全体の奉仕者として誠実且つ公正に職務を執行することを固く誓います。
   年  月  日
              氏名        印

 日本国憲法の尊重擁護が必ずはいっているはずだ。首長を尊重擁護するなんてどこにもない。

 さてそのバカな、東京都公務員の低劣な行為を紹介する。まず『美術手帖』のHPから。

東京都人権部が飯山由貴の映像作品を検閲。上映禁止は「極めて悪質」

東京都⼈権部が飯山由貴のアート作品を検閲か。小池百合子都知事の関東大震災朝鮮人犠牲者追悼式典への態度も影響した可能性

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共同通信記者の叛乱

2022-10-28 21:18:40 | メディア

 言行一致ということばがある。他者に信用される人は、言行が一致している、と私は思ってきた。だから、私が尊敬をはらい、信用する人は、言行一致の人間である。

 この社会には、言行不一致の人が多い。ある人は、わたしたちの前では反権威的・反権力的な言辞を弄し、権力を持つ者の前では素直なワンコとなっていた。そういう人を多く見てきた。そしてそういう人たちは「出世」していった。

 残念ながら私は、そういうことができない。どんな人に対しても、おかしなことがあればおかしいといってきた。だから疎まれることもあったし、嫌われることもあった。希望しない転勤を二度も体験している。こういう転勤を「不意転」という。「出過ぎた杭は打たれない」が、私の信条であった。

 だが私のような人は少ない。長いものには巻かれろ、という風潮が、やはり強い。

 メディアは、しかし、そうであってはならない。権力や権威を監視する役目をもつメディアは、そしてその関係者は、おかしいことはおかしいと声を挙げなければならない。実際、メディアはそうしたことを多かれ少なかれ、日々行っている。そうでないと報道は成りたたない。

 だが近年、メディアは、権力や権威の監視の役目を抛擲して、それらにすりよるようになっている。

 ウソをつき、日本の「民主主義」の破壊し続けた安倍晋三、その葬儀にメディアの代表者が「哀悼の念」を示すために参列した。東京新聞、朝日新聞は参列しなかった。当然のことである。世論を分断し、国葬なんかするべきではないという意見を持つ人が多かったし、紙面でも反対や疑問を呈していたから、である。言行一致、それは信頼を保つことにつながるのだが、毎日や共同、時事などは参列した。

 私は、共同の社長であった原寿雄さん、記者の齋藤茂男さんの本を読んで、ジャーナリズムとは何か、メディアの役割とは何かを学んできた。今も齋藤や原の本は書棚に並んでいる。もし彼らが生きていたら、当然安倍晋三の国葬に反対しただろうし、社として参列すべきではないと主張しただろう。

 共同はなぜ参列したのか、なぜ朝日や東京新聞のようにしなかったのか、と思っていた。

 共同通信社の内部に、そうした意見を持った記者がいたようだ。

 この記事だ

 

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【本】金平茂紀『筑紫哲也 『NEWS23』とその時代』(講談社)

2022-10-28 13:26:52 | 社会

 よき時代であった。筑紫哲也が「NEWS23」のキャスターだった時代のことである。あの頃、いろいろなものが、健全であった。言論界も今のようなフェイクニュースも目立つことなく、理性のフィルターを通った議論があった。

 筑紫については思い出がある。

 筑紫は『週刊金曜日』の編集委員でもあった。同誌が誕生する頃、当時の編集長であった和多田進から頼まれて、浜松市で講演会をおこなったことがあった。本多勝一と筑紫が講演した。しかし私はこの講演を聴いていない。本多が狙われているという情報にもとづき、警察署の警備課長とともに会場の外で警戒していたからだ。講演会終了後の懇親会で本多や筑紫と話したことがあったが、どんなことを話したかはすでに記憶はない。

 私は『朝日ジャーナル』という週刊誌も購読していた。筑紫がその編集長になったとき、その編集方針の大きな変化に驚いたことがあった。政治などの難しい問題だけではなく、雑誌の記事が大きく広がっていった。まさに文化や人が取り上げられるようになった。

 朝日新聞記者からTBSのニュース番組のキャスターとなった筑紫。毎日視聴していたわけではないが、この時代ニュースへの信頼があったことを思い出す。

 著者はこの『NEWS23』に長い間関わった。その時代のことを書きのこそうとしたのだろう。なぜならその時代は、先に記したようにNEニュースへの信頼感もあり、またジャーナリズムとしてのメディアが機能していたからだ。もちろん今はそうではない。

 『NEWS23』に関わった人たちのことが書かれている。あるいは筑紫と関係した人のことも。読んでいて、多くの人たちが亡くなっていることが印象に残った。

 筑紫の編集方針は自由であった。スタッフに自由な動きを保障した。だから、スタッフは積極的に色々なテーマをとりあげた。

 筑紫がスタッフの自由な意思や行動に任せながら、以下のような原則を示していた。

 1)力の強いもの、大きな権力に対する監視の役割を果たすこと 2)少数派であることをおそれないこと 3)多様な意見や立場を登場させることで、この社会に自由な気風を保つこと

 ジャーナリズムとしては、至極当然の原則である。

 しかし言うまでもなく、この原則は今や風前の灯となっている。力の強いもの や権力者が勝手きままなことをしていても何の責任も問われないこと、多数派が横暴な振る舞いをしていること、そして多様な意見が抑えられていること。まったく逆な風潮が社会を覆っている。

 そうした風潮に抗するメディアがなくなってきたことが一因であろう。

 だが、本書を読んで、筑紫時代の『NEWS23』のDNAをもった人びとが、今もかすかに生き残っていることがわかった。彼らに少しの希望を託そうと思う。

 本書は、筑紫のことを描きながら、まだ「戦後民主主義」が生きていた頃の時代を映し出している。同時代を生きていた私としても、なつかしい時代である。

 良い本である。図書館から借りたものである。

 

 

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統一教会に関する重要記事

2022-10-28 07:46:09 | 社会

「田舎のセックス教団」と見られていた旧統一教会の野望を40年前に見抜いていた、米「フレイザー報告書」の慧眼

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あゝ怖い

2022-10-27 08:46:37 | 社会

 統一教会と自民党は一体となって選挙戦をたたかう。そして統一教会は、そのなかで獲得した名簿を使い、カネを集める。怖い統一教会、怖い自民党。自民党に選挙協力すると、名簿が統一教会にわたって、新たな金づるとされてしまうようだ。

「6千件の名簿獲得」「信者獲得に使う」 旧統一教会の支部が昨年衆院選の選挙報告で「本音」

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点検

2022-10-27 08:25:56 | 社会

 昨日の『東京新聞』コラムで、齋藤美奈子さんが旅行サイトの投稿の間違いを指摘している。福井県の小浜湾に面したホテルのレビューで、「琵琶湖を臨める立地で素敵です」との書き込みがあったそうだ。そこから琵琶湖なんか臨めるわけがない。完全に誤った情報である。

 ネットには、そうした誤った情報が乱舞している。事実を写した写真をうたうものでさえ、捏造されたものがアップされている。

 ネットで流布される記事には警戒が必要だ。

 東京の大きな出版社の企画に協力して、ある項目を担当した。その校正が送られてきたとき、様々なチェックを受け、いくつかには詳しい説明をつけて送り返したことを覚えている。きちんとした会社の雑誌や新聞は、厳しい校閲を経て公刊される。

 時に怪しい記事が送られてくることがある。その多くはTwitter投稿である。私は、しかしそうした記事はまったく信用しない。

 情報をきちんと確認して、判断することが求められているし、また自分自身もあやふやな情報は流さないことが肝要である。

 

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日本人の変質

2022-10-27 08:18:30 | 社会

 常識的に考えて、こんなことをいい大人がするわけがない、というような事件が散見される。

 別の立候補予定者かたり「旧統一教会と関係」ビラ配布の市議、謝罪・辞職へ

 この人は「日本維新の会」の政治家のようだ。この政党から立候補する人士にはそうした不祥事を起こす人が多い。

 この市議も、「このようなビラを配ったのは間違っていた。男性にも謝罪し、責任を取りたい」と話したそうだが、事件を起こす前に、そうしたことはしてはならないことだと、なぜ思い至らなかったのだろうか。

 私には不思議でしようがない。常識的にするはずがないというような行動を、人びとがとりはじめた。日本社会は、根本から変化し始めているように思われてならない。

 

 

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ロシアのウクライナ侵攻のこと

2022-10-25 09:24:25 | 国際

 ロシアによるウクライナ侵攻の戦場は、ロシア国内ではない。集合住宅、病院、学校、そして電力関係の社会的インフラなど、ウクライナ国内にあるそうしたところが攻撃され、また多くのウクライナ人が殺されている。

 ロシアのそうしたところはウクライナ軍によって攻撃されたり破壊されたりしていない。

 1931年9月18日、日本の関東軍は「満洲」支配を目的に、謀略事件により戦争を開始した。柳条湖事件である。南満州鉄道線路を少しだけ爆破し(そのあと、列車はそこを通過している)、それを中国側のしわざだとして攻撃を開始し、翌年3月、「満洲国」をでっちあげた。これは明らかに戦争ではあるが、日本はこれを「事変」とした。第1次世界大戦以後に国際法となった「戦争の違法化」を意識したからだ。

 戦場はいうまでもなく、中国東北部であった。日本国内に住む人びとは、戦争を身近に感じることなく日常の生活をしていた。国内に、銃弾や砲弾は飛んでこないから、戦争を意識しないで、人びとは生活できたのだ。

 それと同様に、ロシア・プーチン政権は、ウクライナ侵攻を、戦争ではなく「特別軍事作戦」という呼称をつかっている。明らかに戦争なのに、である。ロシアの人びとは、1930年代初期の日本人と同様に、戦争を意識しないで暮らしていた。

 しかし、ウクライナでの戦況が思わしくないことから、プーチン政権は戦時動員をかけ、予備役の動員を図った。戦争がロシア国民の日常に入り込み始め、ロシア人は戦争を意識するようになった。

 そして突然昨日、次のようなニュースが流れてきた。「ウクライナが汚い爆弾を使用する可能性」があると、ロシア軍が言い出したのだ。

 戦場は、ロシアではなく、ウクライナである。放射能の危険性は、チェルノブイリ原発事故で充分に認識しているウクライナが、放射能で国土を汚すことはあり得ない。

 ロシア軍は、戦況の悪化を挽回すべく、ウクライナの領土で「汚い爆弾」を使用するつもりなのか。

 プーチン政権になってからのロシアが、旧ソ連邦構成国にたいして行ってきた数々の行為を振り返って欲しい。ロシアの行動を是とすることはできないはずだ。

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杉田某の記事

2022-10-24 18:50:56 | 政治

 『東京新聞』、がんばっている。

 中傷ツイートに「いいね」で名誉毀損判決の杉田水脈氏 総務政務官続投でも「いいね」なの?

 この記事も見逃せない。

杉田水脈議員が敗訴 高裁で「いいね」が名誉感情を害する意図があると認められた理由

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国会の質問、山添拓が切れ味鋭い!

2022-10-23 21:00:03 | 政治

切れぬ癒着 統一協会接点 党として調査せよ

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ウクライナ侵攻のこと(続)

2022-10-23 07:52:55 | 国際

 nationとしての「国」が軍事攻撃された場合、そこに住む人々が武力抵抗することは理解できることだ。

 第二次大戦中、アメリカの植民地であったフィリピン(独立が約束されていた)に日本軍が上陸したあと、日本軍の蛮行に対してフィリピンの人びとは武力をもったゲリラ的な戦いで日本軍を苦しめた。

 先に指摘した日中戦争では、中国の人びとが日本軍に激しく抵抗した。私が発見した軍事郵便の中に、こういうものがあった。日本軍が行軍する道路を、中国の人びとが短期間のうちに膨大な土砂で塞ぎ、日本軍の行軍を阻止しようとしたのである。その軍事郵便には、図まで添えてあった。私はそれをみたとき、中国の人びとの激しい抵抗精神を発見した。

 人びとが住む家屋、学校、病院・・・・・生活をしている場、生活に必須なものが破壊され、人びとが殺されるとき、黙って侵略軍に降伏するのが正しいのだろうか。降伏するという選択も、私は排除しない。どうするのかは、その地の人びとが判断することなのだ。

 ロシアによるウクライナ侵略においては、ウクライナに降伏を勧めることは、すなわちロシアの言うことを聞きなさい、ということになる。日本など他国の人びとがそう諭そうとすることを、はたしてウクライナの人びとはどう捉えるだろうか。

 ウクライナの戦争が、米露の「代理戦争」とよばれることがある。ウクライナは、アメリカやNATO諸国の命令のままに抗戦しているのだろうか。ウクライナの人びとは、アメリカなどの指令に基づいてロシア軍と戦っているのだろうか。私はそうは思わない。そのことばは、ウクライナの人びとは主体性をもっていない、ということを意味する。nationとしての「国」が他国に破壊されるとき、それに対して人びとが憤激し侵攻してくる軍隊に抵抗する、それは間違いだと言えるだろうか。

 侵攻しているロシア軍の戦意と、ウクライナの人びとの戦意、戦意を支えるのは正当性である。前者に戦意がないのは、正当性を持たないからだ。プーチンによる動員がかかったとき、多くのロシア人が国境を超えたことに、それが現れている。後者にはみずからのnationとしての「国」を守るという正当性がある。

 私には、ロシアを擁護する気持ちはない。プーチン政権後に国内外で行われた様々な謀略事件、軍事侵攻をみれば、である。stateとしてのロシア国家は、決して平和的な・民主的なものではない。それは、ソ連時代でも、さらにさかのぼってロシア帝国時代でも、である。だからといって、nationとしての「ロシア」を嫌うわけではない、何度も記すが、ロシア文学、ロシア音楽は、私にとって大切なものだ。

 ロシアのウクライナ侵攻を正当であると考える人々は、東部ウクライナの問題を挙げる。侵攻前、東部ウクライナで、どのようなことが起きていたのか、私は知らない。彼らのいうように、もしそこでのウクライナ側の攻撃を止めるための行動ということなら、ウクライナの軍事施設のみに対する攻撃など限定的であったはずだ。そうではなかった。

 プーチン政権は、旧ソ連構成国のなかで、政権のいうことをきかない国に対して、ウクライナと同じことをした過去がある。ウクライナ侵攻も、そうした線上にあると、私は思っている。

 

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ウクライナ侵攻のこと

2022-10-22 12:20:53 | 国際

 ロシアによるウクライナ侵略が終わらない。過去の歴史からみると、ロシア帝国、ソ連とも、みずから軍隊を派遣し侵攻した場合、一度も勝利していないという。逆に、侵略された場合は、侵略軍を追い出しているという。ナポレオン軍、ナチスドイツ軍がその例である。そういう歴史を振り返ることのないプーチン政権は、いずれ崩壊することだろう。

 この侵略戦争、即停戦すべきであるが、その場合、ロシア軍はウクライナ領からまず撤退すべきであろう。クリミア、東部ウクライナの帰属については、ロシアへの一方的帰属を破棄し、侵略軍であるロシア軍がいない状態で、国際機関の監視の下で住民による投票がおこなわれなければならない。

 さてロシア軍の侵攻を是とする意見もある。ゼレンスキー政権をネオナチ政権だとして、ウクライナへの攻撃を正当化するのだ。しかしこれは、某国でネオナチ的な人間(集団)が政権を掌握していたなら、他国は某国を攻撃して良いという論理になる。私はゼレンスキー政権をネオナチ政権だと思っていないが、そうした論理を認めれば、安倍政権下の日本など権威主義的な国家は他国に攻撃されてもよい、ということになる。

 stateとしての「国家」とnationとしての「国」をきちんと分離して認識すべきであり、ロシア軍の侵攻はウクライナ「国家」への攻撃でもあるが、攻撃の実態をみれば、人びとが歴史を刻んできた生活の場やそこに住む人びと、つまり「国」に対する攻撃となっている。「国」に対する攻撃に、人びとが憤激し抵抗闘争を行うことは理解できる。したがって、ウクライナの抵抗、抗戦を、アメリカの差し金だと理解することは間違っていると思う。

 1930年代の日中戦争でも、蒋介石政権を支えるために欧米諸国による「援蒋ルート」が構築され、ソ連も支援をしていた。日中戦争を、日本と欧米・ソ連の代理戦争であったという考えは存在しない。中国の人びとが主体的に、日本軍の侵略に抗する抵抗闘争を展開したことは明らかである。(つづく)

 

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