浜名史学

歴史や現実を鋭く見抜く眼力を養うためのブログ。読書をすすめ、時にまったくローカルな話題も入る摩訶不思議なブログ。

きらめく星座

2015-12-31 19:55:04 | 日記
 今日、井上ひさし作、こまつ座の上演による「きらめく星座」を、Eテレでやっていた。井上の作品は、素晴らしいの一言である。

 アジア太平洋戦争が始まる前の戦時体制下、浅草のレコード店に集う人びとの日々を描いたもので、井上作品らしく、楽しく、時に緊張し、その時代の本質をきちっと捉えたもの。

 井上作品は、演劇で見るのが一番いいが、戯曲としての完成度も高く、読むだけでも面白い。

 最後、このレコード店は統制により閉店を余儀なくされるが、その主人夫妻がその後長崎にいくという台詞から、長崎に落とされる原爆を想起させる、というのもよい。

 「大日本帝国」を飾り立てていた虚飾が、つぎつぎと剥がれていく。それが虚飾であることが、日常生活を生きているそのなかで自然に認識されていく、そうでなければいけない。

 しかし今は、そうではないなあと思いながら、見ていた。

 今年最後の日。戦後の歴史を暗転させる一年だったといえよう。この戯曲で描かれたような時代を、日本人はまた体験することになるのだろうか。
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政治的思惑が先導

2015-12-31 16:55:08 | 政治
 「従軍慰安婦」に関する問題で、日韓両政府が手打ち式を行ったという。

 戦後、日本政府は1945年に終わった戦争に関わることで、国家責任をとったことは一度もない。日本の被害を受けた国や地域に対しては、責任をとって謝罪し国家賠償をしたことなんか一度もない。日本政府が、戦争で受けた損害に対して国家賠償を行った例は、軍人・軍属だけであり、それ以外についてはカネは出すが、責任をとったわけではない。

 韓国が戦争被害に関して蒸し返す、ということを指摘する人がいるが、そうではなく蒸し返すのは日本の政治家たちである。国家責任をとらなくても客観的に日本が侵略し多大な犠牲を強いたのだから、アジア太平洋諸国・地域に謝罪するのは当たり前で、日本政府もしばしば謝罪をする。

 ところが、保守的な政治家たちが、「日本は悪いことはしていない」とか、せっかく謝罪をしてもそれを打ち消す発言をして、謝罪をなかったことにしてしまう。安倍首相はじめ彼のグループがそうした人びとである。

 安倍首相は、日本政府として、日本国家として謝罪し、国家責任をとり、賠償金を払おうとしているわけでは絶対にない。おそらくアメリカ政府からうるさく言われたのだろう、韓国と仲良くするには「慰安婦」問題に何らかの決着をつけなければならない、それをやりなさい、などと言われたのだろう。

 安倍首相としても、戦時下に行われた日本国家の蛮行を今後も追及され続けるのはかなわん、とも思ったか、アメリカ政府の命令に従ったわけだ。

 だからこの問題を韓国政府と話し合っていても、日本政府は「慰安婦」本人や彼女たちを支援している韓国挺身隊協議会にたいして事前に話もしなかったようだ。もし本当にこの問題を解決したいのなら、まず本人や支援している人びとの声を聞くべきであった。

 韓国の朴政権も、決して良い政治をしているわけではない。保守的な政治家が牛耳っている政権だから、心から解決しようとするのではない。

 要するに、今回の一連の動きは、政治的思惑でこういう結末になったのである。したがって、この問題は、日韓両政府が「決着」したとしても、解決されないのではないか。

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【本】松本創『誰が「橋下徹」をつくったか』(140B)

2015-12-30 17:29:49 | 
 橋下府政、橋下市政、メディアの露出度は高いが、実際は何もしていない。橋下府政は、財政赤字を減らすといっていたのに、赤字は増え続けた。大阪都構想も、批判される通り机上の空論で、もし実現したら大阪市民には大きなマイナスとなる。

 首長として、橋下は労働組合を押さえつけ、教員の自主性を奪い、大阪の博物館を荒らし回り、要するに民主主義を敵視し、独裁的な政治をひたすら展開した。

 ボクは、「橋下」政治がいかなる事態を引き起こしているかいろいろ調べてみた。冷静にみれば、何の功績もない。あるとするなら、専制的な「統治」の実験場として大阪が使われたことくらいか。

 しかし、大阪の人びとは橋下が好きだ。おそらく大阪の人は、橋下がいかなる政治を行ったかには興味関心はないのだ。テレビに出ている橋下さんが、いつものようにまくしたてている、なにものかを攻撃している、それだけでいいのだ。

 橋下を政治家に仕立てたのはテレビメディアだ。この本の著者、松本氏はテレビと橋下が共鳴して出来上がった独特の「場」が、テレビを通じて市民に届けられたことにより、橋下なるものがつくりあげられた、という。
 
 松本氏は、テレビメディアの仕事をしている人々は、当然のごとく一定水準以上の見識をもって報道の場に臨むべきだと思っているようだが、少なくともテレビメディアの従事者は、ふつうの市民と同じ目線で、同じようなことを考えている人びと、つまり「大衆」なのだ。

 その「大衆」は、橋下の政治が具体的にどういうものであったか分析なんかしないし、知ろうともしない。面白ければよいのだ。テレビ従事者もテレビを見ている人も同じ。松本氏は、テレビ従事者がきちんと批評、評論などができないといけないと考えているようだが、それを求めることは今や無理だと言うことを知るべきなのだ。

 テレビ従事者(放送記者も含めて)も、怖いものは怖いのだ。たとえば石原慎太郎の記者会見、そこにいる記者は皆おとなしい。コンピュータを前にして何を話すかを打ち込んでいるだけ。下手な質問すれば、石原に怒鳴られる。だから静かだ。
 橋下も同じ。橋下の気に入らないことでも質問すれば、ねちねちと攻撃される。「君子危うきに近寄らず」である。
 メディア関係者、ジャーナリストの矜持など最初からもっていないから、平気だ。権力に弱く、権力から頭を撫でられれば嬉しくて仕方がない。権力者からボクは重宝されているんだと喜ぶ。

 テレビメディアの問題をついてはいるが、それは無いものねだりとしか言いようがない。

 メディアのなかを浮遊する人びとに、きちんとした見識を持ちなさい、といっても無駄な時代に、ボクたちはいるのだ。

 
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【本】study2007『見捨てられた初期被曝』(岩波書店)

2015-12-29 17:04:38 | 社会
 これは、日本近現代の歴史の中で、軽視され、踏みにじられてきた「いのち」の問題だ。

 ボクはこの本も、そしてもちろん著者も全く知らなかった。発売は今年6月。知ったのは11月だ。著者であるstudy2007さんが亡くなったという知らせを、あるメーリングリストで読んだからだ。

 study2007さんは、原子核物理学の研究者だ。本名は知らない。彼は、ずっと本名ではなく、study2007で通している。この本についてもだ。

 彼の死因は癌だ。厳しい闘病生活の中で、この本に記された内容が書かれた。彼の指導をした教官も、癌で亡くなった。そして大学院時代に指導してくれた助手の先生も、同様に癌で亡くなった。
 研究する上で、被ばくは織り込み済みだ。だからできるだけ被ばくしないように、研究施設は厳しく被曝量が統制されている。しかしそれでも彼や彼の指導教官らは、癌になった。微量の被ばくでも、癌を発症してそれが原因で亡くなる・・そういう事実を彼は十分に知っている。

 癌との闘病生活の中で、彼は病院に行く。そこで癌で苦しむ人びとを見る。彼は特に子どもとその親たちをみつめる。心と体の痛みに耐える子どもたち、そして癌になったことの原因をみずからの責任であるかのように責め続けながら看病する親たち、を。
 
 みずからが癌を発症していること自体苦痛であるのに、そういう親子の姿を見るのも苦しい。

 2011年3月11日、東日本大震災。原発には多重の防護があるから「絶対に」安全だと言っていた電力会社、政府、学者たち。しかし、あっという間に、原発は過酷事故に。大量の放射能がまき散らされ住民たちに降りかかった。

 ところが、「絶対に」安全だという架空の作り話を本当に信じていたために、住民たちの避難について、政府も、電力会社も、自治体も、学者たちも誰も考えていなかった。

 住民たちは、被ばくした。被ばくを軽減するような方策は立てられなかった。
 本当なら、被ばくしてしまった住民たちの被ばくの状態をきちんと調査し、さらに被ばくが重ならないように、また被ばくが健康破壊の引き金にならないように、政府、自治体などは、渾身の対策を講じなければならなかった。

 だが、被ばくの状態を調査もしない、被ばくした地域で産出された食物を食べさせる、そして被曝量の基準を危険な方向に引き上げる、そういうことを堂々とやる。
 放射線業務従事者の被ばく限度は年間20ミリシーベルトとされているが、福島では「100ミリシーベルト以下の場合、被ばくと発がんの因果関係の証拠はない」と、学者がいう。

 study2007は、そうした現実に対して、人間的な怒りをもつ。みずからがもつ知識を動員し、そして様々な情報を集め分析し、初期被曝が「見捨てられた」事実を示しながら、どうすれば初期被曝を避けることができるかを考えた。

 それがこの本だ。

 study2007さんについては、名前は勿論年齢その他も何も分からない。しかし、study2007さんの生き方、人間としての誠実さを追体験するために、ボクはこの本を買い読んだ。

 あなたの意思と、あなたの人間としての真摯な研究を、学ばせてもらいました。ありがとう。
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【本】那須田稔『シラカバと少女』(木鶏社)

2015-12-26 21:02:23 | 
 猫と生活しているSさん推薦の児童文学だ。今日、図書館から借りだして読み終えた。素晴らしい本。

 静かで、淡々と話は進んでいくが、そのなかで戦時下のソ「満」国境の有様が浮かび上がる。

 「ぼく」とミンチュウという中国人(ひょっとして朝鮮系かな)の少女との出会いと別れを描く。そしてその短い期間の出会いと別れではあるが、そこにきちんと、舞台となったところの歴史的時間と空間が書き込まれる。

 時期は冬。雪に覆われたところだ。したがって舞台の背景は白。それもさらさらとした白だ。だが「ぼく」とミンチュウが生きるその場所は、さらさらとしてはいない。もっと重い、重い時空が覆い被さる。その下で、「ぼく」とミンチュウを中心とした子どもたちが、きわめて自然にとけ合っていく。

 とけ合った子どもたちの時空に、その時代がもつ重い時空がのしかかり押しつぶそうとする。それをかわしながら子どもたちはみずからの世界を生きようとするのだが、最終的にはペストという伝染病がその世界を破壊する。

 ボクは、この作品を映像にしたいと思った。おそらく映像にするなら、そこには詩的な世界が描かれるはずだ。その詩的な世界を、戦時下という歴史的現実が切りとろうとやってくる。しかし子どもたちは、その詩的世界をまもり続ける。

 詩的な世界に、歴史的現実が入りこみ、再び詩的世界が回復する。その詩的世界とは、子どもたちがふつうに生きる世界だ。

 映像にしたら、素晴らしいと思う。

 ぜひ読んで欲しい。那須田さんは、浜松市在住の児童文学作家。
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日記

2015-12-25 22:30:39 | 日記
 今日は一日静岡で仕事。帰途、毎年いただくカレンダーを入手。今年は浮世絵。豪華なカレンダーだ。感謝。

 ことば、人を撃つことばをどう創造することができるか。考えなければならない。

 帰宅したら『芸術新潮』。漫画をよまないボクにとっては、江口寿史という人は知らない。見たら、かわいい少女の漫画を書く人だ。まあ読んでみるか。

 『中江兆民全集』を古書店で購入。定価は知らないが、全15巻で約9000円。来年は兆民に挑戦する。

 読まなければならない本がずらりと並ぶ。

 news番組がないので、ショパンのノクターンを聴く。 

 

   
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支配層が喜ぶ判決

2015-12-25 08:01:06 | その他
 今回の判決に携わった裁判官は、支配層が信頼を置くエリートたち。エリートは、出世することが目的であり、他には何もない。支配層が喜ぶ判決を書くために、福井地裁に送り込まれた。


高浜再稼働認める、一転「新基準に合理性」 福井地裁 

2015/12/25 『中日新聞』朝刊

 福井地裁(林潤裁判長)は二十四日、関西電力高浜原発3、4号機(福井県高浜町)の運転を差し止めた四月の仮処分決定を取り消した。関電の異議を認めた。二基の地元同意の手続きは既に完了しており、来年一月下旬にも再稼働する。住民側はこの決定を不服として二十五日、名古屋高裁金沢支部に抗告する。

◆仮処分取り消し

 林裁判長は、原子力規制委員会の新規制基準について四月決定から一転「合理性がある」と判断した。四月決定で問題とされた基準地震動(耐震設計の目安となる揺れ)の策定方法などにも不備はないとした。

 その上で、高浜原発の基準地震動に関し「極めて厳しく想定されており、信頼に足る」などと支持した。各施設の耐震安全性についても「基準地震動に対して余裕を持っている」とする関電の主張を採用した。

 さらに、住民側が主張した津波や土砂災害の危険性に関しても関電の対策を「合理的」と評価。炉心溶融が起きた後の対応などについては「安全性に欠ける点があるとはいえない」として、「判断するまでもない」と退けた。こうしたことから「住民らの人格権が侵される具体的危険があるとはいえない」と結論づけた。

 仮処分は昨年十二月、福井や京都など四府県の住民九人が求めた。福井地裁の当時の樋口英明裁判長(名古屋家裁に異動)は四月、関電の想定を超える揺れの地震で炉心が損傷する危険があるとして、再稼働を認めない決定を出し、関電が異議を申し立てていた。

 二基は二月に新規制基準に適合。今月三日に高浜町の野瀬豊町長が、二十二日には西川一誠知事が再稼働に同意した。関電は3号機は来年一月下旬、4号機は二月下旬の再稼働を目指している。

 福井地裁は二十四日、住民側が関電大飯原発3、4号機(同県おおい町)の運転差し止めを求めた仮処分の申し立てについても「規制委の審査が続いており、再稼働が差し迫っているとはいえない」として却下した。大飯原発は規制委の適合審査中で、住民側は名古屋高裁金沢支部に即時抗告するか、審査に適合した段階で再び仮処分を申し立てるかを検討する。

◆「福島」学んだのか

 <解説>

 福井地裁の異議審決定は原子力規制委員会の新規制基準の合理性を認め、原発の再稼働を進める政府方針を後押しした。四月の仮処分決定が果たした行政に対するチェック機能は後退し、憲法が定める「司法権の独立」も揺らぎかねない。

 決定は「過酷事故が起こる可能性が否定されるものではない」と言いながら、住民側の不安とは向き合っていない。関電と規制委に最新の科学技術を反映し「高いレベルの安全性を目指す努力」を求めはしたが、これは両者に責任を転嫁したにすぎない。

 最新の科学技術に照らすだけなら、裁判官は専門家である規制委の判断を追認するしかない。東京電力福島第一原発事故を経験した裁判官に求められるのは、科学技術では明らかになっていない部分を見通し、現在の基準の合理性を判断する姿勢だ。

 憲法七六条は「すべて裁判官は、その良心に従い独立してその職権を行い、この憲法及び法律にのみ拘束される」と定める。地元同意の手続きが一気に進む中で出した判断は、住民側弁護団が言うように「再稼働の日程に配慮した」と疑われかねない。

 国民の過半数が原発の再稼働に反対する一方で、政府と電力会社、地元自治体が一体となった原発回帰の動きが加速する。司法は福島原発事故から何を学んだのか。国民の不安の声に耳を傾けない限り、その存在意義は失われていくだろう。

 (福井報道部・高橋雅人

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安保体制の歴史

2015-12-23 22:50:13 | 近現代史
 岩波講座の日本歴史第19巻に、吉次公介の「アジア冷戦のなかの日米安保体制」という論文があり、それを読んだ。いろいろ参考になったが、吉次は、当然のごとく、多くの人の研究をもとに論じているのだが、それらを読んでいて、参考にされている文献にあたらないと、にわかには信じられないという箇所が多々あった。やはり、一次史料にさかのぼらないといけないと強く思った。それは、山辺健太郎の常に言っていたことであるそうだが。

 アメリカは当初日本防衛を負う意思はなかったようだ。日本防衛は、1960年の安保改定で入れられたわけだが、そこから「安保ただ乗り」論や片務性が論じられるようになり、また「安保効用論」が池田勇人政権で主張されるなど、安保体制に関わる議論が、歴史的な経過の中でつくりだされてきたものであることがわかった。

 しかし在日米軍は日本防衛のために存在しているのではないことは、最近発売された春名幹男の『仮面の日米同盟』(文春新書)にも明確に記されていることであり、岸政権が安保に「日本防衛」を書き込んでから、アメリカの対日要求(対米あるいは「自由主義陣営」への貢献や日本の「防衛」強化)が強化されてきたように思える。となると、やはり岸の安保改定は、アメリカのための改定ではなかったかと思えてしまう。

 吉次は、「冷戦期のアメリカにとって日米安保体制とは、アジア戦略上の要請から日本に基地を確保し、できるだけ自由に使用する権利を手にするための仕掛け」と結論づけているが、では冷戦期以後はどうなのか。そんなに変わっていないのではないかと思う。ただ、「アジア戦略上」ではなく「世界戦略上」となっているくらいか。



 
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【本】中塚明『歴史家 山辺健太郎と現代』(高文研)

2015-12-23 00:07:28 | 近現代史
 直接ボクは、山辺健太郎という歴史家は知らない。しかし、岩波新書の『社会主義運動半生記』、『日韓併合小史』、『日本統治下の朝鮮』はいずれも読み、今も書庫に大きな顔をして鎮座している。というのも、ボクの朝鮮認識は後二者の本によって開眼させられたからだ。まだまだ近現代の朝鮮史に関しての本がない時代、この本はきわめて学問的に、そして人間的に近現代朝鮮史をまとめたものであったからである。それ以後、朝鮮史にかかわる本は、書庫にあふれんばかりになっているが、今でもボクの朝鮮認識をスタートさせた本として、新書ではあるが、堂々と鎮座しているのだ。

 『社会主義運動半生記』は、山辺が1926年の浜松日楽争議に参加していたことを知っていたので、それに関心を持って買ったものだ。

 歴史研究者から山辺健太郎の名は何度も聞いているが、しかし山辺自身について書かれた本は読んだことがなかった。

 中塚明という、山辺と同じ学問的な、且つ人間的な研究者が、山辺という人間の姿やその学問について紹介したこの本は、歴史研究者が読むべき本となるだろう。

 読み進めていて、力強さが伝わってくる。それは二重三重の力である。まず山辺という人の生と学問のそれであり、中塚の山辺を紹介したいという熱意であり、また一次史料にもとづく研究を推進してきた自信としてのそれが、読む者を引っ張るのだ。

 山辺は大学なんか出ていない。独学である。しかし独学ではあっても、その独学による知的水準は、はるか高く、とても仰ぎ見られることができないほどだ。

 「学問に学歴はいらないが、努力はいる」という山辺のことばはとても重い。歴史に関しては、ボクも独学であり、まさに「努力」を積み重ねてきて今がある。そしていま現在も、ボクは「努力」「努力」の日々である。「努力」せざるを得ない状況に追い込みながら、みずからに鞭を打っている。

 日本近現代史を研究する場合、日朝関係史を抜きに考えることはできないという山辺がもった認識を、ボクも持つ。司馬史観は、朝鮮に対する、あるいは台湾に対する大日本帝国による植民地支配の視点がまったく欠如している。それでは、日本近現代史を描いたことにはならない。

 その視点をボクはいつも主張している。今年の夏も、熊本でそれを具体的に話してきた。

 ボクの歴史研究は、山辺からも、中塚からも学び、そのなかで作られてきた。具体的な内容は記さないが、この本を読むことによって、近現代史の研究とはいかなるものか、そして一次史料の重要性を認識できるはずである。

 歴史を学ぶものにとっては、必読である。

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財政赤字?それって何のこと

2015-12-22 10:32:12 | 政治
 「財政赤字?それって何のこと?」と、権力の周辺にいる人びとは思っているだろう。カネなんか、国民からどんどん巻き上げればいいんだ、と考えていることは、様々な政権関係者の言動を見れば明らかであろう。

 とはいえ、一般庶民は、細かいことなんか気にしない。財政赤字を大きく拡大し、実質的には何のプラスをもたらさなかった維新の橋下府政・市政であっても、多くの府民市民は橋下を支持し、橋下が去るときには涙を流している人もいたとか。

 昨日、「新・映像の世紀」をみた。ヒトラーの時代を映したフィルムが流されていた。多くのドイツ国民は、嬉々としてヒトラーを支持し、崇拝までしていた。よく「庶民はだまされた」のだというが、権力者はだまそうとしただろうが、庶民にとってはそんなことは関係ないのだ。庶民にとって、政治は遠い話なのだ。日常生活と大きく乖離したことにすぎない。

 庶民は、日常生活を生きるのである。その日常生活は日々死ぬまで延々と営まれるものであって、それこそ「切れ目」なく続くのである。その「切れ目」のない日常生活に少しの変化があっても、ほとんどの人は気がつかないし気にもしない。少しずつ増税されるなら、庶民は怒らない。とにかく急激な変化を避けながら徐々に変えていけばよいのだ。TPPも同じ。庶民は永遠に気付かない「茹でガエル」なのだ。

 東京オリンピック、当初は3000億円で運営される、なんて言っていたが、ここにきてものすごいお金がかかることが報じられ始めた。そうなることは予想されたことだ。何でもそう。公共事業を始めるときは最初は少額だが、最終的には莫大なカネがかかっている。庶民が気にするのは最初だけ。補正予算でどんどんふくれあがっても、それに気付くのは少数の人。

 権力につながる人びとは、それでどんどん肥え太る。しかし庶民は気付かない。

 さて、オリンピックに多額のカネがかかるという報道が増えてきた。しかし多額のカネが投じられて、オリンピックは準備され運営されるのだろう。財政赤字?国民から巻き上げればいいんだよ、という声が聞こえてくる。権力につながる人びとには、たとえ消費税をたくさん納めても、別途カネが入っていくことになっている。

 庶民は、こうして名だけの「主権者」、「主人公」のままで、日常生活を生きるのだ。

http://www.nikkan-gendai.com/articles/view/news/172124/1

http://buzzap.jp/news/20151219-tokyo-olympic-2trillion-yen/
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【本】深見浩一郎『〈税金逃れ〉の衝撃』(講談社現代新書)

2015-12-20 18:22:21 | 社会
 今年7月に出た本だ。刊行と同時に購入してあったのだが、なかなか読めなかった。

 副題に「国家を蝕む脱法者たち」とあるが、そうした者たちを糾弾するのではなく、法制度をはじめ冷静に〈税金逃れ〉の制度的欠陥や実態を記している。抗した問題を考える際に必要な知識が提供されていて、上滑りにならないようにしている。

 ボクにとってはよい勉強になった。

 新自由主義政策に基づく税のフラット化を通じて所得税、法人税の累進性が削がれた結果、高齢化社会に向けての社会保障の充実は、消費税、相続税に依存する比重が大きくなっている。しかもその負担増を受け止めるべき富裕層と多国籍企業は優遇等による政策誘導にも関わらず、国内での課税を巧みに逃れている。この結果、そのような手段をとれない勤労庶民と国内中小企業だけが社会保障の負担を強いられる傾向にあり、消費税増税などによって、この傾向はますます拡大している。(213頁)

 こうした傾向に、著者は富裕者や多国籍企業への正当なる課税を提唱する。

 
 具体的な事例でわかりやすい内容であった。

 この本で教えられたこと、それは、OECDが、「トリクルダウン理論」を否定する報告書を、昨年12月に出していたことだ。

http://www.oecd.org/tokyo/newsroom/inequality-hurts-economic-growth-japanese-version.htm

 OECDにアクセスしたら、「法人税収の減少から、個人納税者への負担が一層高まっている」という報告があることも知った。

http://www.oecd.org/tokyo/newsroom/corporate-tax-revenues-falling-putting-higher-burdens-on-individuals-according-to-oecd-japanese-version.htm

 ネットで入手できる重要な報告にはきちんとアクセスしなければ・・・・。
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こういう人間はどこにもいるが・・・

2015-12-20 08:38:48 | その他
 ゴマすり人間はどこにでもいる。ゴマすり人間がいわゆる「出世」をする。少しでもそういうことをしないと、有能な人でも「出世」していない。

 しかし、下記の文に記されている人は、あきれかえるほどの悪い奴だ。

http://lite-ra.com/2015/12/post-1801.html
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竹田某の放言

2015-12-18 17:30:34 | 社会
 明治天皇の玄孫をウリにしている竹田某。ほとんど勉強もせずに、放言を垂れ流している。今回も、恥ずかしい放言をしているようだ。

 http://buzzap.jp/news/20151218-takeda-tsuneyasu/
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どの面下げて・・・?

2015-12-18 17:15:37 | メディア
 新聞に軽減税率が適用されるのは、どうみてもおかしい。それなら書籍や雑誌も同類ではないか。

 だが、『読売』や『産経』の御用新聞社は、軽減税率適用のために動き回ったという。

 何のために、軽減税率適用なのか。かのアベ御用新聞の『産経』の編集委員が、なんと!!!!

 「新聞がないと、政権の批判もできない」

 だって。


 http://lite-ra.com/2015/12/post-1792.html

 『産経』は厚顔無恥。

 『週刊金曜日』で植村隆氏がこの間の『産経』とのやりとりを記しているが、「従軍慰安婦」について『産経』こそが書いているのに、それについては頬被りをして、『朝日』や植村氏を批判していた。みずからの記事については何と“不問”。

 報道機関として、どーよ!といいたい。
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内視鏡検査

2015-12-18 17:06:22 | 日記
 10月、消化器の調子がよくなかったので、胃カメラをやった。異常なし。胃液が少し多いけどとてもきれいだといわれた。ひょっとしたら大腸かも知れないと思い、大腸の内視鏡検査を、11月中旬で予約をした。しかし都合が悪くなり、今日になった。

 人生で2回目。画面で見せてもらったが、とてもきれいで何の問題もなかった。

 この年まで、かくも健康できちんと働いていることに感謝である。こうした身体に生んでくれた母親に感謝せねばと思った次第。
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