浜名史学

歴史や現実を鋭く見抜く眼力を養うためのブログ。読書をすすめ、時にまったくローカルな話題も入る摩訶不思議なブログ。

ことばと音楽

2024-02-29 21:28:28 | 日記

 音楽を聴く。今は、ヴィヴァルディの「四季」、その前はチャイコフスキーのヴァイオリン協奏曲だ。

 母の死から、農作業や庭仕事のように身体を動かすことをしていないときには、ボーッと音楽を聴くことが多くなった。

 そんな状態の中、『週刊金曜日』最新号が届いた。最近、本が届いても落ち着いて読むことはできなかった。『世界』、『法と民主主義』、『選択』、『週刊金曜日』、そして寄贈されてきた本、眼が活字をとらえない。だが今日届いた『週刊金曜日』を読んでいたら、活字となったことばの力を感じた。

 まず「悪が勝つのはひとえに善人が何もしないから」。新進気鋭の学者である三牧聖子さんの「政治時評」のなかのことばだ。その通りだと思う。目の前にある現実を素直にことばにうつしたというものだろうが、心を撃つ。

 次は、土井敏邦さんのドキュメンタリーについて記された文に、これも事実を活写したことばだ。福島とガザに共通することは、

 人間としての尊厳を奪われていること。そして責任者が誰一人裁かれていないこと。

 別に福島やガザに限らない。あらゆるところで、この二つが渦巻いている。どうしたら、人間の尊厳が守られ、「悪事」を働いた政治家などの責任が問われることになるのか。

 そして次は古川美佳さんの山口泉さんと洪成潭さんとの対談を筆記した文。古川さんの『韓国の民衆美術』は素晴らしい本であるが、その古川さんのまとめた文だ。

 私は、現実に絶望感を抱いている。絶望感は、さらに無力感を引き出す。あらゆるところに目を凝らして見つめても、絶望感しか湧いてこないというのが、私の精神状況である。

 古川さんは「希望」を解体して、「希」(まれ)な「望」とする。そうか「希望」というのは、本来「まれ」なものなのかと、教えられる。

 しかし、古川はこう書く。山口さんも洪さんも、

日本や韓国で美化されてきた国家暴力を暴露するだけではなく、それを成り立たせている人間の本性への深い絶望に真っ向から分け入り、その暗闇で見出される一瞬の光という「希望」(それは暗さの陰りを帯びた白い光)を探り出そうとしてる

と。「絶望」の中に、「希望」の光を見つけることを語ったというのだ。絶望しているだけでは、何も前に進まない。教えられることばだ。

 ことばの力を感じる。ことばの力が、私の心の中にエネルギーとして注ぎ込まれるような気がする。

 読まなければならない。

 

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破壊坊主

2024-02-27 17:13:24 | その他

 私の実家の近くにある寺には、父の墓がある。檀家が少ないため、父が亡くなってから後に、住職がほかの寺に移った。寺の世話人たちは、近くの寺の住職に兼務をお願いした。

 しかしこの住職がとんだ食わせ物であった。

 私が幼い頃、父の年忌の際、その坊主は、参列者に袈裟の新調を求めたりした。幼心にもこの坊主に対する不信感が芽生えた。親戚の法事に参加したとき、住職が仏教の話をされたのを聞き、これが法話というものだとはじめて知った。その坊主は、法話を一度もしたことがなかった。

 その坊主の金儲け主義にあきれた世話人がその坊主の兼務をやめさせようとしたら、ばく大なカネを要求されたために、断念したということを聞いている。

 その坊主は亡くなったが、金儲け主義は受け継がれているようで、遂に私は、父の墓を「墓じまい」することにした。

 母は10数年前から姉の住む関東近県に住んでいた。そこで亡くなったことから、葬儀はそこで近親者のみで行った。葬儀の際には、「おぼうさんどっとこむ」に依頼して、曹洞宗のお坊さんを招いた。とても良い坊さんで、清廉さが感じられる方であった。

 さて、その墓に母の遺骨を納めようと考えたとき、世話人からは、もしこの寺に遺骨を納めるならこちらで葬儀をもう一度やらなければならないと言われていると伝えられた。その坊主が取り仕切る葬儀は、多くの坊主を従えた大規模なものだ。そんなカネはない。

 世話人に聞くと、あまりにカネ、カネ・・・というので、檀家が去って、檀家数が百以上あったのに、今はその7割程度になっているという。

 その寺は、私の祖先が土地を寄進してつくったものだ。だから父は「居士」となっている。「居士」となると、寺に関係する費用はいつもかなり求められる。それでも我慢してやってきたが、もう出るしかないと決断した。

 破戒僧という言葉があるが、この坊主は「破壊僧」としかいいようがない。カネ儲けのために寺を悪用し、その寺から檀家を追い出し、そして出ていった檀家の多くは神道へと変わったそうだ。

 仏教を破壊する坊主。まさに「破壊僧」である。こんな坊主に母の戒名をつけてもらわなくて、ほんとうに良かった。

 仏教界は猛省せよと言いたいが、それぞれの寺院はそれぞれが宗教法人となっているから、指揮統制はできないとのこと。今後、主に人口減少を理由として日本の寺院は減っていくであろうが、それに拍車をかけているのが、こうした「破壊僧」である。そうした「破壊僧」の話しは、あちこちにころがっている。

 もう墓はもたない、そのほうが子孫は困らないはずだ。寺院に墓があるとカネはとられる。そして土地は売れるが、墓は売れない。

 遺骨は、散骨などの自然葬が最善だと思う。

 

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考えなければならないこと 知らなければならないこと

2024-02-25 19:58:22 | 近現代史

 1月6日に緊急入院した母は、2月7日に亡くなった。100歳であった。長寿だから大往生ではないかということばが、ある種の慰めとして私にかけられたが、私にとって母は、私と同じ世界に存在し続けていて欲しい存在であった。だからそういうことばは、まったく慰めにならなかった。

 母は、姉の住む関東近県にいたことから、葬儀が20日となった。死者が多すぎて、火葬ができなかったのだ。葬儀が終わり、母の遺骨をこちらにもってきたが、私にとってはつらいことで、今も心は沈鬱である。だからなにごとかを書こうという気が全く起きなかった。

 いまこのブログを書く気になったのは、この文を読んだからだ。その中の、

歴史学そのものが、人間の足跡と尊厳を簡単に消すことができる暴力装置であることへの自覚の希薄さがある

 このことばに、私は強い衝撃を受けた。歴史学の末端に連なっていた(過去形とする、おそらくもう研究の現場には行かないから)私は、歴史学が「暴力装置である」という指摘に唸った。

 歴史叙述は、史料をもとにした事実に基づき厳密に行われなければならない、しかしその時に、知っていなければならないことを知らないままに叙述してしまえば、それは「暴力装置」となる。

 たとえば、戦後補償に関して、ドイツはきちんと謝罪と補償をおこなった「優等生」であるかのように書かれる。その言説は、最近もある新聞でもみかけた。だが、私はドイツの戦後補償は、純粋に反省的なものではなく、政治的な色彩が濃いものとみていた。ドイツという国民国家を、敗戦から再び立ち上げていくためには、周辺諸国や民族に、「一定の」(一定の、という限定をつけなければならない。ナチスドイツが行ったすべての蛮行にたいしてドイツは頭を下げたわけではない)謝罪と補償が必要であったのだ。

 そしてその言説は、今や「暴力装置」と化している。

 私はドイツの学者・ハーバーマスが、イスラエル国家によるパレスチナ人へのジェノサイドを批判せず、それを支持するかのような発言をしたことを知って驚いた。ハーバーマスの著作は何冊か読んでいたからだ。

 ハーバーマスらの言動のその背景を、私はこの藤原辰彦氏の文で知った。藤原氏は、戦後ドイツが、ユダヤ人国家であるイスラエルに謝罪し賠償を行い、あたかも戦争犯罪を大いに反省しているかのようにみせながら・・・ここで藤原氏の文を掲載する。 

1952年には、イスラエルと西ドイツの間で「ルクセンブルク補償協定」が調印され、西ドイツはイスラエルに人道的な補償として30億マルクを物資として支払うことになる。

 それは、西側社会への復帰を急ぐ西ドイツが「人道的な国家」へ生まれ変わったことを世界に示すとともに、イスラエルにドイツの工業製品を届けることによって戦争で荒廃したドイツ経済復興も可能にした。その物資の中には、「デュアルユース(軍民両用)」という形で利用される軍事物資が入っていた。

 それだけでなく、西ドイツ首相アデナウアーは、1957年から、国交不在のなかでイスラエルの軍事支援を極秘で進めた。機関銃から高射砲、対戦車砲、戦車、潜水艦を含んでいたともいわれる。これはドイツ憲法に違反するが、明るみに出るまで長く続けられた。

 「イスラエルは西ドイツとの接近と和解によって中東紛争を生き延びることができた」といわれる。つまり、西ドイツから送られた軍事物資によってイスラエルはパレスチナの人々の家を奪って占領し、人々の命を奪った。イスラエルの軍事化に貢献することは、西ドイツ側にとっても軍需産業を再興させ、経済を復興させるという目的にかなうものだった。日本の「朝鮮特需」とも重なるものがある。

 シオニズムによるパレスチナ人迫害の背後に、ドイツがいたのだという事実、それを知らずに、ドイツを戦後補償の分野で「善人」として扱うことは、すなわち加害の側に立つことになるのだ。

 私はこの藤原氏の文に、多くのことを教えられた。まさに無知を知らされた。学ぶべきことがたくさんあることを教えられた。

 この文を公表してくれた『長周新聞』にも感謝したい。

 なお『世界』3月号に掲載されている高橋哲哉氏の「ショアーからナクバへ、世界への責任」は必読である。「人間の尊厳」を基軸にした論考は、普遍性をもった批判となっている。

**********************************

 母は、私が高校時代から様々な社会的な活動に参加しても批判めいたことは一度も言わなかった。たとえば、かつての大阪万博の時、大阪城公園で開かれた反戦万国博に参加したいというと、交通費をだしてくれた。ホテルに泊まる金はなかったので、テントの椅子の上で寝た記憶がある。母には感謝しかない。いずれ私も「そちら」にいく、そのとき感謝のことばを直接贈るつもりである。

 

 

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ひとりの死 無数の死

2024-02-15 08:12:18 | 歴史

 胸塞ぎ、心穏やかならず、というのが、いまの私の心情である。活字を追っていても、頭のなかにはいらない。ひとりの死に、私や家族は、その悲しみに沈んでいる。時間があるのに本が読めない、だから畑に行ってひたすらからだを動かす。それによって悲しみを紛らわす。

 ひとりの死に、これほど私の心情が動揺しているのに、眼をパレスチナ・Gazaに向けると、そこには無数の死が引き起こされてる。イスラエルというユダヤ人国家が、その背後にあるシオニズムの目的を最終的に実現しようと、ユダヤ人が135年ローマ帝国によって追放され、その地を離れた後からずっと住んでいた人びとを一挙に虐殺している。

 イスラエル国家のユダヤ人兵士は、笑いながらパレスチナ人を虐殺している。Gazaという狭い地域に閉じこめ、さらに攻撃するから南部に移動せよと命じて、多くの人々をさらに狭い地域に集中させ、そこに爆弾を落としたり、地上からの攻撃を行っている。これを虐殺、あるいはジェノサイドと言うべき事態である。

 まさにナチスドイツがユダヤ人に行ったことを、今、ユダヤ人の国家であるイスラエルが行っているのである。それをアメリカや西側諸国が支えている。

 何ということだ!!

 ひとりの死でもかくも悲しみにくれるのに、Gazaでは無数の死が強制されている。母の死は、ある意味で老衰であるが、Gazaでは意図的な殺人が無数の人びとにたいして行われている。

 イスラエルに、アメリカに、イスラエルの蛮行を支えるすべての国家に、私は強い怒りをもつ。

 

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私利私欲の政治 負担は国民

2024-02-14 17:25:33 | 政治

 自民党がどれほど悪事を働いても、その悪事に協力し、その悪事から利益を得ている者たちは、いつも自民党に票を投じる。

 ふつうの庶民は、日々物価高や健康保険や介護保険の負担にあえぎながら、今度は子育て支援で毎月300円から400円を負担するんだって。おそらくこの額、毎年上がっていくだろう。初年度は3600円、次年度は4800円、その次の年度はきっと7200円・・・・・と、毎年必ず増えていくだろう。

 自民党は、今後ますます、庶民のクビを締めに来るだろう。

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映画「ザ・サウンド・オブ・ミュージック」

2024-02-14 07:38:11 | 日記

 最近、母が亡くなった。子どもたちから、母の思い出が寄せられる。そのなかに、映画「ザ・サウンド・オブ・ミュージック」への言及があった。

 三人の子どもたちは、母の家に行って、何度もこの映画を見せられたそうだ。だから、葬儀の時に、この音楽を流して欲しいという要請があった。

 この映画が封切られたとき、私は母と見に行っている。私自身とても感動した記憶があるが、それを子どもたちに見せていたことを全く知らなかった。確かに、家にはその映画のテープがあった。

 私が知らなかった母の一面を教えられた。

 ほとんどの知人には親がいないのに、長生きした母の死に、私の精神は落ち込んでいる。日に日に心が重くなる。

 その映画のDVDを購入して、見ている。映画の音楽、「ドレミの歌」や「すべての山を登れ」など、今でも口ずさむことがあるほど記憶に残っている。

 この映画について、母が語った記憶はない。おそらく子どもたちには語っていたのだろう。

 

 

 

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「大日本帝国」をひきずる日本の司法・警察

2024-02-13 07:11:29 | 政治

 日本国家は、戦前の「大日本帝国」そのままのレイシズムの国家であることを再認識した。

 それはこの記事を読んだからだ。

 「大日本帝国」は、外国人を監視し、「大日本帝国」に併合した朝鮮半島の人たちをも、常時、治安の対象として監視していた。当時の警察関係の資料、「特高月報」や「〇〇年 治安ノ状況」などをみればすぐに判明する。

 「大日本帝国」が敗れ、特高警察の解体が行われたが、それは公安警察(「警備課」)として今も動き続けている。

 また司法については、「大日本帝国」が崩壊しても、司法を支えた裁判官や検察などの司法官僚は、そのまま生きつづけた。戦後の司法界で出世した者には、戦前の治安維持法事件で活躍した者が多い。

 「司法の独立」が教科書などに記されているが、近代以降の日本の歴史のなかで、司法が独立していたことはない。戦前においては、天皇制国家権力の重要な構成部分として、戦後はアメリカという国家の忠実な犬として、「独立」などとは無縁の国家機関として君臨している。

 近代以降、日本は、一度たりとも「民主主義国家」になったことはない。「民主主義」は外被でしかない。

 

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自民党議員はこんなヤツばかり

2024-02-12 21:36:24 | 政治

 自民党議員というのは、カネの亡者、嘘つきなど、悪人ばかりが集まる政党のようだ。

盛山文科大臣と旧統一教会めぐり 選挙で“推薦状” 同席者が証言「覚えていないのはおかしい」 “電話かけ”「多い日は200件ぐらい」

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減らしすぎ

2024-02-12 08:51:56 | 政治

 新自由主義が席捲して久しい。新自由主義とは、要するに、カネ儲けしやすい社会であり、富裕者や資本家がより富を蓄積できる社会であり、公共の財産を資本家が山分けする社会であり、国民が納める税金を資本家が分捕る社会である。

 そういう社会を、なぜか庶民は支持する。マスメディアも、それを支える。

 その結果、庶民にとっては生きにくい社会となり、格差がドンドン進んで行く。

 新自由主義のなかに、自治体職員を減らし、減らすことによってできるカネを産業界に分配するというものがある。

 その結果、正規の自治体職員は減らされ、臨時の非正規職員が増えていった。正規職員は、限界まで減らされた。

 だから、大きな災害が起きると、自治体の仕事は、当たり前だが、麻痺する。自治体職員に過重な負担がおおいかぶさる。

 庶民が、知らず知らずに、新自由主義に賛同し、新自由主義政策を推進する政治家を国会に送り、みずからのクビを絞める。

 災害が起きると、それがはっきりと現れる。

 北陸大地震の報道のなかに、そうしたニュースがある

 

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利権社会

2024-02-12 08:51:56 | 社会

 利権社会は、もちろん教育界にもはびこっている。校長などになりたい者が、あらゆるところに付け届けをする姿は、静岡県でも同じ。のちに管理職になった人同士の話が、そういう志向をいっさいもたない私の前でおこなわれたが、元校長の〇〇のところを訪問したり、付け届けをおこなった、などが話されていたことを思い出す。

 多くの教員のなかから管理職に抜擢する手段として、県会議員などの口利き、学閥、スポーツ関連、力のあるPTA会長等がつかわれるが、その際に金品が動くのは当たり前のこと。

 名古屋市だけでは、絶対にない。教員の社会は、最初から薄汚れている。

金品授受「20年以上」も、名古屋市教委が苦渋の説明 河村市長「絶対許さん」

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死ぬということ

2024-02-07 20:13:00 | 社会
 最近私の周りで亡くなる人が増えている。
 死のことを熱心に考えたのは思春期のころであった。みずからの生に根源的な疑問を抱き、自分自身の生に価値はあるのかなどと思い悩んだことがあった。
 私は人生論や文学を読みふけり、まさに煩悶の時期をおくった。
 以前にもかいたことがある気がするが、亀井勝一郎の本に「悔いなき死」ということばを発見した。私は「悔いなき死」を迎えるためには、「悔いなき生」を生きることだと結論を出し、その後はあまり悩まなくなった。
 しかし今、私は具体的な死を前にしている。親戚に不幸が続き、今や母が入院している。
 死は生の終末期に訪れるものであるが、死を迎える本人は、死の当事者としてただ死を死ぬだけである。死にゆく者は死の世界へ跳躍していくか、踏みとどまって生を続けるかのどちらかしかない。
 死の問題とは、死を迎える者の周辺にいる者たちの問題ということになるのではないか。
 死はすべての生きとし生けるものがいずれかの時期に必ず直面することである。
 近年、終活ということばが一般化しているが、私もそれを始めようとしている。死を迎えても家族や子孫に迷惑をかけないようにすることを真剣に考え始めた。
 まず蓄積してきた書籍を処分することから始めるつもりである。さらに墓の問題、遺骨の行方などもある。
 かつては遺骨は寺院にある墓に葬ることが一般的であったが、寺院が思い切り金儲け主義となっていることから、人々は寺院から離脱するようになっている。家制度が成立した近世以降の葬り方から、人々は逃げ始めている。それはここ30年、その間に賃金は上がらず人々の生活が苦しくなっているがゆえに、将来の展望を見出せない人々が金がかかる死後のあり方を変えようとしているということもある。自民党政権が自分たちだけの金儲けに熱心でありつづけた結果であり、寺院からの逃亡は、少子化、貧困化などと同じ原因から生じているといってもよいのではないか。
 安定した生活を望むなら、自民党・公明党政権を倒すしかない。寺院もそうした動きに同調していかないと、みずからの基盤を失うことになるだろう。
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肥え太る自民党議員と年金生活者

2024-02-06 21:24:54 | 政治

 裏金で肥え太っている自民党の議員たち。すでに国会議員はじめすべての自民党議員は、カネのために議員となり、裏金を得ながらいい生活をしている。

 そして年金生活者は、少し年金があがっても、物価上昇には追い付かず、それだけでなく、保険料の上昇でさらに貧しい生活を強いられる。 

年金、年1万1484円実質負担増!金額は上がるも物価上昇には追いつけず

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自民党・公明党政権のもとで、貧しさが増す

2024-02-06 17:02:25 | 政治

2023年の家計調査 マイナス2.6% 去年12月の消費支出も10か月連続マイナスで物価高の影響顕著

「欲しいものなんで買ってくれないの」「全部諦めてしまいたい」子どもの貧困 大人たちができることは

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まだ強行する?

2024-02-05 21:17:48 | 政治

「完璧に失敗」マイナ保険証、国家公務員の利用率4.36%にあふれる憤慨…河野大臣“過去の発言”への批判も再燃

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【本】『現代思想』2月号(青土社)

2024-02-04 10:57:29 | 

 2月号の特集は、「パレスチナから問う 100年の暴力を考える」である。

 今、パレスチナでは、シオニストたちの最後のパレスチナ人掃討作戦が行われている。シオニストたちは、パレスチナの地をユダヤ人の地にしようと長い間企んできた。そのためには、みずからがナチスドイツによってなされたジェノサイドまで辞さないという姿勢である。パレスチナの先住民であるアラブ人をいかなる方法をもっても放逐するというのだ。

 ユダヤ人が、欧米のキリスト教世界で差別迫害され、ナチスドイツによるユダヤ人絶滅政策にさらされたことから、ユダヤ人への同情の念は世界的に共有されているが、イスラエル国家はそれを悪用して、パレスチナの人々にナチスばりの残虐行為を行っている。

 『現代思想』の諸論考は、そうした事態の背景を指摘し、事態がより悪化することのないような方策を探ろうとしている。はじめの方にある栗田禎子の論考には、こうある。

イスラエルという国は基本的に第一次大戦後のイギリスの中東支配政策の一環として建設が開始された入植者国家(その後パトロンをイギリスからアメリカに替える形で1948年に「建国宣言」)であり、建国当初から現地住民(=パレスチナ人)を殺戮・排除して土地を奪い、戦争によってさらに占領を拡大する政策を推進してきた。

 まさにイスラエル建国は、西欧の帝国主義的侵略政策の一環としてなされたもので、その際に、多くのパレスチナ人が虐殺された。帝国主義国家が、植民地支配を行う上で展開していた、あのやりかた、でであった。

 10月7日、イスラム抵抗運動(ハマス)が行った行為は、批判はあるが、抑圧され、閉じこめられ、虐殺されてきたパレスチナ人の苦境と、イスラエル国家の本質、シオニズムの本質を暴露した。栗田も、こう記している。

イスラエルはガザで軍事的には完全な「勝利」(住民の殺戮・難民化とガザ全体の再占領もしくは併合)に向けて突き進んでいるかに見えるが、今回の戦争を通じて自らの侵略的・人種主義的素顔を全世界の前にさらしたことで、道義的には取り返しのつかない敗北を喫しつつあるといえる。イスラエル建国以来の戦争・占領の歴史、シオニズムの正体が世界の市民によって理解された結果、イスラエルへの幻想は急速に失われつつある。その意味で今回の事態はイスラエル「存亡の危機」であるというネタニアフの認識はー軍事的な意味ではなく道義的・国際政治的な意味でーまったく正しいと言えるだろう。10月7日の作戦によってイスラエルの報復を引き出し、シオニズムの歴史を「リプレイ」・「実証実験」してみせたハマスの行動は、その限りでは「成功」をおさめた。

 しかしハマスの行動は、危険な賭けでもある。だからこそ、国際社会は、市民は注視しなければならない。シオニズムのイスラエル国家の蛮行を止めるために。

 『現代思想』2月号は、読む価値が大いにあることを付記しておく。

 

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