音楽を聴く。今は、ヴィヴァルディの「四季」、その前はチャイコフスキーのヴァイオリン協奏曲だ。
母の死から、農作業や庭仕事のように身体を動かすことをしていないときには、ボーッと音楽を聴くことが多くなった。
そんな状態の中、『週刊金曜日』最新号が届いた。最近、本が届いても落ち着いて読むことはできなかった。『世界』、『法と民主主義』、『選択』、『週刊金曜日』、そして寄贈されてきた本、眼が活字をとらえない。だが今日届いた『週刊金曜日』を読んでいたら、活字となったことばの力を感じた。
まず「悪が勝つのはひとえに善人が何もしないから」。新進気鋭の学者である三牧聖子さんの「政治時評」のなかのことばだ。その通りだと思う。目の前にある現実を素直にことばにうつしたというものだろうが、心を撃つ。
次は、土井敏邦さんのドキュメンタリーについて記された文に、これも事実を活写したことばだ。福島とガザに共通することは、
人間としての尊厳を奪われていること。そして責任者が誰一人裁かれていないこと。
別に福島やガザに限らない。あらゆるところで、この二つが渦巻いている。どうしたら、人間の尊厳が守られ、「悪事」を働いた政治家などの責任が問われることになるのか。
そして次は古川美佳さんの山口泉さんと洪成潭さんとの対談を筆記した文。古川さんの『韓国の民衆美術』は素晴らしい本であるが、その古川さんのまとめた文だ。
私は、現実に絶望感を抱いている。絶望感は、さらに無力感を引き出す。あらゆるところに目を凝らして見つめても、絶望感しか湧いてこないというのが、私の精神状況である。
古川さんは「希望」を解体して、「希」(まれ)な「望」とする。そうか「希望」というのは、本来「まれ」なものなのかと、教えられる。
しかし、古川はこう書く。山口さんも洪さんも、
日本や韓国で美化されてきた国家暴力を暴露するだけではなく、それを成り立たせている人間の本性への深い絶望に真っ向から分け入り、その暗闇で見出される一瞬の光という「希望」(それは暗さの陰りを帯びた白い光)を探り出そうとしてる
と。「絶望」の中に、「希望」の光を見つけることを語ったというのだ。絶望しているだけでは、何も前に進まない。教えられることばだ。
ことばの力を感じる。ことばの力が、私の心の中にエネルギーとして注ぎ込まれるような気がする。
読まなければならない。