『現代思想』の臨時増刊号の「安保法案を問う」は、各方面の方々が、それぞれの立場から、成立したという「安保法案」、ボクは「参戦法案」と呼んでいるが、それについて真正面から問題点を提示している。その意味では、教えられることが多い。
未だすべてを読んでいるわけではないが、ひとつとてもひどい文に際会した。それは成田龍一の文である、そのあとに徐京植の「他者認識の欠落」というきわめて重く、また示唆に富んだ文が並んでいるから、その落差は際立っている。
成田と徐の文は、他の二人の文とともに、「歴史から問う」というパラグラフのなかに置かれている。
ところが、成田の文には、主張がない。なぜか。成田は「安保法案」を、正面に据えてまともに捉えようとしていない。今までも成田の文は、たとえば『大正デモクラシー』(岩波新書)などを読んできているが、読み通して、何の読後感も生まれないのだ。「大正デモクラシー」に関する一応の説明はあるのだが、それだけに終始していて、成田が「大正デモクラシー」という時代状況を、自分ではどう考えるのか、主体的に格闘したあとが見られないのである。
今回の「安保法案」についても同様である。徐は、在日という視点から、「安保法案」だけではなく、原発事故や文科省による国立大学の人文社会科学系学部の廃止通達、「安保法案」反対運動、アベの「70年談話」などを俎上にあげて、「日本近代の思想を問題にする時、「他者」(アジア諸民族)認識の欠如は決定的に重要である」という視点から、鋭く切り込んでいる。
ところが、成田は日高六郎編『1960年5月19日』(岩波新書)や丸山真男などの言説を並べて文を組み立てているのだが、何を主張したいのかがまったく霧のなかなのだ。末尾近くに「7月15日の歴史的・現代的位相の認識とそのことに基づく実践が、喫緊の課題である」とは記しているが、成田の文章を読んでいる限り、7月15日という衆議院安保特別委員会で「参戦法案」が強行採決された日への認識とそれに関わる実践の「喫緊」性が浮かび上がってこない。
この雑誌には多くの人々が、「安保法案」に関する論考が載せられているが、それぞれこの法案を真正面から認識し、またみずからの立場から実践しようとしている。
成田の文の特徴は、文を書く人ではなく、文を操る人という評価が適当だろう。
わが家の近くには、天竜川が流れている。大雨もない平常の流れは、穏やかに見える。しかし流れの表面はそう見えるが、流れに入るとその強い流れに抗することはとてもたいへんだ。天竜川に呑み込まれ亡くなった人もいる。成田は、いつも表面だけを眺めて書く。その表面の下には、表面とは異なる位相の流れがあることまで認識が至らない。なぜか、「安保法案」とか、見すえるべき現実と正面から対座しないからだ。
ひろたまさき氏が、『福沢諭吉』を岩波現代文庫で再刊した。その「解説」を成田が書いている。ひろた氏からこの本をいただき読み進めているとこrだが、ボク同様に寄贈を受けた町田の住人から、「何で成田に書かせたのだろうか、ひどい解説だ」という評価を聞いた。
「解説」の末尾に、成田の専門を「日本近現代史」としているが、ボクは日本近現代史の「批評家」とすべきだろうと思っている。
未だすべてを読んでいるわけではないが、ひとつとてもひどい文に際会した。それは成田龍一の文である、そのあとに徐京植の「他者認識の欠落」というきわめて重く、また示唆に富んだ文が並んでいるから、その落差は際立っている。
成田と徐の文は、他の二人の文とともに、「歴史から問う」というパラグラフのなかに置かれている。
ところが、成田の文には、主張がない。なぜか。成田は「安保法案」を、正面に据えてまともに捉えようとしていない。今までも成田の文は、たとえば『大正デモクラシー』(岩波新書)などを読んできているが、読み通して、何の読後感も生まれないのだ。「大正デモクラシー」に関する一応の説明はあるのだが、それだけに終始していて、成田が「大正デモクラシー」という時代状況を、自分ではどう考えるのか、主体的に格闘したあとが見られないのである。
今回の「安保法案」についても同様である。徐は、在日という視点から、「安保法案」だけではなく、原発事故や文科省による国立大学の人文社会科学系学部の廃止通達、「安保法案」反対運動、アベの「70年談話」などを俎上にあげて、「日本近代の思想を問題にする時、「他者」(アジア諸民族)認識の欠如は決定的に重要である」という視点から、鋭く切り込んでいる。
ところが、成田は日高六郎編『1960年5月19日』(岩波新書)や丸山真男などの言説を並べて文を組み立てているのだが、何を主張したいのかがまったく霧のなかなのだ。末尾近くに「7月15日の歴史的・現代的位相の認識とそのことに基づく実践が、喫緊の課題である」とは記しているが、成田の文章を読んでいる限り、7月15日という衆議院安保特別委員会で「参戦法案」が強行採決された日への認識とそれに関わる実践の「喫緊」性が浮かび上がってこない。
この雑誌には多くの人々が、「安保法案」に関する論考が載せられているが、それぞれこの法案を真正面から認識し、またみずからの立場から実践しようとしている。
成田の文の特徴は、文を書く人ではなく、文を操る人という評価が適当だろう。
わが家の近くには、天竜川が流れている。大雨もない平常の流れは、穏やかに見える。しかし流れの表面はそう見えるが、流れに入るとその強い流れに抗することはとてもたいへんだ。天竜川に呑み込まれ亡くなった人もいる。成田は、いつも表面だけを眺めて書く。その表面の下には、表面とは異なる位相の流れがあることまで認識が至らない。なぜか、「安保法案」とか、見すえるべき現実と正面から対座しないからだ。
ひろたまさき氏が、『福沢諭吉』を岩波現代文庫で再刊した。その「解説」を成田が書いている。ひろた氏からこの本をいただき読み進めているとこrだが、ボク同様に寄贈を受けた町田の住人から、「何で成田に書かせたのだろうか、ひどい解説だ」という評価を聞いた。
「解説」の末尾に、成田の専門を「日本近現代史」としているが、ボクは日本近現代史の「批評家」とすべきだろうと思っている。