今日、シネマイーラへ。観客は5人くらい。その前の「あん」はかなりの観客をかぞえていたが、「野火」は少なかった。
言うまでもなく、大岡昇平の作品を映画化したものだ。『野火』を読んだのは高校生の頃だったから、ほとんどあらすじは知らない。だから映画と原作の違いについては、何とも言えないのだが、しかし大岡昇平の作品は、戦争小説であっても、知性が感じられる。だが、この映画には、残念ながら大岡の知性は感じられなかった。
フィリピン戦線は、日本人がもっともたくさん亡くなった戦場だ。多くは餓死だ。もちろん壮烈な戦闘もあった。激しい戦闘の中でバラバラになった日本兵が、極限状態のなか、ジャングルをさまよい歩く。そして飢えをしのぐために人肉を食む。
戦闘の場面といい、人肉を食む場面も、リアルで、ボクは何度も目を瞑った。実際はそうなのだろうと思いつつ、その残酷さを正視できなかった。
映画を見たあとは、みずからの感情が何かしら揺さぶられるのだが、この映画にはそれがなかった。戦場のリアルを描くことが主眼であって、作家大岡昇平の内面の動きのリアルはなかったからだろう。肉体的な苦痛、飢餓、渇きなどは当然であるが、大岡の内面を様々に過ぎっていった、苦悩、煩悶、悲哀・・そういったものが表現されていなかったように思える。
最初の画面、あまりに緑が鮮やかで驚いた。小説を読むとき、何らかの抽象的なイメージを浮かべながら読み進むのだが、大岡の戦争小説、それはもちろんフィリピン戦なのだが、イメージの緑は、こんなに鮮やかな緑ではなかった。この映画の緑のほうが正しいのだろう。その緑が鮮やかであるが故に、よけいに「赤」が浮き立つのだ。
ボクは大岡の原作を読まなければならないと思う。この映画が、大岡の何を強調し、何を無視ないし軽視したのか。
なお、リアルではなかったことがひとつある。それは、兵士たちの姿だ。ボクのイメージは、日本兵はやせ衰えて、幽界からさまよい出るような存在でなければならなかったのだが、兵士のほとんどは、栄養失調にもなっていないような人々だった。
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