浜松市議会で行政区画である区を減らす条例案が可決された。私はこの7区から3区に減らす動きに対して、ずっと前から反対してきた。その一環として、2009年に書いた論文をここに全文掲載する。長文であるが、現在に至る事態を詳細に書いたし、その問題点も記してあるので、興味関心がある方に読んでいただきたい。とりわけこの減区には、SUZUKIのトップである鈴木修氏による過剰な市政への関与があることを特に強調しておきたい。
浜松市における地域協議会廃止問題 2009年9月
1.はじめに
2.浜松市の合併と地域協議会
3.「平成の大合併」の背景
4.行革審の設置と市政
5.地域協議会の廃止問題
6.おわりにー上越市が行っていること
1.はじめに
2009年9月4日、浜松市議会の本会議で、地域協議会を廃止する条例改正案が可決された。改正案には、小黒啓子(日本共産党)、小沢明美(社会民主党)、山口祐子(市民の風)の3氏が反対討論を行った。採決の直前、6人の議員が退席した。いずれも保守系議員であった。所属している会派の関係など諸々の事情で反対はできないが、さりとて賛成もできないということから退席したのであろう。市議の退席は、浜松市議会では前代未聞のことであった。浜松市の保守系議員は市当局が提出する議案のほとんどに賛成しているから、彼らが退席を敢行したことは、いかにこの改正案が問題を含んでいるかを如実に示しているといっても過言ではない。退席したのは、浜松市に合併した引佐町、細江町、三ヶ日町、水窪町、佐久間町、天竜市、春野町、龍山村、雄踏町、舞阪町、浜北市のなかの、天竜市出身の3名、引佐町、三ヶ日町のそれぞれ1名、そして浜松市出身の1名であった。改正案は可決された。反対は、反対討論を行った前記3名の他、日本共産党の議員であった。
この議案は、当初2009年5月に提案された。しかし市議会総務委員会で、地元への説明が不十分ということから、継続審議とされていたものである。
保守系議員が圧倒的に多い浜松市議会で、議案がかくもこじれたことはなかった。なぜこじれたのか、その答えを見つけるためには、「合併」までさかのぼらなければならない。
2.浜松市の合併と地域協議会
(1)浜松市の合併
①経緯
現在の浜松市は、2005年7月1日に成立した。県西部地域の12市町村によるもので、人口は82万人をこえ、面積は1511平方㎞、全国で二番目の広さだという。
合併への動きは、2002年7月に始まった。旧浜松市が、政令指定都市の実現を目的に、「環浜名湖政令指定都市構想」を提唱し、周辺22市町村(1994年設立の地方拠点法にもとづく「静岡県西部地方拠点都市地域整備推進会議」加盟22市町村)に呼びかけたことが端緒となった。
しかし政令指定都市になるためには条件があった。旧5大都市以外では、当初「人口100万人以上、または、近い将来人口100万人を超える見込み」があることが運用の基準であった。これが緩和され、100万人を超える見込みがある「80万人以上の人口」が基準となった。これにより、広島市、仙台市、千葉市、さいたま市が指定都市となった。
「平成の大合併」を推進する政府は、合併させる「飴」としてさらに基準を緩和した。「近い将来100万人を超える見込み」がなくても70万人程度あればよいというものであった。これにより、静岡市(2005年)、堺市(2006年)、新潟市(2007年)、浜松市(2007年)が政令指定都市となったのだが・・・。
浜松市が政令指定都市を実現しようとしたとき、すなわち2002年(12月末)の時点で人口は60万人に達していなかった。これでは政令指定都市は無理だ。周辺市町村を合併しないと70万人には届かない。しかしこの時、この条件で政令指定都市になるには、2005年3月までという期限が設定されていた。人口70万人以上とするために、合併が急がれた。
2002年10月、浜名湖を取り巻く14市町村(前記の12市町村に、湖西市と浜名郡新居町。県西部の、天竜川より西のすべての市町村となる)により、「環浜名湖政令指定都市構想研究会」が発足し、その報告書が2003年3月に提出された(この間6回開催)。同年6月、3市9町1村で「合併協議会設置準備会」が設置されたが、8月新居町が離脱した。そして同年9月、12市町村による「天竜川・浜名湖地域合併協議会」が設置された。以後2005年6月までの間、19回開催された。
この頃浜松市内の経済界も、合併に向け動き始めた。2002年11月、浜松商工会議所に「政令指定都市推進協議会」が設置され、2003年7月政令指定都市推進の提言書が提出された。同年2月、静岡経済同友会浜松協議会が「政令都市・浜名湖市構想」を、同年3月には浜松商工会議所青年部が「浜名湖ダイヤモンドクラスター都市構想」を発表した。
2004年12月、合併協定書の調印式が行われ、同月には12市町村議会で合併関係議案が可決された。翌月県知事に合併申請書を提出、2005年4月総務省告示を経て、2005年7月、新浜松市が誕生した。そして2007年4月、念願であった「政令指定都市」浜松となったのである。
なお浜松市が政令指定都市実現に積極的であった背景に、静岡・清水の両市が合併して政令指定都市になったことがあげられる。東京-横浜-静岡-名古屋と政令指定都市があるなかで、この地域が「衰退してしまう」という危惧を抱いていたようだ。
② 合併協議の中で
合併する市町村は、人口1200人の磐田郡龍山村、人口60万人の浜松市というように、人口、財政などの規模も大きく異なる。だからといって規模が大きいところが決定するというのではなく、合併の方式は「編入合併」ではあるけれども、合併協議はできうるかぎり対等の精神でおこなわれた。すなわち各市町村から3人が法定協議会に参加した(各市町村から首長、議員1名、学識経験者1名ずつ。その他県職員3名、研究者2名、学識経験者1名。計42名)。そして決議は多数決によることなく、協議の中でできるだけ合意を得るというかたちで行われた。
「編入合併」であるから、小規模の市町村は、合併に対して当然「不安」を抱く。地域住民の声が行政に届かなくなるのではないか、各地域の歴史、文化、伝統が失われるのではないか、広域化に伴ってサービス水準が低下するのではないか等々である。
このような「不安」に対して出されたのが、「環境と共生するクラスター型政令指定都市」というものであった。合併によってできる浜松市は、面積1511平方㎞、南は太平洋(遠州灘)に面し、北は南アルプスを含んで長野県と接する。市域には広域の中山間地域がある。水窪町や春野町、龍山村など広大な森林を抱えている市町村がある。また浜名湖を囲む細江町、引佐町、三ヶ日町がある。そこで、それらの自然環境を維持すべく「環境との共生」をうたったのであるが、単なる「共生」ではなく、合併の中心となる産業活動が活発な浜松市も含めて、これらの市町村が相互に助け合い、依存しあう関係をつくりあげようとしたのである。
であるが故に、ここに「クラスター型」ということばが生み出されたのである。クラスターとはブドウの房、という意味である。「12市町村の大合併によって誕生した浜松市は、各地域の地理的条件や産業構造、培ってきた文化や伝統が異なり、多様性に富んでいることから、これを活かせば非常に豊かな市になる」(北脇保之「「環境と共生するクラスター型政令指定都市・浜松を目指して」、『アカデミア』78号)というのである。
そしてこのヴィジョンを実現すべく、新浜松市においては都市内分権を進めていくことが確認され、それを支える柱として三つのことが位置づけられたのである。地域自治組織、組織内分権、一市多制度がそれである。一市多制度とは、旧市町村固有の制度(たとえば伝統文化保全のための助成制度、特定地域の学校給食の方式など)を維持または新設すること(地域固有制度)であり、地域自治組織とは旧市町村単位の意見を市政に反映させるために設置するもの、そして組織内分権とは旧市町村の役場などを合併後も区役所・支所などとして活用し、一定の業務について権限委譲を行うというものであった。これは合併に伴う「不安」を解決するということだけが目的ではなく、地域自治を新しい浜松市の制度として積極的に位置づけていこうというものであった。
一つは、広大な市域となるが故に、都市経営に当たっては地域に対する大幅な権限委譲が求められること、もう一つは広大な浜松市には、住民自治と市民の協働が必要となること、すなわちこれまで以上に住民による自治が重要になるという認識があったのである。もちろんこの論理の背景には当時の自治省の指導があった。1999年にだされた「市町村の合併の推進についての指針」には、「合併により市町村の規模が拡大する場合においても、行政が地域に密着した問題を住民参加や住民との共働の下に解決していくための仕組みを作り上げること等により、住民の帰属意識に基づく地域社会を形成・維持することができるものである。また、市町村の規模の拡大により、行政との距離が遠くなるとの懸念についても、支所、出張所の設置、地域審議会の活用、公共施設等のネットワークの活用など、地域社会の振興に配慮した様々な施策を展開していくことにより克服できるものである」とある。しかし浜松市は、この論理に沿いながらも、もう一歩住民自治をすすめようとしたのである。
具体的には、旧市町村単位に地域自治区を設置し、旧市町村の庁舎を総合事務所として、これまでと同様のサービスを地域住民に提供する、旧議会の代わりに地域協議会を設置し地域住民の意見を市政に反映する仕組みをつくったこと、地域自治区ごとに地域自治振興費という予算枠を設定し、それぞれの区ごとに自らの裁量で予算編成できるようにしたこと、こうすることによって地域の個性を活かしながら、地域の均衡ある発展を図ろうとしたのである。
ではこの浜松市に於ける地域協議会がいかなるものか、項を改めて見ていこう。
(2)地域協議会の設置
「環境と共生するクラスター型政令指定都市」という考え方が示されたのは、「環浜名湖政令指定都市構想研究会」(2002年10月発足)であった。そこで打ち出された都市内分権を進めるために、2003年9月に設置された「天竜川・浜名湖地域合併協議会」では、全国の合併市町村で導入している「地域審議会」の導入を検討したこともあった。そんな時、2003年11月、第27次地方制度調査会が、地域自治組織のあり方などについての答申(「今後の地方自治制度のあり方に関する答申について」)を公表したのである。
答申は、「基礎自治体は、その自主性を高めるために一般的に規模が大きくなることから、後述する地域自治組織を設置できる途を開くなどさまざまな方策を検討して住民自治の充実を図る必要がある」として、「基礎自治体内の一定の区域を単位とし、住民自治の強化や行政と住民との協働の推進などを目的とする組織として、地域自治組織を基礎自治体の判断によって設置できる」としたのである。
地域自治組織には、合併特例法にもとづく地域自治区(合併に際しての特例制度)、合併特例法にもとづく合併特例区、地方自治法にもとづく地域自治区の三種がある。前二者は合併に伴う臨時的なものであるが、後者は設置期間の制限がないというものであった。合併協議会では、この三つの制度のうち、都市内分権を推進するためには、設置期間の制限のない地方自治法にもとづく地域自治組織を、旧市町村を単位として設置することとした。
浜松市のホームページは、こう記している。
地域自治組織は、市町村の一定区域ごとに置かれ、支所、出張所のような行政サービ スを提供する事務所と地域住民の意見を行政に反映するための地域住民による総合的な 審議機関である地域協議会によって構成されます。地域自治組織には、地方自治法に基 づく地域自治区、合併時の特例に基づく地域自治区と合併特例区の3種類があり、本市 は、平成17年7月の合併時に合併前の旧12市町村を単位に永続的に設置できる地方自治 法に基づく地域自治区を設置しました。
つまり浜松市は合併後、永続的に、旧市町村に地域自治区を設置し、同時にそこに地域協議会と事務所(地域自治センター)を設けることを選んだのである。それは「合併協定書」に明確にうたわれている。
すなわち「(1)地域自治組織について ①合併時に地方自治法に基づく地域自治区を旧市町村単位に設置する。②政令指定都市移行後には、その区域の全部又は一部が一つの行政区となる地域自治区を除き、地域自治区を存続させるとともに、他の市町村と一つの区を構成する浜松市の一部の区域に、新たに自治区を設置する。また、政令指定都市移行時に、すべての行政区に区地域協議会を設置する。」である。
合併協定書の中身を説明すると、次のようになる。
政令指定都市になると、市の区域を限って行政区を置かなければならない。つまり政令指定都市浜松は、行政区を置かなければならない。浜松市は、行政区として中、東、南、西、北、浜北、天竜の7区を置いた。中、東、南は旧浜松市なので、地域自治区はない。浜北区は旧浜北市の市域と重なるため、行政区のみである。西区は雄踏町、舞阪町、そして旧浜松市の一部、北区は三ヶ日町、引佐町、細江町と旧浜松市の一部で構成されているため、西区は3つの地域自治区、北区は4つの地域自治区が設定された。天竜区は天竜市、竜山村、水窪町、佐久間町、春野町の5つの旧市町村によって構成されているため、天竜区には5つの地域自治区が設定された。旧市町村が含まれている行政区には、旧市町村を単位として狭域の地域自治区が置かれたのである。そして地方自治法によれば、地域自治区を設定すると必然的に地域協議会は置かなければならない(202条の5)から、12の地域協議会が置かれたのである。
そして「合併協定書」にもとづいて、7つの行政区にも区協議会が設置された。したがって西区、北区、天竜区では、区協議会と地域協議会とが併置されることとなった。
この区協議会も地域協議会も、「市の付属機関」として位置づけられる。
さてこの地域自治組織についてであるが、前述の答申は「地域の状況がさまざまであることから、法律で定める事項は最小限にとどめ、地域の自主性を尊重し、地域において活用しやすいものとなるような制度とする必要がある」とする。したがって、地域自治組織に関する先行事例がほとんどないことから、合併協議会では何度も都市内分権について議論している。地域協議会をどのようなものにするのか、自ら制度設計をしなければならなかったのである。
浜松市のホームページは、地域協議会を次のように説明している。
地域協議会は、地域自治区内の住民の声を行政に反映させるための総合的な付属機関で、地域の多様な意見を集約し、それを行政施策に反映させるため、建議・要望などのほか、行政からの諮問に対する答申を行います。また、さまざまな地域課題の解決にあたり、市民と行政が相互に連携しあい、安心して暮らせる地域社会を構築するため、さまざまな市民活動との連携を図り、住民自治を強化、充実する機能を持つ組織です。
このように、住民自治を担保する地域自治組織として出発した地域協議会は、当初、合併協議会で決定されなかった事務事業(約500件存在した。主なものとして「国民健康保険料の賦課方式」、「水道料金の統一」など)の調整・方針決定のために、様々な意見を求められたため、これらの諮問・答申に実に多くの時間が割かれた。合併して2年が経過する頃から、やっと住民自治機関としての地域協議会が動き始めたのである。しかしその成果が確認される前に、廃止の動きが開始されるのである(後述)。
ところで、浜松市の地域協議会、区協議会に特徴的なことは、予算編成の際に両協議会の意見を反映させる仕組みを設けたこと、それぞれの地域自治区で独自のまちづくりをすることができるように「まちづくり事業費」を創設したことである。浜松市ではこのような地域に基づく予算枠を、もっと拡大するつもりであったようだ。それは「小さな市役所、大きな区役所」ということばに表れている。
少し行政区について触れておけば、浜松市の合併時の構想は、「区役所で行政サービスを完結させるため、地域の総合的行政機関として、できるだけ幅広い行政サービスを行うとともに、区で重要事項を決定し、地域課題を解決できる機能を持たせることにある。「小さな市役所」とは、本庁は政策企画、管理調整業務を中心とし、身近な行政サービスでは、特に高度な専門性を有する業務や全市的に統一すべき基準の作成などを行うものであり、「大きな区役所」でその他すべての行政サービスを行う」(天竜川・浜名湖地域合併協議会『新「浜松市」誕生 天竜川・浜名湖地域合併の記録』、浜松市、2005年)というもので、行政区に行政サービスの提供を任せるというのが、合併時の構想であった。「都市内分権」をどう展開していくのか、その結果が区協議会であり、地域協議会であったのである。
今、地域協議会が廃止され、さらに区協議会も縮小されようとしている。その経緯については、項を改めて記そう。
(3)地域協議会の意義
浜松市において地域協議会がもつ意義については、これまでの記述の中で言及してきた。浜松市が合併時に着目したこの地域協議会については、「平成の大合併」のなかで、注目されていることも事実である。後述する上越市は、それに先駆的に取り組もうとしている。地域自治組織の意義について考えてみよう(『地域自治組織と住民自治』自治体研究社、2006年を参考にした)。
岡田知弘が、「地方自治体は、住民の暮らしの砦であり、住民の基本的人権を守る自治組織である。基礎自治体が大きくなればなるほど、主権者は疎外され、住民自治機能の弱体化が進行することになる。構造改革のなかで不安定化する暮らしを守るためには、「広すぎる」地方自治体の再構築が必然化する」(前掲書、「はしがき」)と指摘するように、「平成の大合併」政策により広域の基礎自治体が誕生しているが、それが広域になればなるほど、逆により狭域の「地域」が注目されるようになる。基礎自治体が地方自治体としての機能を果たすことができなくなるからである。
1963年3月27日の最高裁判所の判決は、基礎的な自治体についてこう判断している。すなわち「単に法律で地方公共団体として取り扱われているだけでは足らず、事実上住民が経済的文化的に密接な共同生活を営み、共同体意識をもっているという社会的基盤が存在し、沿革的にみても、また、現実の行政の上においても、相当程度の自主立法権、自主行政権、自主財政権等地方自治の基本的権能を附与された地域団体であることを必要とする」と。だが、「平成の大合併」によって成立した基礎自治体は、ここでいう「社会的基盤」を欠く。「社会的基盤」を無視しての、経営的な観点のみの基礎自治体づくりであるといえよう。
とするとき、どのようにこの欠落した「社会的基盤」を補完するのか。
2003年11月にだされた第27次地方制度調査会の答申には、「地方分権改革が目指すべき分権型社会においては、地域において自己決定と自己責任の原則が実現されるという観点から、団体自治ばかりではなく、住民自治が重視されなければならない。基礎自治体は、その自主性を高めるため一般的に規模が大きくなることから、後述する地域自治組織を設置することができる途を開くなどさまざまな方策を検討して住民自治の充実を図る必要がある。また、地域における住民サービスを担うのは行政のみではないということが重要な視点であり、住民や、重要なパートナーとしてのコミュニティ組織、NPOその他民間セクターとも協働し、相互に連携して新しい公共空間を形成していくことを目指すべきである」とある。
広域化すれば住民自治が疎外されることが明らかであるからこそ、地域自治組織が求められるのであり、前述の「社会的基盤」が無視されるからこそ、その代替組織として地域自治組織が必要となるのである。
だからこそ、答申は地域自治組織を、次のように規定するのだ。「基礎自治体内の一定の区域を単位とし、住民自治の強化や行政と住民との協働の推進などを目的とする組織」と。また、それぞれ「地域の状況がさまざまであることから、(地域自治組織については)法律で定める事項は最小限にとどめ、地域の自主性を尊重し、地域において活用しやすいものとなるような制度とする必要がある」とするように、地域自治組織のあり方は地域の自主性に任されているのだ。
浜松市のように、遠州灘と浜名湖に面した漁業の舞阪町、町域のほとんどが森林に覆われた春野町や水窪町をはじめとして、それぞれ異なる自然環境と伝統・文化をもった個性豊かな旧市町村を合併したからこそ、地域自治組織を効果的に生かしていくことが求められるのだ。
また新浜松市の市域は、約1511㎢、東西52㎞、南北73㎞ときわめて広大で、その広さは全国第2位と記されている。その広大さが住民自治を疎外する、だからこそより地域に即して地域自治組織が設置される必要があるのだ。
石崎誠也は「基礎自治体内の地域自治組織を一般制度として法定したことは、地方自治法上初めてのことである。地域自治区制度が市町村合併を推進する中で導入されたものであるとしても、それは、基礎自治体内の内部にさらに狭域の地域自治の単位が存在することを一般的に承認したものとして、またその地域組織は住民自治組織として形成されなければならないとの立法者の認識を示したものとして、重要な意義を持つものである。」(「地域自治区の法的性格と課題」、前掲書)と記している。
もちろんこの地域自治組織の行財政的な権限がきわめて限られていることは承知している。しかし、広域合併して切り捨てられようとしている地域の住民の声を吸い上げる機関として、これにかわるものがない以上、この制度をより有効に、より住民自治が行われるような機関として活用していくことが求められるのである。浜松市は、その地域自治組織に財政的な権限を若干もたせている。そういう可能性をもった組織を、企業人の経営的な観点からの容喙により、消すわけにはいかないのだ。
3.行革審の設置と市政
地域協議会を廃止する動きは、新浜松市が誕生するときから開始された。その中心となったのが、世界的な自動車メーカー・スズキの会長・鈴木修氏である。2004年12月10日の合併調印式の前日、鈴木修氏を発行責任者とする「浜松を良くしたい会」の全面広告が新聞紙上を飾った。鈴木氏の主張は、「旧市町村や区割りの組織も複雑化しています」と、一市多制度やクラスター型政令指定都市など、合併のあり方を非難する内容であった。
その後鈴木氏は、浜松市(浜松市長)に働きかけて、2005年8月「浜松市行財政改革推進審議会」(以下、行革審とする)条例を制定させ、設置された行革審の会長におさまった。行革審の目的は、「地域全体の経営の視点に立ち、社会経済情勢の変化及び地方分権時代に対応する簡素で効率的な行政の実現並びに市民、市民活動団体、事業者及び行政の相互の信頼関係に基づく協働型都営経営の推進に資する」(第1条)である。経営という観点から、浜松市の「合併」のあり方を根底から突き崩すことを目的としたものといってもよいだろう。
2005年12月、行革審は「緊急提言」をまとめた。鈴木氏が合併のあり方について主張した内容は、「合併で合理化を図れば改革への道を進めます」、「旧市町村でばらつきのある諸制度については早急に一本化することが必要」、「小さく筋肉質な政令指定都市」、「既存の政令指定都市を模範とした組織と都市内分権の推進とを意識した複雑な組織としたため、肥大化・高コスト化が懸念されます」などというもので、「一市多制度」などを全否定するものであった。
2007年3月には最終答申が出され、そこには「政令指定都市移行時にスタートする7つの区については、将来予想される人口・経済・産業・環境等の変化を見据えたうえで、5年後には合区を前提に見直すこと」などが記された。
行革審が設置されてから、市長(北脇保之氏)は、行革審が提言したものを先頭に立って実行するよう、鈴木氏から強く要請されるようになった。しかしそう簡単に実現できるわけがない。市長が設置した諮問機関であっても、あくまで諮問機関である。市政は、多くの職員によって遂行されているのであって、そう簡単に変更できるわけがない。また市議会もある。そもそも市長が任命した行革審の意見だけが、ストレートに実現されるとしたら、そのこと自体おかしなことである。
だが、鈴木氏は強硬であった。
2007年4月の浜松市長選、今まで2期市長をつとめた北脇氏に対して、鈴木氏は対抗馬をたてた。北脇氏も鈴木氏に担ぎ出されて市長になった人物であった。にもかかわらず、行革審を通した鈴木氏の意向がなかなか実現しないことにしびれを切らし、自分の意向を市政に実現させるべく、前衆議院議員であった鈴木康友氏を担ぎ出したのである。康友氏の政策は、新浜松市の「一市多制度」に対抗して、“「ひとつの浜松」には「ひとつの制度」”(一市一制度)、「地域協議会と区地域協議会の二重構造を解消し、自治の仕組みをシンプルにします」など、まさに鈴木氏の意見そのものであった。選挙は熾烈であったが、康友氏が北脇氏を約1万票引き離して当選した。康友氏は、まさに鈴木氏の意向を受けて、行革審の答申を実現する市長として就任したのである。
4.地域協議会の廃止問題
康友氏は就任して間もなく、みずからのマニフェストの「地域協議会の区協議会への一本化」政策を始動させた。まさに地域協議会廃止にむけてのスタートであった。
2007年6月、康友市長は「地域協議会委員の任期満了の3年後を目途に再編の時期を探る」と市議会で答弁した。同年12月、市長は区協議会会長等の集まりで、地域協議会の区協議会への一本化を説明、翌08年3月、市は区協議会・地域協議会にアンケートを実施、5月には各地域協議会でヒアリングを行った。6月、市長は「旧市町村の壁を越え、区を単位にまちづくりをすすめるべきだ」と答弁したが、この頃市長の積極的な動きに対して各地域協議会から存続の要望書が出されるようになる。5月、天竜区と天竜区内の5地域協議会、6~7月には引佐、三ヶ日、舞阪、9月には雄踏、10月には細江というように、旧町村のすべてから存続の要望書が出されたのである。市当局はその間、地域協議会を任意組織の「コミュニティ協議会」へと移行させる案を提示したが、支持は得られなかった。
それでも11月、市長は「一本化方針は、来年度の早い時期に結論を出す」と市議会で答弁し、旧市町村による地域協議会存続の要望を無視する姿勢を堅持した。そして本年(2009年)4月、区協議会会長等の会議で、「地域協議会の存続を2年間延長し、2012年3月末を見直し時期にする」と言明した(『中日新聞』2009年4月23日付)。
しかし5月になって、市長は定例市議会に地域協議会廃止の条例改正案を提案してきた。市長は、延長はするが廃止方針は変えないという姿勢を示したかったのであろう。それを受けた市議会総務委員会は、「地元への説明が不十分」として、改正案を継続審議とした。市当局は7月にかけて、すべての地域協議会で廃止の方針を説明(地域の意見を聴くというのではなく、一方的に「理解」を求めるというものであった)、総務委員会が「継続審議」としてあげた理由を消し去ろうとしたのである。だが、それぞれの地域がその説明で納得したのではまったくない。
一応の「説明」が終わり、8月26日に開かれた市議会総務委員会は、条例改正案を可決した。「説明」が行われたからという理由であろうが、それはきわめて形式的な判断であった。9月4日の本会議に提案された改正案は可決された。これで地域協議会の廃止は決まった(その模様は、冒頭に記した)。いくつかの地域協議会は、浜松市議会の動きを知って、存続の要望書を提出したが、市議会議員の多数によって葬り去られたのである。
8月28日の『中日新聞』に、三ヶ日地域協議会の記事があった。そこには、副会長の黒柳千穂子さんの「住民の声を市に届ける仕組みがもうすぐ失われてしまう」、「地方分権の推進をうたって進められた大合併が今、周辺部の声の切り捨てを生みかねない状況を招いている。」、「行政の中心にいる人たちは使える金が増え、自由度が増したと感じるかもしれない。けれど、周辺地域となった人たちの暮らしはどうなるのか」という声が載せられていた。「平成の大合併」の、本質を衝く意見である。
ところで、2009年7月、行革審が新たな意見書を提出した。それには、「行政区の廃止または削減」、「議会の改革」、「区協議会の充実」の3点が記され、特に行政区については「浜松市に行政区を設ける必然性はないと考える。市民に行政区を置かない場合の執行体制を示し、設置もしくは廃止の判断を求めること。行政区必置制度の廃止を求め、国に地方自治法の改正を要望すること」、「行政区は都市の将来像を描くまとまりとして、3区程度にすること。行政区の削減にあわせ、簡素な市の組織に再構築すること」と指摘されていた。ちなみに「議会の改革」は、議員定数の削減、議員報酬の引き上げ、それと一市一選挙区である。「区協議会の充実」は、「地域の多様な意見に耳を傾け、幅広い市民の意見を市政に届ける仕組みを強化する必要がある」などとしている。いずれにしても地方自治法では、政令指定都市には行政区を置かなければならないとなっているから、廃止ではなく「削減」を主張したのであろうが、行政区が廃止されれば区協議会もなくなるのだから、「区協議会の充実」は、行政区の廃止を求める行革審の意向と矛盾するのではないか。
行革審のこの提言が出された後、8月18日、鈴木市長は浜松市議会議長宛に「浜松市行財政改革推進審議会の意見書について」を送付し、意見書実現のため、議会の理解と協力を求めるというものであった。そして8月28日、市長は定例記者会見で「(行政区は)少し多いと思う」と語った。行革審の意見書が出されるまで、市長は多いとは一度も言っていなかった。まさに鈴木修氏が会長をつとめる行革審の意向を実現するために市長として担ぎ上げられたこと、それを象徴するといえよう。
5.地域協議会が廃止されてはならない理由
鈴木修氏と行革審、そして鈴木市長に廃止を迫られている地域協議会を廃止させてはならない。
その理由の第一は、地域協議会を永続的に存続させるということが合併時の約束だからである。浜松市が編入合併したからといって、現在浜松市以外の市町村が存在しないからといって、約束を反故にすることはいかがなものか。道義に反するのではないか。
併合された市町村は、浜松市とともに、合併の動きが始まった時から対等の立場で新しい政令指定都市浜松の建設計画をたててきたのである。その建設計画の中核に位置するのが、地域自治区の設定であり、地域協議会の設置なのである。合併した12市町村の合意事項なのである。その合意を無視してよいのか。
第二に、手続きの問題である。地方自治法第202条の7の第2項は、「市町村長は、条例で定める市町村の施策に関する重要事項であって地域自治区の区域に係るものを決定し、又は変更しようとする場合においては、あらかじめ、地域協議会の意見を聴かなければならない。」とある。しかし浜松市当局は、あらかじめ意見を聴くのではなく、廃止の決定をただ一方的に「説明」するという態度に終始していた。
「浜松市区及び地域自治区の設置等に関する条例」の第24条の第2項にも、地方自治法と同様の規定がある。この廃止に関しては、決められた法的手続きを経ていないといえよう。
第三に、これがもっとも重要な理由であるが、関係する市町村のほとんどが地域協議会の廃止に反対しているということである。それはそれぞれの地域協議会での議論、さらに提出された要望書に明確に示されている。廃止反対という住民の声を無視して強行する市長ならびに市当局は、この地域協議会設置の経緯、合併された中山間地域の旧市町村の切実な声を蹴散らす正当な理由をもっているのであろうか。彼らが繰り返すのは、ただ「一つの浜松」なのである。「一つの浜松」ということばに、合併したそれぞれの地域の実情に配慮する姿勢は見られない。彼らは、「団体自治」の観点からしか地方自治をみない。「住民自治」は、彼らの思考回路には組み入れられていないのである。
第四に、前述したように、地域協議会のような狭域におかれた地域自治組織は、おそらく今後重要な機関になっていく。廃止するということは、地方自治、とりわけ「住民自治」、「協働」の精神にとって「退歩」というしかない。新潟県上越市の例を後述するが、こういう地域自治組織をより充実させていくことこそが、これからの地方自治に求められるのだ。浜松市が、いずれ後悔することは間違いないことだろう。
6.おわりにー上越市が行っていること
地方自治とは何かについて詳しく記す必要はないだろうが、一応述べておこう。地方自治は、「団体自治」と「住民自治」によって構成されている。「団体自治」とは、「自治体が国の下部機構や出先機関ではなく、法的に独立した団体として存在し、その団体が自己の責任で、自己の固有の仕事を自己の機関で処理することをい」い、「住民自治」とは、「地域の政治や行政を地域住民の意思に基づいて処理する」ことで、「住民自らが政治の方針を決定し、あるいは決定手続きに参加し(直接民主主義)、または住民の代表者を住民自らが選びこれに政治や行政の権限を委託する(間接民主主義)システム」(『基本法コンメンタール 憲法[第五版]』、日本評論社、2006年)である。このどちらが欠けても、地方自治は成り立たない。
残念ながらわが国では、近代以降この2つとも満足に存在しなかった。戦後、日本国憲法の制定、地方自治法により制度化されたのだが、まだまだ不十分である。1990年代から「地方分権」が主張されてきたが、その場合「効率的な経営」などの観点からの「団体自治」だけが重視されてきている。
私は、今回の「平成の大合併」政策に、市町村は追随してはならなかったと思う。政府からの兵糧攻めがたとえあったとしても、あるいはカネの誘惑があったとしても、自立を選択した町村はあるのだ。残念ながら静岡県のほとんどの市町村は、東海道沿いの都市に「併合」されてしまった(ただし、中川根と本川根の両町は合併して川根本町となった。都市部と合併せずに大井川中流域での自立を志向している)。併合された市町村は、これからは自治体職員もほとんどいなくなり(都市部に吸収され)、人口が少ないために議員の当選も見込めず、おそらく切り捨てられていくことになるだろう。中山間地域から人間が消え、自然の荒廃が進んでいくことになろう。
しかし合併しても、地域住民の自治を深く考えた自治体がある。新潟県上越市である。広域合併が行われても、それぞれの地域と住民自治を大切にする政策は可能であることを示したいからである。浜松市もその方向に進もうと思えばできたのであるが、浜松市は逆の方向に舵を切った。
現在の上越市は、2005年1月、周辺の13町村を合併して成立した。上越市は13町村に地域自治区を設定し、そこに「地域協議会」と「市民の意見を反映させながら区域内の市政運営に関する事務や行政サービスなどを行う」(以下、上越市の情報については、断りがない限り同市のホームページからである)「事務所」を置いた。「地域協議会」の役割としては、市長や教育委員会から諮問された事項について審議し、意見を述べることができること、新市建設計画や地域自治区に係わる重要事項の決定・変更などについては市長はあらかじめ地域協議会の意見を聴かなければならないこと、区域内の課題について自主的な審議を行い、意見を述べることができること、である。この役割は他都市と比較して別段特徴的であるわけではない。
特徴的なことは、地域協議会の委員の選任方法である。委員は市長が任命するが、委員は公募し、応募者が定数を超えた場合、住民による選任投票が行われるというのだ。住民自身が、委員を選挙で選ぶのである。
さて上越市は、浜松市のように合併した旧町村に地域自治区を置くだけではなく、2009年10月1日からは、合併前の上越市にも地域自治区を設定するという。それも「昭和の大合併」前の市町村を区域として、15の地域自治区を設けるのである。上越市は、したがって地域自治区が28となる。地域自治区、それに伴う地域協議会を、市政に積極的に位置づけ活用していこうというのである。その意気込みは、2008年成立の「自治基本条例」に示されている。その内容は、積極的に評価して良いものだ。
その「逐条解説書」に、この条例は「(地方分権一括法)の施行以来、進められてきた分権改革は、主に「団体自治」の拡充を図るもので」あった、それ故上越市では地方自治のもう一つの側面である「「住民自治」の仕組みの充実を図るため、市民のまちづくりへの主体的な参加を制度的に保障する手立て」として条例をつくったとある。
条例の目的として「自治の基本的な理念及び仕組みを定めることにより、市民による自治の一層の推進を図り、もって自主自立のまちを実現する」(第1条)を掲げ、「逐条解説書」では、「「自治」とは、地域において、市民が自らの意思に基づき地域運営について考え、自ら又は代表者を選んで決定し、運営していくこと」であるとし、地方自治体の存立目的は、「住民の福祉の増進」であり、そのために「自治を一層推進する」のだと書かれている。
「自治の基本理念」として、「市民主権」、「人権の尊重」、「非核平和への寄与」、「地球環境の尊重」、「地方分権の推進及び自主自立の市政運営」をあげ(第3条)、さらに「自治の基本原則」として、「情報共有の原則」、「市民参画の原則」、「協働の原則」、「多様性尊重の原則」を掲げている(第4条)。
その後に「市民の権利」を記している(第5条)。「市民は、自治の主体として、地方自治法に定めるところにより、市民の代表を選ぶ権利、条例の制定、改正又は廃止等の直接請求を行う権利その他の権利を有し、これを行使することができる」とし、さらに「市政運営に関する情報を知る権利」、「市民参画をする権利」、「協働をする権利」を加えている(第五条)。第6条では、「市民の責務」を謳っている。「1 市民は、自治の主体として、市政運営に関心を持ち、市政運営に対する意識を高めるように努めなければならない。2 市民は、市民参画、協働その他の権利の行使に当たっては、自らの発言、決定及び行動に責任を持たなければならない。3 市民は、市が提供するサービスの享受に当たっては、応分の負担を負わなければならない。」がそれである。
このほか市議会の責務、市議会議員の責務など、自治の担い手について、それぞれの役割が規定されている。この条例には、「住民自治」を住民自身の責任で担っていこうという気概が盛り込まれているといえよう。
もちろん「都市内分権」の規定もあり、「市長等は、市民が身近な地域の課題を主体的にとらえ、自ら考え、その解決に向けた地域の意思を決定し、これを市政運営に反映するための仕組みを整え、都市内分権を推進するものとする。」(第31条)とし、第32条で地域自治区の設置を規定し、地域協議会の委員の公募公選制を定めている。
上越市は、浜松市と異なり、当初地方自治区を合併特例法にもとづいて設置した。設置期間は5年間であった。しかし上越市は2008年、それを地方自治法に基づく地域自治区に変更し、さらにそれを市の全域に置くこととしたのである。
上越市は、浜松市とまったく逆の動きを示している。浜松市は地域自治区を消去しようとし、上越市はそれを拡充しようとしている。浜松市は「団体自治」のみを追求し、「住民自治」を軽視する方向に動き、上越市は「団体自治」と「住民自治」の2つを地方自治のあるべき姿として確立しようとしている。このまったく正反対の政策展開は、いずれ結着するであろうが、私たちは結着がつくまで座視しているわけにはいかない。どちらに軍配があがるのかがはっきりとわかっているのであるから、そのために微力ではあっても力を尽くす必要があるだろう。