浜名史学

歴史や現実を鋭く見抜く眼力を養うためのブログ。読書をすすめ、時にまったくローカルな話題も入る摩訶不思議なブログ。

殺生戒(暴力についての考察1)

2024-11-15 20:42:46 | 歴史

 なぜユダヤ教徒がつくったイスラエルは、ムスリムであるパレスチナ人を殺すことができるのか、という疑問を持っていた。なぜなら、「旧約聖書」の「モーセの十戒」には、「汝殺すこと勿れ」とあるからだ。単純に考えると、「旧約聖書」を聖典とするユダヤ教徒が人間を殺すことは「戒」を破ることになるのではないかと思っていた。

 しかし、今日、図書館から『講義 宗教の「戦争」論 不殺生と殺人肯定の論理』(東京大学出版会)を借りてきて、最初の講義、「宗教と戦争を考える」を読みはじめたら、こういう記述にあった。

 「ユダヤ教の正典は、「まともな人間」だけ殺してはならないと説いているのです。モーセは「出エジプト」に際し、神のご加護で海を割り、海底を歩いて渡って対岸に着いたところで海を元どおりにして、追ってきたエジプト兵の大軍を溺死させたと旧約聖書には書かれています。ユダヤ教は聖戦を認めますから、神に背いて義を犯す者は殺してよいのです。」

 「ユダヤ教はユダヤ教徒に害をなさない「まともな人間」以外を殺すのは構わず、イスラームでも、ムスリムを害する者を殺すことは許されるとしています。」

 なるほど、である。パレスチナ人は、「義を犯す者」「まともな人間」ではない、ということなのだ。

 しかしムスリムも、人間を殺している。イスラームは、「ムスリムを害する者を殺すこと」が許されているという。

 ユダヤ教も、イスラームも、人を殺すことが許されているということになる。ならば、どっちもどっち、ということになるのか。わたしは、そうは思わない。

 歴史的にみれば、第二次大戦後にパレスチナの住民たちが平和に居住していた(ユダヤ教徒も)ところに、シオニストたちが入り込んで、パレスチナ人を虐殺し、追い出し、土地を奪い・・・・・という行為をした結果、イスラエルという国家が誕生している。

 パレスチナ人をそのように迫害し、さらに現在のように、ジェノサイドにまで及んでいるシオニスト、イスラエルは、「義を犯す者」、「まともな人間」ではない、とわたしは考える。

 わたしは生まれてから現在まで、暴力とは無縁の世界に生きてきた。暴力的なケンカはしたこともない(子どもの頃姉弟げんかはしたことはある)。だから、人間と人間とが殺しあうという戦争は、まったく認められない。「非戦」(戦争はとにかく絶対にいけない)の立場である。

 戦争については、「非戦」だけではなく、「不戦」(戦うべきではない)、「義戦」「正戦」(正しい戦争はやむを得ない)、「聖戦」(神が命じた信者が推進すべき戦い)があると、この本にはある。やはりわたしは、「非戦」である。

 キリスト教徒も、多数の人間を殺している。世界史的には、キリスト教徒が、もっとも多くの人命を奪っている。

 同書によると、 

「原始キリスト教の段階ではすべての人間について殺してはいけないという不殺生戒があったとされ」ていたが、「コンスタンティヌス大帝が4世紀前半にキリスト教を公認し、4世紀末にキリスト教がローマ帝国の国教になると、教会が権力と結びつくこととなり、ローマ帝国が行うやむを得ない戦争を認める義戦論が出てきます。戦争が認められると、すべての人間に対する不殺生戒は「まともな人間」に限定され、そうでない人間はその枠外だということになります。」

 つまりキリスト教も、ユダヤ教やイスラームと同様の見解をもつようになった、というわけである。ただ、キリスト教の場合は、権力と結びつくことによって殺生を認めるようになったのだから、権力と結びつかないことが重要だということが成りたつ。

 教会というある種の組織をもつことによって、組織がその存続のために自己運動をはじめ、組織のために権力と結びつくこととなるわけだから、教会という組織を持たないという選択は「非戦」のためには有効ということになる。だからだろうか、わが国の無教会派のクリスチャンの多くは、「非戦」の考え方が強いと思う。

 いずれにしても、ユダヤ教、キリスト教、イスラームが、「まともな人間」でなければ殺してもよい、という考えであることは理解できた。

 

 

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韓国文学

2024-11-11 19:23:40 | 歴史

 韓国をはじめ、わたしは朝鮮半島に関わることに関心を持っている。今、わたしがパソコンに向かっている机の右側には、朝鮮史関係の本が並んでいる。仕事の関係で集めた文献である。

 ところが、在日コリアンの文学は読んだことはあるが、コリアンの文学は読んだことがなかった。

 そんな状況の中、ハン・ガンがノーベル文学賞を得たというニュースが流れてきた。ハン・ガンという作家の名も知らなかった。彼女の著作を調べたら、光州事件を題材にした『少年が来る』という作品があるという。光州事件は、『世界』を購読し、T・K生の『韓国からの通信』を読んでいたわたしにとって、あまりにも大きな事件であった。読んではこころを痛めながら見つめていた。

 光州事件が舞台となった映画は必ず観た。韓国ドラマの「砂時計」は、ビデオを借りてすべてを観た。最後、灰となった遺骨を山の中でまくという場面は今も鮮明に覚えている。また「光州 5・18」も観たし、DVDでそれは所持している。

 しかし文学には目が届いていなかった。

 『少年が来る』を図書館から借りようと思っても、今日時点で57人が予約しているという状態である。いつか必ず読もうと決意している。

 今日届いた『世界』一二月号の「言葉と言葉とかくれんぼ」が、『少年が来る』に言及し、翻訳者の斎藤真理子も「光州という火種は未だに消えていない」のではないかと、チョン・スヨンは書いている。

 実は唯一手に入ったのが、『すべての、白いものたちの』(河出文庫)であった。いまそれを読みはじめている。それは、鋭く、深い感受性と詩的なことばで綴られている。その背後には、豊かな想像力が満ちあふれている。

 すごいな、と思う。

 ハン・ガンの文学は、世界中のひとびとのこころに何らかの影響を与えていくことだろう。わたしも、そのなかのひとりになりたい。

 

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【歴史講座レジメ】欧米の帝国化と開国、そして討幕(その1)

2024-08-29 13:34:17 | 歴史

 わたしは日本(人)が、白人の文化に心酔する様子をみて、日頃「アジア人の自覚を持つべきだ」と言っていた。豊かなアジアが何故に「貧困」、「停滞」、「遅れている」などというネガティブなレッテルを張られるようになったのか。その背景には、欧米の侵略、収奪があったことを忘れてはならないと思う。

◎欧米の変動 覇権の移動

 16世紀 スペイン←ラテンアメリカの銀、プランテーション

 17世紀 オランダ←アジア貿易、東ヨーロッパ=穀物供給地

 18~9世紀 イギリス←アジア(インド支配、中国との貿易)

※ ウォーラーステインの「中核」「周辺」「半周辺」の「近代世界システム論」

◎大航海時代以降、世界はヨーロッパ中心の世界分業体制に組み込まれていく。

 ①アジアへの侵出=「アジアの富」の収奪

 ②新大陸への侵出=新大陸の銀・生産(砂糖、綿花、タバコ・・)←奴隷労働

 ③文化革命

 ④ヨーロッパの思想(哲学、政治思想、経済思想)と自然科学の発達=16世紀の文化革命

 ⑤継続し頻発する戦争→武器の発達・思想や文化への影響

◎「主権国家」の誕生

国境線に囲まれた領域を国土とし、その内部に生まれ住む人々を国民として、その内部の政治的決定において国外からの支配や指図を受けずに独自の判断を下しうる、という原則を保持した国家。

国家の存立に関わる独立至高の決定権を「国家主権」という。←16~17世紀に成立

【その内実】

  ① 絶対王政(人と人との主従関係が原則であった中世的秩序から、国王権力が台頭)。国家主権の担い手は、国王。

  ②属人主義から属地主義。

  ③皇帝権の後退(神聖ローマ帝国など)

  ④ローマ法王の権威の後退

国家理性」の登場=国家利益の追求

◎18世紀ヨーロッパの戦争

「王位継承戦争」(例 オーストリア継承戦争)=国家主権の担い手としての国王の戦争、しかし戦争の目的は「国家利益」の追求。国王の勢力拡大=国家の勢力拡大

絶対王政ではあるが、国王は絶対無制限の存在ではない。

イギリス=立憲王政(国王は国家主権の担い手ではあるが、議会の意思に反した政治を行うことはできない。恣意的な政治をすれば、否認・排斥される)/フランス・プロイセン・ロシア=啓蒙王政 「君主は国家第一の下僕なり」

国王・皇帝の権威、身分制を温存しつつ、経済的な近代化を図る

◎「国民国家」の誕生=「国民」の誕生

・「国民」=その国に住む民が、その国家に帰属していることを意識する、その属している国家にidentityをもつ。

・均質な空間(民族性、言語、文化、国境内における経済=「国民経済」など)と時間

・「国民」は、ナショナリズム、愛国心(他国との「差異」の強調)をもつ←「人々にそのために死ぬことが永遠に生きることを意味するような気持ち」(柄谷行人)をもたせる

市民革命と産業革命が推進力となる

 

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歴史講座レジメ「大航海時代のなかの戦国時代(15~6世紀)」その2

2024-08-27 14:46:56 | 歴史

 極右政権である自民党・公明党政権は、欧米諸国と気脈を通じ、NATOと歩調を合わせようとしている。しかし、今年の八月九日、長崎の原爆記念式典にイスラエルが招聘されなかったことに抗議して、アメリカなど白人帝国主義諸国が長崎市長に抗議行動を展開したことは記憶に新しい。白人帝国主義諸国は、歴史を振り返ると、ほんとうにろくでもない国家群である。戦争ばかりしてきたし、ヨーロッパ以外の地域では虐殺をはじめ、人道に悖ることを平気で、それも長い間行ってきた極悪人どもである。

 それを歴史的に振り返ってみよう。

 アジア諸地域が豊かな物産に恵まれ、頻繁に平和的な交易活動を行っていた。その頃貧しいヨーロッパはどうだったのか。

(2)戦争に明け暮れるヨーロッパ→武器の発達
○ヨーロッパと戦争
「ヨーロッパの起源は戦争という鉄床の上でたたき出されたのだ」(マイケル・ハワード『ヨーロッパ史における戦争』中公文庫、13頁)といわれるほどに、戦争に明け暮れていた。


「ローマの平和」の崩壊→東方からゲルマン人、南方からムスリム、北方からヴァイキング(5世紀~10世紀末)→その後は、ヨーロッパ自身が膨張運動を展開、まず東方へ、そして航海術を学び、南方と西方へと膨張する。

「ローマ帝国の分裂後、小国家間の闘争や侵入者との攻防により、戦乱の時代を迎えた西洋中世。政治、経済、宗教はすべて戦闘を優先して営まれ、人々は闘いのなかで技術を育み、社会の規律を整えていった」(『中世ヨーロッパの戦い』)


○ヨーロッパ中世(5世紀後半から15世紀末)
封建制(軍事的専門家・土地保有権・個人的義務)+キリスト教(ラテン)
 その中での戦争=報酬目当ての戦争(私戦、公戦、死戦)

 火薬の使用(中国、欧とも13世紀前半)=「火薬の爆発力は、うまい具合にまわりをふさいでとじこめれば、それまで不可能であったような力で投射物をとばすのに使えるという着想」(ウイリアム・マクニール『戦争の世界史』170頁)→百年戦争で大砲使用

(3)ヨーロッパ人の東方貿易
○中世ヨーロッパ人の食生活・・野菜や穀物の他には塩漬け肉、野鳥類、塩乾魚。塩漬け肉には強力な防腐剤やにおい消しが必要。天然痘やコレラ、チフスなどの死病に効果(医薬品)→胡椒・香辛料が欲しい!!

※農業生産力が低いために、高価な農業生産物、したがって職人の高賃金、それに伴い貨幣経済の発達

○胡椒・香辛料の輸入ルート・・カリカット→ペルシャ湾・紅海→シリア・エジプト→ヴェネチア→ヨーロッパ各地・・・・・高額(運送代、関税など)

○オスマントルコ(1299~1922)→ヨーロッパ・キリスト教世界と対峙(特にハプスブルク帝国)と融和(フランスなど)
 アナトリア(小アジア)、バルカン半島、中東、アフリカ北岸の支配。地中海の制海権→ヨーロッパ商人、アジアとの直接交易が困難。オスマン政府からの貿易許可状必要

◎1492年がやってきた 
「あるときヨーロッパは自分を取り囲む者たちを追い払って世界征服に乗り出し、手当たり次第に民衆を虐殺し、彼らの富を横領し、彼らからその名前、過去、歴史を盗み取る」(ジャック・アタリ『1492ー西欧文明の世界支配』ちくま学芸文庫、012)


(1)キリスト教純化への動き・・ローマ教会、ヨーロッパのすべての君主に、非キリスト教徒、ユダヤ教徒、イスラム教徒を追放して、大陸を「純化する」よう促す(1073年から)。それは1492年に完成する(レコンキスタ=再征服)。魔女狩り(15世紀から18世紀、最盛期は16~7世紀)

(2)イベリア諸国の旅立ち①・・新世界へ=凄まじい破壊と略奪、狼藉
ヨーロッパ人の世界認識=ヨーロッパ、アジア、アフリカの三大世界

  コロンブス(1451~1506、イタリア人だが、スペイン王の援助)1492年8月出発→バハマ諸島到達→1493年帰国、第二回航海(1493~96)、第三回(1498~1500)、第四回(1502~04)

(3)アメリカの植民地化
○命名「アメリカ」←アメリゴ・ヴェスプッチ=1499~1504まで4回新大陸にいく。1507年地図学者ヴァルトゼーミューラーが「アメリカ」「アメリガ」と命名。1514年レオナルド・ダ・ビンチは「アメリカ」と呼ぶ。スペインで「アメリカ」を使用するようになるのは、19世紀。それまでは「インド諸島」。

○先住民の言語の喪失=ヨーロッパ言語の普及
○虐殺エスパニョーラ島(30万人→1000人=1540年)
1519年コルテスの上陸(700人の男、14門の大砲)→アステカ帝国を滅ぼす。
1548年サカテカス銀山発見(スペイン人の殺到、黒人奴隷の導入)
 メキシコのインディオは、1519年2500万人→1605年100万人
1531年ピサロ、ペルーへ。インカ帝国を占領。
    1530年1000万人→1600年130万人
1545年ボリビア南部でポトシ銀山発見。800万人のインディオが酷使される。銀はスペインへ運ばれる。→「価格革命」
ラス・カサス『インディアスの破壊についての簡潔な報告』

○フランスとイギリスは、アメリカ北部へ。植民地化は、17世紀に始まる。
1620年清教徒のメイフラワー号、ニューイングランドへ。先住民との戦闘、虐殺。伝染病。
17世紀後半ジャマイカなどへのイングランドからの移民→砂糖プランテーション+奴隷貿易

※「環大西洋世界の形成」
コロンブスの発見=ジャガイモ、タバコ、トウモロコシ、カカオ、バニラ、ピーナッツ、パイナップル、七面鳥(金銀だけではなく、有用な植物の探索→植物園)
コロンブスが持ち込む=サトウキビをエスパニョーラ島へ→サトウキビの生産

※「キニーネ」(マラリアの治療薬)・・ペルーの治療師がスペイン人入植者に教える!

17~8世紀の三角貿易

  アメリカからヨーロッパへ 綿花、タバコ、砂糖、コーヒー
  イギリスからアフリカへ  火器、雑貨、綿織物 アフリカからアメリカへ 奴隷

※黒人奴隷は1000万人以上。ポルトガル、イギリス、フランスが主。
※イギリスの紅茶文化
   東アジアの茶とカリブ海の砂糖が結合←17世紀半ばから一般化(「商業革命」)
   茶の効能=風邪、健忘症、壊血病、頭痛、胆石などの特効薬

(4)イベリア諸国の旅立ち②・・アジアへ(破壊と略奪、狼藉)
    特徴=火器による武装と選民思想(キリスト教)
●バルトロメウ・ディアス(1455頃~1500、ポルトガル)1488年喜望峰へ到達(プレスター・ジョンの国を求めて)
※プレスター・ジョン伝説=アジア、アフリカにいるキリスト教君主。これと組んでヨーロッパは異教徒と戦おうと考えた。
●バスコ・ダ・ガマ(1469~1524、ポルトガル)1497年7月リスボン出発→11/22喜望峰→1498・3モザンビーク(砲撃・略奪)→(途中、略奪)→5/20カリカット沖到着→5/28上陸(王への謁見)→8/29カリカット出港→1499/8旗艦リスボン帰港
   ガマの贈り物=布地、外套、帽子、珊瑚、水盤、砂糖、バターと蜂蜜←「何だこれは!!」
 その後、カブラルがインドへ(途中、ブラジルを発見)1年4ヶ月で往復

●ガマ、二度目のインド行き1502/2 砲撃、掠奪、船に砲火、カリカットでムスリム処刑、砲撃(400発)。翌年帰港。莫大な香辛料で莫大な富を得る。

※ポルトガル「海上帝国」=貿易活動を武力で支配→胡椒・香辛料貿易の独占を図る
1503~15インド洋の主要な港町を征服=ソファラ(東アフリカ、1505)、モザンビーク(1508)、ゴア(西インド、1510)、アンボン(モルッカ諸島、1512)、ホルムズ(ペルシャ湾、1515年)、マラッカ(マレー半島、1511年)
 インド洋で貿易を行うものは、ポルトガルに税金を納めるようになる。

◎ヨーロッパは、アジアの豊かな物品を交易するネットワークの中に入り込む。
インド洋では、火器を使用して暴力的に。
●マゼラン(1480~1521、ポルトガル人、しかしスペイン王の援助)1519年5隻で出発 1520年11月マゼラン海峡通過→1521年12月フィリピンに到達(先住民と交戦、死去)
 →1522年9月1隻帰国※暴力、略奪、殺人など

※先占の法理=国際慣習法上の権利。ある国家が、どこの国家にも領有されていない無主の地に事実上の支配を及ぼし、自国の領土とすること。「所有すること、それはまず命名すること」

※ジャック・アタリ「一般に〈欠乏〉、つまりそれから生まれる挑戦意欲の方が、豊かさ以上に活力を与えるものだ」(『1492』、365頁)

 

 ヨーロッパの〈欠乏〉が、アジアアフリカ、新大陸などへの「挑戦意欲」を生み出し、そして非西欧地域を暴力的に従属化させていったのである。

 

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【歴史講座レジメ】「大航海時代のなかの戦国時代」(1)

2024-08-27 10:25:40 | 歴史

 毎年某所で歴史講座の講師を務めている。これは8年くらい前にやったもので、欧米帝国主義と日本との関係を戦国時代から追ったものである。講座で話したことは膨大なので、少しずつ紹介していこうと思う。

 まず「大航海時代のなかの戦国時代」をとりあげた理由は、以下の通りである。

 19世紀にやってきた欧米との接触により日本は近代へと歩みはじめた。そのときすで
に欧米は、近代化を推し進め、「帝国」として非ヨーロッパ世界を支配するようになって
いた。なぜヨーロッパの覇権が成立したのか、というのが、ここでの問題意識である。
ヨーロッパがアジアへ進出してきたのは15世紀末。そして16世紀の半ばには日本にも
到達し、これにより全世界が一体化した。なぜヨーロッパはアジアへ進出してきたのか。
それにアジアはどう対応したのか。ここでは16世紀を検証する。

※貧しくて戦争で奪い合う欧米諸国は、豊かなアジアの物産を求めてはるばるやってきたのである。

2豊かなアジア・貧しく戦争する西欧

(1)豊かなアジアの状況
①インド洋の交易・・特産品の交易(物々交換)
○高級香辛料シナモン(セイロン島、インド北西部)、クロウヴ(丁字)(東南アジア・マルク諸島)、ナツメグ、メイス(東南アジア・バンダ諸島)、胡椒・生姜(南インド、スマトラ)、乳香(アラビア半島)、馬(アラビア半島、ペルシャ)、金・象牙(東アフリカ)、絹織物・絨毯(ペルシャ)、綿織物(インド)
そして東アジアの特産物(絹織物、陶磁器など)

○季節風→帆船(ダウ船)
10月末~翌年3月北東の風(インド亜大陸から東アフリカへ)
4月~9月半ば南西の風(東アフリカからインド亜大陸へ)

異なった宗教を信じる多様なエスニック集団が共存し、相互に競争しながら行われる貿易(インド洋は「経済の海」・・インド洋沿岸の政治権力は海を支配しなかった)。

○主要港・・マラッカ(マレー半島)、カリカット(西南インド)、カンベイ(西北インド)、ホルムズ(ペルシャ湾)、アデン(紅海入口)、キルワ(東アフリカ)など

②東南アジアの交易(インド洋と相似。15世紀前半 鄭和の大航海→マラッカなどの朝貢)

③東アジア(中国を中心とした冊封体制「政治の海」)

○明帝国(1368~1644)朱元璋

 冊封体制(「人臣ニ外交ナシ」)・勘合貿易+海禁政策
  海禁政策(治下の民間商人の外国貿易を禁止。華人商人の私的貿易、外国渡航の禁止)
    →後期倭寇(16世紀中心、中国沿岸地域と東シナ海沿岸地域の人々が主力。密貿易)
 

※明帝国が海を管理・支配し、外国貿易を独占しようとした。東シナ海は「政治の海」。
永楽帝の時代には、40カ国が朝貢(東アジア、東南アジア)←中国の物産に対する需要大。朝貢船の港=広州、寧波、泉州

○日中貿易 1523年寧波の乱以降10年に一度となる→私貿易(倭寇の活発化)
  日本→明・・硫黄、銅、鎧兜、刀剣、蘇木(漢方薬に用いる生薬の一つ。マメ科スオウの心材(しんざい)を乾燥したもの。通経(つうけい)、止血、鎮痛などの作用がある)。

 1530年代 銀(石見銀山朝鮮から灰吹き法伝来)中国の需要増大(銀中心の徴税システム=一条鞭法)
  明→日本・・絹、陶磁器、銅銭

○琉球=中継貿易で栄える→16世紀半ばに衰える=ポルトガル、スペイン人、倭寇(=中国密貿易商)

※アジアには豊富な物産が存在し、それらが交易により各地に運ばれていた。倭寇はある種の海賊であるが、倭寇といっても日本列島の住人だけではなく、周辺の国々の民衆も加わった集団で、暴力的な行動が展開されていた。しかし国家が出て来て戦争状態になるということはなかった。あるとすれば、秀吉の朝鮮侵略だけであった。

 

 

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葬儀

2024-07-16 22:27:31 | 歴史

 いろいろな宗教・宗派の葬儀に参列するなかで、もっとも派手派手しいのは、曹洞宗と臨済宗であると思う。5人以上の坊主が、お経を読むのは当然だが、いろいろな鳴り物をつかってやかましい音をたてる。

 また葬儀にかかる経費がもっとも高くなるのも、このふたつの禅宗だといわれる。わが家も曹洞宗で、すでに墓じまいをして離檀したから関係ないが、ネットで調べると、葬儀での読経、戒名をつける料金など、曹洞宗がもっとも高額だといわれている。

 遠州地方は、曹洞宗や臨済宗の寺院が多い。それについての研究書がでていることは知っているが、いまだ読んではいない。

 さて、『日本宗教史』(岩波新書)を読んでいたら、次のような文にであった。

林下の禅が大きく進展したのは、葬儀や祈祷などの儀礼を通してである。とりわけ曹洞宗は、螢山紹墐(1268~1325)以後、大胆に儀礼的要素を取り入れて勢力の伸張を図った。のちの葬式仏教の原型は、室町期の禅宗に発するものである。禅宗では修行途中で亡くなった修行者を弔うのに、亡僧が早く修行を完成させることができるようにと亡僧葬法の方式が定められたが、それを在家に適用したのである。地方の大名をはじめ、在家の後援者が次第に力を増す中で、きちんと形式の整った儀礼が要求されるようになってきたが、従来の顕密仏教の方式は複雑であり、通常の在家者の葬儀に応じられる体制がなかった。そこで、それに適合した簡素で整備された儀礼の方式をそなえていた曹洞宗が大きく進展することになったのである。曹洞宗は座禅を通してではなく、むしろ儀礼を通して地方に大きく教線を拡大することになった。(116~7)

 今まで、葬儀の儀礼は、近世の檀家制度の中で整備されてきたと考えていたが、曹洞宗は、室町時代から、葬儀のやり方を整備していた、というのである。わたしの先祖が創建した寺院は室町時代であったが、先祖も曹洞宗の儀礼に感動して、宗派を曹洞宗にしたのかもしれない。

 いずれにしても、曹洞宗の葬儀は、読経、鳴り物により参列している人びとに、故人の最期をしめくくるものとして認知されてきたのだろう。葬儀の最後に、「喝」と叫ぶのも参列者に何ごとかを感じさせたのかもしれない。

 葬儀社の方から聞いたことだが、浄土真宗は、亡くなればすぐに天国(浄土?)にいけるのだが、曹洞宗は死んでもいろいろ修行しなければならず、棺に食料や守り刀を入れるという。わたしは、どうせならすぐに天国に行きたい。

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東京都知事選

2024-07-06 23:43:12 | 歴史

 学生時代、東京都知事選があった。美濃部亮吉さんの二期目の選挙であった。

 『世界』の購読者であったわたしは、当時、社会党・共産党の革新統一の動きが日本の政治を変えると思っていた。わたしが尊敬する岩波書店の吉野源三郎さん、中野好夫さんらは、社会党と共産党との間にあって、時に対立する両党をつないでいた。

 どこであったか忘れたが、美濃部さんの演説を聴きに行ったことがあった。そこには大勢の人がいて、凄い熱気があったことを覚えている。

 今回の都知事選挙、ネットのユーチューブでみたが、蓮舫さんの演説会の熱気をみて、美濃部さん当選時の盛り上がりと共通するものを感じた。もちろん、明日にならなければ結果はわからないのだが、蓮舫さんの政策は、浜松市で市民運動をやってきたわたしとしては、地方行政がおこなうべき政策であると思った。

 また石丸前安芸高田市長の演説もみ、また彼の市長時代のYouTubeもみたが、人間的に評価できない人物だとつくづくと思った。自己過信と謙虚さの欠如を、彼のなかにみた。蓮舫さんも言っているが、政治はどんな人であっても包摂することが必要だ。しかし現都知事と石丸前安芸高田市長は、排除の論理が先行する。

 明日はどういう結果になるだろう。蓮舫さんが当選すれば、何か日本社会が変わる、よくなるように思う。 

 

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歴史の進み方

2024-03-31 06:56:21 | 歴史

 東京の各所で、公園などで樹木が次々と切り倒されている。ただでさえ東京は緑が少ないのに、残されている公園の緑も消されている。背景にあるのは、カネにならない市民の憩いの場所としての公園ではなく、カネを稼ぐことが出来る場への転換である。資本はブルドーザーの如く、「公共」を蹴散らしてカネ儲けの場へと転換していく。公共機関としての地方自治体も国も、その資本に手を貸している。

 東京では、建物群が上へ上へと伸びていることがわかる。マンションも、どんどん高層化している。それは地方の主要都市にも波及し、背の高さを競っている。背の高さは統一されているのではなく、バラバラ。都市計画は、資本の攻勢の前に沈黙している。

 カネ儲けを原動力とする資本という暴力が、「公共」をなぎ倒している。それが今の「歴史」の特徴である。

 平和主義を建前として保持していた日本国は、ついに戦闘機などの武器を輸出するという暴挙に出て来た。資本の意思としての、武器でカネを稼ぐという明確な宣言である。武器でカネを稼ぐということは、人を殺傷してカネを稼ぐということでもある。資本の暴力があからさまに出現する時代が、現代という「歴史」の特徴である。

 そこには、倫理や道義などということばは消される。人間にはしてはいけないことがあるという、人間の悪しき行動を制御する精神的遺産が歴史的につくられてきたはずであるが、それも蹴散らされていく。そしてその悪しき主体である資本の集積体(経団連など)や国家権力や地方自治体の教育部門が、「道徳」を人びとに強制する。

 そのような人びとを食い尽くす資本の暴虐を前にして、人びとはそれに抗うどころかその資本の意図に従属する。

 最近、様々な詐欺事件が多発している。SNSをつかって、カネ儲けのために詐欺に遭う人が増えているようだ。そのような事件が報じられる度に、その金員の多額に驚く。そんなに持っていたのか、と。ある程度カネを保持する人が、さらに「簡単に」カネを儲けようとして詐欺に遭う。もちろん被害者には同情を禁じ得ないが、しかし、なぜそんなことをしてまでカネを稼ごうとするのか、私にはわからない。

 今や、カネ儲けのためには、倫理や道義、さらにはきちんとした手続きはない。額に汗して得たカネほど尊いものはないというような正当な考えも消されている。資本に追随して国家権力(国家や地方自治体など)が、カネ儲けにはしる姿を見て、人びともそれに追随する。カネ、カネ、カネ・・・・・・

 新自由主義という最悪の資本主義が、世界を席巻し、武器を製造し、人びとを殺傷し、地球環境を破壊している。地球を生きていけない惑星にする最後の仕事として、世界中の資本家や権力者が協力している。それを人びとがながめ、なかにはオレもカネ儲けしようと焦っている人もいる。もちろん、それに抵抗する人びともいるが、その数は少ない。

 ひとりの人間の終末をみつめた私は、今や地球の終末を予想するようになった。終末へと向かう現代の歴史を記述する歴史家は、おそらく存在しないだろう。新自由主義は、歴史をも消していくのだ。

 

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ひとりの死 無数の死

2024-02-15 08:12:18 | 歴史

 胸塞ぎ、心穏やかならず、というのが、いまの私の心情である。活字を追っていても、頭のなかにはいらない。ひとりの死に、私や家族は、その悲しみに沈んでいる。時間があるのに本が読めない、だから畑に行ってひたすらからだを動かす。それによって悲しみを紛らわす。

 ひとりの死に、これほど私の心情が動揺しているのに、眼をパレスチナ・Gazaに向けると、そこには無数の死が引き起こされてる。イスラエルというユダヤ人国家が、その背後にあるシオニズムの目的を最終的に実現しようと、ユダヤ人が135年ローマ帝国によって追放され、その地を離れた後からずっと住んでいた人びとを一挙に虐殺している。

 イスラエル国家のユダヤ人兵士は、笑いながらパレスチナ人を虐殺している。Gazaという狭い地域に閉じこめ、さらに攻撃するから南部に移動せよと命じて、多くの人々をさらに狭い地域に集中させ、そこに爆弾を落としたり、地上からの攻撃を行っている。これを虐殺、あるいはジェノサイドと言うべき事態である。

 まさにナチスドイツがユダヤ人に行ったことを、今、ユダヤ人の国家であるイスラエルが行っているのである。それをアメリカや西側諸国が支えている。

 何ということだ!!

 ひとりの死でもかくも悲しみにくれるのに、Gazaでは無数の死が強制されている。母の死は、ある意味で老衰であるが、Gazaでは意図的な殺人が無数の人びとにたいして行われている。

 イスラエルに、アメリカに、イスラエルの蛮行を支えるすべての国家に、私は強い怒りをもつ。

 

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ベトナム戦争を追想する

2024-02-03 20:23:06 | 歴史

 ベトナム戦争反対の声を、高校生の頃から叫び始めた。それはもちろん、戦争が終わるまで続けられた。ベトナム戦争が、私の精神をつくりあげてきたという思いがある。

 『週刊金曜日』が、私が若い頃読んだ本多勝一の『戦場の村』その他、それらが私たちに伝えたもろもろのことを、追体験した記事を連載している。私は、これらの連載を強い関心を持って読んでいる。

 ベトナム戦争は、侵略してきたアメリカ帝国主義国家に対する抵抗闘争であった。その闘争は、明確に正義の戦いであった。

 今週号は、北から南への、山岳を通ったホーチミンルートではなく、「もうひとつの補給路」であった「海のホーチミン・ルート」について書かれていた。私は、海からのルートが存在していたことをはじめて知った。それに関する本が出ていることを教えられ、早速読んでみようとさがしたが、県内の図書館では静岡文化芸術大学しか保有していないことがわかった。購入しようと思いさがしたが、すでにこの本(『海のホーチミン・ルート』)は、高額となっていた。

 「海のホーチミン・ルート」の担い手たちを、本田雅和さんは取材している。記されているレー・ハーさん、グエン・ドゥク・タンさん、そしてその周辺にいた人々は、なんという気高い生き方であっただろうか。正義の戦い、しかしそのなかで多大な犠牲もあったであろうが、そのなかを生き抜いてきた人々は、高潔な人格をもった素晴らしい人々であることが記されている。

 私は、ベトナムでの抵抗を支援しながら、ベトナムからいろいろなことを教えられ今に至っている。ベトナムは、私にとって仰ぎ見る地である。

 今近所のアパートにベトナム人青年が住んでいるが、彼らは崇高な抵抗闘争をどれほど教えられているのだろうか。

 おそらく、私だけではなく、多くの人々がベトナム民衆の闘いに教えられ、励まされていたはずだ。だから、今ベトナムはどうなっているのかと関心を持ち続ける。

 この連載が、長期間続けられることを願う。

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視野狭窄

2023-12-18 10:27:41 | 歴史

 歴史に関わる言説が、書籍・雑誌はもとより、ネットやSNSで無数に流通している。私が若いころは、少なくとも書籍にはいい加減な内容のものはなかった。しかし今は、書籍ですら、まったく史実と異なる内容が、おどろおどろしく書き記されている。ネットやSNSはもちろんである。 

 『なぜ歴史を学ぶのか』に、こういう記述があった。

 集合的記憶が、書物や博物館からテレビ番組やインターネットの噂まで、多様なかたちをとって形成されている。トラウマ的な出来事であろうとも、国民的偉業であろうとも、集合的記憶は過去についての真実の説明に基づいているとき、アイデンティティをかたちづくる最も有効で持続性のある仕事をおこなっているといえる。一般市民は、注目を集めるようなものだけでなく、できる限り正確な歴史的出来事や歴史的経緯を知らされねばならないのである。問題は、正確性と人為性との間のバランスであり、それはまた歴史的真実とそれをどうやって立証するかという問題に私たちを連れて行ってくれる。26頁

 歴史研究者たちは、集合的記憶を形成すべく、「できる限り正確な歴史的出来事や歴史的経緯」について、人びとともに明らかにし、提供していかなければならない。そうした意識をもって研究に励むべきではあるが、しかし近年、その歴史研究が「視野狭窄」におちいっているという。リン・ハントもそれを指摘している。

視野狭窄は、業績を残すための専門特化の必要性によって悪化させられてきた職業病である。98頁

歴史家たちは、最先端の議論についていくために視点を狭隘化してきたのだ。101頁

 「業績」として、つまり歴史研究者が研究者としての「生業」を得るために、現代的な、広い視点をもたずに、ちまちまと狭隘なテーマを追究する傾向が強くなっている。しかしそれは「集合的記憶」へとつながっていくのであろうか。様々な紆余曲折を経てつながっていくのだろうが、しかし狭隘化したテーマでの研究の、「集合的記憶」への道のりはあまりに長い。

 大学でそういう研究を行うのはまだよいが、パブリックヒストリーの「現場」としての民間の研究団体でそういうことを推奨し、顕彰するのはいかがなものかと思う。

 

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歴史叙述、他国の状況

2023-12-14 10:25:45 | 歴史

 リン・ハント『なぜ歴史を学ぶのか』を読んでいるが、驚くことがたくさん書いてあって、溜め息がでてしまう。歴史研究の方法などが書いてあった、ふむふむと読み進んでいくと、各国の歴史叙述は、どこの国もきわめて主観的で、これでは歴史というのは、マジョリティや政治権力の婢のままではないかと思った。

 次の文は52頁からの文である。

・・・・最近までオーストラリアの学校教科書は、1770年にジェームズ・クックが到着したことで始まり、先住民であるアボリジニの人々の長い歴史は無視されていた。2010年に改訂された『オクスフォード・イギリス史』は、依然としてイングランド人の視点からの「イギリス」史を語っていた。ウェールズは統治の失敗と混乱に苦しんでいたが、イングランドは平和と良質の統治をもたらした。フランスの歴史は、ほとんど奴隷制や植民地化の暴力を無視して、フランスの歴史を宗主国の視点から語ってきた。奴隷や混血民族の生活は、ほとんど登場してこなかった。英語圏の学者は、この点でフランスの先達にならってきた。(中略)フランスの教科書は、21世紀の初頭に至るまでフランス植民地における奴隷制の歴史を掘り下げることはなかった。

・・・インドでは、ふたつの大きな語りが注目を集めようと競合している。ヒンドゥー・ナショナリストの語りは、インドは外国からの影響力を遮断しようと闘う本質的にヒンドゥー国家であると長らく論じてきた。そうした語りのなかでは、2世紀にわたり現在のインド支配していたムスリムのムガール朝は、外国勢力であり、野蛮で暴力的で抑圧的となる。これと対照的に、世俗的なナショナリストの歴史家たちは、イギリスがやってきてムスリムとヒンドゥー教徒の共同体的分断を持ち込むまでは、宗教がインドを分断したことはなかったと論じた。(中略)20世紀を通じて中国の歴史家たちは、中国国家の同化作用を持つ権力を強調してきたが、それは漢民族以外の民族の統合を正当化するためでもあった。文化や文明の点で漢民族以外を劣等な存在として描く者もいた。2世紀あまり中国を支配した満州人は、能力にかけ、野蛮で文字が読めない民族として描かれている。

 歴史は、当該時代の権力の担い手による支配を正当化させるための手段となっているのだ。まさにイデオロギーそのものであるといえよう。

 リンは、ヘーゲルは講義の中で、「東洋はひとりだけが自由であると知っていたし、こんにちでも知っている。ギリシアやローマ世界は、自由である者がいたことを知っていた。ゲルマン人は、すべての者が自由であることを知っている。」と語っていたとし、

 ヘーゲルにとって、東洋は、未成熟、自省心の欠如、従属性、官能性、刹那主義を象徴していたのである。

 と記す。

 歴史は、偏見の眼で、権力者や権威者が都合の良いように語られる、ということだ。とするなら、現在の歴史修正主義がはびこるのも仕方がないか、と思ってしまう。

 これらの事実を踏まえると、日本の学問的な歴史研究は、よくがんばっているという評価を与えたい。

 

 

 またリンは、こうも指摘している。 

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島崎こま子のこと

2023-04-15 15:57:59 | 歴史

 『逍遥通信』第八号の目次をみていたら、「島崎藤村とその周辺」(北村厳)という、かなり長い文が目に留まった。読み始めたらなかなか面白く、最後まで読んでしまった。

 藤村の『破戒』、『夜明け前』は読んだことはあるが、それ以外はない。しかし『新生』という小説は、読んだことはないがその内容は知っている。この文には、藤村の文学とその生が書かれているが、「その周辺」と銘打っているだけあって「周辺」のことも過去こまれている。

 藤村の妻の冬が亡くなったことから、幼い子どもたちの世話をするということから、姪(藤村の兄の子ども)の久子とこま子が藤村家にやってきた。久子はしばらくして結婚のために出ていき、こま子が残った。そのこま子と叔父である藤村とが結ばれて子までもうけてしまう。藤村は、兄に後事を託してフランスに逃亡する。それらのことを、藤村は『新生』という小説に書いた。こま子にとっては、その事実と、それが公にされたことから、この後数奇な人生を歩む。

 この文には、こま子のその後のことが詳しく書かれている。こま子は伯父が住む台湾に行ったり、自由学園で働いたり、さらに京都に行き、京大の洛水寮、その後京大社研の合宿所の賄い婦として働く。その間、学生運動で逮捕された学生たちの救援活動に入りこむ。そして10歳年下の京大生・長谷川博と同棲、そして一女をもうける。紅子である。紅子を私生児としたくない、ということから、長谷川と結婚する(1932年12月4日、1948年正式に離婚)。しかし何と、長谷川は別の女性と駆け落ちをしていった。

 こま子は、貧困の中、紅子を育て、同時に解放運動犠牲者救援会(現在の国民救援会)の活動を継続し、何度も逮捕されるが非転向で生き抜いた。しかし1937年3月、行き倒れ同然となり、「養育院」に収容される。退院後、こま子は木曽妻籠に。紅子は研究者となり、母・こま子を東京に呼び寄せた。

 さて、島崎藤村について、戦争協力の問題など言いたいことはたくさんあるが、ここでは長谷川博について書く。

 長谷川博は、『日本社会運動人名辞典』にでている。しかし、こま子はでていない。1903年に生まれた長谷川は、二高を経て京都帝大へ。河上肇、山田盛太郎らとの研究会を通してマスクス主義者となる。京大社研書記長、学連委員として学生運動のリーダーとなる。その後共産党に入党、何度か逮捕される。戦後は共産党再建幹部団の一員となり、党再建に従事。1951年から法政大学の教員となる。米騒動やパリ・コミューンなどの研究を行う。マルクスの『フランスの内乱』などを翻訳。

 長谷川博の法政大学時代のことを、政治学者増島宏が書いている。面倒見の良い学者であったようだ。その時の長谷川の伴侶は、章子という。平凡社につとめていたようだ。

 長谷川章子は、往年の学生運動の闘士で、戦後は京都大学人文科学研究所の図書係をしていて、その後岩波書店、平凡社の編集者となった。

 長谷川章子は、1960年に刊行された『戦後婦人運動史』Ⅳ(大月書店)の共著者でもある。長谷川章子「戦後日本の婦人運動」はその本に書かれているようだ。浦田大奨は「占領期における女性労働者問題と歴史把握」(熊本大学社会文化研究13 別刷 2015)で、長谷川をこう記している。

占領期が女性たちにとってどのような時代だったか。これまでもたびたび言及がなされているが、
女性史研究会(元、民科婦人問題部会)に所属し、出版社に勤務しながら女性労働運動研究をおこなっ
ていた長谷川章子は、女性たちのおかれた状況を女性労働者と女性団体に即しながら次のように区分
して説明している。
(1) 敗戦直後、「婦人の解放」「労働組合の団結権」指令の直後から、四六年末の「女性を守る会」
結成、二・一ストにいたる時期。
(2) 二・一スト禁止後、四七年三月、戦後第一回国際婦人デーから、四八年八月、平和確立婦人
大会をへてその年の末までの時期。
(3) 四九年はじめから、五〇年七月、婦団協(婦人団体協議会―註)結成、無期休会後まで
長谷川の区分を参照してみると、女性の解放が声高に叫ばれ、参政権の獲得や女性団体の結成が目
覚ましい(1)の時期から、レッドパージをはじめ、企業整備にともなう労働者の馘首や配置転換など、
(2)(3)にいたる逆コースへの転換の時期であることが指摘できる。長谷川は論考のなかで、この時期の
政治と「婦人運動」の動向をていねいに追っているが、概説論文という性格上、個々の女性たちの声
を拾いあげて論を展開するまでにはいたっていない。

 ここでは長谷川章子について言及することではないので、これ以上探索はしないが、この女性は、長谷川博と駆け落ちをした女性(当時21歳)であるかどうかはわからない。

 いずれにしても、藤村にしても、長谷川博にしても、こま子を踏み台にしたような気がする。踏み台にした者たちは、成功の階段をのぼる。無情である。

 この長い文を読んで、藤村よりもこま子に関心をもった。

 

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「私たちは再び偉大な大国になるべきだ」

2023-04-09 13:32:20 | 歴史

 『世界』5月号には、秀逸な論文が並ぶ。さすが『世界』である。

 論文ではないが、スヴェトラーナ・アレクシェーヴィチへのインタビューが掲載されている。これはTBSの「報道特集」でも放映されたものだ。『世界』では、ロシア文学者の沼野恭子さんのインタビューが付け加わっている。

 スヴェトラーナ・アレクシェーヴィチの発言のなかに、「私たちは再び偉大な大国になるべきだ」ということばがある。この文は、こういう脈絡から発せられている。それを引用しよう。

 ロシア国民は、ここ何年もの間、虐げられ、騙され、盗まれてきたので、プーチンが国民を焚きつけるためにプロパガンダとして用いたスローガンを内心、待ち望んでいたのです。それは、「ロシアはこんなにも長い間屈辱を味わっていてはいけない」「 ロシアはうつむいていてはいけない」という言葉でした。

 そして「つまり」のあとに、前記の文が続く。

 一度「大国」として自他共に認識していた国家とその民は、「大国」ということばの呪縛から離れられないのである。

 ソヴィエト連邦時代、強制収容所などに象徴されるスターリン体制があっても、ロシア国民はかつての「大国」時代を回想するのだ。みずからがみじめであればあるほど、自分とは直接関係はないが、しかし自分自身が属していたそれに、みずからの栄光を投映するのだ。

 ソヴィエト連邦時代、そしてその後のロシアによる、国民に対する権威主義的な支配、また同時に周辺の国々に対する圧迫と抑圧、それを学んだ私は、ロシアという国家の、そしてまたプーチン政権がやることの「狂気」を客観的に見つめることができるのだが、それを知らずにいると、プーチンによるウクライナ侵攻が周辺の国々にどれほどの脅威を与えているのかを理解できない。

 「偉大な大国」に属するロシア国民は、「偉大な大国」に依拠すればするほど、周辺の国々にとってのロシアの脅威を想像することができないし、他方ロシアによる他国への圧迫をも支持してしまうのだ。

 自らが属する国家を「大国」だと認識するとき、国家と国民は一体化され、国家が他国に行う施策を、支持してしまう。とりわけ、かつては「大国」であったけれども今はそうでないという国家に属する人びとが、「大国」であった時のことを懐かしく想起するとき、過去の加害行為を忘れ去り、過去の周辺の国々への圧迫や侵略を正当化し、現在行われている周辺の国々に対する強硬な姿勢を支持し、国民も煽る。

 ロシアの民も、日本国の民も、その点で共通するのではないかと思う。

 日本において「私たちは再び偉大な大国になるべきだ」ということばは、対中国関係で露わになる。かつての大日本帝国の時代、中国人を「チャンコロ」と呼び、中華民国を蔑み、日本よりはるかに劣る国家として、大日本帝国の国民は認識していた。しかしその中国が、はるかに巨大な経済力をもち、またそれに応じた軍事力、外交力を発揮するとき、日本人のなかには、日本は「再び偉大な大国になるべきだ」という意識が生まれ大きくなっているのではないか。

 長い歴史を振り返れば、世界でいつも「帝国」として存在し続けたのは、中国の王朝であった。あの兵馬俑、台湾の故宮博物館に所蔵されている品々をみるにつけ、中国が過去一貫して大国として存在していたことを思う。たかが近代化で中国より一歩進んでいたことを唯一のよりどころとして中国を蔑視するのは、歴史の無知をさらけだす。

 今日本国は、中国を仮想敵として、南西諸島に自衛隊を派遣して、アメリカの尻馬にのって「臨戦態勢」を構築しようとしている。愚かというしかない。

 『世界』5月号には、宮城大藏さんの「失われたバランス」という論攷がある。戦後日本国家は、憲法の平和主義を掲げながら、基本的にバランスをとりながら外交の舵取りを行ってきた。しかし今は、アメリカ一辺倒の、バランスを欠いた外交政策を展開している。

 その論文のなかに、「アメリカの対外姿勢はしばしば急激に大きく変化し、その際には、他国を気にせずアメリカの都合で動くことがある」という指摘がある。その通りである。アメリカは、きわめて独善的な国家であって、それは一貫していて、アメリカの外交史を少しでもみればすぐわかることである。

 現在のようにアメリカ一辺倒で終始することはきわめて危険である。「意思疎通と信頼醸成」を、中国始め多くの国々と築いていくべきである。

 『世界』の論文を読みながら、いろいろなことを考えている。こうした刺激があってこそ、平和を志向することばは生きてくる。学ぶことは、ほんとうに大切だと思う。

 

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人間を維持すること

2022-05-14 16:56:09 | 歴史

 スヴェトラーナ・アレクシエーヴィチ の『戦争は女の顔をしていない』を読んだとき、ロシア軍は大日本帝国の軍隊とよく似ていると思った。大日本帝国の軍隊は、上意下達の組織で、上官の命令は天皇の命令だと思え、と、いかなる理不尽な命令でも従うことを義務づけられた。ロシア軍も同じ軍人精神をたたき込まれるようだ。

 また日本軍は「生きて虜囚の辱めを受けず」と、捕虜になるくらいなら死ねと命じられた。捕虜になることは不名誉のことで、軍隊では差別され排斥された。ロシア軍もそうした特徴をもつ。

 兵士は使い捨てなのだ。今回も、ロシア軍兵士は使い捨てられている。ロシアの「兵士の母の会」の記事があった。

 人権後進国における軍隊や兵士は、大日本帝国の軍隊、ロシア軍のようになる。

 そして残念なことに、そうした軍隊は戦時には残酷な行為に走る。

 兵士は平時にはふつうの息子であり、夫であり、兄・・・なのである。しかし戦時ともなると、残虐な行為をもできるようになってしまう。人間には、おそらく獣性があるのだろう。だからこそ、戦時という「非常事態」を現出させないようにしなければならない。平和を維持することは、人間の人間であることを維持することでもあるのだ。

 

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