こういう人間が、統一教会党=自由民主党の議員となる。
すでに亡くなられた田村貞雄氏は、いろいろ研究しながら、その研究するなかで考えたこと、新たに発見したことなどを電話で話すことをされていた。おそらく話しながら自らの頭の中を整理されていたのだろう。
自分自身が何かを考えようとしているとき、その構想を、初期段階から誰かに語りながら確かなものにしていくという作業は必要だ。語るなかで考えをまとめ、その妥当性を確かなものにしていく。しかしながら歳をとると、そういうことがなくなっていく。私のように、今までそういう話をしていた研究者が亡くなり、そのためか研究意欲はがた減りとなってしまっている。それでもなんらかの発表の機会を保持した方が脳にもよいと思い、講座を引き受けてはいるのだが、その準備が進まない。
いま考えているのは、近代日本(1853~1945)と現代日本(1945~2023)に、なんらかの共通性があるのではないかということである。この二つの時代を貫いているのは、アメリカ合州国の存在である。ペリー来航により近代日本が始まり米軍に降伏することによって近代日本が崩壊した。現代日本は米軍に占領されることにより始まり、その後は安保体制下の対米従属国家となり、そして今アメリカの世界戦略下、中国を敵視することにより、現代日本を崩壊に導こうとしている。
近代日本が「大国」として勃興する契機となったのは日清戦争(1894~5)である。近代日本国家は、「眠れる獅子」とみなされていた中国に勝利し、世界を驚かせた。日本が中国(清)に勝利したことで、中国は「弱い」と認識した欧米諸国が清に殺到し、そこから多くの利権をせしめようとした。
そして今。中国は世界の中の経済大国として成長している。かつてはソ連がアメリカの対抗馬としての地位を保っていたが、今やその面影はなく、最後のあがきをおこなっている最中である。中国は世界の経済大国から軍事大国へと成長し、アメリカの覇権と競い合う地位にまで台頭した。
覇権を維持したいアメリカは、そうした中国の台頭を何とか抑えたいと思っている。だが、単独でそれを行うほどの力を持っていない。
そこで、アメリカは、隷属化する現代日本国家に、あの日清戦争のような戦争をやらせようとしているのではないか。日清戦争後の「北清事変」(1900年)では、日本軍は西欧列強の一員として、義和団を鎮圧する役割を負った。
その後日本がさらに中国大陸への侵出を図ったことは、周知のことである。近代日本にとっても、日清戦争や「北清事変」は、大陸雄飛への足がかりとして、日本の支配層のDNAに刻まれているだろう。
現代日本へのアメリカの期待と日本の支配層のなかのDNAが混じり合って、現在の岸田政権の軍事政策、外交政策となっているのではないか。
だが彼らが視野に入れていないのは、近代日本が中国侵出を強めるなかで近代日本が崩壊していったことである。それをみれば、岸田政権の政策は、現代日本崩壊への道であることがわかる。
マルクスの言葉に、「歴史は2度繰り返す。一度目は悲劇として、二度目は喜劇として」がある。1945年はたしかに悲劇であった。二度目は、おそらく世界史に、歴史に学ばなかった日本の無惨として、無能な国家の事例として刻まれるだろう。
昨日届いた『週刊金曜日』は、「憲法特集2023」。5月になると、多くのメディアが憲法に関する特集を行っていた。最近はそれが下火になって、「憲法なんてあるの?」という状況もある。そういう中で『週刊金曜日』が憲法特集を行うことは価値がある。
さて、河野洋平と中島岳志の対談が主要記事となっている。自民党の中でも良識派であった河野洋平が、現在の政治状況を憂えているのだが、そうした状況をつくりだす契機はあった。河野がこう言っている。
私はこの制度の導入に直接かかわりましたから、責任も感じていますし、いま思えば、小選挙区制は取るべきではなかったと思います。小選挙区制によって、世論が段々反映されなくなってきていて、「民主主義」の名のもとに独裁とまでは言わないけれど、独りよがりの政策がどんどん進んでいます。悪い状況になっていると思います。
「政治改革」をしなければならない・・・という叫び声とともに、小選挙区制の導入が図られた。はっきりいって、その中心にいたのは小沢一郎ではなかったか。「二大政党制」をつくる、ついては日本社会党はつぶすという目論見をもって進め、メディアも大いにそれに協力した。久米宏など当時のキャスターたちはその尻馬に乗って、「政治改革」に賛成しない奴はろくでなしであるかのように叫んでいた。ほとんどの政治学者もそれに唱和した。だが、朝日新聞の政治記者・石川真澄だけが強く反対した(それ以外のほとんどのメディア関係者は、小選挙区制導入に積極的であった)。
私は小選挙区制の危険性を指摘していた。しかし小選挙区制に反対する人たちは、多くはなかった。「政治改革」ということばにだまされ、そのなかの毒饅頭である小選挙区制をまるごと呑み込んだのだ。
政党では、日本共産党が反対した。私はこの点について、共産党を大いに評価している。日本社会党は、小選挙区制では議員を当選させられない現状があるにもかかわらず、これに賛成した、バカな政党である(このころ、社会党に対して抱いていた期待は無残にも消えてしまった)。
日本社会党については仲良くしている人たちが社会党であったことから、批判は抑えてきたが、最近かれらも社会民主党を離れたので、自由に批判できるようになった。社会党の国会議員の多くは労働組合からの「上がり」として議員にまつりあげられたので、話をしていても、きちんとした定見を持っている人は少なかった。日本社会党の内部で、「烏合の衆」として浮遊していただけである。唯一一定の定見を持っていた議員(若くして亡くなられた)も、自民党からのプレゼント攻撃に負けて所信を捨てて小選挙区制に賛成していった。
当時社会党の議員であった某氏には小選挙区制に賛成したことがいかに日本社会党を破滅へと導いたのか、その後の社会党議席数などをそえて説明し、近年やっと「間違いだったかもしれない」という発言を導き出した。
社会民主党は、細川内閣時のみずからの行動を振り返るべきであり、また同時に村山政権時の変質も点検すべきであるにもかかわらずいっさいしていない。
いずれにしても、現在の劣化した政治の起点は、小選挙区制導入にある。その責任を負うべきは、まずもって小沢一郎である。彼はいま、何を考えているのだろうか。
今週号で、元議員の尾辻かな子が「大阪で維新圧勝を招いたからくり」を書いている。「大阪維新の会」は、知らなかったが、府議会議員の数を112(橋下徹府知事就任時)から、79に減らしてきたのだそうだ。そうなると、選挙区の多くは小選挙区、一選挙区から一人の議員選出という具合になったのだという。一人区の割合は68%で、全国一になっているようだ。そうなると。大阪のメディアに後押しされ、大阪市民の大阪ナショナリズムとあいまって、「大阪維新の会」が圧勝するという結果になったというわけだ。小選挙区制は、多様な民意を削いでいく、民主主義とは逆行するのである。
私は大阪とは縁がないので、大阪市民が「大阪維新の会」の悪政の被害を受けても、同情する気持ちは一切ない。大阪府や大阪市の税金がIRにつぎ込まれ、社会福祉や教育の予算が大幅に削減され、市民がみずから「身を切る改革」に賛成するのであるから、遠くから「がんばれや」と「声援」をとりあえずしておこう。
しかし善良なる市民は、どういう選挙制度が民主主義を支えるのか考えるべきだと思う。
おそらく荒廃した日本の姿は、関西から現出してくるのではないかと予想している。
『東京新聞』1面と7面は、坂本龍一と『東京新聞』との関係が報じられていた。坂本龍一から『東京新聞』に、坂本が神宮外苑開発に反対していることを記事にしてほしいという連絡があったそうだ。それに関するやりとりが書かれているが、なかなか感動的である。
坂本と私とは同じ世代である。坂本が「自然豊かな公園や墓地が好きですし、樹木の多い道を歩くのが好きです」というように、私もそうだ。わがやは山茶花に囲まれ、花壇もある。実家はホソバ(槙)で囲まれていて、つつじ、サクランボ、あおき、つげ、くちなしなどたくさんの樹木がある。実家の縁側から、ぼーっと庭を眺めるのがすきだ。心が落ち着く。
そうした樹木と親和的な者にとって、あの神宮外苑の樹木が大量に伐採され、金もうけをたくらむ明治神宮や三井不動産や東京都、さらに政治家のあくなき欲望の犠牲になるなんて信じられない。
坂本が『東京新聞』を選んだのは、「外苑問題を追う数少ないメディア」だからという。
確かに『東京新聞』は、現在のところ読む価値のある新聞であることだけは確かだ。ジャーナリズム精神を存分に揮っている。
私はことあるごとに、『東京新聞』にしたら・・・とすすめている。歩いて5分くらいのところに、中日新聞東海本社があるのに、である。『中日新聞』(東海本社版)は、地域ネタで埋め尽くされ、批判的精神は紙面にはほとんど発見できない。
日本人は、とてもおめでたい人々によって構成されていると思う。
韓国の文鮮明を教祖とする統一教会が、日本から多額のカネをせしめて、また熱心に進行を続ける献身的な女性を韓国に送り続ける。統一教会にとって、日本は収奪の対象である。その収奪に積極的に協力しているのが、統一教会党=自由民主党である。
今回の選挙でも大きな変動はなかった。統一教会に厳しく対していた共産党は退潮し、日本の選挙民は統一教会が日本で暗躍していることを問題にしないという姿勢を示した。選挙民はそういうことを意識していなかったと主張しても、結果的にそうなのである。それが端的に、こういう情報として現れた。
統一教会の解散命令請求は困難な情勢 文化庁事務方トップは「全く見通しが立っていない」
そうなるだろうとは予想していた。官僚は統一教会を解散させる気持なんかもってはいなかった。自由民主党という政権政党にそのつもりがなく、今後とも統一教会とは蜜月関係でいたいと思っている。自由民主党という政党は、日本の信者が貧困の底に生活しながらひたすら献金することなんかはどうでもよいのである。日本の女性が、合同結婚式により、どこかに連れ去られても「個人の勝手でしょ」というわけだ。
だいたい日本の政府は、国民から集めた税金を湯水のごとくアメリカに献上している。献上することによってみずからの政治家としての地位を確保できると考えているからだ。
日本の庶民は、もはや「むつかしいことは考えないで生きていく」ことこそが大切なのだ。その「むつかしいこと」には、政治が入る。
日本の支配層は、ここまで日本の庶民を育ててきたのだ。文科省による国家統制的な教育は、その内容だけではなく、生きる態度まで教えてきた(「観点別評価」)。その基本は、従順であることだ。従順でいさえすればソンはないよ、というように。いまやそれが社会を厚い雲となって覆うようになっている。従順でない者に対しては、積極的に排除することも行う。
私は福沢諭吉を積極的に評価するものではないが、「独立」というあり方がほとんど失われてしまっていると思う。「独立」を保つために明治日本が繰り広げた内政外交は大いに問題があるが、しかし「独立」を保つためという大義名分は正しい。今の、日本の支配層にはない精神だ。カネがもうかれば何でもいい、という殺伐とした精神、それが日本の国土に蔓延している。
昨日、耳鼻咽喉科に行った時も、声が出ないので症状とかを紙に書いていった。
電話がくるが、声が出ないので受けないでいる。しかし同じ人からなんどもかけてくる。以前にも声が出なくなった時があり、その時、このブログを紹介した。読んでいてくれれば、なにゆえに電話にでないのかわかるだろうに。しかし、読んでいる気配はないままに来ている。
おそらく選挙結果についていろいろ話したいのだろう。しかし、私は選挙には醒めているので、彼の勢い込んだ話に冷水を浴びせるようなことしか言わない。
社会民主党、共産党の退潮が明確である。予想したとおりである。社会民主党は、今や福島瑞穂党となって、公的な政党ではないかのようだ。大椿さんが国会に議席を得たにもかかわらず、社会民主党がそれに対応して何かを始めたようには見えない。大椿さんの演説はなかなかすごい迫力である。YouTubeチャンネルでみたが、それぞれの力が、発揮されていない。
共産党には、新陳代謝がなく新鮮さがない。力がある人が集ってこないのである。それでも同じ指導者がいつも表舞台に出て何かを話している。これでは伸びるわけがない。
どの政党もそうだから言っても仕方がないことだが、総括はしない(反省しない)、総括しても現体制を維持するための総括となっていて、変化が見られない。もうだめだな、と思う次第。
立憲民主党の現執行部は、立憲民主党の評価されてきた部分を消そうとして頑張っている。執行部を変えようという動きがないから、立憲民主党全体が衰退の方向へと向かうことを是としているのだろう。
だから、政治に期待することは何もない。それが私の認識である。
昨夜はひどい咳で目が覚めた。今までほとんど咳なんかでていなかったのに、昨夜はひどい咳に苦しんだ。
昼間はよいが、夜は苦しい。地獄のエンマ大王が夜になるとやってくるような感じだ。眠っていると、かけている布団が様々に変化する。同じ布団なのに、重くなったり、かたちが変わったり、とにかく私が苦しむように変化する。
22日からの夜は、のどの痛みと喉全体がはれているのを感じ、眠っているのか起きているのか、ただ苦しいだけの時間が過ぎていった。
熱はない。
早くこの苦しみから脱したい。もう東京にはいかないつもりだ。
21日から喉に異変が起こり、今は声が出ない。22日~24日まで、夜間は喉が思い切り腫れ、痛くてぐっすりと眠られなくなった。喉の痛みが快方に向かったかと思えば、声が出なくなった。
おそらく18日に東京へ行ったことにより、何らかのウイルスか細菌に感染してしまったのだろう。マスクをしていたが、油断をしたこともあった。すこしの油断でこのような状況であるから、油断大敵である。東京は、ウィルスや細菌が待ち構えているのだろう。
このため、農作業にもいかず、ひたすら寝ている状態である。
今日、耳鼻咽喉科に行き、声はつかわなければ戻ってきますよ、といわれた。沈黙していることがよいようだ。
日本の宗教史をひもとくと、近代の初発で大きく変わる。それぞれバラバラにあった神社は統合され、近代天皇制国家を支える、まさに国家神道としての地位を確立し、国民に強制された。それは植民地でも行われ、そこに住む住人たちにも神社参拝が強制された。
そして、敗戦となり近代天皇制国家は瓦解した。天皇制は残ったが、大日本帝国憲法や教育勅語などにより支えられた近代天皇制国家の宗教原理が国民に強制されることはなくなった。
しかし神社神道の担い手たちは、近代天皇制国家では優遇されていた(つまり利権にありついていたのだ)のに、日本国憲法などの戦後改革で利権を失ったことから、その利権を何とか回復しようとしてきた。近代天皇制国家で同じく利益を得ていた政治家らと結託して、近代天皇制国家の復活をたくらみ、その時代の価値観を墨守しようと生きてきたのだ。
だが彼らの価値観は、カネのためならそれを捨てることもある。明治神宮の外苑の再開発事業で神宮の木々、それも明治神宮建立時に全国から寄付された樹木であるにもかかわらず、それを平気で伐採しようとしている。
要するに、神社本庁に巣くう者たちの究極の目的は、利権の復活であり、またカネなのだ。明治神宮にはカネにまつわる醜聞がある。神社政治連盟の本部は神社本庁内にあり、それは明治神宮に隣接する。
醜い!実に醜い!
神社庁が統一地方選候補に送りつけた「公約書」 「LGBT理解増進法案」国会提出の機運に水を差す
車を運転しているとき、NHKFM放送か、CD(SDカードに録音しておいた音楽)を聴く。今は中島みゆきの唄が多い。
さてNHKFMで、レナード・バーンスタイン指揮の、ヴェートーヴェンの第九を流していた。その第九は、ベルリンの壁が崩壊して冷戦体制が終焉を迎える、という期待の中で演奏されたものだ。1989年、希望があった時代である。
東西ドイツや英米の演奏者、合唱も東西ドイツの人たちによるものである。ユーチューブで聴くことができるので、今聴いているところだ。
聴いていると、演奏は丁寧で優しく(特に第三楽章)、第四楽章は迫力あるものであった。第四楽章。重厚な弦の演奏が歓びのうたを導いていく。それはときに重厚に、ときに優しく軽やかに響く。合唱がはいるまえの歓びのうたの演奏は、まさに歓びに満ちている。そして自由を謳いあげるのだ。自由、自由・・・・
自由に向かって行進しよう、と演奏は進む。そして自由がやってくる。人びとは自由のなかでくつろぐのだ。自由は、万人に与えられなければならない。それなしに平穏ではない。
万人が、自由のうたをうたう、奏でる。
希望があった時代、高らかに自由がうたわれた。
希望があった時代があった、ということは、再び希望がある時代がやってくるかもしれない。
自由のうたをうたい続けよう。
菅政権以降、日本学術会議に対する政権側からの攻撃が続いている。あまりに理不尽な、加藤陽子さんらを学術会議会員に任命しないという暴挙から問題となり、さらに学術会議の独立性を破壊しようと様々に統一教会党である自由民主党と創価学会=公明党の政権による策謀が続いている。
政権は、悪だくみを実現しようと学術会議改正法案を提出しようとしたが、批判が強く法案提出を断念した。そのことをメディアは報じているが、
『東京新聞』は、こう報じている。事実を事実として書いている。
日本学術会議、改正法案提出を政府が見送り 「まだ終わらない」メンバーから疑念消えず
さて『朝日新聞』は?
「ギリギリの方策」が一転提出見送り 政権、学術会議へ強まる不信感
この記事、記者はいかなる立場に立って書いているか。見出しからして、政権の立場である。今の朝日には、こういう輩しかいないのであろうか。『朝日新聞』、ジャーナリズムの世界から逃亡して、もう長い。もう終わったメディアというしかない。
島崎こま子の人生の軌跡で、どうもよくわからないことがある。そこで、森田昭子『島崎こま子 おぼえがき』(文芸社、2006年)を読んだ。若いころ妻籠の小学校の教員をしていたころ、当時妻籠に住んでいたこま子とあったことがあるひとだ。
森田は、老年になって、自分が会ったこま子についてまとめてみようと決意し、133ページの本を書いた。表紙には、こま子の写真。知的で落ち着いた感じの女性である。いろいろな文献や南木曽町博物館の資料をつかって書いている。
本書には新たなことが記されていた。こま子が台湾に行ったのは、1918年11月ころであること、台湾から帰還後、羽仁もとこの自由学園に住み込みで働くようになったとほかの文献にはあったが、本書では羽仁家に住み込みで働いた、とある。
長谷川博が3・15事件でつかまり、4年間獄中にあり、1932年に出獄したことは共通である。脱獄後、こま子のところで働いていた21歳の女性と男女の関係になったこととなっているが、その後こま子と長谷川は京都から東京へと住居を移し、1933年9月に二人の間の子「紅子」が生まれているから、若い女性と博が「かけおち」したということはどうなのだろうか。
島崎こま子についていろいろな本があるが、記述に異同があるので、後学者は苦労する。
【追記】加藤千代三『駒子 時代が生んだ愛の物語』(アポリア出版、1985年)も図書館から借りて読んだが、この人は藤村に引き立てられて出版社に雇用された人。藤村に共感をもって書いているし、小説風の書き方になっている。だいたい「駒子」がおかしい。漢字で書くなら「高麗子」でなくてはいけない。こま子は、朝鮮半島で生まれたから「高麗」子なのだ。これは文献としての価値は小さいと思う。
『週刊金曜日』最新号の特集は、『安倍晋三 回顧録』である。私はこうした本を買うつもりはない。年金生活者は簡単には本を買えなくなっている。
特集では、回顧録について六人が原稿を寄せ、インタビューに応じている。
政治学者の御厨貴がインタビューにおうじているが、安倍は「ものすごい人間不信だった」と語っている。そうなのだろうと思う。安倍は「権威」とか、過去から培われてきたシステム(たとえば御厨が言う「自民党の中で、長い間培われてきた、合意形成に時間をかける伝統」や、内閣法制局の見解を尊重する、日銀は独立性を守る・・・)とか、そういうものに敵意を抱いていたのだろう。その裏にはなにがあるかと考えるとき、私は「無知」であったと思う。彼こそ、政治権力を握った「無知」の上に居直った者なのである。だからこそ、無知な烏合の衆が、安倍に喝采を送ったのだ。
文科省の教育政策は、感情豊かで知的な子どもを育成するのではなく、とにもかくにも従順で、国家への忠誠を誓う人間をつくりだし、戦前の教育を復活させようと少しづつ準備してきた。勉強なんかしないでも、部活動だけやっていればいいのだという雰囲気が、学校では蔓延している。学校は卒業の資格を得るためだけの存在。あとは部活動に汗を流し、上意下達の精神を叩き込むのだ。そういう者たちが、喜んで企業に迎え入れられる。
そういう学校の在り方が、「無知」でもよいのだ、考えなくてもよいのだ、という人間を生み出し、そういう人間が先人としての安倍に喝采を送ったのだ。
それはまた劣等感の裏返しなのだが、知的な権威や、様々なシステム、それらは学ぶという行為が求められるのだが、学ぶことをしない安倍を筆頭とする者たちは、「無知」のまま居直り、知的なもの、システムなどを敵視し、それをぶち壊しにかかったのだ。
思考の訓練をうけていない者たちは、みずからを客観視する姿勢はもたない。自分自身がすることを邪魔する者は「こんな人たち」であり、「敵」なのだ。彼らには、なぜ自分がやろうとすることに抗議したり反対するのかはわからない。無知で、思考しないからだ。
そうしたことを8年間やって、安倍は「自民党を完全に保守イデオロギーで塗り替えた」(御厨貴の発言)。この場合の「保守イデオロギー」とは、無知(学ばない)と思考しないということであり、自由民主党を烏合の衆へと変えたのだ。御厨は、それを岸田も「引き継いでいる」という。それはそうだ、そうした集団のトップは、無知と思考しない者として存在しなければならないからだ。
自由民主党だけではなく、そうした者は、今や社会に増えている。
『週刊金曜日』で、田中優子がこう書いている。
「今回の台湾有事への政権与党の「期待」は、米国主導に見えるが実は歴史の繰り返しで、米国のせいにしながら、アジアに軍事エネルギーを向かわせ、日清・日露戦争、満州事変の時のように能動的に戦争を起こし、日本国内に団結と変化が生まれるように仕向ける。そうなるかもしれない。しかし果たして次の戦争に「戦後」はあるのか。」
同感である。無知と思考しない面々は、もし中国との戦争が始まったら、日本は、1945年の焼け野原ではなく、もっと無残な「破滅」になることを予想できない。
1945年の敗戦は必至であったことは、開戦まえから明確であったにもかかわらず、日本の支配層は戦争へと突き進んだ。もっとも無謀な意見(それは無知であり、思考しないということでもある)こそが「勇気あるもの」だという雰囲気の下、支配層は無謀な意見を採用して戦争へと突き進んだ。そうしたDNAは、日本の支配層に伝えられている。安倍がその支配層の重要な一員であった岸信介の孫であり、また安倍は岸の政治を最大限に評価していた。安倍は、忠実な戦時体制の後継者なのだ。安倍が戦時体制をつくりだそうとした背景には、日本の支配層の無知と思考しないというDNAが力強く復活してきているのである。
したがって、彼らと対峙する手段方法は、「無知」を討つこと、思考を豊かにすることであり、そのために豊かな感性をもつことなのだ。「知は力なり」ということばを輝かせたい。
『逍遥通信』第八号を読み、島崎藤村と愛人関係になり、その後社会運動(救援活動など)に参加した島崎こま子に関心を抱き、梅本浩志『島崎こま子の「夜明け前」』(社会評論社、2003年)を、図書館から借りて読んでみた。
『逍遥通信』第八号掲載の北村巌(「島崎藤村とその周辺」)も、本書の著者も、共通するところは、お二人とも歴史家ではないということだ。
私が何らかの人物を描くときには、まず先にその人の生まれてから亡くなるまでの年表を作成する。そして基本的には、時系列で描く。ところが、お二人の記述は、行ったり来たり、またあまり関係のないことをも書き込む。こま子と関係のないことでも、読んでみればなかなか面白い興味深い記述なのだが、本筋からはずれる。梅本は、京都大学の戦前の学生運動を詳しく描いているが、それはそれで面白く大いに関心を持ったのだが、最終章の「「狂」の世界」はいらないように思えた。
北村の文は、島崎藤村についてが主題であり、こま子は「その周辺」になるだろうから仕方がないが、歴史家の目からすると、わかりにくいことが多かった。
ノートにメモを取りながら読み、さらにわからないところを梅本の本で埋めていくのだが、それでもよくわからないところがあった。こま子が伯父島崎秀雄の住む台湾にいく、帰還は1919年で台湾に行って一年後だというから、1918年に行ったのだろうと予測できるが、しかし台湾行きの正確な年は書かれていない。これは梅本の本も同様である。
京都に行き、こま子は京都大学の学生活動家・長谷川博と同棲するようになるが、北村は、こま子が34歳、長谷川が24歳と書く、しかし梅本はこま子35歳、長谷川25歳と書いている。
長谷川は3・15事件で逮捕され、4年間獄中に入れられた。そして1932年釈放される。その後、二人は上京、1933年9月紅子が生まれる。そして同年▢月4日正式に入籍する、とあるが、その▢が12か、3かわからない。さらに博が若い女と駆け落ちするのだが、流れからいえば東京にいるときにそうなった、ということだろう。梅本も長谷川とこま子は1932年に上京した、と書く。しかし、その若い女性というのが、梅本では「京都・丸太町で報復のプレッシングの仕事をしている」ときに雇った21歳の女、と書いている。本筋とは関係ないが、「このような裏切りにもかかわらず、こま子は出獄ししてきた夫の求めに応じて身体を任せる。そして妊娠。翌1933年に出産する。」とあり、では「駆け落ち」はいつのことだろうか。
歴史を勉強していると、「いつ」というのが気になってしようがない。おそらく北村も、梅本も、文学研究者なのだろう。
しかし、このこま子について少し書いてみようと思っているので、事実を確定するために、ほかの本も読まなければならない。