浜名史学

歴史や現実を鋭く見抜く眼力を養うためのブログ。読書をすすめ、時にまったくローカルな話題も入る摩訶不思議なブログ。

第五福竜丸事件の記述について

2011-05-29 17:13:49 | 日記
 何度も記しているが、今回の福島原発の事故に関わって、わたしたちは、ヒロシマ・ナガサキ、第五福竜丸の事件を振り返り、日本における核問題の歴史として、きちんと位置づけなければならないと思う。ニューヨーク・タイムズの4月15日付けには「フクシマとヒロシマ」という記事があり、またザ・ネイションにも「ヒロシマからフクシマへ」(3・15)という記事がある。原発事故は、ただ単に原発事故として片付けてはならない大きな問題を抱えているのである。日本の論者にも、ヒロシマ・ナガサキに言及する者もある。たとえば『現代思想』5月号の関論文。

 そして特に、第五福竜丸の事件こそ、日本の原発推進政策に関わるものとして見直されなければならない。

 そこで私は今、『焼津市史』(通史編 下)を読んでいる。焼津市の歴史にとって、この事件はきわめて大きな事件である。今、フクシマが世界的に有名な地名となっているように、1954年当時、ヤイズという地名は世界に発信された。たとえば1954年10月10日のニューヨークタイムズには、久保山さんの葬儀が執行された記事が掲載されている。

 だがしかし私は、該当箇所を読みながら、首をかしげざるを得ない記述を発見してしまうのだ。たとえば、まず最初に福竜丸事件の資料についての記述がある。こういう記述は、資料編かあるいは末尾にもっていったほうがよいのではないか。
 
 「ビキニ水爆実験と第五福竜丸」の項目には、第五福竜丸とアメリカの原水爆実験(キャッスル作戦)が混然と記述されている。第五福竜丸の被災とアメリカのキャッスル作戦とは分けて記述した方がよかったのではないか。第五福竜丸の被災、続いてキャッスル作戦の説明があって、「その後第五福竜丸は3月14日・・・・」とあり、その直前の3月19日の危険区域拡大について書かれている箇所と時間が前後しているし、被災の記述がキャッスル作戦によって分断されてしまっている。

 また536ページ。「焼津港の(放射能に汚染されたー引用者注)廃棄漁船数が108隻、漁獲廃棄量1万4875貫(約56㌧)である」という文の次に、行を変えて「焼津港にて放射能に汚染された漁獲物を廃棄した漁船隻数が、112隻と判明した」とあるのだ。典拠が異なることが分かるようにはなってはいるが、そうであればそう説明すべきであろう。

 また「世論が支えた原水爆禁止運動」に、杉並区の署名運動の記載がないのはどうしてなのだろうか。

 「事件当時の経済社会」の最初の6行目を除き、なぜこのような日本経済の状況が、「第五福竜丸事件と原水爆禁止運動」のなかに記述されなければならないのだろうか。次の項目の「原水爆禁止と平和産業の流れ」と関係する記述なのかと読み直してみても、その気配はない。そこに第五福竜丸事件が「財界の基本的立場を平和産業優先へと転換させる結果となった」とあるが、その説明はない。また「三度にわたる原水爆被害の実態を、アメリカ占領軍の支配下で国内はもとより大きく世界中に広めることは到底困難であった」という記述は誤解が生じかねない表現である。第五福竜丸事件は1954年であり、考え方はいろいろあるだろうが、「占領下」ではない。

 総じて、大石又七氏の『ビキニ事件の真実』のほうが、わかりやすい。





 
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いのち

2011-05-28 22:42:23 | 日記
 小さな畑から、キュウリを一本もぎとった。今年はじめての収穫。昨日は、ジャガイモが土から顔を出していたので、その顔を土で覆うために他のところの土を手に持ったら小さなじゃがいもが二個でてきた。

 隣にあるトマトの実も二つついていた。今年も順調である。

 ゴーヤの芽はすでに12本である。早くに種をまいていたのだが、なかなか芽が出なかった。今年はゴーヤを人々に分けてあげるつもりだ。ゴーヤは暖かくならないと芽が出ないという。沖縄の産物だから、合点がいく。

 父方は農家である。私にも農家の血が入っているが、残念ながら農業の知はほとんどない。本を買って、それを読んだり、近所の農家に教えてもらいながらつくっている。昨年はトマトがよくできたが、暑い夏となり雨がほとんど降らなかったので、途中からだめになった。その後、夏が過ぎてからほうれん草を植えた。寒い寒い冬を乗り越えて、ほうれん草は大きく成長し、隣近所にふるまった。過酷な寒さを乗り切ったほうれん草、味わって食べた。

 一昨年から、退職後の「晴耕雨読」生活のために、畑を広げてきた。スコップで土を掘り、石ころを取り除き、肥料を入れ、土作りをしてきた。その土が新しいいのちを生み出していく。植物というのは、草も含めてすごいなと思う。何もないところから芽が出てきて生長し、花を咲かせ、実をならせる。我々動物は、自立的な植物の生長に依存してみずからの生命を維持する。

 太陽と、土と水、そしてそれがうまく「調合」して、生長していく。農作業をしていると、自然の力に畏怖と感謝の念を抱くようになる。

 ひるがえって、福島県。放射能が大地を汚す。しかし放射性物質も好きこのんで大地を汚しているわけではない。金儲けを企む人間どもが、自然のふところに覆われていた眠れる物質を掘り出させ、それを「燃焼」させることにより自然界にない危険な物質をつくりあげたのだ。それが豊かな大地にまき散らされる。とするなら、それはおごれる人間どもの仕業であって、物質そのものに責任はない。

 ところが、皮肉なもので、そういう放射性物質で儲けた者どもではなく、日々みずからの生業に励んでいる市井の人びとに、その汚染が飛びかかっていくのだ。そして人々の生活を破壊する。儲けた者どもは、今までと同じ生活を平然と続ける。何という不合理。こういう事態に、怒りをもたなくてどうする!と、私は叫びたい。

 さて今日『週刊金曜日』が届けられた。そのなかに田中優子さんの文があった。田中さんはこの3月、沖縄に飛んだ。沖縄では、沖縄のことだけでなくいろいろな思いが浮かぶところだ。田中さんは「反復帰論」に思いを寄せる。私もそれに半ば共感している。それは「自立」につながるからだ。

 そのなかに「東京以外の地は東京の権力と権威を支え、奉仕するために存在する」があった。地方に生まれた子どもたちが高校まで地方で生活し、全国各地に散っていく。だが就職という時、そのほとんどは東京に集中していく。かくて地方には子どもを育てたあとの年老いていく人々が残り、若い人々は東京に集まる。かくて地方には老人が残り、税を納める人々が減り、東京は住民税(都民税)を納める者が増加し、都知事は湯水のごとくお金をつかい、たとえばオリンピック招致のために莫大なカネを費消しても、都の財政は破綻しないようになる。そして東京都民は、東京の住人がなぜ地方に生きる人々にカネをまわさなければならないのかなどと威勢のいい主張をして、小さな町村を必然性もなく合併させ自立的な財政運営をしなさいと「叱咤激励」する。地方にわたっていた政府からの交付金は減らされ、地方は切り捨てられていく。

 こんな社会おかしい!と私は思う。新自由主義的な経済政策が進められていく中で、地方は疲弊していった。社会現象は自然現象とは異なる。誰かがそうするのだ。そうしたほうが儲かるという人々がそうするのだ。

 また田中さんはガンディーのことばを引用する。『真の自立への道』(岩波文庫)。ガンディーは「インドをイギリス人が取ったのではなくて、わたしたちがインドを渡したのです」。

 この言葉は、果てしない含意をもつ。この言葉を、様々なことに応用できる。たとえば「日本がアメリカの属国になったのは、日本人がアメリカに日本を差し出し、属国にさせたのです」。

 戦争中、国民に「鬼畜米英」と吹き込んで戦争に動員していった人々が、いざ戦争に敗れると、しっぽを振ってアメリカのために働くようになる。たとえば、岸信介。安倍元首相の祖父だ。彼はアメリカが好む外交政策を進めることをアメリカに約束してカネをもらったそうだ(ティム・ワイナー『CIA秘録』上、文藝春秋、2008年)。

 そして最近明らかになったアメリカ大使館からの極秘電報(ウィキリークスで明らかになった)には、日本の官僚と言うよりもアメリカ政府のスパイもどきの行動をとる売国奴ともいうべき姿が記されていた。敗戦直後から変わっていないのだ。日本の官僚は「犬」だ(ただし全員ではない)。

 田中さんの文に、じんぶん企画の輿石さんが制作した『辺野古不合意』のことが記されていた。このドキュメンタリーは辺野古の闘いをじっくりと描く。もちろん私も購入した。田中さんはこのドキュメンタリーをみて、「非暴力非歓迎の日常は、海が大切か箱が大切かという価値の選択でもある」とかく。暴力をふるわず、米軍基地は歓迎しないという意志を示し続けることによって、最後には勝つというのだ。この方法は、ガンディーの闘い方でもあると思う。ガンディー、キング牧師、ネルソン・マンデラと続く非暴力不服従の闘い。

 この闘い方は、自然と共に生きることを選ぶ人間たちのものだ。それはまた、いのちに根ざす闘い方でもある。沖縄に思いをはせ、脱原発を求めることは、これもまたいのちの問題に繋がる。

 明日は大雨だという。私の小さな畑に、またまたすごい雑草がでてくるだろう。
  



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【本】大石又七『ビキニ事件の真実 いのちの岐路で』(みすず書房)

2011-05-28 09:40:20 | 日記
 3/11の原発事故。放射性物質がまき散らされ、福島を中心として外部被曝はもとより、内部被曝の危険性が指摘されても、行政はそれに対してまったく誠実な対応をしない。その端的な例は、子どもに年間20㍉シーベルトの被曝を可とする文科省の決定であり、それを支持する菅政権の醜態である。民主党政権が、子ども手当の支給を行ったことで、民主党は子どもの健やかな成長を願うところもあるのかと肯定的に捉えていた。しかし、そうではない。子どもの安全を最優先に考える政権ならば、20㍉シーベルトの被曝を可とすることはしないだろうし、また飯舘村のように放射性物質に汚染されている状況を長い間放置しておくことはしないだろう。もちろん飯舘村には、自立した村を担う子どもたちもいた。子どもたちの健康を顧慮しない政府は、「公共性」をかなぐり捨てている。もう存在価値はない。

 もちろん、原発推進政策を主導してきた自民党、公明党という政党も、ダメだ。小選挙区制という選挙制度が、自民党か民主党か、という最悪の選択しか与えない状況に、国民を追い込んでいる。小選挙区制を煽ったマスメディアの責任は、とてつもなく重い。それにのせられた国民も同様だ。

 さて私は、なぜ政府はかくも国民の被曝に関して後ろ向きなのかを考え、それを過去にさかのぼって調べようとしている。すると、それは1945年8月のアメリカによるヒロシマ・ナガサキへの原爆投下の直後から、ヒバク調査を行った日本の政府、軍、官僚、医師たちが、ヒバクシャのためではなく、核開発を行う立場でその調査結果を、原爆を投下したアメリカに提供し、敗戦直後からは米日共同で調査を続行し、今に至っていること、その機関が放射線影響研究所(ABCCの後継機関)である(そのHPが下記だ)。ABCCは、ヒバクシャをモルモットとして扱い(決して治療することなく)、被爆者の身体の変化や内臓の一部など、その研究「成果」をアメリカに送っていた。そしてその「成果」のうえに、許容される被曝線量などが、「公式に」決められていく。その際、アメリカの世界政策、核政策のバイアスが、当然その数値に反映される。

http://www.rerf.or.jp/index_ja.html

 ところで、日本はヒロシマ・ナガサキだけではなく、1954年3月1日、静岡県焼津港所属の第五福竜丸が、アメリカの巨大水爆実験で被曝し、世界を震撼させた事件を体験している。

 実は私は、このヒロシマ・ナガサキ、第五福竜丸について、あまり研究してこなかった。それは日本国家・軍による加害の歴史的事実をまず掘り起こすことが重要であると思っていたからだ。今まで南京事件、中国人・朝鮮人の強制連行などの研究をしてきたが、このヒバクの問題を調べていくと、被爆者としての「被害」だけではなく、被爆(曝)者や世界の罪なき人々に対する「加害」の問題が浮かび上がってくるのだ。もちろん加害の主体は、アメリカ政府・軍であり、それにコバンザメのようにくっつく日本政府、そしてそれらに群がる巨大企業や学者たちである。
 
 さて第五福竜丸の乗組員の大石又七氏のこの本は、自らの被爆体験とその後の人生を基調としながらも、歴史的・世界史的視野をもった好著である。私は図書館から借りて読んでいるのだが、購入した方がよいと思うほどの価値ある本である。ひるがえって、この本が出版されたあとに出された『焼津市史』の第五福竜丸の項目、参考文献としてこの大石氏の本が掲げられているにもかかわらず、きわめて狭い視野で叙述されている。

 被曝した大石氏は、退院後焼津ではなく東京でクリーニング業で生計を立てている。大石氏は、千葉にある放射線医学総合研究所で年一回検査を受けていた。しかしそこでの検査を、大石氏はとりやめた。なぜなら、大石さん達もと乗組員は、検査は受けたが治療はされなかったからだ。病状についても知らせなかった。つまり、この研究所は大石さんらを「モルモット」にしていたのだ。私はこの研究所を、放射線影響研究所とともに、“怪しい”機関だと思っている。

http://www.nirs.go.jp/index.shtml

 さて大石氏は、東京にある第五福竜丸展示館の来館者だけでなく、日本各地に出向き、自らの体験を伝えている。同時に、世界各地のヒバクシャ(ヒバクシャは日本だけではない)とも交流している。

 アメリカを先頭とする(そのアメリカの属国である日本も)核兵器肯定、原子力発電推進の勢力と、結果的に大石氏らは真正面から対峙しているといってよいだろう。

 第五福竜丸事件に関わることを幅広く知るために、この本は最適である。

 なお最後につけ加えれば、日本政府の被曝に対する驚くべき対応は、ヒバクシャを大量につくりだしてその後の経過を観察するための「モルモット」(まさに放射線の影響を研究する!)にしようと思ってるのではないかと疑ってしまうのだ。

 国家の担い手たち(官僚など)は、国家のために国民はどのようなことでも「受忍」する義務があると、本気で思っているのだ。





 
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「維新」の行方

2011-05-26 14:14:32 | 日記
 明治維新は、近代日本国家構築の端緒となった大きな事件であった。これ以後、徳川幕藩体制を倒した薩摩・長州を中心とした勢力によって新たな国家の建設が開始されていく。19世紀後半、すでに国際社会は帝国主義世界体制が成立していたため、彼らは近代日本を帝国主義世界体制の一翼を占める存在とするべく、試行錯誤をくり返しながらもそれに照応する国家体制をつくりあげていった。

 急激な変革は、多くの反対派との軋轢を生み出した(自由民権運動など)が、彼らは強引に、天皇を中心とした国家体制を築いていった。近代天皇制国家は、国内的には抑圧的な体制、対外的には朝鮮をはじめとしたアジアへの侵略を不可欠の要素としていたことは周知のことである。

 今、「維新」を掲げるということは、日本社会をそういう国家体制にもっていこうという志向があることを示しているのだと、私は考える。

 昭和戦前期、「昭和維新」というスローガンが叫ばれたことがあった。そのときも、「大正デモクラシー」期を過ぎた日本社会に向けて、さらにファッショ的な国家体制の建設を求める運動であった。

昭和初期の右翼,一部の軍人,ファッショ陣営が用いた用語。明治維新を国家改造運動の手本とし,天皇を戴いて革命を行うという北一輝らの思想に源流をもつ。元老・重臣などの〈君側の奸〉,および腐敗した政党・財界を排除することを目指し五・一五事件や二・二六事件などのスローガンとなったが,二・二六事件以後用いられなくなった。


http://kotobank.jp/word/%E6%98%AD%E5%92%8C%E7%B6%AD%E6%96%B0

 今回の「大阪維新の会」が、真っ先に「君が代」に関して起立・斉唱を強制する条例の制定に突っ走るのは、時代錯誤としか言いようがない。「近代」が生み出した普遍的でもある人権思想を無視する、あえていえば「暴挙」である。近代天皇制国家が1945年に崩壊したあと、日本国民は近代・現代人権思想に裏打ちされた日本国憲法をもったのではなかったのか。

 この問題点については、大阪弁護士会が声明を出しているが、弁護士会の論理はまさに普遍的なものである。

http://www.osakaben.or.jp/web/03_speak/seimei/seimei110524-2.pdf

 テレビが「有名人」をつくり、テレビをよくみる選挙民の多数の支持によってその「有名人」が自治体の権力者となる。そして、多数の支持を背景に、抑圧的な施策を行う。

 これは、1930年代ドイツで見られた光景ではないか(そのときはラジオであったが・・)。私には、だから「既視感」がある。歴史は、おそらく同じことを繰り返させないと、私は信じたい。


 
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日本政府のでたらめ

2011-05-26 14:04:17 | 日記
 驚くべき記事をみつけた。「法令違反で東電を厳重注意 女性の被ばくで保安院」という「共同通信」配信のものだ。福島第一原発の女性社員が、年1㍉シーベルトをこえて被曝したことを注意し、保安院がそれを厳重注意したのだそうだ。

 またこの記事によると、放射線業務従事者は「3ヶ月で5㍉シーベルト」を超えたということから放射線管理に改善策を指示したのだそうだ。

 ということは、放射線業務従事者は年20ミリシーベルト、一般の社員は年1㍉シーベルトを超えてはいけないということだ。原発を推進してきた経産省は、この従来の見解を保持しているということだ。

 ところが福島の子どもたちや一般住民は20㍉シーベルトまでOKというのだ。

 原発事故にもっとも責任がある経産省の基準値と、文科省や厚生労働省の基準値は異なるということだ。

 もう日本政府は、国家機構としては崩壊・瓦解しているというしかない。

 記事は以下の通り。

 福島第1原発の女性社員らが法令限度を超える被ばくをした問題で、経済産業省原子力安全・保安院は25日、防護マスクが必要な免震重要棟内でマスクの着用がなかったなど、放射線管理に関して法令違反があったとして、東電を文書で厳重注意した。

 厳重注意の対象はほかに(1)第2原発で4月21日まで管理区域の設定基準を超える線量が測定されながら、線量管理をしなかった(2)放射線業務従事者でない女性5人が、放射線管理の必要な区域で勤務し、うち2人が一般の線量限度である年1ミリシーベルトを超えて被ばくした―の2点。

 保安院は、作業員全員が携行できる線量計の確保や、通常時と同様に3カ月に1回内部被ばくの評価ができるよう機器を早期に整備することなど、7項目の改善策を東電に指示した。

 第1原発では地震発生直後から女性計19人が作業に従事。女性の放射線業務従事者について国が定めた被ばく線量の限度「3カ月で5ミリシーベルト」を2人が超えるなど、放射線管理の不備が判明していた。3月23日以降、女性は勤務させていないという。

(共同)


http://www.tokyo-np.co.jp/s/article/2011052501001174.html
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「神様の仕業」であると証明せよ!

2011-05-20 23:42:13 | 日記
 これは時事通信の配信記事である。経済産業省の大臣、民主党政権を著書で批判していたのに、大臣になってくれといわれてすぐに大臣に。人格的にも破綻している人。与謝野馨がつぎのように言っているそうだ。今まで原発を推進してきた自民党の幹部であった与謝野馨。彼が言うことは、つまり誰にも責任がないということ。責任がないということは、被災者に「受忍せよ」ということ。またでてきたこの論理。

福島原発事故は「神の仕業」=東電の責任否定-与謝野経財相


 与謝野馨経済財政担当相は20日の閣議後会見で、東京電力福島第1原発事故は「神様の仕業としか説明できない」と述べた。同原発の津波対策に関しても「人間としては最高の知恵を働かせたと思っている」と語り、東電に事故の賠償責任を負わせるのは不当だとの考えを重ねて強調した。
 今回の原発事故をめぐっては、安全対策の不備や人災だとの指摘が国内外から出ている。「最高の人知」や「神による異常な自然現象」という論理で東電を徹底擁護する主張には、「原発は安全」と説明されてきた地元住民らからも批判が出そうだ。(
2011/05/20-11:12)
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映画「回想 川本輝夫」

2011-05-20 22:18:19 | 日記
 水俣病の患者であった川本さんは、患者としてチッソと果敢に闘った。すでにその川本さんはない。

 川本さんの生前の姿を、映画監督の土本典昭が編集した映画、それがこれだ。

 水俣病の問題も、原爆症認定訴訟と通底する。というのも、いずれも原因がはっきりしているのに、国家も企業も、患者を患者として認定することをためらう、できるだけ責任を回避する、被害を少なく見せようとする・・・・そういうところに私は相似性をみる。

 水俣病の問題も、しっかりと追跡しなければならないものだが、なかなかあれもこれもできない。しかし通底する問題群としてしっかりと視野には入れておかなければならない。

 この映画の付録に、砂田明さんの「絶唱」が入っている。「起ちなはれ」という詩を朗読するのだ。その朗読が、胸にしみる。
TSUTAYAで借りたものだが、これも良い映画だ。
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属国日本の出発

2011-05-20 18:45:42 | 日記
 原爆に関していろいろな文献を読んできて、日本がアメリカの属国になったのは、敗戦直後から、それは原爆調査から始まっている。

 最近、敗戦直後の原爆調査に日本政府、日本軍、学会が積極的に協力し、原爆の「効果」(アメリカにとっての)をきわめて精力的に調査し、その結果を自主的にアメリカ軍に提供している研究が進んできている。

 ※これはNHKの「幻の原爆報告書」でもとりあげられたものだ。

 その数日前まで、日本政府、日本軍は、国民に「鬼畜米英」と扇動していたのに、ころっと変わってしまった。それはなぜか。おそらく彼らの保身のためである。

 歴史を精査していくと、支配層の無原則な対応が明らかになる。政府は国策を遂行する上で、国民に犠牲があっても、それを「受忍すべし」という論理を常に持っている。おそらく、今度の原発事故でもそういう論理がでてくるであろう。原爆(原爆被災者については一定の救済をしている)や空襲被害者を救済しないごとく。

 ところが、国民はその政府を信じてしまう。それはなぜなのか。これも研究の課題になる。




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新幹線の中から

2011-05-20 18:29:54 | 日記
 旅行先でもいろいろ情報交換ができるようにということで、1キログラムもない小さなPCを購入した。今新幹線の中から発信している。

 便利になったものだ。WiMAXの一日24時間の利用料600円。そのほかにも毎日使えるシステムもあるが、このPCは旅で使用するために買ったもので、家ではほかのPCを使っているから、日常的にWiMAXに接続する必要はない。

 まちだの住人に、この便利なWiMAXを推薦したい。

 旅はいいですね。広島ではいろいろ刺激を受けてきました。その成果は6月頃まとめるつもりです。





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今 広島。

2011-05-19 19:59:05 | 日記
 原発問題、ヒバクシャの問題を根本から考えようと、今日ヒロシマに来た。

 朝7時10分のこだまで名古屋へ。名古屋でのぞみに乗り換える。ヒロシマまで、まったく空席がない。降りたと思ったら乗ってくる。こんなたくさんの人が毎日毎日移動しているのかと思う。

 新幹線の代金はそんなに安いものではない。仕事関係のスーツ姿の人が多かったが、そうではないような人々もかなりいた。老いも若きも新幹線をつかって、あちこち移動しているのだ。その意味では「豊かな」人々が多い。

 ヒロシマには10時5分に到着。まず比治山に行き、そこにある放射線影響研究所に寄る。事前に予約しておけば中の見学も可能なのだが、ここの資料はほとんどインターネットで見られる。いくつかのパンフレットだけをもらう。この放射線影響研究所は、悪名高きABCCを引き継いだものだ。今も日米両国が研究をしている。

 被曝線量などの基準となる数値は、広島・長崎の被爆者に対する研究が基礎になっている。今まで放射能攻撃を受けたのは、ここだけだからだ。しかしそれが大きな問題となる。それらの研究は純粋なものではなく、アメリカやその属国である日本の政治的思惑により真実が曲げられている可能性があるからだ。

 ヒロシマに原爆が落とされた後、日本軍部や日本の医学者が調査に入った。敗戦後、米軍も調査に入った。しかしその調査は、被爆者の救済・治療のための調査ではなく、原爆がいかなる「効果」を人体や建物、植物、昆虫、動物などに及ぼしたのか、という観点によるものであった。米軍の調査は当然そういう目的であったが、日本のそれも米軍へ「貢献」するためのものであった。

 戦時下には、アメリカを「鬼畜米英」として国民を先導した日本の指導者たちが、戦争が終わるやいなや、すぐに戦勝国であるアメリカに尻尾を振って、「原爆については、こんな調査がありますが、どうですか」なのである。

 私は、今回の原発事故に関わってよく問題になる基準値なるものが、このヒロシマ・ナガサキの被爆から始まっていることに気づき、その経緯を調べ始めた。

 原発は、原爆と同時に生み出されたものだ。いわば双生児なのである。原発問題を考えるということは、原爆問題を考えることでなければならない。

 明日は大久野島に行くつもりである。戦時中日本軍の毒ガス製造工場があったところである。

 穏やかな瀬戸内海は、戦争と直結するところが多い。




 



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この記事、忘れないでおこう

2011-05-18 16:45:50 | 日記



 菅政権が作成した賠償枠組み案は、ここでも記してきたように、国民に負担をおっかぶせて、東電は生き残り、また株主も銀行も責任を問われないという、怒りを忘れた国民をバカにした案である。

 それに関して、面白い記事があった(『東京新聞』)。

オフレコ発言が示す真実

2011年5月18日


 福島第一原発事故の賠償枠組み案に関連して、枝野幸男官房長官が銀行の債権放棄がなければ「国民の理解はとうてい得られない」と会見で発言した。


 すると、玄葉光一郎国家戦略相はテレビで枝野発言について「言い過ぎ」と批判し、閣内で認識の違いが露呈している。


 それだけではない。役所からも“枝野批判”が飛び出した。細野哲弘資源エネルギー庁長官が十三日の論説委員懇談会で「これはオフレコですが」と前置きして、こう語ったのだ。


 「はっきり言って『いまさら、そんなことを言うなら、これまでの私たちの苦労はいったい、なんだったのか。なんのためにこれ(賠償案)を作ったのか』という気分ですね」


 賠償案は株主や銀行の責任を問わず事実上、国民負担による東電救済を目指している。長官発言は「苦労して株主と銀行を救済する案を作ったのに、枝野発言はいったいなんだ」と怒りを伝えようとしたのだ。


 経済産業省・資源エネルギー庁は歴代幹部の天下りが象徴するように、かねて東電と癒着し、原発を推進してきた。それが安全監視の甘さを招き、ひいては事故の遠因になった。


 自分たちがどちらの側に立っているか、率直に述べている。まあ正直な官僚である。同意したわけでもないのに勝手なオフレコ条件に応じる道理もない。「真実」を語る発言こそ報じるに値する。 (長谷川幸洋)

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ANPO

2011-05-16 22:55:29 | 日記
TSUTAYAの会員になった。今私がいろいろ勉強しているのが、ヒロシマ・ナガサキ、第五福竜丸、劣化ウラン弾、原発事故、そして世界各地のヒバクシャ、である。

 その関係から“アトミック・カフェ”という映画を見たくなったからである。アメリカという国家が、核というものをどう認識していたのか、それが政府やニュースなどを通して描き出されている、という評価を読んだからである。

 なるほど、核爆弾が爆発したら、どこにいても「すぐ隠れる!!」という訓練をしていたり、なるほどアメリカという国家はこういう認識であったのか、だから核実験をした時に兵士たちを爆心地の方に「進撃(訓練)」させることができたのか、などと感心してしまった。

 さてこのDVDを見るために会員になったのだが、この“アトミック・カフェ”を返しに行った時、ふと棚の上に“ANPO”という文字が目に入った。即座に借りるようにして、今日見た。

 1960年のときの日本国民の高揚した安保闘争、そして安保に基づく歪んだ日米関係、それを絵画や写真を通して見つめる、という日本語ぺらぺらのアメリカ人、リンダ・ホーグランドが制作したものだ。

http://www.uplink.co.jp/anpo/

 画家としては、中村宏(浜松出身)、山下菊二、池田龍雄、石井茂雄、横尾忠則、桂川寛、会田誠、そして浜田知明、丸木位里・俊らの絵画(沖縄の佐喜眞美術館にある)が、写真家としては石内都、東松照明(今、名古屋市美術館で展覧会開催中)、比嘉豊光らの写真がつかわれている。他に朝倉摂、加藤登紀子らも登場して、安保について語る。

http://www.zugajiken.mot-art-museum.jp/index.php

 中村宏の展覧会は名古屋市美術館に行って見たことがある。山下菊二はNHKの日曜美術館でみたことがある。池田龍雄、石井茂雄ははじめてだ。

http://www.google.co.jp/search?q=%E6%B1%A0%E7%94%B0%E9%BE%8D%E9%9B%84&hl=ja&prmd=ivnso&tbm=isch&tbo=u&source=univ&sa=X&ei=5TLRTey_J4_CvQOA5tCaCg&ved=0CCMQsAQ&biw=1280&bih=714

http://www.art-museum.city.nagoya.jp/tenrankai/2011/tomatsu/

http://news.searchina.ne.jp/disp.cgi?y=2010&d=0920&f=entertainment_0920_008.shtml

 画家や写真家も、現実を直視し、現実を変革したい、あるいは現実に違和感を抱き、それを絵や写真に表現したいという欲求を持つ。まさに現代的課題を正面から見つめている。こういう姿勢から、わたしたちも学ぶことがある。

 この映画は、そうした欲求をもとに安保とその後の日米関係をシンボリックに描いたものだ。ぜひ見て欲しい。

 今週は、ヒロシマに行くつもりだ。6月には沖縄に行くつもりである。


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マスメディアがダメな時

2011-05-14 09:41:24 | 日記
 大事故で世界から注視されている日本の原発。原発推進をしてきたのは、政府(自民党・公明党・民主党)・財界・官僚・学界そしてマスメディアであった。一部を除き、いまだにその政策を変えようとしていない。その背景にあるのは、カネである。もとはといえば国民の電気料金であるのだが、それらをこの推進勢力が山分けしてきたのである。見よ、今原発推進を掲げているのは、電気会社を通じてカネをもらっていた勢力ではないか。静岡県では御前崎市。原発があることで莫大なカネを獲得し、地域には似合わない公共施設を次々と建設し、土建業者にもそのカネがばらまかれてきた。また電力会社に勤める労働者の組合、電力総連(約21万人)は高給を背景に原発を推進する議員に政治献金をしてきた。

 要するに、国民の安全よりも、近視眼的な私利私欲で原発を推進してきたのである。

 マスメディアから報道されない事実が、このところ雑誌などにより提供されてきている。そのいくつかを紹介するが、ということはテレビや新聞から情報を得ていては、価値ある情報に接することができないということだ。

 まず孫正義さんの「東日本にソーラーベルト地帯を」(『世界』6月号)は注目すべき事実が記されている。3・11の事故のあと、孫さんは原発についていろいろ調べたそうだ。そして原発がなくても日本の電力供給は大丈夫であることなどを知り、自然エネルギーの利用のために私財をなげうとうとしている。

 ついでにこれに関して今日の『中日新聞』の社説。東京電力の不誠実を事実をあげて批判している。こういう東電を救済しようという政府の賠償支援策は、東電と利害を共通する銀行業界が原案を作成したそうだが、とても認めることはできない。河野太郎氏が言うように、東電の財務状況などすべてを精査することがまず必要だろう。

 
夏の節電 見逃せぬ東電の不誠実

 
東日本大震災で東京電力の福島第一原発をはじめ、発電能力が大きく損なわれた。節電は今夏の国民的課題だ。しかし、その前提となる電力の供給能力など、東電の情報公開は誠実さを欠いている。

 菅政権は東京電力と東北電力管内の今夏のピーク電源の削減目標を、企業や商店、家庭ともに前年比一律15%とすることを決めた。 当初案は消費量に応じて15~25%の目標を割り当てたが、被災した火力発電所の復旧などによって供給力の増強にめどがつき、目標を引き下げた。

 東日本大震災では福島第一原発が発電機能を失い、東北電力は宮城・女川原発などの四基すべてが運転停止に追い込まれた。火力発電所の損傷も広範囲に及んだ。この夏は企業、家庭を問わず、徹底した節電が求められている。

 ところが、東電は出力三百八十万キロワットの福島県・広野火力発電所が復旧し、今夏の予想ピーク需要、五千五百万キロワットの供給確保に見通しがついたのに、国会議員らにはそれを伝えながら、肝心の消費者にはだんまりを決め込んだ。

 供給確保の情報を表に出さず、電力不足を大々的にキャンペーンすることで、脱原発を牽制(けんせい)したと受け取られても仕方がない。

 中部電力は菅直人首相の要請で東海地震の推定震源域の真上にある浜岡原発を全面停止し、東電への七十五万キロワットの支援打ち切りを決めた。東電は少しでも多くの電力を確保しておきたいところだが、あっさりと受け入れ、しばらくの間供給力回復に口をつぐんだ。


 日本には五十四基の原発があり、今や半分以上の三十二基が止まったままだ。原子炉停止はさらに増える見通しで「脱原発」と見まがう光景が目撃されるだろう。

 原発の安全神話が崩れると、一転して「想定外だった」と釈明する東電などの電力業界に、原発銀座と呼ばれる福井県に加え、新潟、島根県などの自治体は不信感を募らせ、定期点検などで休止している原子炉の再稼働を「現時点では認められない」と拒んだ。

 国民は電力供給の窮状を感じ取り、愚直に節電に努めている。エアコンに比べ消費電力が格段に少ない扇風機が爆発的に売れている現実を見れば、それは容易に想像できる。

 電力の供給状況を消費者に誠実に伝え、大停電を招かぬための節電に協力を求めることこそが筋ではないのか。電力業界の顧客でもある国民を侮っては、逆風が一段と強まることを知るべきだ


 孫さんの文に戻る。

 「IAEAの基準による土壌調査は、表層部分1~3㎝を1立方メートル採取してベクレル/㎡で表示しますが、日本は表面から約5㎝掘り下げて、ベクレル/㎏で提示しています」

 この事実はすでにネットでは流されていたが、マスメディアは伝えない。ついでに、毎日の新聞にはそれぞれの地域の放射線量が報じられるが、通常は地上から1㍍の高さで測るのだが、なぜか18㍍の高さで計測しているという。とにかく放射能被害を少なく見せようという姑息な姿勢が貫徹している。ついでに文科省が発表した福島県の土壌汚染の地図(もうそのアドレスはこのブログで紹介したが・・・。http://www.mext.go.jp/a_menu/saigaijohou/syousai/__icsFiles/afieldfile/2011/05/06/1304694_0506.pdf
 
 だが文科省のHPからさがそうとしても、どこにあるのかわからない。チェルノブイリ原発事故の時避難地域とされたところよりも高汚染地域が福島県にあるので、隠そうとしているとしか思えない。

 また戻る。孫さんはアメリカでは、太陽光発電と原発の発電コストが昨年クロスしたことが指摘されている。つまり太陽光発電のコストはどんどん低くなっているのに、原発の発電コストはどんどん高くなっているというのだ。だから世界的には、原発の建設は下火になっていることを指摘している。

 さらに『週刊金曜日』の昨日届けられた号には、伊藤千尋(朝日新聞記者、朝日新聞にも少しは良心的な人がいるのです。)さんのオーストリアの憲法の話が記されている。何とオーストリアでは、憲法で核兵器の製造・貯蔵・運搬はいうまでもないが、原発の製造・稼働も禁止しているというのだ。「日本政府が戦争放棄の憲法をなし崩しにしてきた間に、オーストリアでは核エネルギーの拒否まで憲法に明記した」のである。そうした政策を確定させたのは、市民たちだ。「今やオーストリアは、反原発の分野で世界の平和運動を主導する。もちろん日本のはるか先を行く」。

 こういう事実は、新聞テレビからは得られない。情報は座視していてはダメで、積極的に得ようという努力が必要なのだ。どういう知識が重要なのか、それを選択できる力をつけよう。

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現代的課題

2011-05-13 22:12:56 | 日記
 私が学生の頃、いろいろな研究会が主催する講演会や学習会に参加していた。法学部生ではあったが、歴史学に関心を抱き、歴史関係の本を読み、歴史関係の団体が主催する講演会などに参加した(その意味で、東京など首都圏にいると、参加しやすいので大変プラスになった)。

 それらの講演会などでたたき込まれたのは、歴史を学ぶ者は現在起きている問題をしっかりと射的距離に入れながら研究をせよということであった。現代的な課題を視野に入れながらの研究こそがなされなければならない、というのだ。

 私は以後、忠実にその頃の問題意識を持ち続け、現代的あるいは現在的課題をにらみながらの研究を行い、そのなかで実践活動にも参加した。戦後補償裁判を提起したり・・・・・

 今、学問をする者が視野に入れなければならないことは、原発事故と沖縄問題である。このブログでは沖縄問題にほとんど言及していないが、私は沖縄で起きている様々なことを注視し続けている。

 原発事故の問題と沖縄問題とは、底のところでつながっている。今それを詳細に展開することはしないが、この二つの問題を無視ないし軽視することは許されない。

 ところでこのブログでは原発事故を追跡している。もう二ヶ月が過ぎるのに、福島原発は少しも安定してこない。次から次からへと問題が出てくるだけではなく、わたしたちの生活すべてが問われるような思想的課題にもなっている。現在私は関連する書物を読みあさっているが、そのなかで特に推薦したい本は、以下の通りである。

 小出裕章『隠される原子力 核の真実』(創史社、2010年、1400円+悪税)

   これは原子力発電の問題が、簡便に同時に本質的なところで解説されている。読みやすく、値段もそんなに高くはない。も  ちろん図書館で借りても良いが、これは必読である。

 『現代思想』5月号 特集“東日本大震災”(青土社)

   この雑誌は、毎号現代的な様々な課題を掲げた特集をうっている。私はこの雑誌を読んで、頭を鍛えている。この雑誌に掲  載されている論文を読んでいくと、いろいろな発想が出てくる。今月号だけでなく、次号の特集は“TPP”であるから次号も  購入しよう。難しい論文にもチャレンジすべきである。

 『世界』6月号 特集“原子力からの脱出”(岩波書店)

   原子力発電所は、今回の事故に見られるように、無限の危険を内蔵している施設である。原子力発電所を動かすためには、  無数の下請け労働者をヒバクシャとして生み出さざるを得ないこと、ウランなどを燃やした後の放射性廃棄物の処理がまった  くできないこと・・・等々、たくさんの問題を抱えているにもかかわらず原発が推進されてきた。私はその背後に、日本の支  配層には核爆弾を持ちたいという願望があるからだとにらんでいるが、こういう事故が起きた以上は、もう脱原発しかない。  そういうことを考えるために、この雑誌はとても参考になる。

 いかなる学問分野においても、現代的課題を民衆の視点から捉えようとすることは絶対に必要なのだ。でないと何のための学問か。学問は民衆を幸せにするためにこそあると私は思う。




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講義を受けるだけでは・・・

2011-05-13 14:46:10 | 日記
 人間には話のうまい人と下手な人がいる。下手な人は、訓練すれば少しはうまくなるかもしれない。

 教員にも、当然、話し方のうまい人とそうでない人がいる。その講義を受ける学生の身になってみれば、話し方がうまい教員のほうがよいのは当たり前だ。

 だが、教員を話し方だけで決めつけるのはやめたほうがよい。たとえば『地租改正の研究』を著した福島正夫先生、『帝国主義の時代』を著した江口朴郎先生、さらにはソビエト法などの研究者である藤田勇先生などは、決して話し方はうまくはない。しかし書かれている本の内容は天下一品である。

 最近の学生は本を読まないから、話し方だけで判断してしまうのではないか。それではいけない。

 また話し方ではなく、話されている内容も重要である。話されている内容の水準が高いかどうかを判断するためには、それを判断できる知識や思考が必要だ。

 いずれにしても、講義や授業を何の準備もなく漫然と受けることはやめよう。

 といっても私は学生時代、年度初めの講義を二、三回聴いた後、「これは聴かなくてもよい」と判断した講義はほとんど出席しなかった。たいへんもったいないことをした。しかし講義に出ないで生み出された時間は、サークル活動などに参加したり、美術展に行ったり、図書館に行ったりしていた。決して遊んでいたわけではない。

 私が積極的に出席していた講義は、知的刺激に満ちあふれたものであった。政治学の田口富久治先生、教育法の永井憲一先生、経済法の宮坂富之助先生、憲法の浦田賢治先生、労働法の中山和久先生、刑法の西原春男先生、他学部に入り込んで聴いた鹿野政直先生・・・・メリハリのきいた話し方で、講義の内容もよかった。

 福島正夫先生の講義は社会主義法であったが、講義それ自体はまったく面白くなかった。しかしそういう講義ではあっても、先生の著書を読んでいた私は、敬意をもって講義に臨んでいた。

 江口先生は学外での講演会に参加して聴いた。藤田先生の講義は、他のサークル主催の講演会で聴いた。いずれも面白くはなかった。しかし両先生とも、学会では最高峰に位置する方々であった。


 最近、大学や高校で、学生生徒にアンケートをして、それぞれの先生の「評価」をするところが増えているが、「評価」をする側の知的水準も問われていることを忘れてはならないと思う。

 今なら、福島、江口先生は「評価」が低くなってしまうだろう。それはあまりにばかげたことだ。



 
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