完成度の高い、一級の作品だった。途中の休憩なしで最後の最後まで緊迫感をもって劇は展開した。
原作はイギリスのJ・B・プリーストリイという人で、調べたら岩波文庫にもはいっている。とても有名な出し物で映画にもなっている。わたしはまったく知らなかった。
原作は、20世紀初頭のイギリスの話だそうだが、今回見たのは、1940年の日本。金持ちの倉持家の応接室が舞台になる。舞台が日本になっても、まったく違和感がなかった。原作の完成度が高く、また脚本もすばらしい、と言うことなのだろう。
倉持家では、娘の婚約を喜び、楽しい団らんのひとときを過ごしている。そこに影山という「警部」が来訪する。警部は、ひとりの若い女性が自殺したことを告げる。そしてその自殺には、登場人物の全員がなんらかのかたちで関与していたことを、次々とあばいていく。
ひとりの若い女性が生きていくなかで、様々な人びとと関わりを持つ。その関わりには軽重があるが、彼女の人生が関わりを持った彼らによっていろいろな影響を受ける。そして、その影響が彼女の人生を押し潰していく。
彼女の死に関して、登場人物全員に責任があることを、警部は気づかせていく。しかしそれを認識したくない者(会社経営者の倉持夫妻、娘の婚約者)がいて、彼らはその警部が語ったことを疑い、若い女性の死、警部の存在自体を消し去ろうとする。
ところが最後には、それが事実となる。警部が来訪して登場人物に責任があることを気づかせたこと、それは近未来に起こることであったのだ。
人間は生きていく上で、様々な人と関わる。それらの関わりが、ひとりの人間の人生に様々な影響を与えていく。「知らない人」のことではなく、その「知らない人」と自分自身は、なんらかの関わりをもっているのだ。ということは、「知らない人」にも何らかの責任がある、ということだ。
この演劇、まことにスリリングであった。久しぶりに良い演劇を見た。
今日の『中日新聞』東海本社版の一面には、次のような記事が載った。
事件当時、中日新聞社は袴田巌さんを犯人と断定する報道をしていました。袴田さんと家族の人権と名誉を傷つけたことを深くおわびいたします。
袴田さんは逮捕後、否認を続けていましたが、逮捕から20日目、2回目の拘留期限の3日前に自供を始めたとされています。本紙は1966年9月7日付朝刊の静岡県の地域版で、「自供で肩の荷おろす清水署 異常性格に手こずる」と報じました。袴田さんが逮捕前、本紙記者に「私は事件に関係ない」との子手記を寄せた内容の別の記事には「全くの二重人格者 ニセの手記書いた袴田」との見出しを付けました。翌8日付朝刊には「凶悪犯人の袴田巌」という説明で袴田さんの顔写真を掲載しました。
逮捕段階では罪が確定していないのに、袴田さんを「犯人」として報道したことで、冤罪を生んだ責任の一端は免れません。
中日新聞社は2009年、容疑者を犯人と決めつけない「事件報道ガイドライン」を策定しました。今後も予断や偏見を排した冷静な報道を続けてまいります。
当然の謝罪である。数々の冤罪事件、メディアが警察の情報をみずから検証もせずに垂れ流したことが、冤罪を生みだし、犯人でもない人間を犯人視させる大きな要因になっていたことを、真摯に反省すべきである。
わたしも静岡県の冤罪事件のひとつ、幸浦事件を書いたことがある。当時の新聞を調べたが、警察発表をそのまま書き、さらにそれにお墨付きを与えるような報道がなされていた。
驚くべきは、幸浦事件も冤罪事件として確定しているが、地域の人びとが、今もって「犯人視」していることを知って愕然としたことがある。メディアの報道は、そうした社会的な意識もつくりあげることを肝に銘じるべきだ。
袴田巌さんは無罪!!!あたりまえの判決である。
袴田さんを犯人に仕立て上げるために、証拠を捏造した。静岡県警は、そういうことをする捜査機関であった。「冤罪のデパート」と呼ばれるほどの非法の捜査を繰り広げてきたのが静岡県警である。
今日の判決でも、裁判長は「捏造」を認めたようだ。
捜査機関だけに問題があるのではなく、検察官、今までこの事件に関わった多くの裁判官にも責任がある。
とにかく、検察は、控訴することなく、素直に判決を受け入れ、判決を確定するべきである。
そして再審に関する制度をきちんとつくりあげるべきだ。検察官は証拠を隠すことをできなくさせる、無罪判決が出たら控訴することはできない、こういう制度を確立すべきである。
まずはよかった。
昨日の『東京新聞』の「こちら特報部」の記事を読むと、いろいろ怒りが湧いてくる。
まず民生委員。わたしは一期だけ民生委員を務めたことがある。以前にも書いたことがあるが、わたしは意欲的に仕事をした。一人暮らしの老人宅には、毎月一回訪問し、近況を聞き、世間話をしたりした。そういう仕事が民生委員の仕事だと思っていたからだ。
毎月一回、民生委員の地区会があった。そこには社会福祉協議会の人、市役所の人が参加していた。そこでは、意見交換が行われたりした。それは必要なことだと思ったが、それ以外に社会福祉協議会の仕事、市の仕事が民生委員におろされてきた。その仕事が半端ではない。『東京新聞』の記事にもあったが、「あて職も多く、行政などに『何でも屋』のように頼まれやすい。・・・・担い手不足の根源は、負担の過多にある。」
市役所では「行政改革」の名の下、正規の職員が減らされ、実際に住民と接する仕事は非正規に任されるようになった。市役所などの窓口にいるのは非正規ばかりである。福祉の関係の、高齢者などと接して行う仕事は、民生委員にやらせるのである。民生委員は若干の手当はでるが、原則無給である。猛暑の中、あるいは冷たい風が吹きつける中、民生委員は自転車に乗ってそれぞれの家庭に足を運ぶ。
わたしは民生委員になった当初は、果たして必要な仕事なのかと思いながらも、仕事を行った。しかしそれが度々であったので、抗議するようになった。一度は、市から調査して欲しいといわれ、調査したが一軒だけ、いつ行っても不在、そこでいつも不在だから、そちらでやってくれと言いに行ったところ、結局市はやらなかった。やらなくてもいい仕事を、なぜに民生委員にやらせるのか、腹が立った。
民生委員のなり手がいない、というが、行政はタダでつかえる労働力として民生委員を位置づけるのはやめるべきだ。それが最初に行うことだ。
さてもうひとつ。前川喜平さんの「五輪選手を教師に?」というコラム。文科省はいったいなにを考えているのかと思う。五輪選手を教員として採用するなら、「特別免許状」を発行し、国庫負担金を加配するというのである。体育の教員は多い。毎年どこかで行われる国民体育大会のために、それが近づく中で体育の教員をたくさん採用する。するとその後では、体育の教員の採用は長期間なくなる。
静岡県の某校では、体育の授業は、2クラスに体育教員が3~4名貼り付く。ティームティーチングだとのこと。
そのうえさらに五輪選手を教師にする、というのである。前川さんはその目的を「アスリートの生活安定のためだ」と断じる。教員が足りない状況の中で、体育系の教員、それも彼らの「生活安定のため」に増やしていくのはまったく、学校現場の苦境を何とも思わない所業である。
もうひとつ、強権をふるう河野太郎が、マッチングアプリで「ロマンス詐欺」が多い、ということから、その利用に際して「マイナンバーカード」を利用させればよい、と言っているそうだ。マイナンバーカードは個人情報が関連付けられているわけだが、要するに、マイナンバーカードを利用させ、それらの個人情報が流出しても良いということなのだろう。日本のようなデジタル後進国、しばしば情報が流出するような国で、こんなことにつかわせたら、ダダ漏れ間違いナシである。
こんな政治家や官僚に、アホな施策を行わせている日本の行く末は真っ暗である。
今まで、新しい資料をもとに、わたしは中国人の強制連行、南京事件、朝鮮人女子勤労挺身隊、朝鮮人の戦時強制動員など、「大日本帝国」の加害に関わる問題を研究し発表してきた。「新しい資料」とは、わたしが自治体史に関わる中で新たに発見した(自分自身が担当した分野で資料を博捜するなかで出て来たり、あるいは偶然出て来たりして)ものである。それらをもとに、新たな事実を提示した。
調査のために、あるいは現場を確認するために、わたしは韓国や中国に何度も行った。そのとき、オモテには出さないけれども、日本人としての(加害)責任をいつもこころのなかに感じていた。そして心の中で謝り続けていた。わたしは戦後生まれであり、「大日本帝国」が行った植民地支配や侵略戦争に、直接的な責任はない。しかし「大日本帝国」が行ったことを知っているわたしとしては、日本人として謝罪せざるを得ない気持ちであった。
『世界』9月号に、胡桃澤新さんが「「加害責任」の世代間伝播」という文を載せている。
胡桃澤さんの祖父は、戦時中長野県河野村の村長だった。彼は、当時の国策にのって、村から分村移民を送出した。しかし移民として渡「満」した人たち70名以上が亡くなったことから、その責任を痛感して自死したのであった。
胡桃澤さんはその事実を知らなかった。それを知ったときの驚き。
わたしも「満洲」移民について何度か書いたことがある。その一つが、現在川根本町になっているが、平成の大合併によりなくなった中川根町の歴史である。中川根町は、戦後、中川根村と徳山村が合併してできた町だ。「満洲」移民に対してこのふたつの村は異なった対応をした。中川根村は国策にのって、分村移民を送出した。そして1945年、悲惨な結末を迎えたことは、他の地域と同様であった。徳山村は、送出しなかった。村長が、南米移民はいいが、「満洲」は行ってはいけないとしたのである。徳山村の村長は、勝山平四郎。勝山は中泉農学校の出身で、校長の細田多次郎は「鍬をかついで南米へ、鉄砲かついで満洲行くな」と主張していた。その教えを、勝山は我がこととしていたのであった。そして徳山村では、村民を村外に出していくのではなく、土地を分配することによって農林業兼営の自作農をつくっていくという方針を打ち立てていたのである。昭和恐慌以降の経済的に難しい時期に、この二つの村は、別の道を歩んだのである。
小さな村にとって、国策にのって「満洲」に移民を送出する途しかなかったわけではないことを、徳山村の歴史は教えている。
だから、「満洲」に移民を送出した胡桃澤さんの祖父は大きな責任を感じたのだろう。胡桃澤さんは、「祖父には自死ではなく、生きて責任を果たしてほしかった」と書く。そして「祖父は侵略に加担した。侵略された中国の人たちを思う言葉が遺書にはない。謝罪もない。」とも。おそらく村民を多数死なせてしまったという自責の念が強かったのだろうし、当時の人びとと同様に、「加害責任」を感じることもなかっただろう。人びとが「加害責任」を考えはじめるには、もっとながい時間が必要であったのである。もし「祖父」が自死しなければ、中国に対する「加害責任」を、いずれもつことになっていただろうと思う。
移民政策を推進した張本人たちは、「満洲移民政策」の失敗、多数の移民を死なせてしまったこと、それらへの責任など何も感じていなかった。少なくとも、「祖父」は、村民への責任を厳しく自らに問うたのである。責任感が強い人物だったと思う。
胡桃澤さんは、自らが住む東大阪市では、育鵬社の教科書がつかわれていると書いている。そして排外主義者のスピーチと育鵬社の記述の「同じ根っこ」に、「大日本帝国」があることを指摘している。
「大日本帝国」は、支配層のなかに依然として根を張っている。それが行政や司法、教育など、折に触れて姿を現す。「大日本帝国」は、「亡霊」にはなっていないのである。永田町や霞ヶ関では、いまだ息づいている。
胡桃澤さんは、「「加害責任」の後の世代への先送りを防ぎたい」と書く。「加害責任」にピリオドを打つためには、国家権力の内部に巣くう「大日本帝国」を消し去らなければならないと思う。たいへんな事業となるだろう。
浜田知明の展覧会には何度も行った。香月泰男の展覧会には一度行ったことがあるだけだ。この二人の画家は、兵士として動員され、戦争の実相をじっくりと画家の目で見てきた。だから、彼らの作品には、戦争の本質が込められている。
浜田の展覧会で購入した図録は4冊ある。香月は一冊だけだ。だから香月に関わる本を、たくさん読まなければならない。歴史講座で話すことになっているからだ。
香月は、1911年10月、山口県に生まれる。東京美術学校油絵科に入学し、卒業後教員となる。1938年結婚。1943年1月、召集される。香月の兵種は丙種合格であった。31歳であった。最初は教育召集であったが、4月に本召集に変更され「満州」に行き、そして敗戦によりシベリヤに抑留される。1947年5月に復員し、下関高等女学校の教員となる。
香月はシベリヤで体験したことを「シベリヤシリーズ」として描いている。それは山口県立美術館にある。
さてこの本であるが、妻の目から見た香月泰男の姿が微笑ましく描かれている。文の間には、たくさんの香月の絵がはさまれているが、そのほとんどが頬笑ましい親子の絵である。
香月は成育過程で、家族の縁がうすかった。香月の母は、婚家と肌があわなかったために、家を出たり入ったりを繰り返していた。父は再婚し、しかしその後妻を出して母が戻ってきた。が結局別れてしまい、父は朝鮮で亡くなり、泰男は祖父の手で育てられることとなった。母や父の後妻とも良い関係であったが、結局母との生活をほとんど経験しなかった。
だから香月は、家族をとても大切にした。それがよくわかる絵が、本書にはたくさん掲載されている。それらの絵には、香月の愛が静かに描かれている。親子の愛情、平和な風景、香月の温かい眼。いずれの絵も戦後の絵であるが、こういう絵を描く画家が非人間的な戦場や抑留生活を生きなければならなかったのである。
9月26日、重大な判決が出される。静岡地方裁判所、袴田事件の無罪判決である。判決は、無罪以外はない。
判決の中に、袴田さんを犯人に仕立て上げようとした捜査機関による捏造が書かれるかどうか。
「原形のまま残っていることは極めて不自然」検証「袴田事件」(1)疑惑の証拠 9.26再審判決
そして検察が控訴するかどうか。
今日、東京・日比谷野音で、「今こそ変えよう!再審法~カウントダウン袴田判決」という集会が開かれた。
9年前、静岡地裁で村山裁判長が再審開始の判決を下したとき、わたしも静岡地裁前にいた。
人びとの動きが、再審開始をもたらしたのである。
国家権力は、人びとが監視していないと暴走をはじめる。暴走させない!!とりわけ、控訴させないように、人びとは動かなければならない。
今の制度では冤罪は無くならない!?諸悪の根源「再審法」のグズグズっぷりについて
今日は9月16日、大杉栄、伊藤野枝、橘宗一が虐殺された日である。1923年のことである。関東大震災の混乱のなか、多数の朝鮮人・中国人が虐殺され(これは誰もが否定し得ない歴史的事実である!!)、また亀戸で労働運動家の平沢計七らも虐殺された。平沢は、浜松の鉄道工場に勤めていたこともあり、当地で文芸・演劇活動を行っていた人物である。亀戸事件は9月3日から4日にかけて(4日から5日にかけてという説もある)事件は起きている。
上記の事件は、「震災の混乱のなか」という形容はできるが、しかし16日に行われた大杉らの虐殺事件には、そうした形容はできない。だからわたしは、大杉らの虐殺は、陸軍憲兵隊など軍部の意図的な計画のもとで遂行されたと考えている。その背景にはシベリア出兵、朝鮮での3・1独立運動における日本軍の行動があるはずだ。
さて、大杉らの虐殺の後、三人の遺骨は分割され、野枝の故郷(福岡)、橘宗一の故郷(名古屋)、そして静岡の市営の沓谷霊園へ埋葬された。静岡には、栄の父東(あずま)の墓があった。東は、晩年、清水で暮らしていた。その経緯については以前書いたことがある。
昨年まで静岡で墓前祭が行われていたが、2023年、100年で終止符をうつこととなった。今年も、名古屋、福岡では何らかの行事が行われている。
大杉や野枝は、歴史上の重要人物であり、今でもなんらかのかたちで振り返られる存在である。であるが故に、墓前祭は「全国」に呼びかけながら開催されてきた。しかしそうした行事を毎年開催することは、なかなかたいへんであった。午前中の墓前祭、午後の集会、そして「沓谷だより」の発行など。
今年は、16日当日の墓参と、9月1日付けの「沓谷から」の発行だけを行った。
16日の墓参への参加は5人であった。「沓谷から」は、今年中にもう一号出すつもりである。
ところで、墓参の際、墓に供えた花にクロアゲハがとまった。蝶は、魂を運ぶ、と言われている。彼らの魂が運ばれてきたのだろうか。
テレビは、極右政党の自由民主党を担いで、同党のイメージ回復のために奮闘しているようだ。自民党がテレビジャックしていると批判する声も聞こえるが、しかしテレビも、極右政党のお仲間なのだから仕方がない。
おかげさまで、テレビを見ないわが家は、そうした穢れが入ってこないので、健全な生活をしている。
昨日の『東京新聞』で、前川喜平氏が総裁選に立候補している輩が、「語らないこと」にメディアは切り込んで欲しいと書いている。それをわたしも期待したい。
具体的には、企業団体献金と政治資金パーティーの禁止、防衛費倍増の撤回、日米地位協定の改定、原発ゼロ、大企業の内部留保への課税、消費税の引き下げなどであるが、自民党の政治家がそうした政策をやることはないだろう。誰が総裁になっても、経団連をはじめとした財界やアメリカの言うがままの政治をするのが自由民主党である。財界は自己利益の追求のために、カネを自民党の政治家に賄賂としておくる。自民党の政治家は、みずからの頭で考えることができないので、外交に関しては、アメリカの言うとおりにしていれば間違いがないと思っている。
昨日の『東京新聞』一面に、9人の立候補者がボードに何やらの字を書いている写真が掲載されている。全員下手な字だ。わたしもうまい字を書けないが、総裁になろうという人たち、もっと丁寧に書けないものか。選挙民に理解してもらおうなんて一切考えていないから、下手でもいいと思っているのだろう。自民党員でないと選挙することはないのだから、まあいいか。
それにしても、選挙に参加するのは自民党員だけなのに、メディアはほんとうに大騒ぎしている。記者たちは、自由民主党を好きなのだ。ということは、記者たちも極右なのだろう。
演劇というのは、実際に演劇を鑑賞しなければわからない。しかし、東京周辺にいれば、いろいろな演劇を実際に見ることができる。その点では、地方に住んでいるということは不利である。
くるみさわしんの戯曲「あの瞳に透かされる」を送ってもらった。これは二度読んだ。劇そのものを見ていれば納得できるのだろうが、見てはいないので、了解不能な部分があったからだ。
この戯曲は、「従軍慰安婦」をテーマにしたものだ。今では、自由民主党関係者や右翼らの攻撃により「従軍慰安婦」はあたかもなかったかのような存在にされているが、吉見春雄の詳細な研究にみられるように、「帝国軍隊」の管理下に国内外の女性たちが「従軍慰安婦」として扱われたことは確かである。旧軍人の回想記を読んだことがあるが、中国戦線で女性を拉致し「慰安婦」にした事例が記されていたし、わたしが発見した南京虐殺に加担した兵士の軍事郵便には、兵站部隊の業務として朝鮮人の「従軍慰安婦」を輸送したりしたことが書かれていた。
さてこの戯曲では、日常生活を攪乱するものとしての「音」、それはもうひとつの攪乱者である「高田靖」が引き起こしたものであるが、この二つによって日常生活が乱されていく。
この戯曲は、ニコンサロンで、韓国の写真家による「従軍慰安婦」の写真をめぐって起こされた事件を前提としている。その写真展開催の予告に対して、右翼等が攻撃を行った結果、ニコンサロンは、その写真の展示をとりやめた。写真家はそれに対して訴訟を提起した。仮処分により写真展は開催され、写真家の勝訴で終わった。
その写真展に関わったニコン(戯曲ではクノックス)側の責任者として坂中正孝を配し、坂中が妻とともに、訴訟の後に地方のクノックス所有の家で生活している。坂中は、クノックス社の取締役でもある。坂中は、「陶器でつくられた天使」をフリーマーケットで買い集めることが日課となっている。
そこにまず「音」がやって来る。そしてその音をたてた団体職員の高田靖がその家にやってくる。ひとつの謎は、この高田とクノックス社との関係が不分明であることだ。クノックス社が送り込んだともとれるし、勝手にやってきたとも推測できる。それでもクノックス社とはまったく無関係というわけではない。高田は、「従軍慰安婦」の認識については、歴史修正主義者のそれである(もうひとつの謎は、もと内科医という建築家の小竹さなえ、この登場人物も了解不能であった。なぜもと内科医?など)。
この高田の登場が、この劇のスタートとなる。日常生活を揺り動かすのである。なぜ写真展は中止となったのかを探りながら、中止の決定は正しいと高田は言う。高田は、「従軍慰安婦はなかった。反日のデマ」だとクノックス社は明確にすべきであったと主張する。
それに対して、このクノックス社所有家屋の管理者である82歳の池田千江は、「従軍慰安婦は事実」だと明言する。「上に怒られるのが怖くて写真を蹴散らし」、写真展を中止した坂中も、「従軍慰安婦はデマじゃない。デマだという連中のほうがデマだ。ウソをついている」と語る。坂中は、「従軍慰安婦」についての認識を深めたのである。
さらに新しい事実が提示される。この家屋があるところ、戦時中は海軍の飛行基地があって、そのための慰安所があったというのだ。そこには17人の女性がいたという。そして空襲時に、この建物が焼け、中にいた女性たちが亡くなった。逃げられないように門が閉められていた。
そして戦後、その後に建てられた建設会社の「アートサロン」では、戦争に関する写真展が開かれていた。その際のパネルが、地下室などに保管されていたのである。「音」は、そのパネルが倒れた「音」だったのだ。
劇は、高田とそれ以外の登場人物との「従軍慰安婦」をめぐる葛藤の中で展開されていく。そのなかで、見る者に、あなたはどこに「立つ」のか、と問う。わたしは「ここに立つ」が、「君はどこに立つ」というように。
それは、「陶器でできた天使」(舞台上ではそれが示されているのだろう)の瞳が、いつも見つめているからでもある。その「天使」は、おそらくその家があるところにあった慰安所で亡くなった人びとの瞳でもあり、「帝国軍隊」が戦場に連れ回した「従軍慰安婦」の瞳でもある。
何度も繰り返される台詞があった。「強い風を翼に受けて、未来に吹き飛ばされながらも後ろを振り返り、目を見開いて遠ざかる過去の残骸を見つめる」。「残骸」とは何か。「従軍慰安婦」が存在したという歴史的事実か、いやそれなら「残骸」ということばはふさわしくないだろう。過去の歴史的事実は、「残骸」ではなく、いまだ生命を持ったものとして現在や未来を照射する。「見えているのに見えない、聞こえているのに聞こえない、嘘を張り巡らせる」というような、過去の歴史的事実をみつめようとしない姿勢ではなく、現在や未来を照射する光を「集め」ることにより、その光は「輝きを増していく」のである。
※ストーリーに、どうも無理な展開ではないかと思われる箇所があった。
極右政党=自民党の総裁選がテレビなどで大きく報じられている。また立憲民主党の代表選も行われている。わたしは、これらにまったく関心がない。誰になろうと、日本の政治は、庶民の生活を一顧だにせず、財界とアメリカのために行われる。立憲民主党が政権をとっても、同じだ。
いまわたしが支持しているのは、れいわ新選組である。最初の30分だけでも見て欲しい。