浜名史学

歴史や現実を鋭く見抜く眼力を養うためのブログ。読書をすすめ、時にまったくローカルな話題も入る摩訶不思議なブログ。

【演劇】劇団朋友「あん」

2024-11-30 22:11:13 | 演劇

 「あん」は、一度映画化されている。河瀬直美の脚本・監督で、樹木希林が主役をつとめた。その映画をわたしも見たが、しかしあまり感動しなかった。同じ原作を、杉浦久幸という人が脚本を書いて、演劇とした。それが劇団朋友の「あん」で、こちらのほうが感動した。でも最後の、「どら春」の店長が泣き出すという場面があったが、これはいただけない。わたしなら、満月の月の光に照らされながら、徳江を思い出しながらたたずむ、というようにする。その前段で、女子高生のワカナが泣くという場面があったが、こういう劇では、泣く場面はひとつだけにしたい。

 さてこの劇は、ハンセン病者(といっても、後遺症が残っているだけでもう完治している)に対する差別をあつかったものである。ハンセン病についての知識をもっている人はあまり多くはないと思う。その意味で、この問題を劇団朋友がとりあげたことを大いに評価したい。

 劇のなかで、「どら春」の店長が、ハンセン病の現状をネットの記事を読み上げることで説明していた。まだまだハンセン病の理解は進んでいないから、そうした説明は必要だ。さらにハンセン病にかかった人びとが国家によりどのような差別的待遇を強いられたのかが、劇の展開のなかで明らかにされていた。その意味で、きちんと背景が説明されていた。

 徳江のような過酷な人生を生きてきたからこそ、彼女のことばはこころにグサッとくる重い内容をもつ。朗読された詩も、そうしたものとしてあった。

 ワカナも、徳江に対していっさいの差別的な視線をもたずに、同じ人間として接することをしていた。

 人間が生きていく上で、他者の尊厳、もちろんみずからの尊厳も、認めあうこと、生きるということの無条件の価値を、他方で主張していたように思う。

 とてもよい劇であった。人間存在を考える契機になる。若い人にみてもらいたい劇であった。

 わたしは、いろいろあるなかで、究極的な差別は、ハンセン病者に対するものだと思っている。今まで、差別の問題では、被差別部落、在日コリアンの歴史を研究してきたが、最後はこのハンセン病に取り組みたいと思っている。 

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【本】パク・ヨンミ『生きるための選択』(辰巳出版)

2024-11-28 09:37:27 | 

 朝鮮民主主義人民共和国から逃げてきた若き女性の自伝である。

 同国が閉鎖された、凄まじい、金日成の家系による独裁国家であるという認識は、ずっと前に読んだ『凍土の共和国』で知っていた。それから同国の内部事情について書かれた本は読んで来なかった。この本を読んで、『凍土の共和国』から良くなるどころか、ますますひどくなっていたのを知った。

 在日コリアンの女性が、「ディア・ピョンヤン」、「スープとイデオロギー」、「愛しきソナ」というドキュメンタリー映画を制作していて、それはAmazonPrimeでみることができる。大阪の朝鮮総連の幹部をしていた夫婦には4人の子どもがいた。そのうち、うえ三人の息子は、朝鮮民主主義人民共和国へと「帰還」した。ひとりの娘だけが残った。彼女が同国を訪問して映画を制作した。

 三人の息子は、ピョンヤンに住んでいる。彼らの元へ、その夫婦がたくさんの物資やカネを送っていることから、ピョンヤンに住む息子家族たちは、ある程度の生活を保持している。それでも、ドキュメンタリーを制作した娘は、同国に対しては懐疑的である。

 通常いわれているように、ピョンヤンに住むことが出来ている人びとは、「選良」だけである。そうでない人びとは、貧しいいなかに住み、何度も停電する暗闇のなか、食べるものもないような生活をしている。

 自伝を書いたヨンミも、そうしたところに住んでいた。父親が持ち前の才覚で密売をすることにより、経済的に一定の豊かさを享受できた時期もあったが、そうでなければ何日も食べることも出来ない、極貧の生活が待っている。朝鮮民主主義人民共和国は「社会主義」を標榜しているが、一応学校は「無償」とはなっているが、教員に賄賂を渡さなければ通学も出来ない。だから彼女は、学校を満足にいくことができなかった。彼女の学力は、8歳程度であった。

 同国は、「出身成分」と賄賂とコネが社会全体を覆う世界である。大日本帝国支配下で、小作農や労働者であったものはよい成分とされ、地主階層であった者らはわるい成分とされ、同国の社会では冷遇される。

 人びとは「人民班」に組織され、自由に話すことが出来ない。密告が大きなちからを持った社会である。自由もなく、学校では何でも丸暗記、正解は一つだけだ。正解はもちろん国家が決める。

 だから彼女は「脱北」を決意する。母と共に、鴨緑江を超え、中国へ逃げた。しかし中国では、同国から逃れてきた女性たちが人身売買されるところだった。レイプはあたりまえ。しかし朝鮮民主主義人民共和国にいるよりはマシだと、彼女たちはそれに堪えながら生きる。そして韓国への入国を画策する。

 ヨンミと母は、ゴビ砂漠を越えて、モンゴルに入ることを決意する。瀋陽からバスで、中国からの出国を手助けしてくれる人がいる青島まで行く。そしてはるか西方にあるエレンホトまで行き、ゴビ砂漠を歩いてこえ、モンゴルに入国する。もちろん非合法である。

 彼女たちは韓国に逃れることができた。しかしそこは朝鮮民主主義人民共和国とはまったく異なった世界であった。

 彼女は、韓国でいろいろなことを学ぶ。まず自由であることについて。「自由がこんなに残酷で大変なものだとは知らなかった」「自由であるというのは、つねに頭を使って考えなければならないことなのだ」(261)。脱北者にとって、「自由は苦痛」だった。

 彼女は学びの遅れを取り戻すために、ひたすら本を読んだ。 

 「ひたすら本を読んだのは、頭のなかをいっぱいにして、忌まわしい記憶を封じ込めるためだった。でも、読めば読むほど、考えが深まり、視野が広くなり、感じ方も豊かになるのがわかった。韓国には、私の知らなかったたくさんの語彙があり、世界を表現する言葉が増えれば、複雑なことを考える能力もより向上する。北朝鮮では、政府が国民にものを考えさせないようにしているし、微妙さを嫌うあらゆるものが白か黒で、灰色がない。たとえば、北朝鮮で表現することの出来る“愛”は指導者への敬愛だけだ。こっそり観ていた映画やテレビドラマで、“愛”という言葉がべつの意味で使われるのを聞いたことはあったが、北朝鮮の日常で家族や友達や夫や妻に対してそれを使う機会はなかった。でも韓国では、両親や友達、自然、神、動物、そしてもちろん恋人に対して、さまざまに愛を表現する方法があった。」(274)

自分のなかに育つ言葉がなければ、本当の意味で成長したり学んだりすることはできない。そのことがわかってきて、自分の脳が文字どうり生き返るのを感じた。暗く不毛だった土地に新たな道が出現したみたいに。読書が、生きていることの意味、人間であることの意味を教えてくれた。」(275)

 おそらく朝鮮民主主義人民共和国では、こうした自由な読書ができないのだろう。わたしも、読書は、彼女が発見したように、人間にとってきわめて重要な営みであることを認識している。最近、多くの人が本を読まなくなっていることを憂う。

 彼女は、中学校卒業、高校卒業の認定試験を受けて合格し、東国大学へと入学する。

2012年3月から、私の大学生活が始まった。大学はまるで、目の前に並べられた知識のごちそうの山で、食べても食べても追いつかなかった。一年目は、英文法と英会話、犯罪学、世界史、中国文化、韓国史とアメリカ史、社会学、グローバル化、冷戦などの講義をとった。そのほかに、ソクラテスやニーチェなどの西洋の哲学書を読んだ。何もかもがとても新鮮だった。私はようやく、食べ物や身の安全以外のことを考えられるようになり、より人間らしくなれた気がした。知識から幸せが得られることはその時まで知らなかった。子供の頃の私の夢は、桶いっぱいのパンを食べることだった。今ではより大きな夢を持つようになっていた。」(285)

 そして彼女は「脱北者」としてテレビにも出演するようになり、それで得た金でフィリピンの語学学校に夏季休暇を利用して行った。さらにキリスト教の慈善活動に参加するために、アメリカへも行った。

 そこで学んだことは。

奉仕活動をしている中で、「・・・私がそこにいるのは、他人のためではなく、自分のためだったのだとわかってきた。コスタリカのホームレスの人々は、私が彼らのために食事をよそったり、ゴミを拾ったりしていると思っていたかもしれない。でもそれは、本当は私自身のためだった。人を助けることで、自分の中にずっと人を思いやる気持ちがあったのだとわかった。ただ、そのことを知らず、表現することができなかっただけなのだ。人を思いやることができれば、自分自身を思いやることもできるようになるのかもしれない。」(298)

 朝鮮民主主義人民共和国では、このような精神は育たない。ピョンヤンではあるのかもしれないが、他の地域では生きるのが精一杯で、生きるためには賄賂を使ったりしなければならない。また密告をおそれなければならない。誰が密告するかわからない世界。そのようなところでは、「思いやること」を排除する。

 わたしは、最後の、韓国で彼女が学んだことに、とくにこころを動かされた。本書の眼目は、朝鮮民主主義人民共和国の生活、脱北しての中国での悲惨な脱北者の生活、国境を超えることの大変さ・・・など、彼女が体験したことを知ってもらいたいということなのだろう。それはあまりに壮烈としかいいようがないものだったが、それを克服して、ひとりの人間として生きていこうという積極性に、わたしはもっとも感動した。

 なお、朝鮮民主主義人民共和国は、大日本帝国時代の日本の相似形だと、わたしは思っている。同国をそのようにした日本による植民地支配の罪深さを感じる。同時に、民主化以前の韓国の独裁政権にも、それを感じる。

 朝鮮民主主義人民共和国の悲惨な状況を知るにつけ、大日本帝国が、朝鮮半島の人びとに、多くの災厄をもたらした事実を知っておかなければならないと思う。

 よい本である。なおこれは図書館から借りたものである。

 

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「忘れられた皇軍」

2024-11-24 16:51:59 | 近現代史

 大日本帝国は、1910年から朝鮮を植民地として支配していた。しかし、アジア太平洋戦争の激化のなかで、大日本帝国政府は不足する労働力を確保するべく、朝鮮人を強制的に労務動員に駆り立て、また中国人を拉致・連行して日本の鉱山などで働かせた。それだけでなく、軍属として戦地にも派遣した。さらに、朝鮮人を兵士にもした。大日本帝国政府は、反抗精神ある朝鮮人を兵士にすることにためらいはあったが、1938年2月、朝鮮陸軍特別志願兵令、43年2月には海軍特別志願兵令、同年10月には陸軍特別志願兵臨時採用施行規則が公布され、朝鮮人学徒も動員されることとなった。

 日本兵が戦死したり戦傷を受けたりしたと同様に、朝鮮出身の軍人・軍属も、戦死したり戦傷を受けたりした。

 1945年8月、敗戦。日本国政府は、戦死し、戦傷を受けたもと日本兵に対しては国家補償を行った。「戦傷病者及び戦没者遺族への援護」の各種制度である。しかし、1952年に制定された「法律第百二十七号 戦傷病者戦没者遺族等援護法」の付則には、「戸籍法(昭和二十二年法律第二百二十四号)の適用を受けない者については、当分の間、この法律を適用しない。」とあり、大日本帝国下、戸籍法に登載されなかった大日本帝国臣民であった朝鮮や台湾などの軍人、軍属には、援護がなされず、それは今も一貫している。

 戦時下では、朝鮮人や台湾人らは「大日本帝国臣民」として戦場に送られたのに、戦争が終わってみれば、「あんたらは大日本帝国臣民ではあったが、戸籍法に登載されていなかったから援護はしないよ」というわけである。

 だからこういう映画が、大島渚監督によってつくられた。

 「忘れられた皇軍」である。

 

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「便所掃除」

2024-11-24 08:53:49 | 日記

 斎藤真理子さんの『本の栞にぶら下がる』に、真壁仁編『詩の中にめざめる日本』(岩波新書)が紹介されていた。書庫から取り出して、読みはじめた。1982年の第15刷。赤線が引いてあったりするからきちんと読んだのだろうが、記憶はない。

 そのなかに「便所掃除」という詩があった。国鉄労働者の浜口国雄さんが書いたものだ。

扉をあけます。/頭のしんまでくさくなります。/まともに見ることが出来ません。/神経までしびれる悲しいよごしかたです。/澄んだ夜明の空気むくさくします。/掃除がいっぺんにいやになります。/むかつくようなババ糞がかけてあります。

どうして落着いてくれないのでしょう。/けつの穴でも曲っているのでしょう。/それともよっぽどあわてたのでしょう。/おこったところで美しくなりません。/美しくするのが僕らの務です。/美しい世の中もこんな所から出発するのでしょう。

くちびるを噛みしめ、戸のさんに足をかけます。/静かに水を流します。/ババ糞に、おそるおそる箒をあてます。ボトン、ボトン、便壺に落ちます。/ガス弾が、鼻の頭で破裂したほど、苦しい空気が発散します。/心臓、爪の先までくさくします。/落とすたびに糞がはね上がって弱ります。

かわいた糞はなかなか取れません。(以下略)

 

 なぜこの詩を紹介しようとしたか。今日のニュースに、「教員採用、日程前倒しも受験者減8割」という記事を見つけたからだ。教員になろうという人が減っている。そうだろう、そうだろうと思う。

 教員とは、授業を教えることが主業なのだが、それ以外の雑用がどんどん増えていく。その雑用は、文科省の教員への支配統制策の強化と共に増えてきたものである。その一つが、勤務成績をもとに教員の給与を変えていくというやり方だ。そのために、教員に勤務内容についての自己評価を書かせるようになり、そのための業務が増えた。わたしは、教員給与の差別化に反対である。また一つには、わたしは経験しなかったが、生徒の成績に「観点別評価」という、私からみればまったく意味のないもののために、教員はぼうだいな時間をつかうようになっている。そのほかに、生徒からの相談に応じ、補習をし、さらに分掌の仕事、生徒の奨学金の申請業務、部活動の指導、家庭訪問、それに清掃の管理・・・・・・・・・・仕事は無数にある。授業の準備の比率はどうしても低くなり、結局その仕事は帰宅後となる。夜中でも、生徒が交通事故にあったといえば警察署に駆けつけることもある。

 ところで清掃の管理とは、生徒の清掃時に指導管理するというものである。トイレ清掃の指導管理にあたると、先ほどの詩と同じようなことに直面する。生徒ももちろんやりたくない、わたしもやりたくない、しかしやらなければならない・・となると、率先垂範ということになる。

 教員の仕事は多種多様である。いやでもやらなければならないことがたくさんある。トイレ清掃の指導管理をいくら熱心にやっても、「勤務成績をもとに教員給与を変える」のなかには入らない。見えない業務がたくさんあるから、教員の給与は一律で良いと、わたしは思う。本来なら手当が支給されるべき業務にきちんと手当がなされないこともある。時間外の労働などがそれである。そういうところを改善すべきであるし、なによりも一クラスあたりの生徒数を減らし、教員を増員すること、これがもっとも重要である。

 教員のなり手を確保するためにまずすべきことをする、それが文科省の仕事である。同時に教員への統制強化(そのなかには、教科内容への権力的介入も入る)をやめるべきである。学びというのは、自由な環境のなかでこそ行われるべきだからである。

 

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【本】斎藤真理子『本の栞にぶら下がる』(岩波書店)

2024-11-22 07:43:42 | 

 良い本だった。昨日のブログでも紹介したものだ。

 いろいろな本が紹介されている。読まなければならない本がたくさんあるのに、この本を読んでさらに読みたい本が増えた。

 自治体史などで歴史を調査し叙述している頃は、資料調査ででてくるテーマに関する本をひたすら読んでいたことを思い出す。そのために、そういう文献が蔵書として、どんどん増えていった。あの頃は、読みたい本を読めなかった。でてきた資料を日本の歴史、地域の歴史に位置づけていくためには、資料に関する智識をきちんと持たなければならない。それに、それに関する研究の動向をも視野に入れなければならないから、歴史を書くということはとてもたいへんなことだ。今、そういう仕事から足を洗ったので、好きな本を次々と読み進めている。至福の時である。

 さてこの本は、図書館から借りた。もう本を増やしたくない、という気持ちが強いからである。

 この本は、著者が今まで読んできた本について綴られている。巻頭は、『チボー家の人々』である。この本は、今も書庫にある。著者はこの本にいたくこころを動かされたようだ。わたしの場合は、やはりロマン・ローランの「ジャン・クリストフ」だな。高校生の頃読みふけり、日記にこころを動かされた部分を書き出している。自分自身の精神の持ち方が、これによって決定づけられたような気がする。「ロマン・ロラン全集」で購入して読んだのだが、今はこの全集は処分した。字が小さくて二段組み。誰も読まないだろうと思い処分した。

 次は林芙美子と郷静子、林については読んでいない。郷は『レクイエム』だけ読んでいる。次は、永山則夫。『無知の涙』だけ読んだことがあり、小説は未読である。鶴見俊輔、後藤郁子、茨木のり子。鶴見の本はよく読んできた。茨木も同様。しかし後藤郁子は知らなかった。

 次に『詩の中にめざめる日本』(岩波新書)。これは最近、もう一度読み直そうと思って書庫からだしてきて、今足元にある。著者は、そのなかから沖田きみ子の詩をとりあげている。

 順に書いていくのが面倒になってきたので、いくつか割愛。読みたくなったのは、長璋吉、「朝鮮短編小説選」(岩波文庫)、堀田善衛。堀田の本は何冊か読んではいる。もう一度読む必要があると思った。田辺聖子、森村桂。この二人については読んだことがない。朝鮮の文学を翻訳している長璋吉の本は、読まなければと思った。中村きい子の『女と刀』は読んだ。みずからの筋を通すということで、大いに学ばされた。

 それから、李浩哲の『南のひと北のひと』(新潮社)。

 他にも紹介されている本があるが、この辺で。こうした本に関するエッセイめいたものは好きだ。知らなかった本で、きっと読みたくなる本が紹介されているからだ。

 読みたい本がたくさんある。まだまだあの世にはいけない。

 

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次々と読んでゆくいきおい

2024-11-21 19:12:52 | 

 『ブラッドランド』下巻を読み進んでいるのだが、あまりの死者(殺された人)の数が多くて、どこそこで何万人、ここで何万人、合計で数百万人・・・とか、あまりの数の多さに辟易している。表された数には、ひとりひとりの人生があったのに。ヒトラー率いるドイツ、そしてスターリンのソ連、さらにそれに協力した国籍はいろいろの人びとが、殺人者となって、人びとに銃口を向け、ガス室に追い込んでいく。殺害の命令を下すのは、ヒトラーやスターリンであるが、それに協力し、実行する者の多さに、人間とはいったいいかなる存在なのか、と思わざるを得ない。

 今日、図書館に行って、姜尚中本を返却し、あらたに斎藤真理子『本の栞にぶら下がる』(岩波書店)を借りてきた。彼女は、ハン・ガンら韓国作家の作品を翻訳している。 

 だからこの本には、朝鮮半島出身の作家のことが多く書かれている。こういう本を読むと、そこに紹介されていて、いまだ読んでない本を読みたくなる。

 とっても読みたくなっているのが、脱北者のパク・ヨンミの『生きるための選択ー少女は13歳の時、脱北することを決意して川を渡った』という本である。

 そこには、「愛」ということばへの言及があった。北朝鮮において、「「愛」という言葉で表される感情は指導者への敬愛の念だけで、家族、友達、夫や妻に対してその言葉が使われるのを見たことがなかった」という文に、目がとまったのだ。彼女は、「韓国に来て、愛という言葉が人間だけでなく自然や神、動物にまで使われることを知」って、驚いたというのである。

 そして「韓国には、私の知らなかったたくさんの語彙があり、世界を表現する言葉が増えれば、複雑なことを考える能力もより向上する」「自分のなかに育つ言葉がなければ、ほんとうの意味で成長したり学んだりすることはできない。」と。

 ということは、北朝鮮は語彙が少ないということになる。語彙が少ないということは表現する力が弱いということであり、思考や感情が狭くなるということであり、自由がないということでもある。

 ※ついでに記しておけば、今の若者のことばも、語彙が少ないと感じる。日本語には豊かな語彙があり、異なった場に於て、同じ意味のことばでも、異なった言い方がある。語彙が豊富なら、表現力も高まる。そのためには、良書を読むしかない。

 斎藤さんは、その後で、金元祚『凍土の共和国』も紹介する。1984年に出版された。わたしもこの本を、刊行と同時に買って読んで、北朝鮮の真実の姿を、驚きと共に知った。誰かに貸してあげた記憶はあるが、今その本は不明である。

 斎藤さんのこの本、いろいろ知的刺激を受けつつ、明日には読み終えるだろう。

 昨日、ハン・ガンの『別れを告げない』(白水社)が来た。図書館から借りようと思ったが、たくさんの人がついていたので買った。これも読まなければならない。

 あまり人と交わることがなくなっているので、触発を受ける手段は、本しかない。他人との会話から触発を受けることが、めっきり少なくなった。人生の晩年とは、さびしいものだ。

 

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【本】チームK『私たちは売りたくない』(方丈社)

2024-11-20 10:22:04 | 

 コロナワクチン接種後に亡くなられたり、重篤な後遺症に苦しまれている方がたくさんいる。しかし、コロナワクチンがもたらしたこうした事態について、メディアはほとんど報じない。あたかも報道統制が行われているようだ。それでいて、コロナワクチンの過大な効能については、大いに報じられてきた。

 わたしはコロナワクチンがたいへん大きな問題を抱えていることを、ワクチン接種が始まってからしばらくして知った。わたしはコロナワクチンを2回も打ってしまったが、もっと早く知れば良かったと後悔している。

 報道機関で、コロナワクチンの問題を一貫して報道していたのは、名古屋のCBCテレビの「大石解説」という番組だけだ。わたしはYouTubeで、コロナワクチンに関する同番組をずっと見てきた。それこそ、報じているのは、今も、この番組だけと言ってよいだろう。

 この番組で、本書の存在を知り、すぐに購入した。悪税を含めて1760円である。

 世界初の「レプリコンワクチン」を販売する「明治製菓ファルマ」の現役社員がかいた書である。

 同社の社員が、コロナワクチンの二回目を接種して三日後、亡くなった、とても健康で、仕事にも熱心に取り組んでいた社員が、突然亡くなったのだ。その死は、コロナワクチンによるものだと認定されている。

 同僚が亡くなっているのに、同社は「レプリコンワクチン」を販売し、人びとに接種しようとしているが、それは危険だと著者たちは警鐘を鳴らす。

 そしてファイザーやモデルナのコロナワクチンを接種させるために、厚労省などが、虚偽のデータをつかい、また証明がなされてもいないことを、学者やテレビなどのメディアを通して流していたということを、公表されたデータをもとに書いていく。

 たとえばワクチンを打てば、「発症予防効果は95%」と宣伝されていたが、この数字は「常識外」だと、本書は記す。通常のインフルエンザワクチンの有効性は、4割から6割とされていて、コロナワクチンのこの数値は「異常」だという。

 わたしの知人は、2回目のコロナワクチンを打った直後に、コロナに感染した。それを知ってから、わたしは疑問を抱いて調べはじめ、以後は打つことをやめた。

 2022年に厚労省のアドバイザリーボードで示された「10万人当りの新規陽性者数」のグラフは、未接種者の陽性者がすべての年代で高くなっていた。ところがそのグラフに疑問を抱いた名古屋大学名誉教授の小島勢二氏がおかしいと指摘し、その結果厚労省は訂正したのだが、それをみると、ワクチンを接種したから感染予防効果があったとはいえないということが判明した。40代、60代、70代では、未接種者より2回接種者の方が新規陽性者が多いという結果となったのである。

 しかしテレビなどに出る学者たちは、それでも「感染予防効果」がありつづけると言い続けた。

 アベ政権は、国会などでウソを言い続けたが、厚労省の官僚たちも虚偽ノデータをつくってウソを平気で言い続けたのである。平気でウソをつくことが、この国では習い性となってしまったようだ。

 京都大学の西浦博教授、この人もテレビに出まくっていたが、「ワクチン接種をしなければ、死者数は36万人にのぼっていたはずだったが、コロナワクチンの接種によって1万人に抑えられた」と言っていたが、しかし、国民の多くがコロナワクチンを接種したあとの、2021年死亡者は予測値を上回り、22年、23年にはさらに増加している。

 著者は、「それほど死者抑制率が高いワクチンを、世界のどの国よりも頻回にわたって接種してきたこの日本で起きている2022年、2023年の爆発的な死者激増は、一体どんな理由によるものですか?」と問う。

 以下書くことは、この本には書かれていない。

 わたしがふと思うことを書いておく。ひとつは、コロナワクチンを製造しているファイザー、モデルナ両社はアメリカの企業である。アメリカの属国である日本国家は、ずっと自国が損してもアメリカに多額のカネを渡してきた。キシダ内閣の軍事費43兆円というカネの多くも、アメリカの軍事産業へとわたっていく。日本政府は、コロナを契機にして、多額のカネをアメリカの軍需産業につぎ込むように、製薬企業にカネをわたそうとしたのではないか。もうひとつ、数年前から高齢者を中心として多くの人が亡くなっている。コロナワクチンを接種させて、高齢者の数を減らそうとしたのではないか。

 本書を読んでいて、わたしのふと思ったこと、それは事実なのでは、と。

 この本に、わたしはたくさんの付箋をつけた。製薬企業に勤務しているだけあって、根拠としているデータなどは確かである。

 このコロナワクチンに関しての報道は、おかしかった。コロナワクチンが多くの人々を苦しめている実状を、ほとんど報じない。コロナワクチンのマイナス面がほとんど報じられなかったことをふりかえると、情報統制が行われ、マスメディアもそれに応じていたのではないか、と疑ってしまう。マスメディアへの不信が云々されているが、それは当然である。マスメディアが報じなければならないことを報じないので、ネットという玉石混淆の情報が飛び交っている世界へ、人びとは誘われるのである。

 

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「群衆」ということば

2024-11-18 20:10:07 | 社会

 兵庫県知事選の動向を見ていて、わたしはギュスターヴ・ル・ボンの『群集心理』(講談社文庫)を思い出した。この本については、このブログで何度か言及している

 たとえばその本の一節。

「これまで群衆が真実を渇望したことはなかった。群衆は、自分らの気に入らぬ明白な事実の前では、身をかわして、むしろ誤謬でも魅力があるならば、それを神のように崇めようとする。群衆に幻想を与える術を心得ている者は、容易に群衆の支配者となり、群衆の幻想を打破しようと試みる者は、常に群衆の生贄となる。」

 「群衆に幻想を与える術を心得ている者」がいれば、「群衆」はその「支配者」に支配される。

 いま、「群衆に幻想を与える術を心得ている者」は、「群衆」の目の前に姿を現すだけではなく、SNSを利用して「幻想を与える」ことができるようになった。

 兵庫県知事の斎藤某の言動について、子細に彼の行跡を追ってみれば、問題が多くあることは確かである。それについては、新聞やテレビ(わたしは見ていないが)で報じられた。

 ところが、今回斎藤某に投票した若者たちの多くは、新聞は読まないし、テレビもみない。斎藤某についての情報について接していた者は多くないだろう。

  そうした若者たちの前に、食いつきやすく明解で単純な情報が大量に流された。

 しかし、

群衆の感情が単純で、誇張的であることが、群衆に疑惑や不確実の念を抱かせないのである。それは、直ちに極端から極端へ走る。疑いも口に出されると、それが、たちまち異論の余地ない明白な事実に化してしまうのである。

群衆は、巧みに暗示を与えられると、英雄的精神、献身的精神をも発揮することができるのである。しかも、単独の個人よりも、はるかにこれを発揮することができさえするのである。

群衆は、単純且つ極端な感情しか知らないから、暗示された意見や思想や信仰は、大雑把に受けいれられるか、斥けられるかであり、そして、それらは絶対的な真理と見なされるか、これまた絶対的な誤謬と見なされるかである。推理によって生じたのではなく、暗示によって生み出された信仰とは、常にこのようなものである。宗教上の信仰が、どんなに偏狭であって、どんなに専制的な威力を人身に揮うかは、誰でも知っている。群衆は、自ら心理あるいは誤謬と信じることに何らの疑いをもさしはさまず、他面、おのれの力をはっきりと自覚しているから偏狭にであるに劣らず横暴でもある。

 歴史上、時に「群衆」が立ち現れることがある。最近の選挙は、「群衆に幻想を与える術を心得ている者」によって左右されるようになってきた、ということだ。

 賢明な人びとは、そうした動きに警戒しなければならない。

 というのも、

「群衆は弱い権力には常に反抗しようとしているが強い権力の前では卑屈に服する。」

からである。つまり、強い権力に抗するような動きを、「群衆」はしないということである。「群衆に幻想を与える術を心得ている者」は、支配権力の意向に沿って動く。

 県知事は権力者である。彼がどのような横暴なことを行っても、「群衆に幻想を与える術を心得ている者」を傍らに置いておけば、「群衆」に批判されることはない。

 【付論】今回の選挙は、新聞やテレビなどの「オールド・メディア」が完敗した、といわれるが、新聞やテレビは、支配権力の意向を受けて報じはするが、「群衆に幻想を与える術を心得ている者」ではない。

【付記】ネットで、この選挙結果の報道をテレビでみたが、もうテレビメディアは斎藤某にすりよった報じ方をしている。権力にすりよるテレビメディア、報道機関として信用されなくなるのは無理もないと思う。

【付記】「群衆に幻想を与える術を心得ている者」は、「群衆」を「暴力」に誘うこともある。

 

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もう一度(暴力についての考察 6)

2024-11-17 22:11:09 | 

 暴力は、人間の命を奪う。1980年5月の光州では、多くの市民の命が奪われた。奪った者たちははっきりしている。全斗煥の命令の下に、光州市民を殺しに来た殺人軍隊である。

 『少年が来る』の少年、トンホと友だちのパク・チョンデは殺された。チョンデの方が早かった。チョンデの姉・チョンミも殺された。いつどこでかはわからない。

 そのチョンデを探して、トンホは遺体置き場に行く。そして、そこで手伝いをするようになる。そのとき知り合ったのは、イム・ソンジュ姉さん、キム・ウンスク姉さん、キム・チンス兄さんであった。

 トンホは、チンス兄さんらとともに、道庁に残った。中学生のトンホは、母やソンジュ姉さんらから家に帰るように言われたのに、道庁に残った。

 道庁を襲撃していた軍人たちに、チンス兄さんらは銃口を向けなかった。そして捕まった。トンホはほかの若い高校生らと、両手を挙げて道庁からでてきたときに、軍人に射殺された。

 チンスは、囚われの身となり、激しい拷問にあった。激しい拷問が、彼の肉体を傷つけ、精神をも傷つけた。生きていくことが困難となって、彼は自死した。

 ウンスク姉さんも生き延びた。あの夜、ウンスク姉さんらは病院にいた。事件後、大学に行ったりしたが中退して出版社に勤めた。しかし、事件の記憶は、決して消えることはなかった。彼女も、精神に大きな傷を受けていた。

 ソンジュ姉さんは、光州市内で軍隊に囚われた。そして激しい拷問を受けた。釈放されたあと、労働運動の経験があるソンジュ姉さんは、その関係の事務所に勤めたが、その後テープ起こしの会社に入る。ソンジュ姉さんは、事務所の人びとと打ち解けることなく働く。

 ソンジュ姉さんも、肉体と精神に大きな傷をもっている。

 暴力は、人間の命を奪う。吹き荒れる暴力のなかで、なんとか生き延びた人びとは、それぞれが肉体と精神に、深い、深い傷を負ったまま生きざるを得ない。

 チンス兄さんと共に道庁にこもり、軍隊に囚われ、生き残った「私」に、ハン・ガンは、こう語らせる。

私は闘っています。日々一人で闘っています。生き残ったという、まだ生きているという恥辱と闘うのです。私が人間だという事実と闘うのです。死だけが予定を繰り上げてその事実から抜け出す唯一の道なのだという思いと闘っているのです。(165頁)

 生き残ることが出来たとしても、いつも死を意識しながら生きていかなければならない苦しさ。人間というものに、深い懐疑を抱いてしまった苦しさ。

 ソンジュ姉さんは、トンホがどのように殺されたのかを、釈放されてから知る。

君は道庁の中庭に横たわっていた。銃撃の反動で、腕と足が交差して長く伸びていた。顔と胸は空を向き、両足はそれとは逆向きに開いた状態で、その爪先は地面を向いていた。脇腹が激しくねじれたその姿が、いまわの際の苦痛を物語っていた。つまりあの夏に君は死んでいたのね。私の体がとめどなく血をあふれ出させているとき、君の体は地中で猛烈に腐っていたのね。(211~2頁)

 ソンジュ姉さんは、トンホに命が助けられたと思う。何によってか。「心臓が破けるような苦痛の力、怒りの力で」。

 『少年が来る』は、暴力を振るわれた人間たちの「怒り」についてはほとんど触れていない。しかし、表現されなくとも、「怒り」は、静かな力となって存在していたはずだ。ただ、その「怒り」は、暴力とつながらない。

 暴力が、いかに人間を破壊するかーハン・ガンは、光州で実際に起きたことをもとに、フィクションのなかに編み上げた。

 『少年が来る』を二度読んだ。読み終えたとき、モーツァルトの「レクイエム」を聴きたくなった。それを聴きながら、パソコンを打っている。

 1980年5月、光州でおきたことを知れば知るほど、「人間は、根本的に残忍な存在なのですか?」(163頁)という問いに、そうではないよ、と言えない自分を発見する。だからKyrie eleison(主よ、憐れみたまえ) を聴きたくなったのだ。

 

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誰が・・・?(暴力についての考察 5)

2024-11-17 11:02:19 | その他

 『少年が来る』を読んでいると(今、二度目を読んでいる)、次のような叙述に出遭う(二章 黒い吐息)。

 「誰が僕を殺したのか。」

 「聞いてみたかった。なぜ僕を殺したんだ。なんで姉ちゃんを殺したんだ。」

 新聞やネットで、殺人事件の報道が流されてくる。警察が犯人を検挙し、その結果、誰が殺したのかはわかる。そしていずれは「なぜ殺したのか」もわかってくるだろう。

 しかし、国家権力を背景とした殺人においては、犯人は検挙されない。殺人の主体は、個々の人間ではなく、国家権力であるからだ。もちろん、実際に引き金を引き、人間に銃弾を浴びせたのは、個々の人間である。しかし、個々の人間は、国家権力のなかに埋没し、その姿を現さない。そして個々の人間について、殺した理由は明確には説明されない。

 「光州事件」においては、無防備の市民に銃弾を撃ち込んだ兵士、屋上から市民に狙いを定めて銃撃した兵士、ヘリコプターから市民に銃口を向け引き金を引いた兵士、・・・・・がいた。

 しかし殺された人間を、誰が殺したのかは、明らかにされない。なぜその人間が殺されたのかも、明らかにされない。

 人間を殺すということ、人間一人の命を奪うということ、誰が行っても同じ行為である。しかしそこに国家権力が介在する場合、その殺人者は、実質的に免罪されるのである。

 「光州事件」において市民を殺した多くの兵士たちは、罪を問われることなく、生きていく。

 ガザで、あるいは西岸地区で、イスラエルの兵士等が、パレスチナ人の命を奪っている。しかしその兵士も、同様に、国家権力のなかに埋没している。

 これは不条理としかいいようがない。

 ここに現れる疑問、それは国家とは何か、国家権力とはいかなる存在なのか。暴力の問題を考えるということは、国家そのものを問う作業がどうしても必要になるということだ。

 

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暴力に対抗する(暴力についての考察4)

2024-11-16 23:21:38 | 国際

 ハン・ガンの『少年が来る』は、1980年の5・18光州事件を舞台としている。そこでは、韓国の軍隊が、韓国の市民を虐殺するという信じられない事件であった。

 さきほど、YouTubeで、光州MBCが制作したドキュメンタリーをみた。

Without leaving a name1 Without leaving a name2

 そこには、軍によって交通も通信も閉じられた光州の市民たちが韓国軍隊の暴虐にあっていることを見、あるいは知った人が、危険を冒して光州に入り込み、あるいは滞在していた外国人らが、世界に知らせようと必死に努力した姿が映されていた。また東京などでも、雑誌『世界』のT・K生の「韓国からの通信」に見られるように、光州を世界の市民に知らせること、そして韓国政府やアメリカに抗議する行動が展開された。

 そのなかには、牧師、ジャーナリスト、アメリカに密航した活動家、画家などがいた。何の見返りも求めず、彼らは行動した。

 わたしたちは、激しい暴力を市民にふるった全斗煥やその配下の軍人たちに対しては、強い怒りを持つ。おそらくその軍人たちは、みずからが行った蛮行を語ることもなく、また他人から賞賛されることはない。

 しかし、このドキュメンタリーに映し出された人びとは、まさにみずからの「良心」に基づいて行動した。そうした彼らを、わたしたちは賞賛すると共に、その姿に感動する。かれらの「良心」が他者の心を動かすのである。

 暴力に対抗する「良心」。ハン・ガンは、それを「この世でもっとも恐るべきもの」と書いているが、「恐るべきもの」といわれるほどに、「良心」は力をもつ、力を生みだしていくのである、それも連鎖的に。

 ひとりの「良心」が他者のこころを動かし、その他者の「良心」を呼び起こす、さらに・・・・・と、「良心」の波動は世界の人びとに伝わっていき、結果的におおきな力となっていくのである。

 このドキュメンタリーは、それを示していると思った。

 ハン・ガンのこの小説は、世界各地で戦争という暴力が吹き荒れているからこそ、書かれたのだと思う。

 わたしは、この小説に、大きな衝撃を受けている。

 

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【本】ハン・ガン『少年が来る』(クオン)(暴力についての考察3)

2024-11-16 17:21:41 | 

 一字、一字を追いながら読む。わたしの脳裡に、光州でおきたことが、そしてその事件が人間に何を刻印したか、それがおぼろげながら像を結ぶ。

 韓国の国家権力の、想像を超える激しい暴力。その荒れ狂う暴力の前に、人間として敢然と立った人びと。その暴力は、ただそこにいたという人びとを含めて、人びとの命を奪い、さらに生き残った人びとに、消すことの出来ない「記憶」を残した。その「記憶」とは、こころのなかの「記憶」だけではなく、みずからに振るわれた暴力の、からだの「記憶」でもある。

 『少年が来る』にでてくるのは、少年・トンホに関わった人びとである。虐殺された人びとの数からすれば、数少ない人びとの肖像ではあるが、かれらの生と死は、光州市民が体験した荒れ狂った暴力の象徴であるといえよう。

 この本には、暴力とはいかなるもの・ことなのか、暴力が人間の命を破壊するだけではなく、たとえ生き残ってもこころを破壊するのだということを、明確に伝えている。

 「暴力」について考えようとする場合、この小説を読まないと始まらないというほどに、暴力を描いている。

 そして暴力に抗するものは何であるのかも示唆する。それは「良心」。「この世で最も恐るべきものがそれです。」(140頁)と、記されていた。

 わたしは、道庁に残った人びとは、全斗煥の命令に従い押し寄せてきた戒厳軍の兵士と撃ち合ったと思っていたが、

 「・・(道庁に残った市民軍の)大半の人たちは銃を受け取っただけで撃つことはできなかった。」

とある。そのような立場に、もしわたしが立ち会っていたとするなら、おそらくわたしも引き金を引けないだろう。

 文中に「つまり人間は、根本的に残忍な存在なのですか?」(163頁)という問いがある。

 たしかに、韓国軍兵士は「残忍」だった。その兵士も、人間なのだ。そしてあまりに非道な暴力をふるわれながらも、「良心」にしたがって生きた人びとも、人間なのである。

 人間は、ほんとうに不可解なのである。

 拷問の叙述がある。読んでいて、日本の特別高等警察が植民地時代の朝鮮半島に「導入」し、それがそのまま続いてきたのではないかと思った。

 重い、重い小説である。著者のハン・ガンには、文字で表した世界のその背後に、無限の、この光州の出来事に対する想念があるはずだ。その想念の世界を知るためには、一度読むだけでは不可能のように思える。

 ハン・ガンがノーベル文学賞を受賞したが、今、世界ではウクライナ、ガザその他で暴力が吹き荒れている。暴力を振るう者たちが、自分自身の暴力がいかなるものかを知るために、『少年が来る』は最良のテキストとなるであろう。

 

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・・・・・・・(暴力についての考察2)

2024-11-16 11:46:08 | 

 ハン・ガンの『少年が来る』(クオン)を、アマゾンで買った。そして読みはじめた。

 読んでは立ち止まり、遠くをみつめ、再び本に目を落とす。そして止まる。読み進んでいくと、お腹に重いおもりがあるかのように、からだ全体でその重みを感じる。

 光州事件。光州のふつうの市民や学生などが、韓国の軍隊の銃弾などによって殺害された。事件そのものが重くのしかっかってくるのに、この小説は、そのなかに息を吸って食べ物を食べる人間が登場する。しかし周りは軍隊によって殺された遺体が並び、また運ばれてくる。

 もっとも激しい暴力が吹き荒れ、ひとりひとりの人間の命を奪い、その人間に関わる人間たちの深い悲しみを生みだす。

 暴力がふるわれるとき、そしてその暴力によってころされたとき、人間は、人間の魂は・・・・

 ハン・ガンは、この小説で、暴力の本質を穿つ。暴力がもたらすこと・ものを描く。それは重い。その重みを感じる。それはまた人間の重みである。

 まだ途中である。少しずつ、少しずつ読み進める。時間がかかる。

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殺生戒(暴力についての考察1)

2024-11-15 20:42:46 | 歴史

 なぜユダヤ教徒がつくったイスラエルは、ムスリムであるパレスチナ人を殺すことができるのか、という疑問を持っていた。なぜなら、「旧約聖書」の「モーセの十戒」には、「汝殺すこと勿れ」とあるからだ。単純に考えると、「旧約聖書」を聖典とするユダヤ教徒が人間を殺すことは「戒」を破ることになるのではないかと思っていた。

 しかし、今日、図書館から『講義 宗教の「戦争」論 不殺生と殺人肯定の論理』(東京大学出版会)を借りてきて、最初の講義、「宗教と戦争を考える」を読みはじめたら、こういう記述にあった。

 「ユダヤ教の正典は、「まともな人間」だけ殺してはならないと説いているのです。モーセは「出エジプト」に際し、神のご加護で海を割り、海底を歩いて渡って対岸に着いたところで海を元どおりにして、追ってきたエジプト兵の大軍を溺死させたと旧約聖書には書かれています。ユダヤ教は聖戦を認めますから、神に背いて義を犯す者は殺してよいのです。」

 「ユダヤ教はユダヤ教徒に害をなさない「まともな人間」以外を殺すのは構わず、イスラームでも、ムスリムを害する者を殺すことは許されるとしています。」

 なるほど、である。パレスチナ人は、「義を犯す者」「まともな人間」ではない、ということなのだ。

 しかしムスリムも、人間を殺している。イスラームは、「ムスリムを害する者を殺すこと」が許されているという。

 ユダヤ教も、イスラームも、人を殺すことが許されているということになる。ならば、どっちもどっち、ということになるのか。わたしは、そうは思わない。

 歴史的にみれば、第二次大戦後にパレスチナの住民たちが平和に居住していた(ユダヤ教徒も)ところに、シオニストたちが入り込んで、パレスチナ人を虐殺し、追い出し、土地を奪い・・・・・という行為をした結果、イスラエルという国家が誕生している。

 パレスチナ人をそのように迫害し、さらに現在のように、ジェノサイドにまで及んでいるシオニスト、イスラエルは、「義を犯す者」、「まともな人間」ではない、とわたしは考える。

 わたしは生まれてから現在まで、暴力とは無縁の世界に生きてきた。暴力的なケンカはしたこともない(子どもの頃姉弟げんかはしたことはある)。だから、人間と人間とが殺しあうという戦争は、まったく認められない。「非戦」(戦争はとにかく絶対にいけない)の立場である。

 戦争については、「非戦」だけではなく、「不戦」(戦うべきではない)、「義戦」「正戦」(正しい戦争はやむを得ない)、「聖戦」(神が命じた信者が推進すべき戦い)があると、この本にはある。やはりわたしは、「非戦」である。

 キリスト教徒も、多数の人間を殺している。世界史的には、キリスト教徒が、もっとも多くの人命を奪っている。

 同書によると、 

「原始キリスト教の段階ではすべての人間について殺してはいけないという不殺生戒があったとされ」ていたが、「コンスタンティヌス大帝が4世紀前半にキリスト教を公認し、4世紀末にキリスト教がローマ帝国の国教になると、教会が権力と結びつくこととなり、ローマ帝国が行うやむを得ない戦争を認める義戦論が出てきます。戦争が認められると、すべての人間に対する不殺生戒は「まともな人間」に限定され、そうでない人間はその枠外だということになります。」

 つまりキリスト教も、ユダヤ教やイスラームと同様の見解をもつようになった、というわけである。ただ、キリスト教の場合は、権力と結びつくことによって殺生を認めるようになったのだから、権力と結びつかないことが重要だということが成りたつ。

 教会というある種の組織をもつことによって、組織がその存続のために自己運動をはじめ、組織のために権力と結びつくこととなるわけだから、教会という組織を持たないという選択は「非戦」のためには有効ということになる。だからだろうか、わが国の無教会派のクリスチャンの多くは、「非戦」の考え方が強いと思う。

 いずれにしても、ユダヤ教、キリスト教、イスラームが、「まともな人間」でなければ殺してもよい、という考えであることは理解できた。

 

 

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【本】姜尚中『維新の影 近代日本150年、思索の旅』(集英社)

2024-11-15 17:13:52 | 

 本書は、共同通信が配信した、姜さんの「思索の旅」を書籍化したものである。したがって、研究書ではないし、一般向けに書かれているので、深く掘り下げた内容ではないが、姜さんらしく、きわめて知的で、読んでいていろいろ刺激を受ける。

 それぞれのテーマに関して深く掘り下げているわけではないが、記述の裏に厖大な知の集積があることがよくわかる。記述の中に、文献が引用されているが、それ以外の記述に於いても、たくさんの文献を渉猟し読んでいることが推測できる。

 2018年が明治維新から150年ということで企画されたもので、当然、過去を振り返るのだが、現在に対する鋭い問題意識をもって振り返るので、記述は過去と現在が響き合う。

 第一四章と終章が、全体のまとめとして有意義である。維新以降の歴史が、現在ともつながり、敗戦が介在していても、変わらないものがあることを示す。それは国家の「酷薄さ」であり、「むごさ」であったし、また変わらぬ「精巧な機械のように合理的に行政を処理できる組織としての官僚」であった。それらが引き起こす災厄のなかで捨てられていった人々。

 姜さんは、そういう人々への共感を示し、同時に知識人と言われる人々の「無力」を記す。

 たしかに、わたしが若い頃の知識人は躍動していて、あるべき世論を創り出していたように思う。しかし今、知識人は、一方では国家に組みするようになり、他方、知識人達の国家への影響力、社会全体への影響力は大きく減じている。

 本書は、近代150年の歴史と現在に、どのような影があったのかを探索し思索する、姜さんの旅をしるしたものだ。

 あまり難しくないので、通読することをすすめたい。

 

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