浜名史学

歴史や現実を鋭く見抜く眼力を養うためのブログ。読書をすすめ、時にまったくローカルな話題も入る摩訶不思議なブログ。

現実から学ぶということ

2011-06-30 22:28:02 | 日記
 入院している私の友人は、今しゃべることができない。こちらの言うことは理解できるのだが、自分からの意思伝達はできない。こちらの言うことに、首を動かして応答するだけだ。

 私は何とか意思の伝達ができるように、あいうえおの50音の表を作成した。昨日それを持って行ったら、小さすぎて読めないという。目にも何らかの障害があるようだ。昨日どのくらいの字の大きさならわかるか試してみて、ほぼ5㎝四方のマスにいっぱいに書かれた字なら読めるということがわかり、それを今日は持参した。しかしまだ指が自由に動かせない。表に書かれた字を指すことができないのだ。これは彼にリハビリで頑張ってもらうしかない。

 そこで今度は、文をいくつか用意しようと思っている。たとえば「喉が渇いた」など。彼が必要とする文を書いたものを用意していく、そうづればそれらをいくつか組み合わせて、コミュニケーションがとれるようになる。

 現実を前にして、その現実をどうすれば一歩前にすすめることができるか、少しでも改善できるかを考えて対応していく。それが必要だ。

 ところが日本のエネルギー政策は、行き当たりばったりで、何の先見性、哲学もない。現実から何も学ばない。

 ドイツは学んでいる。

 次の記事は、共同通信配信の記事だ。

独下院、脱原発法案を可決 22年末までに全17基閉鎖

2011年6月30日 21時06分

【ベルリン共同】ドイツ連邦議会(下院)は30日、2022年末までに国内の原発17基を全て閉鎖することを盛り込んだ改正原子力法案を、与党と大半の野党の賛成で可決した。既に連邦参議院(上院)を構成する各州代表の大半も脱原発を支持しており、同国は脱原発に向け本格的に動きだす。

 メルケル政権は昨秋に原発稼働期間の延長を決定したばかりで、福島第1原発事故を受けてエネルギー政策を百八十度転換。フランスや米国などは原発推進路線を堅持しているが、メルケル首相は議会で「福島での事故により原子力の役割を見直す必要があった」と説明した。


 しかし日本は。

http://uekusak.cocolog-nifty.com/blog/2011/06/post-942a.html

 日本の場合は、単にエネルギー政策のレベルでの話ではなく、政・官・財・学・メディアの相互依存的な利権構造がぐるぐるに原発を取り巻いている。日本の現実を変えるということは、とてつもなく大変なことだ。

 だいたいにして、学校教育から批判的な精神を奪っておいて、「上」の指示に素直に従う人間ばかりを育成してきたので、現実を直視し、思想や哲学をもって考え行動する人間が少なすぎるのである。

 今日『大震災のなかで 私たちは何をすべきか』(岩波新書)が届けられた。まだ内橋さん、大江さんの文しか読んでいないけれど、豊かな問題意識のもと、ヒューマニズム精神、批判精神を背景にした格調高い文は、いろいろ考えさせられる。今こそ、この大震災、あるいは原発事故という現実から、何を学ぶか、若者にとっての大きな課題である。





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武田教授のブログ

2011-06-30 17:17:04 | 日記
 中部大学・武田教授のブログは、必読である。29日のブログも、その通り!!と言いたい内容である。そのままコピーさせていただくが、是非武田教授のブログにアクセスを。

節電」は本当に必要なのか?(1)  電気代はなぜ高い?


この夏は電気が足りないと言う。

でも、どうもうさんくさい.一説では

「原発を再開したいから、電気が足りないと脅しているだけだ。寝苦しい夜を過ごさせて原発賛成にするためのあくどい宣伝だ」

とも言われる.

東京電力は日本の代表的な企業だから、本当はこんなことを言われるようなダメ企業では困るのだが、なにしろ

「東電はウソを言う企業だ」

というのは、原発事故以来、常識になっているので仕方が無い。

そして、福島原発事故の直後、東京電力が「計画停電」というのをやり、大きな影響がでた。

電気機器をつかって患者さんの命を守っている病院や、1度とめたら製品がダメになってしまう工場などはビリビリしていたものだ。
・・・・・・
明らかにおかしい.

東京電力がもっている発電の能力は、6300万キロワット。

これに対して計画停電が実施された3月14日の電力消費量は、たった2800万キロワットだった???

それで「足りない」??? ???
・・・・・・

何かを製造する「製造業」では、設備をどのぐらい使うかという「稼働率」は、収益の死命を制するほど大切なもので、多くの会社は設備稼働率が80%にでもなると、経営はピンチになる.

ところが、

「原発事故で電気が足りなくなるので、計画停電をする。国民は協力しろ」

と東電が言った日の設備稼働率は、実に44%!!

さすが東電だ。これまで、営業成績が悪くなると、電気料金を上げれば良いという気楽な商売をしてきた。事実、日本の電気料金はほぼ世界一、アメリカの3倍とされる.

それでもお客さんから文句は来ない。もし文句を言えば「じゃ、電気を売らない」と言えば、それで良い。「やらせ番組を放送しているから、受信料を払わない」と言う視聴者を不払いで裁判に訴えるというNHKと同じ体質だ。
・・・・・・
稼働率が低い理由は、真夏の昼間に多くの人が「エアコン」を使う.かつてはこれに「高校野球」が加わってテレビを見るので、さらに電気が必要になる.

だから、半分しか使わない春の稼働率が44%になるのは仕方が無いというのが「東電の言い分」である。

もちろん、東電の言い分がウソだ。ウソをつく人というのは、

「原子炉が壊れているか?」

ということだけウソをつくのではない.

「原発事故が起こったから、電気が足りない」

というのも、

「日本は質の良い電気を供給しているから、電気代が高くなる」

というのも、全部、ウソなのである。

電気の蓄積方式(集中蓄積、分散蓄積)、発電方式(設備費と燃料費の関係)、電気機器会社とタイアップした電気の平準化システムなど、設備の稼働率を上げるためには、やることは山ほどあるけれど、このような「面倒な事」より

「たっぷりと発電所を作って、時々、動かしたらよい」

という方が楽だ。
・・・・・・
稼働率が下がり、経費が嵩むようになれば、電気代を上げればよい。簡単で誰にも文句を言われない。

それに対して、電気が足りなくなると、文句を言われる.

だから、発電所をたっぷり作って悠々と生活した方が良いと思うのはお公家さんの東電の経営者としては当然だからである.

電気会社のシステムが悪い。個別に「これもすればよい、あれもすればよい」と言っても、巧みに言い訳されて終わりだ。

こんなことは個別にいくら言っても、ケンカになるだけで電気代が安くなることはない。

でも、もし東電に競争相手が居たら、設備の稼働率はたちまち80%になり、電気代は半分になるだろう。

その点では技術も大切だが、安全を守り、電気代を安くするには、「電気を供給する社会的なシステムに競争原理を入れる」ことも重要であることが判る。

(平成23年6月29日 午前10時 執筆)

http://takedanet.com/2011/06/post_7073.html
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犯罪者

2011-06-30 07:31:57 | 日記
 東電などの株主総会で、原発推進政策に対する疑義や抗議がなされたという。当然のことだ。あのような被害が出たら、当然人間は二度と同じ過ちを繰り返さないために、原発を止めるはずだ。なぜなら、安全な原発なんてあり得ないからだ。


 しかし、海江田経産大臣は、原発推進政策の経済産業省の省益を背景に、佐賀玄海原発の再開を求めた。玄海原発の地元自治体も、危険から町民や周辺住民を守るという立場ではなく、カネを求めて再開に応じる姿勢を示した。日本人の近視眼的、今が良ければいい!!という姿勢の典型的な例である。

 ところで、東京電力は、なぜ刑事告発されないのであろうか。福島県などの住民、静岡県の茶農家、茨城県の漁業者などに健康被害を引き起こすような「毒」をまき散らしたのである。意図はないから故意とは言えないかもしれないが(危険性が指摘されていたにもかかわらず、安全措置を経済的理由から執らなかったから「未必の故意」にはなるかもしれん)、過失傷害などに問えるのではないか。

 人々に保障されている人権、生存権、職業・移転・居住の自由、財産権その他の人権が大きく損なわれたのである。損なったのは、明確で、東電やそれを推進してきた経産相・・・彼らの責任を厳しく追及しなければならない。

 日本人は、社会現象をあたかも自然現象であるかのように、人知ではどうにもならないとして受忍する傾向が強い。しかし社会現象は基本的に人為的なものである。人為的なことで被害が生じたのであるから、徹底的に責任を追及すべきである。行政責任、刑事責任、民事責任。

 責任追及が甘く、またとくに上級に対する責任追及がなされないために、日本の社会はよくならないのである。悲しいことに、日本は上級に対してではなく、下級に対する責任追及は厳しく行われるのだ。

 政府や官僚、そして大企業(マスメディアも入る)などの「上級」は、こうした責任追及の甘さを知っているから、彼らは平気で居直るのだ。

 この間の原発に関する、保安院や東電、原子力安全委員会などのしゃあしゃあとした態度を想起すればよい。情報を隠したり、ウソをついたり・・・・国民をバカにしているからできることなのだ。

 彼らの利益のために起こした事故により、なぜ何の関係もない私たちが放射能に汚染された食物を摂り、汚染された水を飲み、汚染された空気を吸わなければならないのか。

 許せない!という怒りを、持たなければならない。なぜなら彼らは「犯罪者」なのだ。


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ジャーナリズムのおかしさ

2011-06-29 21:51:14 | 日記
 原発報道がいかにひどいものであったか、多くの国民は実感したと思う。政府や東電の偽情報をまき散らし、ヒバクシャの一を増やした。

 このことに関して、TBSの金平茂紀(かねひら・しげのり)さんが良い記事を書いている。金平さんは、土曜日夕方の「報道特集」のキャスターをつとめている。私が見る番組の一つである。

 
http://www.asahi.com/digital/mediareport/TKY201106090286.html


 また新聞社がいかに権力に卑屈になるのか、を、もと朝日新聞記者の柴田さんが書いている。これも重視しなければならない記事だ。

http://www.magazine9.jp/shibata/110629/


 ジャーナリズムは、現在日本では存在し得なくなっているといってもよいだろう。




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ソニーは買わない

2011-06-29 21:43:08 | 日記
 ソニーは、赤字だそうだ。そうなると「構造改革」で、人員削減、つまり首切りを行って労働者を路頭に迷わせるのだ。
この記事がでたにもかかわらず、ソニー会長の報酬は、8億6千万円、3期連続赤字でも、5000万円アップだそうだ。赤字を出すと言うことは、経営者として失格だろうに、経営者の報酬を上げて労働者を減らすというのは、何ともまあ、新自由主義の本質を現しているとでもいえようか。

 こういう会社の製品は、金輪際買うものかと思ってしまうのは私だけだろうか。


http://www.zakzak.co.jp/economy/ecn-news/news/20110524/ecn1105241624003-n1.htm

ソニー・ショック…3期連続赤字 また大リストラ?PS流出も追い打ち

2011.05.24

 「ソニー・ショック」も、もう何度目か…。2011年3月期に2600億円の最終赤字に転落する見通しを公表したソニー。業績が悪化するたびに構造改革と称して万単位の人員削減を繰り返してきたが、今回もコスト要因とみなしている国内のものづくり部門を中心に大ナタがふるわれる可能性が高い。

 同社の赤字転落は3期連続。理由は、東日本大震災の影響で国内事業の収益回復が見込めなくなり、将来の利益を見込んで計上していた「繰り延べ税金資産」の取り崩しを迫られたためだ。

 繰り延べ税金資産は、払いすぎた税金を将来取り戻せると見込んで計上するものだが、そもそも利益を上げて税金を納めていないと税金を減らす効果がない。

 ソニーは国内の納税分に関して繰り延べ税金資産を全額取り崩したが、これについて家電担当アナリストは「12年3月期も国内事業は業績回復できないと宣言したのも同じで、思い切った構造改革に踏み切るのではないか」と予測する。

 これまでもソニーは危機に直面した際に不採算事業の整理や人員削減を行ってきた。

 最初にソニー・ショックと呼ばれた2003年の業績悪化局面では世界で2万人の人員を削減。05年の業績悪化で経営陣が交代し、ハワード・ストリンガーCEO(最高経営責任者)体制になった後も1万人の追加削減に踏み切った。リーマン・ショック直後の08年には1万6000人の人員削減を発表している。

 今回は、国内のものづくり、特に赤字が脱却できないテレビ事業がターゲットになりそうだ。生産部門についてはすでに海外移転が進んでいるが「国内中心の開発部門についても縮小や再編は避けられない」(前出のアナリスト)。

 国内市場では地デジ化やエコポイントに伴う特需が終わり、単価の値下がりが続くなど環境は厳しい。海外市場も「供給過剰の状態が続いている」(調査会社)。さらに円高も業績に重しとなっている。

 「ストリンガー氏も次期社長最有力の平井一夫副社長もソフト分野出身。ものづくりを守ろうという勢力は社内で劣勢」(ITジャーナリスト)との指摘もある。

 さらにやっかいなのがプレイステーションなどの個人情報流出問題だ。営業利益で140億円の損失を見込んでいるが、今後被害者の実害が出てくれば損失拡大も予想される。4期連続赤字は避けられるのか。
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想像力

2011-06-29 07:59:52 | 日記
 日本政治の最大の欠陥は、視野狭窄、近視眼的であるということだ。先の見通しを持つことができない。これこれのことをしたら、その先どうなるのか・・・といったことが、軽視されるのである。言ってみれば、想像力の欠如である。


 たとえば「平成の町村合併」。政府の行政の合理化、経済効率から考えた「道州制」(だから財界が積極的に推進する)を理由とした町村合併により、どういう事態が生ずるか。静岡県の場合は、すでに1969年に静岡市に合併した安倍郡井川村の例を振り返れば、合併がいかなる事態を生み出すかはすでに明確であった。合併したばかりは、静岡市もいろいろお金をまわしたりして、井川地区の改善に取り組むのだが、しばらくすると無視ないし軽視するようになる。人口が少ないから議員も少人数しか選出されない。井川地区の声が静岡市政に反映されない。

 今、浜松市に合併した旧市町村からは合併しなければよかった、という声が聞こえる。しかしそんなことははじめから分かっていたことだ。国(政府)や県が推進することに、盲目的に従っていれば事足れりとする議員や首長。合併した後に思いがゆかない。彼らは合併時に、原発立地のようにはいかないが、少しはカネが落とされるので、それに目がくらむのだ。

 想像力が欠如しているのである。残念ながら、想像力が欠如しているのは、議員や首長らだけではなく、地域住民も同様だ。合併を推進する人たちを選出しているのだから、責任がまったくないわけではない。

 今回の原発事故。これにより、福島県ではきわめて長期間人が住めない土地ができた。国土の一部を失ったのだ。尖閣や竹島が・・・・と叫ぶ前に、それよりも広大な土地が失われたのだ。

 「安全神話」が崩壊して、原発は安全ではないと言うことが明確に立証された。だいたいにして、日本の原発安全技術が最先端であるかのようなまさに「神話」をよくも日本の「原子力村」の方々は流すことができたか、不思議でならない。日本の原発技術はアメリカのそれである。日本は自らの技術力で原発をつくりだすことができなかったのだ。

 今、福島県を中心にして被災者が避難している。そして原発から大量に漏れ出した放射能が、水や野菜に入り込み、また海を完膚無きまでに汚している。原発ではたらく労働者らも大量に被曝している。その福島原発は地震のおそれはほとんどなかったところだ。そこで大地震が起き、津浪が襲いかかった。地震に見舞われるのは福島や、はたまた浜岡だけではない。地震や津波が起こった時、どういう状態が現出するのかが既知となった。同様な事態が起きる可能性は十二分にある。

 だとすると、想像力を働かせなければならない。居住地近くにある原発も、福島と同様のことが起きるのだ。いや遠距離にあっても、放射能の影響は受けざるを得ない。自分自身が、福島と同様な状態に陥っても良いのか、ということだ。

 もう原発は、いらない!というしかない。

 ただし想像力は、自生的に生まれてくるものではない。いろいろ勉強して知識を得ていく中で、想像力はひろがっていく。無知からは想像力は生まれない。

 今、原発について、しっかりと学び、現在の、そして未来に生きる人々の日常を守らなければならない。

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生きるということ

2011-06-25 06:02:21 | 日記
 ある日、突然意識不明になる。そして意識が戻ったら、自らがまったく半身不随になっている。しかしそれだけではない。唾液が気管支や肺に入り、肺炎などをひきおこすため、のどのところを切開し、そこから呼吸をするようになる。必然的に言葉を失う。

 人間は、外界からの摂取と排泄、そして人体の諸器官が物理的・化学的に連携する中で生きている。その連携が切断される。


 ある日、皮膚に何らかの異状がみられ医師の診断を仰ぐと、ハンセン病だといわれる。20世紀、日本ではハンセン病だと診断されると、療養所に隔離される。療養所には、何でもある。人間が生きるために必要な諸設備が整い、そのなかだけで生きていけるようになっている。しかしそこからは出られない。警察の出張所もあり、監視を受ける。

 僕は「生きる」ということを考える。突然今まで生きていた日常の世界から、まったく別の世界へと移らざるを得なくなったとき、人はおそらくある種絶望的な感じに襲われるのだろう。しかし、自分自身の体が呼吸をし、何ものかを摂取し排泄している以上、生を維持していかざるをえない。

 人間は、意味の動物だといわれる。なんらかのかたちで生きる意味を求めざるを得ない生き物だといわれる。その意味とは、人間がひとりでは生きていけないことから、他者との関係性のなかではぐくまれる。他者に働きかけ、他者から働きかけられる、そのなかで意味を模索する。

 だとするなら、人間が他者との関係性の中で生きる意味を模索し、そのなかで生き続けられるというのなら、人間は、他者が孤立しないように、他者との関係性をもとうとする必要がある。他者との関係性の中で、人間は生き、生かされる。

 そこで、関係性が過少になっている人々と、何らかの関係性をもとうとする努力は、やはりしなければならない。関係性の中で自分自身が生き、生かされるのだから、他者との関係性を求めることは自分自身を豊かにすることにつながるはずだ。関係性を求め、維持する、そのなかで、お互いの人生は豊かなものになる。

 人間は、他者との関係性を求め、維持することによって、自分自身と他者の生きる意味を、より確実にしていくことができる。


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霧の中の駿河療養所

2011-06-24 19:49:53 | 日記
 今日は御殿場に来ている。あす小山町で仕事があるので、そのついでと言っては申し訳ないが、今日午後(今後「静岡県におけるハンセン氏病」を研究しようと考えているので)、その療養所の一つである駿河療養所を見学したのである。

 午後一時、療養所に着き、所員の長沢さんに療養所の各所を案内してもらった。療養所はかなり広く、山の上にある「駿河神社」はじめ、ほとんどの施設をみてまわった。施設は小ぎれいで、手入れも行き届き、入所者の生活がしっかりと保障されているように思えた。

 今回は見学だけを申し込んでいたので、自治会長の小鹿さんだけと話ができた。子どもの頃からここにすんでいられるとのこと、所内のことについていろいろ教えていただいた。

 20世紀というか、近代日本の問題性は、このハンセン病患者に対する隔離政策に象徴的に表されていると思っているので、今後この問題を追究していきたいと思う。


 御殿場は、霧の中だ。霧が地を這うような感じで飛んでいる。明日は神山復生病院を訪ねるつもりである。
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暴挙

2011-06-21 23:54:38 | 日記
 「暴挙だ!」と叫びたくなる。なぜか。中学時代からの友人が脳幹梗塞で倒れたからだ。昨年九月に倒れたそうだ。知ったのはつい最近。今日彼のうちを訪ねて事実を知った。

 昨年夏、同窓会を開き、彼は楽しそうにたくさんの友人と語らっていた。クラスの同窓会は、彼が「そろそろやろう」という呼びかけから始まる。万年幹事の私は、彼からの声がかかると名簿を取り出して連絡する。そういう関係であった。

 なぜ彼なのか!彼は今、寝返りもできず、病院のベッドに寝たままだという。なぜ彼なのか!私は、彼の無念を思う。きわめて活動的な彼。であるが故に、よけいに彼の無念さを感じる。

 彼が倒れたのは、暴挙以外の何ものでもない。

 私は、病床の彼の姿を、平常心で見ることが出来るか。



 
 また今日、高校時代の一つ上の先輩から手紙が来た。メールアドレスが記されていたので、高校時代参加していた「社研」の同窓会をやりたいですね、と書いて送った。みんな浜松を出ているだろうと思っていたが、そのうちSさんは浜松にいるようなことを聞いていたのでその旨を書いて送ったら、Sさんはもう亡くなっているとのこと。

 Sさんが卒業する時、彼がかぶっていた学帽をもらった。独特の話し方をする人だった。

 これも、暴挙だ。


 今日、浜松市立中央図書館に行った。これから研究を始めようとしている静岡県のハンセン病の資料などを閲覧するためだ。20世紀は、ハンセン病の人々を隔離し、国家的差別のなかに追いやった歴史をもつ。これも暴挙である。


 暴挙には、何とか対抗しようと思えば何とかなるものもあれば、そうでないものもある。

 私は、何とかなる暴挙を一つでもなくしていきたいと思う。




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原発の再開要請

2011-06-20 09:21:31 | 日記
 静岡県の浜岡原発は停止中である。そのほかの原発も、このままいくと、来年春にはすべてが定期検査などで停止されると予想され、私はよかったと思っていた。しかし、海江田経産相、そして菅首相も、その他の原発については再始動を求めるという。

 この発表に対して、原発立地自治体は、ダブルスタンダードだと批判している。『読売新聞』(福井版)の“「高齢原発」の安全まず示せ”もきわめて批判的な記事を載せている。

地元首長ら 経産相に「方向性を」

 海江田経済産業相が18日、水素爆発などの過酷事故(シビアアクシデント)対策が適切として、停止中の原発の運転再開を要請したのを機に、再開の了承を取り付けるため、国から地元自治体への働きかけが本格化しそうだ。ただ、全6基が「30年超運転」の福島第一原発の事故と、長期運転の因果関係など、県が説明を求めた課題への回答は不十分なまま。国が県や立地市町の理解を得るのは容易ではない。(藤戸健志、畑本明義、青木さやか)

 県内の商業用原発13基のうち、30年超運転の〈高経年化原発〉が8基を占めるだけに、県は古い原発の安全性に神経をとがらせる。満田誉副知事は「高経年化原発の安全確保などを含め、安全基準の策定を国に求めていく」と語る。県原子力安全対策課の岩永幹夫課長も「県としての判断は現時点で変わらない」と突き放した。

 福島第一の事故を踏まえた全国の原発の安全対策に、国が一度は「お墨付き」を与えながら、一転して浜岡原発だけ停止を要請したことへの不信感も根強い。「浜岡原発と他の原発との違いや、高経年化対策についての説明は不明確だ」。ある県幹部は強調した。

 記者会見で海江田経産相は、運転再開への理解を得るため、自ら地元自治体を訪れる意向を表明したが、県内の立地市町は慎重な姿勢を崩していない。関西電力の高浜原発(4基)が立地する高浜町の野瀬豊町長は「事故の知見を反映させた新たな安全基準策定の工程表や、避難道路の整備について一定の方向性を示してほしい」と要望。「回答を持たずに経産相に来ていただいても意味がない」とくぎを刺した。

 関電の美浜原発(3基)がある美浜町の山口治太郎町長も「町として納得できなければ再稼働は認められない」とした。日本原子力発電の敦賀原発(2基)が立地する敦賀市の河瀬一治市長は「安全と確認した根拠について、図面なども含め詳しく説明してほしい」と注文を付けた。

 反原発団体「原子力発電に反対する県民会議」の小木曽美和子事務局長は「国は場当たり的な対応策を示すばかりで、住民は納得できない」と批判した。

     ◇

 経産省原子力安全・保安院は21日、県庁に審議官を派遣。原発の安全基準などについて県側に報告し、同日開催の県議会全員協議会でも同様の説明をする。

(2011年6月19日 読売新聞)



 原発村と称される、電力会社、保安院など原発に関係する組織がすべて原発推進政策の上で動いていることが批判されている時、保安院がいくら「安全」だと叫んでも誰も信じないだろう。今までに明らかにされてきたように、保安院は電力会社の事故の隠蔽や検査のごまかしに手を貸してきている。そういう組織のあり方の改革すら示していない中で、こういう見識のない方針を公にするとは、菅政権も経産相にいいようにされていると思わざるを得ない。

 なぜ浜岡原発を停止させたか、その理由につき、横須賀に第七艦隊の大海軍基地をもつ米軍からの要請があったからだ、というものがある。アメリカからの要請により菅内閣は浜岡を停止させた、ということが真実かもしれないと思えるようになってきた。

 ※ 右肘が痛くて、しばらく書き込みを休んでいた。マウスの使いすぎ、PCで原稿を書きすぎ・・・かもしれない。今も少し痛いが、これから少しずつ書いていこうと思う。






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「対抗」文化の存在

2011-06-12 07:31:56 | 日記
 原発事故が収束しない。今も放射能は出続けているはずだ。莫大な放射能を出し続けていても、それでもなお「原発利権」にありついてきた人々(自民党や地方の政治ボス、土建屋など)は、原発の再開などを求めている。

 この原発事故の原因について、推進する側とチェックする側(保安院)が同一の経済産業省内にあることが指摘されている。しかし私が思うのは、それだけではなく、原発に関わる人々のほとんどが推進側であるということ(電力会社や土建屋は儲かる、研究者には潤沢なカネが入る)であり、またそれに加えて原発の危険性に気づいた少数の人々を徹底的に排斥してきたことが原因なのではないか。

 逆に言えば、原発に疑問を抱いた少数派の人々は、危険な原発推進政策に対して影響力を与えることができなかったことである。

 残念ながら、日本の政治文化は、ある事業について少数の利権を持つ人々が、その利権の一部を多くの人々に分け前として与えて従属させ、どんどん推進していく、そしてその事業に反対する少数派にたいしては、無視ないしは排除していく、というものではないか。

 これは国政のレベルでも、小さな組織内部のレベルでも、同様である。それぞれのレベルの社会のなかで、主流の動きや考えに対する対抗的な勢力や文化が縮小の一途をたどってきた、あるいは縮小するように、主流の側が仕掛けてきたこと、それに対抗勢力の側が切り崩され、主流の側に取り込まれ、対抗勢力が対抗できるだけの力をどんどんそぎ落とされ、持てなくなった。

 そのような動きは、おそらく1970年代の後半からはじめられたのではないか。主流の側はいつも権力を握っているが故に、その権力を自覚的に、あるときは強硬に、あるときは柔軟にふるうことにより、学校や職場、地域など普通の人々が生活するところから「対抗」文化の素地を消していく作業を行ってきたのではないのか。

 たとえば学校では部活動の必修化により子どもたちをスポーツを中心にして権力の側に取り込んでいく、それとともに教員を多忙化させ、創造的な動きを封じる、職場では戦闘的な労働組合を切り崩し、少数組合化して無力化をはかる。もちろん「対抗」文化の担い手は抵抗を繰り広げるのだが、それは最終的に1990年代はじめに押さえ込まれてしまう。

 日本の社会のどこのレベルでも、「対抗」文化が大きな勢力として出現しなくなって20年。

 沖縄では基地問題の矛盾が県民生活を恒常的に苦しめているが故に「対抗」文化は消えないでいるが、それ以外の地域ではほとんど根絶やしにされてしまっている。

 そして今回、福島の原発事故が起きたことにより、その事故が国民生活をおおいに不安に陥れたため、この問題に関する「対抗」文化が、大きな勢力として力を持ちつつある。だがその行方はまだ闇の中だ。影響力を持つ政治勢力として、原発推進勢力という主流の動きを阻止し、変革できるか。

 私はその確信がもてない。つまり「対抗」文化としての政治勢力として“彼ら”と対抗できるのか。



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『朽ちていった命ー被曝治療83日間の記録』(新潮文庫)

2011-06-07 15:30:07 | 日記
 1999年9月、茨城県東海村の核燃料加工施設「JCO東海事業所」で、ウラン燃料の加工作業をしていた大内さんら3人が「青い光」を見た。その瞬間、大内さんらは中性子線に貫かれた。「臨界」ー核分裂反応が連続して起き、その際に放出される中性子線が体の中を通過していった。しかしただ貫通したのではない。体のなかのDNAを破壊していったのである。

 大内さんは、最初は千葉県にある放射線医学総合研究所に運ばれ、そして東京大学付属病院に運ばれた。当初元気であった大内さんの体が徐々に変化していく。その変化に対して、東大病院の医師や看護師が懸命の医療・看護を行うも、被曝による変化は、治療を拒む。

 この本は、NHKが放映したドキュメント「東海村臨界事故」を本にしたものだ。

 被曝した大内さんの病状の変化が克明に描かれ、その緊迫した姿が浮かび上がる。

 原発を動かすためには、多くの労働者が危険な環境の中で様々な作業を行う必要がある。そこで働く人々の多くは、「核」の危険性を十分に知らされずに従事している。

 大内さんも、核燃料の危険性に対応していないズサンなやり方を強いられ、そして被曝した。

 「核」による被曝がどれほど惨いものであるかを、大内さんの被曝から死に至る83日間が示している。

「ノーモアヒバクシャ」という声が、日本では叫ばれる。しかしヒバクシャは、原発がある限り「生産」され続ける。今、福島をはじめとした日本には、大量の「ヒバクシャ」が生み出されている。

 被曝とはどういうことか、この本はその姿を明確に示してくれる。良い本だ。
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いずれにしても

2011-06-06 09:56:25 | 日記
 原発事故に関わる一連の動きを見ていると、政府も東電も、そして福島県も、そこに住む人々の安全については、ほとんど考えていないということがよくわかる。こういう機関がまったく期待も信用もできないということを、わたしたちは肝に銘じるべきなのかもしれない。

『朝日新聞』の記事である。

県、高放射能データ公表せず 3月、福島市などで検出
2011年6月5日

 東京電力福島第一原子力発電所で最初に水素爆発があった3日後、原発から約50キロ離れた福島市内の雑草から、1キログラム当たり100万ベクレルを超える高い放射能が検出されていたことが分かった。福島県は政府に連絡したが、公表されたのは、翌日に別の場所で測った6千分の1ほど低いデータだけだった。県は「意図的に公表しなかったわけではない」としている。


http://mytown.asahi.com/areanews/fukushima/TKY201106040444.html


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情報隠し

2011-06-05 08:33:08 | 日記
 政府、保安院、東電、いずれも信用できないことが次々明らかになっている。事故から3ヶ月近く経ってから、事故当時の情報が流される。情報隠し。決定的な情報は出さずして、「安全」、「直ちに影響はない」などと、官房長官などは事故の詳細を語らず、重大な情報を隠しながら語り続けた。

 それらがほとんどウソであったこと(しかし、原発推進政策に批判的な人々からは、正確な情報が出されていた)が、最近小出しに提供される情報により暴露されつつある。地域住民の安全より、原発推進政策を守り続けようとしたのだ。

 今、福島原発の事故の収拾にあたっているのは、東電や保安院(現場にいるのかどうかは知らない)。事故を起こした張本人が収拾にあたっているのだ。自らの責任を明らかにするような情報は、おそらく流さない。

 いろいろ調べたら、どこの国でも原発事故が起きた時には、できるだけ情報を開示しないように「悪戦苦闘」していた。原発そのものが危険であることを原発を保有している企業や団体は知っているから、真実の情報を流した場合、原発の存続が危うくなることをおそれているのだ。もちろんそれに対して、激しい批判がなされている。

 日本の原発事故も同じだ。原発そのものが事故の情報を開示させないシステムなのである。原発それ自体、アメリカの核兵器製造の過程で生み出されてきたものであることを認識しておきたい。

 日本の原発の半分以上は停止している。老朽化している原発はいずれその生命を失っていく。新規の原発は、おそらく建設できそうもないから、そのほかのエネルギーに依存せざるを得なくなる。脱原発は、必然的なのである。

 しかし原発から利益を吸い上げてきた者どもは、今も原発推進政策を捨てようとしていない。見ろ、自民党を、公明党を!彼らはこのような大事故がおきても、この事故から学ぼうとしていないで、自らの責任を棚に上げて(こういうずさんな原発推進政策の責任は自由民主党にある)、批判ばかりしている。自民党がいきり立っていろいろ非難をしていると、「おまえにだけは言って欲しくないよ」といいたくなる。自民党、公明党は、原発推進政策について、きちんと総括したのか。

 ドイツは、すでに将来の見通しをもって、脱原発に向けてきっちりとスタートした。ウランなどの核物質は希少であって、そこらにころがっているものではない。いずれ枯渇する。また発電後の放射性廃棄物の処理も難問である。原発そのものはきうぇあめて危険である。こうしたことからドイツは明確な政策を決めた。

 日本では放射性廃棄物の処理方法も決まっていない。それぞれの原発や六ヶ所村などにあり、どんどんふえている。地震大国日本は、さんさんと太陽光が降り注いでいる。これを使わない手はない。

 原発を推進してきた勢力は、自然エネルギーは不安定である、コストが高い、などと悪宣伝に努めているが、そうではないことが立証されてきている。

 少数の利権集団のための短期的な利益獲得のために、道を誤ってはならない。脱原発こそ、人類の未来を開く。
 




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永田町の住人たち

2011-06-03 23:40:35 | 日記
 だました方も、だまされた方も、不信任案を出した方も、そして銀座のホステスと浮気をした方も、みんな永田町の住人。永田町の住民たちは、カネと権力とイロに狂いながらも、堂々と生き続けている。永田町では、権力欲、色欲、そして金銭欲にまみれていない人は、住むことができない。

 東北の方に家族を失い、仕事を失い、家を失った人々が苦しんでいても、永田町の住人たちには他人事。同情心や良心を持っていては、とても住めない。そういうことに胸を痛めていては、永田町の住人にはなれない。

 福島の方の住人が放射線に体を蝕まれていても、「安全です」、「直ちに健康に影響が出ることはありません」と叫び続け、危険であるとされる放射線量が明確に存在していても、その数字を公表せず、住人の被曝をそのままに放っておくのが永田町の住人たち。

 小選挙区制という選挙制度は、永田町の住人たちを変えることができないようになっている。原発を推進してきた自民党・公明党という住人のグループと、被曝に見て見ぬふりをしていた民主党というグループしか当選しないような選挙制度。何をしても、あるいはしなくても、この二つのグループの人たちだけが永田町に住むことができる。

 腐臭を放つこういう住人に、わたしたちは自らの生活の舵取りを任せている。ああ、なんてこった。

 永田町の住人に鉄槌を下すことができるのか。

 もちろん、霞ヶ関の住人も永田町の住人と同じ。カネとイロと権力、これのために税金をつかい、国民を惑わす。

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