今日は演劇鑑賞。コロナにより全国各地の演劇鑑賞会(昔だったら労演)の会員数が急減しているという。ということは、劇団も困っているということだ。演劇を鑑賞するという文化が衰えているということなのだが、これは日本人の知的水準を維持する上で由々しき事態である。
演劇は、ただ見るだけではない。上演される舞台を見ながら、観客は思考と想像力を働かせる。思考と想像力を働かさないと、舞台で繰り広げられている劇を理解することはできない。演劇は一方通行ではなく、演者と観客が一体となってつくりだすものだ。
さて文学座のこの演劇。さすがの文学座である。劇団民藝など歴史ある劇団の舞台は、みていて惚れ惚れする。とにかくうまいのである。
この劇では、とりわけ舞台美術がよかった。もちろん、演劇は総合芸術であるから、ひとつの分野がダメだと舞台の印象は大きく減じられる。他もよかったけれども、とくに舞台美術がよかった、ということである。
「怪談牡丹燈籠」は、大人のための演劇だと思った。ストーリーもだが、笑いを誘う台詞は、大人の世界のものだ。
旗本飯島平左衛門の娘・おつゆが、浪人萩原新三郎に恋い焦がれた結果亡くなり、新三郎に幽霊となって現れ、おつゆの後を追ってなくなった乳母のお米の幽霊とともに、新三郎をとり殺そうとする。
そしてここに二つの陰謀が現れる。一つは娘を亡くした飯島平左衛門の跡取りをめぐり、平左衛門の妾・お国とその情夫の源次郎がその跡取りに入り込もうと画策するが、平左衛門と女中のお竹を殺してしまう。二人は栗橋に逃げる。
もう一つは、おつゆとお米がとり殺そうとする新三郎を救うために、新三郎に世話になっている伴蔵が新三郎の家に死霊除けの札を貼る。その結果おつゆもお米も新三郎の家に入れない。そこでお米は伴蔵に札をはがせと求める。伴蔵の妻・お峯は100両くれるならはがしてもいいという条件をだす。お米は100両を伴蔵に渡す。伴蔵は札をはがし、その後夫婦で栗橋ににげ、そこで荒物屋を開業する。もちろん、新三郎は、おつゆらによってとり殺される。
この二つの陰謀が、栗橋でつながる。伴蔵は栗橋の金持ち商人となり、お国は栗橋の芸妓となり、客としての伴蔵と芸妓のお国が出会う。源次郎は粗末なあばら屋に隠れ住み、時々お国が会いに来るという関係だ。
二つの陰謀の当事者は、双方がお互いに認識し合わないままに、「因果応報」で滅んでゆく。悪事を働いた者は、最終的には罰を受ける、ということだ(日本の政治家はなぜか罰を受けない。神や仏をも「味方」にしているのか。警察を味方にしているように!)。
だがしかし、なぜおつゆとお米は幽霊となって出てくるのに、なぜ源次郎らによって殺された飯島平左衛門や女中のお竹、伴蔵とその妻お峯が100両を得る代わりにとり殺された新三郎は幽霊となってでてこないのか。平左衛門は一瞬出て来て源次郎の自滅に手を貸したようだが、もっと出て来てよいではないか。
ところで、二つの陰謀を男に提案したのは、お国でありお峯であった。男の犯罪の影に女ありということか。源次郎の台詞の中に「女はこわい」というようなものがあったが、しかしだらしなく、不甲斐ない男たちが、女の提案によって犯罪を犯したのである。自立できない男の姿が、ここにある。悪事を悪事として峻拒しなければならないのに、女の示唆をうけて悪事を実行してしまう。男がバカ、ということだ。