浜名史学

歴史や現実を鋭く見抜く眼力を養うためのブログ。読書をすすめ、時にまったくローカルな話題も入る摩訶不思議なブログ。

誰が・・・?(暴力についての考察 5)

2024-11-17 11:02:19 | その他

 『少年が来る』を読んでいると(今、二度目を読んでいる)、次のような叙述に出遭う(二章 黒い吐息)。

 「誰が僕を殺したのか。」

 「聞いてみたかった。なぜ僕を殺したんだ。なんで姉ちゃんを殺したんだ。」

 新聞やネットで、殺人事件の報道が流されてくる。警察が犯人を検挙し、その結果、誰が殺したのかはわかる。そしていずれは「なぜ殺したのか」もわかってくるだろう。

 しかし、国家権力を背景とした殺人においては、犯人は検挙されない。殺人の主体は、個々の人間ではなく、国家権力であるからだ。もちろん、実際に引き金を引き、人間に銃弾を浴びせたのは、個々の人間である。しかし、個々の人間は、国家権力のなかに埋没し、その姿を現さない。そして個々の人間について、殺した理由は明確には説明されない。

 「光州事件」においては、無防備の市民に銃弾を撃ち込んだ兵士、屋上から市民に狙いを定めて銃撃した兵士、ヘリコプターから市民に銃口を向け引き金を引いた兵士、・・・・・がいた。

 しかし殺された人間を、誰が殺したのかは、明らかにされない。なぜその人間が殺されたのかも、明らかにされない。

 人間を殺すということ、人間一人の命を奪うということ、誰が行っても同じ行為である。しかしそこに国家権力が介在する場合、その殺人者は、実質的に免罪されるのである。

 「光州事件」において市民を殺した多くの兵士たちは、罪を問われることなく、生きていく。

 ガザで、あるいは西岸地区で、イスラエルの兵士等が、パレスチナ人の命を奪っている。しかしその兵士も、同様に、国家権力のなかに埋没している。

 これは不条理としかいいようがない。

 ここに現れる疑問、それは国家とは何か、国家権力とはいかなる存在なのか。暴力の問題を考えるということは、国家そのものを問う作業がどうしても必要になるということだ。

 

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「選ばれた?」

2024-10-09 20:58:44 | その他

 ひとりの人間でも、集団でも、あるいは宗教でも、謙虚さのないものは評価するに値しない、とわたしは思っている。

 少なくとも、イスラエルの宗教と言われるユダヤ教は、その傾向が強い。神によって「選ばれた」民である、という自負。

 『世界』11月号で、森本あんり氏が「国家神信仰を批判する」という文を寄せている。イスラエルの国家指導者が行っていることについて、あるいはそれを正当化する宗教的背景について、宗教的な立場から批判しているのである。

 森本氏は、アメリカの「明白な宿命」 Manifest Destiny をもって、アメリカもイスラエルと同様に、「宗教的な国家理解」を持ってるとし、この文で、「神学的な批判」を行おうとしている。

 「イスラエルが「選ばれた民」である理由はまったくなく、そうあり続ける内在的な保証もない。」聖書では、神が選ぶのである、神がイスラエルを「選ぶ」ときには、「もしあなたがたが、まことにわたしの声に聞き従い、わたしの契約を守るならば」という条件がついていた、というのである。イスラエルの民は「諸国民の光」にならなければならない、「イスラエルが単に「存在する」だけではなく、「いかに存在するか」が問われている、神は「倫理を求め」ている、と森本氏は指摘する。

 森本氏が、宗教的に根底的な批判をしても、イスラエルのおおかたの人びとは、「選ばれた」民として、自負を持って、周辺の人びとを殺し続けるだろう。

 もし宗教的に、イスラエルの「旧約聖書」理解が間違っているというのなら、全世界のユダヤ教徒やキリスト教徒が、こぞって厳しい批判を行うべきだろう。だが、残念ながら、米英独など、キリスト教国は、イスラエルの蛮行を支え続ける。

 世界にはたくさんの宗教があるが、キリスト教徒こそが、もっとも多く、彼らにとっての「異教徒」を殺している。十字軍、新大陸への進出にともなう先住民殺戮、奴隷貿易、ユダヤ教徒に対する迫害・・・・

 わたしは、キリスト教徒は、みずからが引き起こした過去の蛮行をしっかりと見つめ、反省するべきだと思う。なぜそういうことができたのか、宗教的にそれらは許されることであったのか?「異教徒の殺害」を、ヤハウェ、イエス・キリストは許したのか、許さないまでも、教義にそうした蛮行を許容する理解はなかったのか・・・・・

 「聖書」には、平和を希求することばがちりばめられている。しかしにもかかわらず、キリスト教国は、異教徒に対して蛮行を繰り返してきた。

 森本氏の言葉を借りるなら、神は信仰者に倫理を求めなかったのか。

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2024-08-19 11:04:17 | その他

 「日照り」ということばがある。「日照り」ということばを、ほとんどつかったことはない。日本史の教科書や歴史漫画で、「日照りが続き、百姓は・・・」という記述が記憶にあるだけだ。

 一ヶ月以上、わたしが住む地域に雨が降らない。雨雲レーダーで確認すると、山の方には雨雲があっても、南下してくるにしたがい、雨雲は消えてしまう。

 野菜をつくっているわたしとしては、たいへん困る。8月は秋冬野菜の種まきの季節であるが、畑がからからに乾いていて、雨が降る気配がないために蒔けたものではない。

 キュウリや茄子その他の野菜には、毎夕、用水から水を汲んでまいているが、こんなことは初めてである。とうもろこしは、順次実るように植えてあったが、実らない。手のかからない里芋も、畑の中央部に植えたところは葉が枯れ出している。隣の田んぼ沿いに植えたものは大丈夫だが、今後はわからない。サツマイモのつるも、伸びない。

 わたしは米は作っていないが、隣家によると、昨年よりも悪くなるかもしれないという。水田は、水を入れたり出したりするが、水を張っていると、その水は熱湯となり、だから用水からいつも水を流しているという。水を入れたり出したりして、土中の好気性細菌や嫌気性細菌を働かせたり働かせないようにしたりする、そうすることによって稲は実っていくのであるが、今年はそれができない。

 大都市に住み、スーパーなどから野菜を購入している人には理解できないかも知れないが、農業はなかなかたいへんなのだ。

 今夏は、夕方5時過ぎに畑に行くが、それでも汗ビッショリとなる。全身が汗で覆われ、作業の途中で氷を入れた水筒のお茶をがぶ飲みする。

 人口が東京はじめ都会に集中する、その結果はもはやあきらかだ。日本の農業は衰滅する。畑では、わたしを含め高齢者だけが作業している。耕作放棄された田畑も増えている。

 昨年や今年のように、酷暑が続くようになっても、政治は動かない。今後は米や野菜の価格が上昇していくことだろう。人びとの食への支出が増える、人びとはより多くの消費税を出すようになる。利権に繋がる人びとは大喜びである。

 今日は雨が降る、という予測がある。しかし0.5㍉である。降ったうちには入らない。

 

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司法の崩壊

2024-08-04 14:25:24 | その他

 『地平』9月号の連載、「ルポ司法崩壊」はおそろしい話である。

 弁護士は、弁護士法に「弁護士は、基本的人権を擁護し、社会正義を実現することを使命とする。」とあるように、常に社会正義を背負っているはずである。

 しかし、弁護士の中には、「社会正義」や「基本的人権の尊重」を顧慮しない者もいるようだ。このルポの筆者・後藤秀典さんは、そうした弁護士の名を記す。前田后穂である。「ふるさとを返せ 津島訴訟」の原告として石井絹枝さんは、現地・津島で訴訟の現地進行協議が行われた際に原告として語った。そのとき、周囲にいる者に聞こえるように、前田が拡声器をつかって、「こちらの原告の世帯には住居取得費用として・・円、土地建物の賠償などと総額・・円を払っている・・・・」と言ったそうだ。

 原発事故がなければ、今まで通りに津島で生活できていたのに、やむをえず他の所に移転せざるを得なかった、しかしやはり故郷に帰って今まで通りの生活を取り戻したい、とおもうのはあたりまえだ。東電から賠償金などを得るのは当然のことで、その額を一般の人に知らせる必要はまったくない。東電の代理人として、前田は、なかなか卑怯なことをした。

 山田は、TMI総合法律事務所に属している。その経営者である岩倉正和は、東電側弁護団の筆頭である。

 そして前田は、なんとそこに入所する前までは、原子力規制庁にいた。原子力規制庁から東電弁護団へ移ったのだ。

 TMI総合法律事務所は巨大法律事務所では、日本人弁護士だけで569人いる。その共同経営者であった宮川美津子弁護士は、今や最高裁の裁判官である。他の巨大法律事務所出身の最高裁裁判官は、ほかに草野耕一(西村あさひ法律事務所、800人以上)、渡邉恵理子は、長島・大野・常松法律事務所(日本人弁護士543名)出身で、これらの法律事務所は企業と連携している。

 企業側と連携する巨大法律事務所出身者が、最高裁の裁判官になっている。

 後藤のこのルポを読み、裏金事件における検察の動きなどを見ると、日本の司法は、まさに「崩壊」していると考えざるを得ない。

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すごい!!女性

2024-07-26 21:40:42 | その他

 菱山南帆子さんという人は、ユーチューブでしか見たことがないが、ほんとうにいろいろな活動をしてすごい人だなあ、と思っていた。敬意をもってみている女性であるが、今日、Arc TIMESの番組をみて、さらに敬意を増した。

 彼女は、小学生から「日の丸・君が代」を拒否し、障害者を差別した担任に抗議すべくある種のストライキをやり、中学校からアメリカ大使館前で座り込みをし・・・・・・・と、エネルギッシュな生き方をしてきた。

 わたしは、小学生の時はふつうであったが、中学生の時は「不良」で母親が校長先生宅にお詫びに行ったこともあった。高校に入って、こんな生き方をしていてよいのかという青年期の「煩悶」に苦しみ、人生如何にあるべきかを考えるようになり、そのなかで社会的な活動へと参加していったのだが、菱山さんははるかにわたしを凌駕する。

   大学の教員に聞くと、女子学生の方がはるかに意欲も能力もある、レポートなんかも女子学生のほうが立派なものが多い、という。

 わたしは、女性がどんどん社会で活躍していけば、日本社会はよくなると思っている。

 菱山南帆子さん、頑張れ!

 

 

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ナメクジ退治

2024-05-28 20:41:42 | その他

 もう雨は止んだ。この時期、雨が続くとナメクジが徘徊する。

 わが家の庭には、ポットや育苗箱が並んでいる。野菜や花の苗が育ちはじめている。その苗を、夜、ナメクジが襲う。葉がきれいになくなり、小さな茎だけが土から少しだけ伸びているものもある。あるいは葉の一部が消えたり・・・・

 私は雨の日の夜は、懐中電灯を左手に持ち、ナメクジを瞬殺するスプレーを持って見まわる。今日も今、行ってきたばかりである。10匹ばかりのナメクジを瞬殺してきた。苗の周りには、ナメクジを誘引して殺す、という粒状の薬剤を撒いてあるのだが、そのなかをかいくぐる猛者もいる。

 毎年、この時期、かなりの被害を受ける。

 私は野菜も花も、すべて種から栽培する(イモ類は別)。となりの畑で野菜をつくっているHさんも、その他の人も、皆苗を購入している。もちろん、種はたくさんあるので、私がつくった苗を周辺の人びとに分けることもある。種を蒔く時期に、すでに苗は売られているから、わが家の夏野菜の収穫は遅れる。それでも、私は種からにこだわっている。

 だからこそ、ナメクジに襲撃されるのである。ナメクジも生きているのだが、私とナメクジは共存は出来ない。ナメクジには諦めてもらうしかない。

 

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夕顔を配達

2024-05-16 21:04:04 | その他

 夜の間、咲き続ける夕顔の白い花、この魅力にとりつかれ、毎年咲かせるようになってもう10年くらいになる。

 散歩の途中、わが家のフェンスに咲く夕顔の花を発見しそれに魅せられた方から苗を欲しいと言われ、わけてあげたら、私も、私も・・・と求められ、毎年50以上の苗をつくり、もちろん無料で配布している。

 今年は初期に蒔いた種は順調に芽を出してくれた(すでに5人の方に分けた。ひとりに4~5の苗を渡す)が、その後はなかなか芽が出なくなっていた。最近漸く、芽が出て来た。まだ配布しなければならないところがある。

 夕顔の種は堅い殻に覆われているので、園芸用の鋏で種の一部を取り去ってからビニールの鉢に蒔く。土は、スーパーなどの安価なものを買うと、出芽率が悪くなるので、私はタキイの種まき培土を使用している。

 出芽してから、双葉は殻を脱ぎ捨てなければならないのだが、なぜか今年はその殻を脱げない場合が多い。それに気付くと、私はハサミでそっと切って殻を取り去ってあげる。

 わが家の庭には、野菜や花の種を蒔いた箱やビニールの鉢が所狭しと並んでいる。きゅうり、とうもろこし、ピーマン、なす、百日草、ケイトウ、かすみ草、夕顔・・・・・・

 昼間は暖かいが、夜になると肌寒い。そのせいか、発芽も、苗の生長も遅いように思う。

 多くの人は苗を買ってきて、野菜を作り、花を咲かせているが、私は種からをモットーとしている。タマネギも種から、である。タマネギは苗で買っても、種からでも、収穫の時期はそんなに変わらない。

 種からだと、別に温室設備があるわけではないので、すべてが遅くなる。それでも種から、である。

 この世への誕生、そこから生長をみつめていく、すると愛情が湧いてきて、ひとつの苗も粗末にしない。

 

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生活の場から

2024-05-15 09:06:56 | その他

 森永は買わない。ヒ素ミルク事件があったからだし、アベの妻がその関係者だからだ。雪印製品も買わない。雪印は、田中正造らの足尾鉱毒難民救済運動に関わった黒沢酉蔵が中心となって設立されたという経緯をもつ。そのような会社であるにもかかわらず、2000年に集団食中毒事件を起こし、さらに牛肉偽装事件を起こした。この事件に関しては、同社は謝罪はしたものの、裁判では居直った。そういう会社のものは買わない。

 もちろんSUZUKIの車も買わない。浜松市政に口を出し、7区あった区を減らさせるためにSUZUKI康友を市長に送り込んだ。自社に陸上競技部があることから、浜松市の陸上競技場を立派なものにしたい、そのため隣接する球場を海岸部に「追放」し静岡県につくらせようとしている。こういう企業家が経営する会社の製品は決して買わない。

 最近では、小林製薬がどういう会社であるか判明したため、事件以降買わないことにした。

 生活の場からの抵抗、私のささいな抵抗は何の効果ももたらさないかもしれないが、それでもみずからの抗議の意思を日常的に示していきたいと思う。

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魂の行方

2024-01-24 13:31:14 | その他

 以前、「近代日本の国学」という歴史講座で、平田篤胤をとりあげたことがあった。賀茂真淵や本居宣長はもちろん、近世国学の流れのなかにある民俗学もとりあげ、国学が現代社会においても様々なかたちで息づいていることを話した。

 ただ、平田の著作を読んでも、私の能力不足で理解ができないものがたくさんあった。

 そのなかで、幕末の維新動乱の中で、平田の国学が多くの人びとに支持されたことは確かで、島崎藤村の『夜明け前』に見られるように、平田神道のネットワークが全国にあった。宮地正人さんは、それを「知のネットワーク」と呼んでいた。

 なぜ平田神道が、各地の庄屋階層らの支持を得られたのかをかんがえたとき、もちろん幕藩体制の崩壊へと向かう混乱、その中で現れた尊王攘夷運動などもあるが、庶民にとって重要な死者の「魂の行方」について平田が一定の「理論化」を行ったことが大きいと思った。この頃の庶民は、死者たちの魂が、今生きている庶民の周辺に「存在」していると考えていた。それは今でも同じである。

 私は唯物論者であり、私が亡くなったあとには、私の存在は消えてなくなると思っている。私は、しばらくの間、私を知る家族やその他の人々の記憶のなかにのみ「存在」するが、彼らがまた死者となっていくとき、私という「存在」は完全に消えていく、と認識している。

 そのように考えている私であるが、しかし私は、早くに亡くなった父(といっても二歳の時に他界したから、記憶はない)に話しかけることがある。最近亡くなった方の遺族の話を聞いても、やはり死者に語りかけることをしている。現在の日本の人びとも、死者はみずからの近くに「存在」しているかのようにしている。

 それはもちろん、死者を記憶しているからで、代を重ねていけばその死者は消えていく。したがって、記憶のなかにあるから、あたかも「存在」しているかのように死者と対するのだ。

 キリスト者が亡くなるとき、「昇天」ということばをつかう。キリスト者は、亡くなると神の存在する天に昇っていく。天国という異世界にいく。

 また仏教徒は、亡くなると浄土に向かう。浄土という異世界である。「西方浄土」ということばがあるように、仏教全盛期の中世においては、生者が浄土に行くつもりで西に向かい、海に身を投げてもいたという。仏教が盛んな時代において、日本の人びとは「極楽浄土」という異世界をめざした。

 最近出版された『現代思想』の増刊号、「平田篤胤」のなかに、大出敦の「魂の行方」があった。日本に外交官として滞在したポール・クローデルの「魂」に関する言説を書いている。そのなかでラフカディオ・ハーンの「日本人の発想では、死者は生者と同じように此の世にいるのである。死者は、国民の日常生活に関わっていて、ーごくごく日常的な不幸や喜びを共有しているのである。死者は、家族と食事をともにし、家族の幸福を見守り、彼らの子孫の繁栄を手助けしたり、喜んだりする」を紹介し、クローデルが滞日していたときの日本人の「魂の行方」はどういったものかを記し、そこに平田篤胤のコスモロジーが入り込んでいることを指摘する。

 つまり死者は私たちには見えない世界(幽冥界)にあり、その幽冥界は異世界ではなく、私たちが生きる世界と隔たることのないところに存在しているのだ、という平田の言説。

 私は平田の言説が先にあってそれを庶民が信じたのではなく、そのような庶民のある種の信仰心を、平田が「理論化」し、正当化したこと、そこに平田神道が支持される理由があったと考えているのだが、いずれにしても近世末期以降、そうした原初的な信仰が庶民の心の中に育っていた、ということである。

 なぜそのようなある種の信仰心ができあがったのか、またそれが現在に生きる人々にも残されていることなど知らなければならないこともあるが、今回はこれで終わる。

 最近、ふたつの葬儀に参列し、死というものについて考えるところ多かった。

 「平田篤胤」については、もっと勉強しなければならないと思い、少しずつ『現代思想』臨時増刊号を読み進めている。

 

 

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情勢の変化

2023-12-28 20:44:42 | その他

 刻々と世界情勢、日本の政治状況などが変化している。その変化の実態を知り、その変化の意味を捉え考えることがなされなければならないと思う。

 今夏は猛暑であったことから、その後の農作業が徹底的に遅れてしまった。9月下旬から夏草をとり、耕し、畝を作るという作業と並行して、野菜の種まきを行った。前者は、さつまいもを収穫しながらおこなったことから、今もってやり終えていない。とにかく、農作業が遅れている。農業は気候の影響を直接受けるので、ファーマーとしてはどうしようもない。

 やり終えていないのに、急に寒くなり、畑は遮るものがなく、また遠州の空っ風が強く、夏の時期と同じように、畑に行く時間が減った。

 そのために、読書の時間は増えたのだが、しかし今日、大学時代の後輩である高世仁さんのブログをみたら、彼とはほとんど年齢は変わらないのに、彼は国境を越えてとても活発に動いていて、その動きに応じた文や写真をアップしている。久しぶりにのぞいてみたら、私自身がいかに世界情勢をきちんと見つめていないかを反省させられた。

 情勢をしっかりとつかみ、その意味を常に考えていないと、どうしても退嬰的になってしまう。何とかしようという意欲が減退してしまう。

 今年は、担っていた静岡市での大杉栄・伊藤野枝・橘宗一墓前祭も虐殺から100年ということで、一応ピリオドを打つことにしたことから、精神的に余裕が生まれたのだが、その余裕が精神の弛緩へとつながったようだ。

 自分自身、買い貯めた本をどんどん読んでいこうと思っていて、実際そうしているのだが、しかしそれらは現在の情勢とは直接つながってはいない。高世さんは、情勢のその中(現場)に飛び込んで、そこから発信している。そんなことを今の私ができるわけはない。ほんとうはそのような動きをしなければならないのだろうが、そこまでの意欲は持てない。20年ほど前までは、歴史調査の必要があれば、中国や韓国など国境を越えて何度も渡航したが、今はその元気がない。

 「人の振り見て我が振り直せ」である。きちんと情勢の変化を追わなければならないと思った。

 

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勘違い

2023-11-27 20:57:46 | その他

 研究会があった。その研究会(以後、会とする)は、研究という文字を入れるだけあって、確かに研究する人たちが集まって出来た。

 しかし、集まった人たちは、皆が皆専門の研究者ではなかった。いろいろな仕事に就いている人びとが集まった。もちろん専門の研究者もいた。

 毎月研究する人びとが集まり、会員の発表を聴き、終了後は懇親会を行った。会員は、自分自身が調べたこと、研究したことを皆の前で発表した。専門の研究者も、そうでない人びとも、発表された報告にたいして、和やかな質問をした。あるいは専門の研究者からは有益な情報が提供された。

 懇親会では、いろいろなことが語られた。専門の研究者も、そうでないものも、自由に発言した。懇親会の場は、学びの場でもあった。

 学問研究の方法や問題意識をもつことの重要性などが、何となく参加者の胸の中に入り込んでいった。そこで学んだことを土台にして、人びとはそれぞれが自分自身の関心に基づきながら研究していった。そしてその成果を皆の前で発表するようになった。

 そこに参加していた人びとは、研究会を「市民の学会」と呼んでいた。

 パブリック・ヒストリーということばがある。アカデミックな歴史学の外で行われる歴史実践、という意味合いである。

 その研究会は、アカデミックな歴史学とパブリック・ヒストリーのちょうど境界線上にあったように思う。

 それはそうだ。研究とは、一定の方法や訓練が求められるから、専門の研究者の研究を学ぶ、つまりアカデミックな世界から学びとることも必要なのだ。だから、アカデミックな歴史学との境界線上に研究会はあった。

 だがそうした初心がいつのまにか消えていく。研究会が、「市民の学会」ではなく、アカデミックの世界に入っていく?

 

 

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今週の『週刊金曜日』

2023-11-17 16:00:29 | その他

 特集は、「なぜ記者たちは新聞社を辞めるのか」である。辞めるということは、すなわち新聞社に魅力がないということなのだろう。

 新聞の購読者が減っている。わが家に新聞を配達している販売店も、将来のことを考えたのか、他の分野に進出を始めている。

 私は、メディアの中で、新聞がもっとも信頼に足るものだと思っている。

 テレビを見ることから離れてもうかなり経つ。テレビが権力の走狗になってしまっているので見ることはない。テレビの放映の原動力は、テレビ局のカネ儲けであって、それ以外ではないことがもう明白である、公共の電波を利用してのカネ儲け会社であることが主目的になっているので、もうテレビは面白くない、という人がほとんどである。テレビを見ているのは、やることのない老人だけだという指摘もある。そうかもしれない。

 新聞は『東京新聞』をとっているが、毎日読みでがありたいへん満足している。これだけ自由に書けるなら、やめる記者はいないだろう。

 要するに、記者になるということは、自分自身が主体的に自由に取材し、書くことができるから、ということだろう。やる気のある者ほど、自由が必要だ。その自由がなくなれば、それはもう辞めるしかないだろう。残念ながら、自由がなくても平気だという輩がコースに乗って「出世」していく。そういう輩が「上司」となったら、もう辞めるしかないだろう。

 最近、市役所の担当者とごみ有料化に関して何度も話し合いを持っているが、彼等は政府やトップの命令の下に、それを実現するだけの仕事をしているようだ。彼等には自由さがないようで、こういうところで働かないでよかったとつくづくと思う。もし役所になんか就職していたら、きっと早い内におさらばしただろうと思う。

 主体的に自由にものごとに取り組むことが出来ることこそ必要だ。私はカネを稼ぐために就職したが、可能な限り自由に生きてきた。ストライキをやって処分を受けたことがあり、そのぶん収入は減ったが、やりたいことを自由にやってきたからこそ、生きて来れたという気がする。

 そうした自由を求める気風というのは、中学生にその萌芽が芽生え、高校生の時に全開し、それがずっと続いているような気がする。

 『週刊金曜日』には、今週も「「本多勝一のベトナム」を行く」の連載があった。ベトナム戦争、その支援活動に参加することによって、私は自由を求める気風を養った。ベトナム戦争、そしてベトナム人民の不屈の闘いが、私自身の成長に大きな影響を与え、だからこそ今も、私はベトナム人民に感謝し続けている。

 今週も、女性の闘士の現在が紹介されている。彼女たちは、もちろん会ったことはないが、私の同志のようなものだ。この連載は、たいへん楽しみである。かつての女性闘士のほうが年令は上だが、同時代を生きてきたという感じがする。

 

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自由の唄

2023-04-21 22:28:00 | その他

 車を運転しているとき、NHKFM放送か、CD(SDカードに録音しておいた音楽)を聴く。今は中島みゆきの唄が多い。

 さてNHKFMで、レナード・バーンスタイン指揮の、ヴェートーヴェンの第九を流していた。その第九は、ベルリンの壁が崩壊して冷戦体制が終焉を迎える、という期待の中で演奏されたものだ。1989年、希望があった時代である。

 東西ドイツや英米の演奏者、合唱も東西ドイツの人たちによるものである。ユーチューブで聴くことができるので、今聴いているところだ。

 聴いていると、演奏は丁寧で優しく(特に第三楽章)、第四楽章は迫力あるものであった。第四楽章。重厚な弦の演奏が歓びのうたを導いていく。それはときに重厚に、ときに優しく軽やかに響く。合唱がはいるまえの歓びのうたの演奏は、まさに歓びに満ちている。そして自由を謳いあげるのだ。自由、自由・・・・

 自由に向かって行進しよう、と演奏は進む。そして自由がやってくる。人びとは自由のなかでくつろぐのだ。自由は、万人に与えられなければならない。それなしに平穏ではない。

 万人が、自由のうたをうたう、奏でる。

 希望があった時代、高らかに自由がうたわれた。

 希望があった時代があった、ということは、再び希望がある時代がやってくるかもしれない。 

 自由のうたをうたい続けよう。

 

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chatGPTは中庸な意見が好きなようだ。

2023-02-16 21:36:27 | その他

 もう一つ聞いてみた。

【質問】

人間が生きていくうえで、緑豊かないなかに住むべきか、それとも高層ビルが立ち並ぶ都会に住むべきか、あなたの意見を教えてください。
 
【回答】

個人的な意見としては、緑豊かな環境に住むことが重要だと考えます。緑が多い場所に住むことで、自然とのつながりを感じることができ、心身ともに健康的な生活を送ることができます。また、自然環境が豊かな場所に住むことで、地球環境への配慮もできます。

一方で、都会に住むことも必要不可欠な面があります。都会には様々な文化や産業が集積しており、多様な人々との出会いや新しい情報に触れることができます。また、都会には先進的な技術やサービスが充実していることが多く、快適な生活を送ることができる場合もあります。

そのため、住む場所は個人のライフスタイルや優先順位によって異なると考えられます。緑豊かな環境に住むことが好きな人もいれば、都会で活躍することを重視する人もいます。重要なのは、自分自身が心地よく過ごすことができる場所を選ぶことだと思います。

 

【考察】最初文字が出てきたときは、自分の意見をしっかりと主張するのかと思ったが、続いてでてきた文字を追っていたら、また当たり障りのない回答になった。chatGPTは、中庸な回答を好むようだ。敵を作らない回答、ということでもある。

 

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chatGPTを試してみた。

2023-02-16 21:16:34 | その他

今話題になっているchatGPTに、こういう質問をした。

【質問】日本の未来は明るいですか?

【回答】

私はAI言語モデルであり、将来を正確に予測することはできません。ただし、日本は技術革新、教育、健康、安全、経済的な面で高い水準を保ち、多くの分野で世界のリーダーの一人として認められています。しかしながら、日本は人口減少、高齢化、労働力不足、地方都市の過疎化などの課題に直面しています。これらの課題を克服するために、日本政府は積極的な取り組みを行っており、将来的にはさらなる進歩と発展が見込まれます。

【質問】

日本は2011年大地震が起きました。この後日本には大きな地震がくるでしょうか。

【回答】

地震は予測が難しく、どの時点でも起こり得ます。また、日本は地震の多い国の一つであり、地震に備えた防災対策を行っています。しかし、過去の地震から得られた知見を元に、地震の発生確率や規模などを予測する試みは行われています。

具体的には、日本では地震活動が活発な地域や断層などを調査し、過去の地震データや地盤の情報をもとに、地震予知の研究が行われています。しかし、現在の科学技術では、具体的な地震発生日時を予知することはできないため、万が一の地震に備えて、日頃から防災意識を持ち、防災訓練などの準備を行うことが重要です。

【質問】

原子力発電所の稼働期間を60年にすると日本政府は言っています。はたして原子力発電所を60年間稼働させて安全が保たれるでしょうか。

【回答】

原子力発電所の稼働期間を60年にするという考え方は、原子力発電所の設計寿命が40年であることから、既存の原子力発電所を長期間にわたって稼働させることで、将来的なエネルギー需要を満たし、温室効果ガスの排出削減に寄与することを目的としています。

しかし、原子力発電所の稼働期間が長くなると、機器や部品の老朽化や劣化が進み、安全性が低下する可能性があります。このため、原子力発電所の安全性を確保するためには、厳格な点検・メンテナンス・改良を継続的に実施する必要があります。

また、原子力発電所に関する技術や安全性に関する知見は、長期間にわたって蓄積されることになります。今後の科学技術の進歩に伴い、新しい安全技術や改良が生まれることも期待できます。

総じて言えることは、原子力発電所を60年間稼働させることができるかどうかは、安全性の確保について十分な措置を講じるかどうかにかかっているということです。政府や原子力発電所の運営者は、安全性を最優先に考え、必要な対策を講じることが求められます。

 

【考察】当たり障りのない回答に終始しているように思える。これでは毒にも薬にもならない。面白味もなく、学生のレポートなら合格点はもらえるだろうが、具体性やユニークさがないために高い評価は得られないのではないか。

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