浜名史学

歴史や現実を鋭く見抜く眼力を養うためのブログ。読書をすすめ、時にまったくローカルな話題も入る摩訶不思議なブログ。

高く、高く。前へ、前へ。速く、速く。

2024-01-31 13:59:24 | 日記

 東京駅に近づく。窓の外には建設途中のビルがいくつか見える。東京に来るたびに思うこと、それは東京が高く、高くと変化しているということだ。

 全国各地から東京とその周辺へと人びとが移動している。あまりに多くの人びとが集まった結果、土地に余裕はない。だから空へ向かって、高く、高くというように、高層建築をつくっていく。人びとも、地についた生活ではなく、地を見下ろす生活をするようになっている。

 新横浜から品川へと、新幹線はすすんでいくが、その北側には無数の家が軒を並べる。よくもまあこんなに密集しているのかと目を見張る。なかには、塔のような住宅もある。狭い敷地に家を建てざるを得ないから、一定の広さをもった住宅にするためには、上に向かわざるを得ない。そういう家が目についた。

 高く、高く、高く・・・・・・である。

 そして電車に乗る。電車は、車内放送の喧騒の中で、とにかく速く、速く、なんとしてでも前へ進もうとしている。

 人びとは、いつもせかされる。ATMでも、ゆっくり手続きをしていると、機械が「〇〇をしてください」と急き立てる。

 いなかに生きる私は、東京は人間が生きるところではない、と思ってしまう。どこに行っても、人がいる。それも少しではなく、たくさんの人が街を歩いている、走っている。

 高く、高く、・・・・速く、速くと急き立てられるなかで、人間は変わってしまっているのではないかと思う。

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なぜ「法的外皮」かー「強制連行」問題-

2024-01-30 10:48:00 | 社会

 戦時期からなぜ朝鮮人の渡日に法的外皮が必要であったのか。それを簡単に書いておく。

 それまでは、日本国内の労働力が不足している時には、朝鮮人の流入が円滑にいくように制限を緩め、過剰な時には流入を防ぐよう制限を加えて流入を抑えた。
 しかし戦争が始められると、日本男性は戦場へと駆り出され、国内の労働力は決定的に不足するようになった。労働力の不足は戦争能力に大きく左右する。
 そのために、朝鮮半島の労働力に目をつけた大日本帝国政府は、有無を言わさずに朝鮮人労働力を導入しようと決意した。法的外皮を整えたのは、つまり強制的に導入するためであったのだ。法的な裏付けをとれば朝鮮人労働力の導入を、計画的にかつ強制的に導入できる。
 
 ネトウヨらが、法的な整備をおこなって導入したから「強制連行」ではなく「労務動員」なのだという言説は、逆なのだ。「強制連行」するために法的な整備を行ったのである。
 
 こんなことは少し考えればすぐわかることなのだ。法とは国家による強制力を発動するために存在する。われわれが法に基づき税金を納めるのは、強制力のある法があるからだ。
 朝鮮半島からの労働力導入を強制的に行うために、募集、官斡旋、徴用という制度をつくったのである。法的な整備が行われたから「強制連行」ではない、という言説は誤りであって、「強制連行」するために法的に整備したのである。
 
 私は、だから一応「労務動員」ということばをつかうが、そこにはかならず強制的な、をつける。それでないと史実と違えることになるのだ。
 
 「強制連行」を「政治的」だとする言説は、史実を隠す言辞というしかない。ネトウヨはそれを狙っているからまだ理解できるが、行政や裁判所がそうしたネトウヨの言説に乗るというのは、どうにもわからない。もし無理に理解しようとするなら、行政も裁判所もネトウヨだとするしかない。もしそうなら、日本国は「ネトウヨ国」であるということになる。
 
 国会議員や地方議員も、そして官吏や裁判官も、そうしたネトウヨ程度の理解力しかないから、仕方がないか。
 
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「強制連行」は「政治的発言」か

2024-01-28 10:39:28 | 近現代史

 大正期や昭和前期の新聞を繰っていくと、渡日してきた朝鮮人の記事をたくさんみつけることができる。その多くは、朝鮮人労働者への差別事件、朝鮮人がいかに低賃金で働かされているか、日本人労働者との乱闘事件などなど。

 それらのことが報じられる現場は、道路建設工事などの諸工事、鉱山、繊維産業などである。それらを地図に落としていくと、県内各地の様々な現場で朝鮮人が働いていたことを示している。日本のインフラ建設や労働現場が、いかに朝鮮人労働者に依存していたかが示されている。

 さて、戦時期を除いては、かれら朝鮮人労働者は、日本の植民地支配の影響下に出稼ぎに来ざるをえなかった人びとである。その点では、やむをえずの渡日であるけれども、自主的に来たといってもよいだろうと思う。ただし、日本帝国政府は、朝鮮人渡日に関しては、自由に来させたわけではない。日本国内の労働力の需給状態に応じて過剰の場合は渡日を制限したりしてきた。

 しかし戦時期に渡日してきた場合は、まったく異なる。日本の男性が兵士としてアジア太平洋各地にでていったことから絶対的に労働力が不足した。日本帝国政府はその不足を補うために、朝鮮人を国内の基幹的な労働力としてつかうために、朝鮮人の自由な渡日ではなく、強制的に連れてこようとした。その方法は募集、官斡旋、徴用という、ある種の法的な外皮を伴って行われた。しかしそれらは、私が現地や日本で調べたところ、実質的な強制であった。したがって、戦時期の朝鮮人が労働力として日本に動員されたことを、強制連行といっても史実を否定することにはならない。

 私自身は論文その他で強制連行をつかわない。というのも法的な外皮があったことを重視して労務動員とするが、しかしそこには必ず強制的なという形容詞をつける。つけないと史実にはあわない。強制連行という語句をつかうか、それとも私のように強制的な労務動員とするかは大きな問題ではなく、双方ともそこに重大な強制性があったことを前提としているのである。

 さて、群馬県の公園に、戦時下の強制労働の結果亡くなられた方々を追悼する碑があり、今それが撤去されようとしている。追悼集会で参加者が「強制連行」ということばを発したことが「政治的」であったとして、それを根拠に、群馬県も、裁判所も一致して「政治的」な言動があったとするのである。

 しかし、先にも記したように、実態として、戦時下の朝鮮人の労務動員は、強制連行であったことは事実である。事実を事実として発言したことによって、その碑が強制的に撤去されるというのは、史実に対する公権力の介入であり、史実の否定につながる。裁判所がそれにお墨付けを与えたこと自体も、私にとっては驚きであったが、さらに群馬県がその碑を強制的に撤去するというのも驚きである。

 こういう理不尽なことを少数のネトウヨと公権力がタッグを組んで行うということに歯止めがかからない事態を私はたいへん憂えている。

【追記】碑は、1月29日に強制的に撤去されるという。ネトウヨが騒ぎ、それを自由民主党という金権政党がうけ、その結果日韓友好をうたった碑が破壊されるのだ。ハンギョレ新聞記事がその経緯を記している

 

 

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犯罪国家・日本

2024-01-28 08:24:09 | 政治

 犯罪国家という意味は、犯罪者が国家の中枢に巣くっているということである。

 自由民主党という政党が政治権力を掌握し、その政党は、みずからとみずからの友人、そしてみずからに政治資金として提供してくれる企業や個人のために、国民から過酷に取り立ててきた税金=「公金」をひたすらつかい続けている。

 そして彼らは不正に入手したカネを懐に入れ、それが不正であると認識されても、警察、検察などの国家機構はその不正を正そうともしない。不正に入手したという点で、自由民主党の政治家は犯罪者である。だが彼ら犯罪者の政治家は、糾明もされない。

 まさに日本は、犯罪者国家なのだ。犯罪者による、犯罪者のための、犯罪者の国家。

 そうした犯罪者と、犯罪者を守る警察・検察などによって運営される国家に対して、私は怒り続けているが、しかし日本の選挙民は怒らない。犯罪者が行う政治の末端につながり、そこから利益を得ることを了としている。

 日本の選挙民は、犯罪者国家の支持者でもある。絶望しかない。

 

 

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【演劇】フォーリーズ「ミュージカル 洪水の前」

2024-01-27 22:29:12 | 演劇

 いずみたくの音楽が流れる。いずみたくの音楽は、耳に素直に入ってくる。いずみたくの音楽は、歌詞が大切にされていると思う。歌詞とメロディが手を携えていっしょにこころのなかに入り込む。

 そのいずみたくがつくったミュージカルには、「おれたちは天使じゃない」が有名である。私は、学生時代この初演を渋谷で見て感動した。初演では、有島一郎、西村晃らが出演していた。私はこのミュージカルを何度も見ている。

 そして「洪水の前」初演の「洪水の前」はYouTubeチャンネルで見られる。初演では、財津一郎がでていた

 ライザ・ミネリの「キャバレー」の日本版。いずれもファシズム前夜の状況を、キャバレーとそれにかかわる人々のありようをとおして描く。歌、ダンス、恋、別れ、文士、ダンサー、演奏者・・・・・しかし彼らも、当時の世相に呑み込まれていく。洪水は、すべてを吞みつくす。「洪水の前」は、ファシズム前夜、という意味だ。そして最後には、軍靴の音が鳴り響き、すべてが戦火に消されてゆく。戦争というブルドーザーが、すべてを圧し潰していく。

 そのような流れは、キャバレーの中では表立っては見えてこない。たとえ見えても、それは部分的だ。しかしいずれは、洪水となってすべてを呑みこんてゆく。描かれているのは、そういうことだ。

 ただ私は、「洪水の前」でうたわれた歌にはどうもなじめなかった。いずみたくのミュージカルでもっとも印象に残っているのは、「おれたちは天使じゃない」でうたわれた「今、今、今」という歌だ。

 いずみたくのミュージカルは、何度でも上演してほしいと思う。

 

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長寿であること

2024-01-27 17:02:14 | その他

 昨日、もと民生委員だった人たちのランチ会があった。民生委員を一緒に辞めた人たちと、年3回ほどランチ会を行っていて、すでに10年になる。残念ながら、徐々に参加者が減っている。その理由は、死である。

 あまりこうした会を好きではない私が参加する理由は、もと民生委員の人たちは、きわめて善良な方たちであるからだ。自分の生活があるのに、さらに地域の困っている人びとの役に立ちたいという暖かい思いを感じるからだ。

 民生委員が見守りの対象とするのは、高齢者が多い。どこの地域でも一人暮らしの老人、高齢者世帯が増えているが、私は月一回、必ず訪問して近況を聞いていた。男性の一人暮らしの場合は訪問しても早く帰ってくれとばかりの対応をされるが、女性の場合は、長時間いろいろな話をされる。私はそれをほとんど聞くだけであるが、しかしそれが高齢者にとっては息抜きになるのだと思う。時には一時間以上話を聞くこともあった。

 高齢者からは、いかに苦労して生きてきたかが語られる。貧しい日々を必死に生きてきて、やっと安定した生活ができるようになったと思ったら、配偶者が亡くなってひとりになってしまった、とか。

 そういう話を聞くと、あの世ではなく、この世で長生きして、それも健康を維持して、ぜひ幸せになってほしいと思う。

 今生きている高齢者の人生をひもとくと、たしかに戦後の高度経済成長で国全体が経済的に豊かになってはきた。だがしかし、それは日本に住む人びとすべてではない。よく目を凝らしてみれば、私たちの生活の傍らに、貧困は巣くっていた。苦労ばかりの人生もあった。

 民生委員は、高齢者だけではなく、経済的に恵まれない家庭にも目を向ける。いつでも、しっかり見つめれば、貧困は可視圏内にある。

 私はずっと昔から、社会の在り方を考えるときには、底辺から見つめることを提唱してきた。底辺から見れば社会のすべてを見渡すことができる、と。

 高齢者の生活は、決して豊かではない。もと民生委員の人たちは、その暮らしぶりをみると、家作があったりして豊かな人が多いが、見守りの対象となる高齢者はそうではない。

 高齢者は早く死んだほうがよい、という意見を出す者もいるが、私は高齢者はできるだけ長生きしてほしいと思う。「長寿」の「寿」は、「祝いのことばを言うこと」という意味である。長生きは祝う対象なのだ。

 高齢者も、子どもも、そして庶民も、みんなみんな幸せに生きていけるような社会にすることが必要なのだ。年齢で区切る必要はない。庶民は庶民である。庶民の生活が第一なのだ。

 

 

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「高齢者偏重政治」?

2024-01-26 20:40:13 | 政治

 若い政治家の中には、今の政治が「高齢者偏重」だとして、高齢者への様々な予算措置を攻撃する者がいる。

 私は、今の政治が「高齢者偏重」だとはまったく思っていない。豊かな老人もいるが、そうでない老人もたくさんいる。老人は、現在の落ち目ではあるが日本の経済を支え、日本の発展のために尽くしてきた人びとである。そういう人びとを攻撃すべきではない。

 若い政治家は、「高齢者偏重」をやめて現役世代にもっと様々な援助をせよと主張する。

 現役世代に対する施策を、政府はあまりにも軽視し、ないがしろにしてきたことは確かである。90年代半ばから、経済界、政府は足並みを揃え労働者の賃金を下げるような施策をしてきた。派遣とか請負とか、非正規労働者の出現を後押しし、小泉政権下では製造業でのそれを許した結果、非正規労働者が爆発的にふえた。若者が高校や大学を卒業しても、低賃金の労働現場しかないようにした。したがって若者は結婚もできず、将来の人生設計をたてる余裕すらなくなった。

 また正社員として就職できたとしても、給与は上がらず、労働は過酷、そして税金だけではなく、給与から多額の社会保険料を納めなければならなくし、正社員の可処分所得も低位のまま推移させてきた。

 だから、若者をはじめとした現役世代にたいして、結婚して子どもを育て、将来設計をもつことができる生活ができるような施策をすべきであったのだ。

 ところが、今の政治を見ればわかる通り、国家の予算や地方自治体の予算も、政治家の「お友だち」や「利権につながる人びと」、官僚にとってはその天下り先などにカネが回るようにつかわれている。

 自民党政治家の裏金問題にみられるように、政治家に多額の不正なカネが集められる。それは今回の政治家に対する不起訴措置にみられるように、そのカネは所得とみなされず、完全に自由なカネとして彼らの懐に入るのだ。政治家に集められたカネは、企業などがパーティー券を購入したものであるが、当然そのカネは見返りを前提とした支出であろう。見返りのカネは、「公金」があてられるのだ。

 こういう政治を改めれば、若者をはじめとした現役世代にも、たとえば出産費用をタダにするとか、子どもの教育費などを無償としたりして、多くの「公金」がつかわれるようになるはずだ。

 「高齢者偏重」として、高齢者への様々な「公金」の投入を非難するよりも、年齢を超えた、庶民に対する貧困な施策を批判するべきなのだ。

 いじめられているのは、若者など現役世代だけではなく、日本に住む庶民全体なのだ。いじめる奴に対して怒りをぶつけるべきなのだ。

 

 

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魂の行方

2024-01-24 13:31:14 | その他

 以前、「近代日本の国学」という歴史講座で、平田篤胤をとりあげたことがあった。賀茂真淵や本居宣長はもちろん、近世国学の流れのなかにある民俗学もとりあげ、国学が現代社会においても様々なかたちで息づいていることを話した。

 ただ、平田の著作を読んでも、私の能力不足で理解ができないものがたくさんあった。

 そのなかで、幕末の維新動乱の中で、平田の国学が多くの人びとに支持されたことは確かで、島崎藤村の『夜明け前』に見られるように、平田神道のネットワークが全国にあった。宮地正人さんは、それを「知のネットワーク」と呼んでいた。

 なぜ平田神道が、各地の庄屋階層らの支持を得られたのかをかんがえたとき、もちろん幕藩体制の崩壊へと向かう混乱、その中で現れた尊王攘夷運動などもあるが、庶民にとって重要な死者の「魂の行方」について平田が一定の「理論化」を行ったことが大きいと思った。この頃の庶民は、死者たちの魂が、今生きている庶民の周辺に「存在」していると考えていた。それは今でも同じである。

 私は唯物論者であり、私が亡くなったあとには、私の存在は消えてなくなると思っている。私は、しばらくの間、私を知る家族やその他の人々の記憶のなかにのみ「存在」するが、彼らがまた死者となっていくとき、私という「存在」は完全に消えていく、と認識している。

 そのように考えている私であるが、しかし私は、早くに亡くなった父(といっても二歳の時に他界したから、記憶はない)に話しかけることがある。最近亡くなった方の遺族の話を聞いても、やはり死者に語りかけることをしている。現在の日本の人びとも、死者はみずからの近くに「存在」しているかのようにしている。

 それはもちろん、死者を記憶しているからで、代を重ねていけばその死者は消えていく。したがって、記憶のなかにあるから、あたかも「存在」しているかのように死者と対するのだ。

 キリスト者が亡くなるとき、「昇天」ということばをつかう。キリスト者は、亡くなると神の存在する天に昇っていく。天国という異世界にいく。

 また仏教徒は、亡くなると浄土に向かう。浄土という異世界である。「西方浄土」ということばがあるように、仏教全盛期の中世においては、生者が浄土に行くつもりで西に向かい、海に身を投げてもいたという。仏教が盛んな時代において、日本の人びとは「極楽浄土」という異世界をめざした。

 最近出版された『現代思想』の増刊号、「平田篤胤」のなかに、大出敦の「魂の行方」があった。日本に外交官として滞在したポール・クローデルの「魂」に関する言説を書いている。そのなかでラフカディオ・ハーンの「日本人の発想では、死者は生者と同じように此の世にいるのである。死者は、国民の日常生活に関わっていて、ーごくごく日常的な不幸や喜びを共有しているのである。死者は、家族と食事をともにし、家族の幸福を見守り、彼らの子孫の繁栄を手助けしたり、喜んだりする」を紹介し、クローデルが滞日していたときの日本人の「魂の行方」はどういったものかを記し、そこに平田篤胤のコスモロジーが入り込んでいることを指摘する。

 つまり死者は私たちには見えない世界(幽冥界)にあり、その幽冥界は異世界ではなく、私たちが生きる世界と隔たることのないところに存在しているのだ、という平田の言説。

 私は平田の言説が先にあってそれを庶民が信じたのではなく、そのような庶民のある種の信仰心を、平田が「理論化」し、正当化したこと、そこに平田神道が支持される理由があったと考えているのだが、いずれにしても近世末期以降、そうした原初的な信仰が庶民の心の中に育っていた、ということである。

 なぜそのようなある種の信仰心ができあがったのか、またそれが現在に生きる人々にも残されていることなど知らなければならないこともあるが、今回はこれで終わる。

 最近、ふたつの葬儀に参列し、死というものについて考えるところ多かった。

 「平田篤胤」については、もっと勉強しなければならないと思い、少しずつ『現代思想』臨時増刊号を読み進めている。

 

 

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テレビ

2024-01-23 09:20:00 | 社会
首都圏のホテルに宿泊している。こういう時しかテレビは見ないのでつけてみるのだが、すぐに消してしまう。

まずまったく面白くない。出演している者だけが楽しんでいる。はたしてこれを見ている人は楽しんでいるのかと思ってしまう。それはなぜかというと、内容は何の足しにもならない意味のないものだからだ。時間潰し、それだけのためにテレビは何事かを放映しているとしか思えない。
それに、出演している人々が、なにごとかの専門性を持っているわけでもなく、ただ笑い、それも低次元の笑いだけを引き出そうとしているからだ。

またニュースなどを主に報じる番組も、コメンテーターと称される人びとのコメントもあたりさわりのない、素人の発言でしかない。そこに何らかのものを得ようとしてはならない。無駄に終わる。

テレビは見れば見るほど見る価値のないものだという認識を強める。

人びとがテレビを見なくなればこの世はもっと良くなるだろう。

もちろん、災害報道は別であることを付記しておく。

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世耕という人

2024-01-21 15:56:22 | 政治

世耕弘成氏「秘書に任せきり」発言に特大ブーメラン 過去の『矛盾ツイート』ネットで取り上げられ「まさか秘書の責任にしないよね」

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検察に期待するのは無駄!!

2024-01-21 08:13:35 | 政治

 裏金問題で、検察が安倍派の政治家、とりわけ安倍派の幹部を起訴するのではないかという「期待」が、メディアをはじめ報じられていたが、私はまったくそうした「期待」はもたない。検察は、すでに腐りきっている国家機構であると認識しているからだ。

 モリカケサクラの問題で、悪事を働いた者がその罪を問われたか。まったく問われていない。袴田事件でも、あれほど袴田さんを犯人とするために検察、警察が捏造までし、それがほぼ明らかになっても、検察は今もって袴田さんを犯人にする言説を主張している。

 検察をはじめとした国家機構をよりよくするためには、とにかく自民党、公明党という腐りきっている政党から政権を奪わなければならない。政権交代しかない。

 

検察は最高権力者との裏交渉ルートを常につくっている!リクルート事件の時は竹下内閣の某閣僚、鈴木宗男事件の時は小泉純一郎首相本人、そして今は? 安倍派裏金事件の「国策捜査」終結へ!

 

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メディアに怒りはあるか

2024-01-20 17:42:49 | 政治

 多額の裏金をせしめた自民党政治家は、起訴されない!!!!検察という組織が、毎回毎回、いかに自民党政治家に甘くすることか。検察という組織は、自民党政治家と同じで、悪だ!!!

 メディアは、怒っているか!!『東京新聞』にはその怒りが見える。以下、『東京新聞』の「こちら特報部」の記事。

*************************

昨年11月から政界を揺るがしてきた自民党各派閥の政治資金パーティー事件。しかし、松野博一前官房長官ら議員本人の立件は見送られ、各派閥の会計責任者らの立件止まりで、東京地検特捜部の捜査は事実上、終了するとみられる。大山鳴動して…と言いたくなる結果だが、改めて国会議員の刑事責任上の「過保護」ぶりが浮かんだとも言える。今すぐやるべき「政治とカネ」問題改革とは。(西田直晃、山田祐一郎)

◆キックバックを自白した「うっかりさん」もいた

 「全く中途半端。国民の怒りが分かっていない」
 特捜部の捜査終了についてこう憤るのは、自民5派閥の政治資金パーティーの収入明細を調べ、刑事告発した神戸学院大の上脇博之教授(憲法学)。
 「こちら特報部」は昨年11月、上脇氏が体調の悪い中、「地べたを這(は)いつくばるようにして」3カ月間かけて調査し、年末年始返上で告発状を書いたことなどを報じた。「どう考えても事務方だけで行えるわけがない。仮に安倍派だけに限っても、7人の幹部の携帯電話を押収し、事務方との通信記録を精査するべきだった。証拠がなかったわけではなく、捜査を尽くしていないだけだ」
 
 今回、特捜部の捜査が始まって間もなく、安倍派の塩谷立座長が昨年11月末、パーティー券の販売ノルマ超過分のキックバックを「あったと思う」と記者団にうっかり”自白”。派閥の所属議員にかん口令が敷かれる中、政治資金収支報告書への不記載疑惑が浮上し、翌月には二階派、岸田派にも飛び火した。

◆一般国民だったら罰せられるあやまちに見えるが

 年が明けると、安倍派から約4800万円のキックバックを受け、裏金にしていたとされる衆院議員池田佳隆容疑者(57)が政治資金規正法違反容疑で逮捕された。捜査の広がりに注目が集まったが、通常国会召集を1週間後に控え、捜査はあっけない幕引きを迎えた。
 19日午後、JR新橋駅前で待ち合わせをしていた会社員村上彰啓さん(41)は「政治家本人までは伸びず、やはりトカゲのしっぽ切りになってしまった。大物になればなるほど、その傾向が強いように思える」と落胆し、「裏金づくりの温床の派閥政治を変えるには、政治家本人が自身の疑惑を語る場を設けてほしかった」と突き放した。
 
 キックバックされた金額の多寡により、捜査の行方が左右された感が否めない点に失望の声も。団体職員小沢康成さん(55)は「民間なら脱税。金額が10万円だったとしても、報告なしは許されない。この違いは何なのか」と語気を強めた。「捜査が終わっても国民が納得しない。キックバックを受けていた議員を記憶しておき、次の選挙で投票しないようにする」。駅近くの居酒屋に客引きをしていた女性(21)は「有罪にならなくたって、何百万円とか、何千万円とか想像すらできない大金。レモンサワーは299円ですけどね」と皮肉った。

◆「検察は本当に中立・公正なのか」

 組織的な裏金づくりの慣行が明るみに出たものの、一部の政治評論家や元国会議員からは「議員本人の立件はない」「政治にカネがかかるのは当然」といった開き直るような発言も聞こえてきた。
 冒頭の上脇氏は「誰かさんがたまたま犯した罪ではなく、みんなで一緒に赤信号を渡ろうとした事件。キックバックが少なかった議員がいても、全体で計算すると億単位だ。金額で線引きするのはおかしい」と強調し、こう続けた。
 「一般市民は安い商品を万引しただけで、窃盗罪で起訴される。検察は本当に中立・公正なのか疑問が残る結果だ」

◆秘書は起訴、議員は不起訴

 これまでも政治とカネを巡る事件で秘書や会計責任者が責任を負った一方で、政治家本人が自身の責任追及を免れた例は枚挙にいとまがない。
 
 1988年に発覚したリクルート事件では、竹下登元首相の金庫番だった秘書が自殺。竹下氏は立件されなかった。2014年に判明した小渕優子元経済産業相の資金管理団体を巡る事件は、会計責任者の秘書らが在宅起訴されたが、小渕氏は不起訴に。安倍晋三元首相の後援会が「桜を見る会」前日に主催した夕食会の費用を補填(ほてん)した問題では、20年に公設第1秘書が略式起訴されたが、安倍氏は不起訴。今回も虚偽記入で立件されたのは、派閥の会計責任者で、幹部議員は共謀が認められなかった。
 
 1980年代に自民党の国会議員秘書を務めた経験がある政治評論家の有馬晴海氏は「議員の指示でやったとしても会計責任者や秘書が『自分の一存』と捜査機関に説明すれば、それ以上は議員を追及できない。そのために秘書がいるというのがかつての常識だった」と明かす。時代とともに、議員の身代わりにという意識は薄まっているというが、番頭や金庫番など側近秘書や会計責任者ほど議員と一蓮托生(いちれんたくしょう)という思いの人は多いという。「議員と秘書の関係は密接。自分がしゃべると大変なことになる。秘書の代わりはいても議員の代わりはいない」

◆金額で立件の可否の線引きか…問われる「市民目線」

 そんな関係なら、議員が意図しない報告書作成は考えにくいが、議員本人の共謀を立証できないのはなぜか。元特捜検事の郷原信郎弁護士は「長年続いてきた派閥の虚偽記入の最後の1年分について、あらためて共謀があったと認定するのは難しい」と説明する。
 その上で「政治資金規正法が禁じる政治家個人への寄付行為として立件できなかったのか」と検察の捜査の進め方に疑問を呈する。個人への寄付の罰則は禁錮1年以下と罰金で時効は3年。虚偽記入の禁錮5年以下と罰金、時効5年よりも軽く、対象にできる裏金が限定される。「検察は裏金の額の大きさで虚偽記入を対象としたのだろう。その結果、国民の期待と現実にギャップが生じた」
 
 今回、国会議員で立件されたのは、いずれも4000万円以上の還流を受けたケース。金額の多寡で線引きされた形だ。「金額によって立件を決める検察の『相場観』に法的な根拠は全くない」と阪口徳雄弁護士は批判する。「立件されていない議員についても個人への寄付違反で告発することが必要。不起訴であれば検察審査会に審査請求し、市民目線で立件の『相場観』を判断するべきだ」

◆派閥解消でさらに裏金の実態が見えにくくなる恐れも

 同法では、政治家の責任が問われるのは会計責任者の「選任及び監督」に相当の注意を怠った場合と、かなり限定的だ。だがこれまで議員の監督責任強化を求める動きがなかったわけではない。公明党は民主党政権時代、選任と監督のいずれかを怠った場合に責任を問えるとする改正案を提出したが実現しなかった。立憲民主党は今回の事件を受け、虚偽記入の際に議員本人も処罰の対象とするよう法改正を目指す方針だ。
 
 郷原氏は「国民は今回、税を免れて自由に使える多額のカネに対して反発を抱いている。脱税の視点からの責任追及も必要だ」と強調する。岸田首相は、出身派閥の「宏池会」の解散を表明したが「問題の本質は派閥ではない。政治資金制度全体の改革が求められている」。
 
 前出の上脇氏も「派閥がなくなると、今までより見えにくい形で裏金が流れる」と危ぶむ。その上で上脇氏個人の告発で支えられる現状から脱却する必要性を訴える。「行政監視機関のような公的な監視の仕組みが理想だ。中立性・公平性を担保できるのかという問題があるが将来的にはそのような第三者機関があってしかるべきだ」

◆デスクメモ

 岸田首相が2022年に開いた自身の政治資金パーティー6回分の利益率は約9割に上っていたという。ぼったくりバーさながらだが、それでもカネを出す側は当然、見返りを期待するし、出させる側もそれに応じざるを得なくなる。パー券問題は、裏金だけが問題なのではないのだ。(歩)
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【本】立花隆『シベリア鎮魂歌 香月泰男の世界』(文藝春秋)

2024-01-16 06:17:33 | 美術

 2004年に出版された本である。この年、静岡県立美術館で香月泰男の展覧会が開催され、私も見に行った。そのときの強烈な印象を理解しようとして購入したのがこの本である。そのときも読んで、書庫にしまってあった。今年、某所で「戦争と画家」をテーマとして歴史講座を行うことにした。そこでは、香月泰男と浜田知明の二人を主に取り上げようと思い、その一環でこの本を再読した。

 香月の絵で有名なのは、「シベリア・シリーズ」である。香月は「満洲」に動員され、敗戦によりシベリアに抑留され、強烈な寒気のなか過酷な労働を強制された。そのため、戦友の多くが命を落とした。

 その体験が脳裡から離れることはなく、彼はそれを絵にしていった。下絵は具象的ではあるが、完成した絵は抽象化され、普遍化された。

 その絵をみつめる人に、それらの絵は「難解」なものとなった。そこで香月は、それぞれの絵に文をつけた。

 たとえば「〈私の〉地球」という絵。そこにはこう書かれている。

周囲の山の彼方に五つの方位がある。ホロンバイル、シベリヤ、インパール、ガダルカナル、そしてサンフランシスコ。いままわしい戦争にまつわる地名に囲まれた山陰の小さな町。生家があり、今も絵を描き続けている「三隅」。それが私の地球である。

 これだけではわかりにくい。彼が「私のシベリヤ」に書いたものを紹介しよう。

私たちをガダルカナルにシベリヤに追いやり、殺しあうことを命じ、死ぬことを命じた連中が、サンフランシスコにいって、悪うございましたと頭を下げてきた。もちろん講和全権団がそのまま戦争指導者だったというわけではない。しかし私には、人こそ変れ同じような連中に思える。指導者という者を一切信用しない。人間が人間に対して殺し合いを命じるような組織の上に立つ人間を断じて認めない。戦争を認める人間を私は許さない。

講和条約が結ばれたこと自体に文句をつけるつもりはない。しかし、私はなんとも割り切れない気持ちを覚える。すると我々の戦いは間違いだったのか。間違いだったことに命を賭けさせられたのか。指導者の誤りによって我々が死の苦しみを受け、今度は別の指導者が現れて、いちはやくあれは間違いでしたと謝りにいく。この仕組みが納得できない。どこか私の知らないところで講和が決められ、私の知らない指導者という人たちがそれを結びにいく。いつのまにか私が戦場に引きずり出されていったのと同じような気がする。この仕組みがつづく限り、いつ同じことが起こらないと保証できよう。

 香月の絵には、戦争批判がある。みずからのシベリア体験、戦場体験をもとにした戦争批判が、こめられている。

 香月の絵、とりわけシベリヤ・シリーズは、今だからこそ、見つめる価値がある。そう思うから、私も香月泰男の絵をとりあげる。

 

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大震災から2週間も経っているのに・・・・

2024-01-16 06:17:33 | 政治

 あまりに、あまりに無能な岸田政権。自民党と公明党の政治家は、みずからのカネもうけには熱心だが、能登半島の地震災害の被災者にはとても冷酷である。

 岸田自民党・公明党政権は、「公共」性をいっさいもたない暗愚なカネもうけ政権としかいいようがない。自衛隊など被災者を救援する人びとがあまりに少なく、2週間が経過しても、今もって、物資は不足し、孤立している集落もなくなってはいない。

 自民党・公明党政権は、あまりに腐朽していて、「公共」を担う資格はない

 

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生きる責務

2024-01-15 15:40:25 | 日記

 身近な人が旅だった。

 1月13日、私は急を知って車で高速道路を走った。途中、にわか雨(雪)に遭いながらであったが、途中、虹を見た。大空に虹の橋がかかっていた。

 その日の夜、彼は旅だった。

 彼は創造的な仕事に関わり、数々の映像作品を残した。しかし病魔が彼を襲い、彼の自由を奪っていった。しかし不自由な身体を愛おしみながら、できうるかぎり自立した生活を試みていた。

 彼の腎臓は、すでに旅だった人からいただいたものであった。大切な、大切な腎臓をいただいたから、彼はその腎臓をできる限り生かそうとした。それは責務だと、彼は思っていた。自分自身が生きつづけることは、かつて腎臓をもっていて旅だっていった人と共に生きることだと思っていた。生きること、できる限り生きつづけること、それが責務だと思っていた。

 しかし13日、彼はその責務から解放された。彼も旅立っていった。

 この世に残された者たちは、別れを告げ、涙を流す。柳宗悦の「死とその悲みに就て」に書かれている、「死にし人々にとっては、残る人々から贈られる涙が、どんなにか嬉しいであろう。」に励まされ、涙を贈る。涙だけではなく、感謝をも。

 柳宗悦はこうも書いている。私はそれを信じるしかない。

死に旅する者は帰り路を持たぬと云われるかもしれぬ。そうして凡ての者は帰る事なき此旅に出で行くと云われる。だがそれは只此現し世に帰らぬと云う事に過ぎぬ。此世に於ける生活の他何処にもまことの生活がないと誰が云い切るのであるか。私達は此死への旅を次の様に云い改めねばならぬ。それは帰る事なき旅ではなくして、その旅が帰りの旅であると。人は此世が吾々の故郷であると思うかもしれぬ。併しそうではなくして、此世こそ旅の家にすぎぬであろう。吾々は往く旅に在るのではなくして帰る旅に在るのである。

 

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