生ゴミを畑に捨てにいった。今日は強く冷たい西風が吹き、かぶっていた帽子が飛びそうになった。
私がほぼ毎日捨てる生ゴミを狙ってカラスが三羽、必ず飛んでくる。野菜屑やミカンやりんごの皮が多いから、そんなに食べるものはないはずだが、厳しい冬の中、カラスも食べるものが少なくなっているのだろうか。
『シベリアの旅』を読み終えた。ソ連が崩壊したちょうどその頃、イギリス人コリン・サブロンはシベリアへの旅行を企てた。ウラル山脈を越えて、太平洋にまで足を伸ばした。その間、あまり知られていないところをバスに乗ったり、親切なロシア人らに車で乗せてもらったりして訪問し、そこでふつうの人びとと会話した。
ソビエト社会主義は、きわめて傲慢であったと思った。ボルシェビキたちはマルクス主義を「最高」の思想と思い込み、それにもとづいてソビエト連邦という国家を構築していったわけだが、しかしそれは市井の人びと、自然その他に対してたいへん傲慢であった。おそらくボルシェヴィキは、万能感を持って生きていたのだろう。神を放逐して、みずからを神格化したのだ。そして人間でも、自然でも、すべてのものを共産主義的に「改造」できるものと思い、実際に「改造」を推し進めた。
だがそれはそこに住む人々のボトムアップによりなされたのではなく、ボルシェヴィキの上意下達により強行されたのだ。人びとも自然も、「改造」の対象とされた。人びとの一部は共産主義建設のイデオロギーの虜になり、農民は「農奴」となり、あるいは一部は収容所に入れられて「奴隷」と化した。しかし人びとは、なぜ自分自身が「農奴」となり、「奴隷」とされたのかは分からずじまいだった。
だから、ソビエト連邦が崩壊すると、構築物はことごとく崩壊した。ボルシェヴィキの後継者である者どもがマフィアと化してカネ儲けに走り、ソビエト連邦の社会を壊していった。
集団農場やら、工場やら、すべての構築物が麻痺し、トラクターや機械などは錆び付き、あらゆるものが歩みを止めた。市井の人びとは、日々の生活すら営めなくなった。
だがそれでも人びとは、死が迎えに来るまではみずからの生を維持しなければならない。ソ連が崩壊したとき、人びとは自由を手にした。その自由の中で、もっとも身近にあったのは、「飢える自由」であった。
そういう人びとと、コリン・サブロンは会った。
なかにこういう記述があった。
土地の人びとのあいだでは昔から、寒さがあまりにも厳しいときには言葉そのものが凍って地面に落ちると信じられている。(396)
ソビエト連邦が崩壊したとき、おそらく言葉そのものも地面に落ちていったのだろう。
だがその記述のあとはこう続いていた。
春になると、その言葉がふたたび動きだして話しはじめるので、にわかに、古くなったうわさ話、聞いてもらえなかった冗談、もう忘れてしまった痛みの叫び声、ずっと前に別れた愛の言葉で、あたりはいっぱいになるという。
春が来なかったら、言葉はふたたび動きだしては来ない。
現在の日本は、「寒さがあまりにも厳しいとき」になっているような気がする。言葉が地面に落ち、大地の裂け目から地中に吸い込まれてしまったのでは、と。
その代わりに、野蛮な言葉が聞こえるようになった。野蛮な声は、1930年代から40年代前半にも聞こえていた。「暴支膺懲」、「米英撃滅」、「一億玉砕」・・・・。
この本の末尾に、コリン・サブロンは「その時代に戻ることはないでしょう」とユーリという人に問うた。もちろん「その時代」とはスターリンやヒトラーが権力を握っていた時代である。
ユーリは答える。
・・・ここでは歴史のすすむ足どりが遅いんです。私たちにとっては、時間はいまだに円を描いています。
私は日本も同じ、時間が円を描いているのではないかと思った。
ユーリのその答えにコリン・サブロンはなかば失望感を抱いた。それを感じたユーリは、
「私たちは少し螺旋を描いているのかもしれません」
と答えた。螺旋は少しずつ「上」に向かう。
果たして現在の日本は、「円」を描いているのか、それとも「螺旋を描いているのか」。たとえ「螺旋を描」き、「上」に向かっているとしても、その遅い歩みのなかでは「上」が見えない。
2021年の大晦日に思ったことである。