シネマイーラでも上映されたが、行かなかった。Amazon primeでみることが出来るようになったので、じっくりとみた。映画館ではなく、自宅でみてよかった。私は涙もろいから・・
私は、もとハンセン病者が、社会で最も厳しい差別にあった人々だと思っている。何とか静岡県のハンセン病の歴史を書こうと資料を集め、また駿河療養所や神山復生病院を訪れたこともある。なかなか書き出すには至っていないが、いつかは完成させたいと思っている。
この映画、素晴らしい映画であった。いつの時代を設定しているのかはわからないが、おそらく現在に近い時期だろう。ハンセン病に対する無理解と差別が、公然と映し出されていた。
ひとりのもとハンセン病者の女性・徳江(樹木希林)が、どら焼き店で「あん」をつくるべく働く。彼女は療養所から働きに来ている。指が不自由であった。それをみて、排他的に差別するのか、それともハンセン病を理解するようになるのか、ふたつの流れが出来る。後者の人々には、差別されることへの共感や人間愛があるように思った(店長さんとワカナさん)。
一方で浅田美代子が扮する店のオーナー夫人とその息子、まさに現在の社会に蠢くふつうの人々だ。それに対置する、市原悦子扮するもとハンセン病者や徳江、店長さんとワカナ、かれらの人間的な交感。
後者の人間的な交感が創り出す世界は、安倍政権が支配する現在の世界とは真逆な世界であった。それは、「私達はこの世を見る為に、聞くために、生まれてきた。この世は、ただそれだけを望んでいた。…だとすれば、何かになれなくても、私たちには生きる意味があるのよ。」ということばに象徴される。
私は畑で小豆をつくっている。「あん」の原料である。徳江が「あん」をつくるとき、小豆からいろいろを聞いているというのだ。畑ではどんな風が吹いていたのか、雨はどうだったのか・・・小豆がそこに着くまでの「旅」を聞くというのだ。
今、小豆は収穫期だ。ピンクの混じった茶色く変色した小豆のさやをとっていく。今年はよくできている。採るときに、耳をすまそうと思う。
とても良い映画である。Amazon primeに入会している方にはぜひみて欲しいと思う。劣化する現在社会のなかで、人間を取り戻すことが、一瞬でも、できるはずだ。
私は、もとハンセン病者が、社会で最も厳しい差別にあった人々だと思っている。何とか静岡県のハンセン病の歴史を書こうと資料を集め、また駿河療養所や神山復生病院を訪れたこともある。なかなか書き出すには至っていないが、いつかは完成させたいと思っている。
この映画、素晴らしい映画であった。いつの時代を設定しているのかはわからないが、おそらく現在に近い時期だろう。ハンセン病に対する無理解と差別が、公然と映し出されていた。
ひとりのもとハンセン病者の女性・徳江(樹木希林)が、どら焼き店で「あん」をつくるべく働く。彼女は療養所から働きに来ている。指が不自由であった。それをみて、排他的に差別するのか、それともハンセン病を理解するようになるのか、ふたつの流れが出来る。後者の人々には、差別されることへの共感や人間愛があるように思った(店長さんとワカナさん)。
一方で浅田美代子が扮する店のオーナー夫人とその息子、まさに現在の社会に蠢くふつうの人々だ。それに対置する、市原悦子扮するもとハンセン病者や徳江、店長さんとワカナ、かれらの人間的な交感。
後者の人間的な交感が創り出す世界は、安倍政権が支配する現在の世界とは真逆な世界であった。それは、「私達はこの世を見る為に、聞くために、生まれてきた。この世は、ただそれだけを望んでいた。…だとすれば、何かになれなくても、私たちには生きる意味があるのよ。」ということばに象徴される。
私は畑で小豆をつくっている。「あん」の原料である。徳江が「あん」をつくるとき、小豆からいろいろを聞いているというのだ。畑ではどんな風が吹いていたのか、雨はどうだったのか・・・小豆がそこに着くまでの「旅」を聞くというのだ。
今、小豆は収穫期だ。ピンクの混じった茶色く変色した小豆のさやをとっていく。今年はよくできている。採るときに、耳をすまそうと思う。
とても良い映画である。Amazon primeに入会している方にはぜひみて欲しいと思う。劣化する現在社会のなかで、人間を取り戻すことが、一瞬でも、できるはずだ。
高倉健、田中裕子主演の「ホタル」。もと特攻隊員を描いた映画である。高倉健演じる山岡は、もと特攻隊員。その妻は、朝鮮半島出身の特攻隊員の許嫁であった。朝鮮半島出身の金山少尉は、特攻隊員として戦死した。山岡は、金山少尉の出撃直前まで行動を共にし、許嫁や故郷、そして母に対する深い思いを聞いていた。
山岡とその妻は、金山少尉の遺族に会いに韓国へ行く。
叙情溢れる、そして山岡の複雑な心境がよく表現された、よい映画である。
映画の中で、特攻隊員は「死ぬ意味」を一生懸命に考えた、という台詞があった。なぜ死ななければならないのか。まだまだ十分に生きてきていないのに・・・
死を意識することがある。「死の意味」を考えることがある。しかし、未来のある者は、「死の意味」とは、すなわち「生きる意味」であることを発見する。そして生きる中で、「生きる意味」=「死の意味」を考え続けるのだ。だが、特攻隊員には、その転換ができない。死を生に転換することが、暴力的に、国家の暴力によって不可能にされたのである。
この映画、「嫌韓」にこだわる人びとに見てもらいたいと思う。健全な日本人のあり方が示されている。本来、日本人は、山岡のような人間でなければならない。いつから、そういう豊かな感情が失われてしまったのか。
山岡とその妻は、金山少尉の遺族に会いに韓国へ行く。
叙情溢れる、そして山岡の複雑な心境がよく表現された、よい映画である。
映画の中で、特攻隊員は「死ぬ意味」を一生懸命に考えた、という台詞があった。なぜ死ななければならないのか。まだまだ十分に生きてきていないのに・・・
死を意識することがある。「死の意味」を考えることがある。しかし、未来のある者は、「死の意味」とは、すなわち「生きる意味」であることを発見する。そして生きる中で、「生きる意味」=「死の意味」を考え続けるのだ。だが、特攻隊員には、その転換ができない。死を生に転換することが、暴力的に、国家の暴力によって不可能にされたのである。
この映画、「嫌韓」にこだわる人びとに見てもらいたいと思う。健全な日本人のあり方が示されている。本来、日本人は、山岡のような人間でなければならない。いつから、そういう豊かな感情が失われてしまったのか。
「従軍慰安婦」があたかもなかったことのように扱われている。「従軍慰安婦」を「売春婦」だとして、蔑む言動だけがメディアに乗る。
しかし歴史研究者として私は、日本軍の兵站部隊が「従軍慰安婦」を、他の武器弾薬とともに「輸送」している一次史料を持っている。
また私は多くの兵士の回顧録を読んでいるが、そこにも「従軍慰安婦」のことが書かれている。経営は民間業者に任せたかも知れないが、しかし「従軍慰安婦」は、軍隊と不即不離の関係にあった。
インドネシアでは、在留していたオランダ人女性を強制的に「慰安婦」とした裁判資料なども残されている。
無数の事実があるのに、それらを意に介さずに「否定」の言説をまき散らす人びとがいる。この映画「主戦場」にも出演しているそういう人びと、私は彼らの顔を見つめる。いずれも「悪い顔」だ。品性が卑しい、そういう顔をしている。対して、「慰安婦」について学問的に研究している人や、「慰安婦」問題を真剣に追及している人びとの顔は、優しく、いい顔をしている。
特に目(つき)、他者を蔑む目と真実を求め、他者を慈しむ目。
「歴史修正主義者」の特徴は一つだ。「思い込み」だけがある。客観的な事実なんてどうでもよいのだ。どういう資料が出されようとも、自分の思い込みと異なるものはすべて受け付けない。
しかし希望はあった。在米日本人の女性、当初は「歴史修正主義者」とともに行動していたが、目の前に歴史的事実を示され、それを否定できない自分を発見したとき、「歴史修正主義者」の言動に疑問を持つようになった。「歴史修正主義者」たちの傲慢さに気付いたのだ。
歴史的事実(史実)の前に謙虚に立つこと、それがあるべき姿だ。おそらくこの映画を制作したミキ・デザキも、そうだったのだろう。デザキには、「思い込み」はなかった。双方の話を聞いていくうちに、真実がどちらの側にあるのかを知ったのだ。
そして、この映画を見た人びとも、デザキと同じような経験をするはずだ。
しかし歴史研究者として私は、日本軍の兵站部隊が「従軍慰安婦」を、他の武器弾薬とともに「輸送」している一次史料を持っている。
また私は多くの兵士の回顧録を読んでいるが、そこにも「従軍慰安婦」のことが書かれている。経営は民間業者に任せたかも知れないが、しかし「従軍慰安婦」は、軍隊と不即不離の関係にあった。
インドネシアでは、在留していたオランダ人女性を強制的に「慰安婦」とした裁判資料なども残されている。
無数の事実があるのに、それらを意に介さずに「否定」の言説をまき散らす人びとがいる。この映画「主戦場」にも出演しているそういう人びと、私は彼らの顔を見つめる。いずれも「悪い顔」だ。品性が卑しい、そういう顔をしている。対して、「慰安婦」について学問的に研究している人や、「慰安婦」問題を真剣に追及している人びとの顔は、優しく、いい顔をしている。
特に目(つき)、他者を蔑む目と真実を求め、他者を慈しむ目。
「歴史修正主義者」の特徴は一つだ。「思い込み」だけがある。客観的な事実なんてどうでもよいのだ。どういう資料が出されようとも、自分の思い込みと異なるものはすべて受け付けない。
しかし希望はあった。在米日本人の女性、当初は「歴史修正主義者」とともに行動していたが、目の前に歴史的事実を示され、それを否定できない自分を発見したとき、「歴史修正主義者」の言動に疑問を持つようになった。「歴史修正主義者」たちの傲慢さに気付いたのだ。
歴史的事実(史実)の前に謙虚に立つこと、それがあるべき姿だ。おそらくこの映画を制作したミキ・デザキも、そうだったのだろう。デザキには、「思い込み」はなかった。双方の話を聞いていくうちに、真実がどちらの側にあるのかを知ったのだ。
そして、この映画を見た人びとも、デザキと同じような経験をするはずだ。
評判の映画、「新聞記者」を見た。最初から最後まで緊迫した運びで目を釘付けにする。内容はもちろんフィクションであるが、あり得る筋立てである。良心的な官僚がある事件を新聞社にリークする。それを女性記者が追う。その官僚の下で働いたことがある外務省の若手官僚、今は内閣府の「内調」にいる。
リークした官僚は自殺する。なぜ彼は自殺したのか、女性記者と若手官僚が追い、その内容をキャッチし、報じる。
女性記者は特ダネを掴んだわけだが、若手官僚は官僚であり続けることは難しくなる。どうするか。
どうしたか、について、その結末はない。
この映画を見て、真実というものの重さを感じた。国家権力が秘密裏に行おうとしたことを暴く。それはきわめて重大な当為ではあるが、しかしそれは生活の基盤を、あるいはいのちの基盤をも奪うことがある。
みずからの良心は、どれほど耐えられるのか。知り得た真実がきわめて重大で正義に反することであったとき、ひとはどう行動するか。おそらく私は、最終的に若手官僚のように行動するであろうが、苦しみ悩むことだろう。
悪に牛耳られた国家権力は、人びとに重い選択を迫る。あの若手官僚は、生き続けたのだろうか。
真実を獲得するということ、正義を貫くということ、それは人間の生命の重さと同等である。
リークした官僚は自殺する。なぜ彼は自殺したのか、女性記者と若手官僚が追い、その内容をキャッチし、報じる。
女性記者は特ダネを掴んだわけだが、若手官僚は官僚であり続けることは難しくなる。どうするか。
どうしたか、について、その結末はない。
この映画を見て、真実というものの重さを感じた。国家権力が秘密裏に行おうとしたことを暴く。それはきわめて重大な当為ではあるが、しかしそれは生活の基盤を、あるいはいのちの基盤をも奪うことがある。
みずからの良心は、どれほど耐えられるのか。知り得た真実がきわめて重大で正義に反することであったとき、ひとはどう行動するか。おそらく私は、最終的に若手官僚のように行動するであろうが、苦しみ悩むことだろう。
悪に牛耳られた国家権力は、人びとに重い選択を迫る。あの若手官僚は、生き続けたのだろうか。
真実を獲得するということ、正義を貫くということ、それは人間の生命の重さと同等である。
「ヒトラーVS.ピカソ 奪われた名画のゆくえ」をシネマ・イーラでみた。ナチスドイツは、60万点に及ぶ絵画を掠奪した、そしてまだ10万点ほどが行方不明であるという。
未だ関係者が隠しているのだろうが、追及は今も続けられている。
みていて、まず思ったこと、ヒトラーやゲーリングは、ピカソやマチス等の絵を「頽廃芸術」と呼んだが、しかし彼等はその「頽廃芸術」の作品をみずからのものにしようと最大限の権力を駆使したのだが、大衆には「頽廃」とし、自らはそうした絵を愛好していたというこの二枚舌。独裁者・最高権力者らしい行動である。そうした言説を真に受ける人びと、つまりだまされる人びとがたくさんいたということでもある。
掠奪した作品(主にユダヤ人からであるが)、それが発見されることがある。ナチスに協力したある画商の息子のアパートで発見された絵画。発見されたことをバイエルン州政府は公表しなかった。メディアが察知して報じたのだが、行政権力はナチス支配下の蛮行をきちんと批判しているのだろうかと思った。
そしてゲーリングやヒトラーは、「高貴な人びと」、つまり貴族を出自としている人びととの交流を楽しみ、そうした「上流」の文化を真似しようとしたようだ。これはどこの国でも見られることだが、浅ましいというしかない。
掠奪といえば、はじめてロンドンの大英博物館に入ったとき、最初に思ったことは、これはほとんど略奪品ではないか、であった。大英帝国が植民地として支配したところ、侵略したところから、大量の美術品、それだけではなくミイラまで奪い、それを堂々と展示していることに驚いた。過去の歴史についての反省はないのだということも思った。
美術品の掠奪は、日本も行っている。秀吉の朝鮮侵攻では、陶工まで連行してきた。また朝鮮から、植民地支配の下で、多くの美術品を奪ってきている。
おぞましい歴史を、今日は学んだ。
未だ関係者が隠しているのだろうが、追及は今も続けられている。
みていて、まず思ったこと、ヒトラーやゲーリングは、ピカソやマチス等の絵を「頽廃芸術」と呼んだが、しかし彼等はその「頽廃芸術」の作品をみずからのものにしようと最大限の権力を駆使したのだが、大衆には「頽廃」とし、自らはそうした絵を愛好していたというこの二枚舌。独裁者・最高権力者らしい行動である。そうした言説を真に受ける人びと、つまりだまされる人びとがたくさんいたということでもある。
掠奪した作品(主にユダヤ人からであるが)、それが発見されることがある。ナチスに協力したある画商の息子のアパートで発見された絵画。発見されたことをバイエルン州政府は公表しなかった。メディアが察知して報じたのだが、行政権力はナチス支配下の蛮行をきちんと批判しているのだろうかと思った。
そしてゲーリングやヒトラーは、「高貴な人びと」、つまり貴族を出自としている人びととの交流を楽しみ、そうした「上流」の文化を真似しようとしたようだ。これはどこの国でも見られることだが、浅ましいというしかない。
掠奪といえば、はじめてロンドンの大英博物館に入ったとき、最初に思ったことは、これはほとんど略奪品ではないか、であった。大英帝国が植民地として支配したところ、侵略したところから、大量の美術品、それだけではなくミイラまで奪い、それを堂々と展示していることに驚いた。過去の歴史についての反省はないのだということも思った。
美術品の掠奪は、日本も行っている。秀吉の朝鮮侵攻では、陶工まで連行してきた。また朝鮮から、植民地支配の下で、多くの美術品を奪ってきている。
おぞましい歴史を、今日は学んだ。
降旗康男監督が亡くなられた。ずっと昔みた「あなたへ」をもう一度みた。しみじみと人生を描く。登場するひとりひとりが哀しみを背負って生きていく、そういう姿がある。
高倉健が演ずるもと刑務官が、遺言で妻の遺骨を散骨するために、妻の生まれた平戸へ行くのだが、彼と出会った人々がそれぞれ人生の哀しみをもちながらも、それに耐えながら生きている。情感溢れる映画である。
人生をじっくりと考えさせる映画である。降旗監督に合掌。
高倉健が演ずるもと刑務官が、遺言で妻の遺骨を散骨するために、妻の生まれた平戸へ行くのだが、彼と出会った人々がそれぞれ人生の哀しみをもちながらも、それに耐えながら生きている。情感溢れる映画である。
人生をじっくりと考えさせる映画である。降旗監督に合掌。
今日、「金子文子と朴烈」という映画を見た。実際にあった話であるということが字幕にあったが、全体としての事件はあったが、細かいところについてはどうかなと思えるような箇所がたくさんあった。とりわけこの事件に関わる日本政府の動きが細かく映像化されていたが、それが果たして事実であるのかどうか。おそらく脚色したのだろう。判決後、水野錬太郎が朴烈に刑務所で会う場面があったがこれなどはまったくフィクションであろう。
映画は、おおまかな歴史的事実を示していた。三・一独立運動に於ける日本の官憲による残虐な弾圧、関東大震災のさなかでの朝鮮人虐殺は事実であり、また朴烈や金子文子らが不逞社に集っていたこと、朴烈等が漠然と下テロ計画を持っていたことなどである。
印象としては、全体として軽薄な感じがしたことは否定できない。朴烈、政治家や官僚たちなど多くの登場人物も薄っぺらな描かれ方をしていた。金子文子は過酷な人生を送ってきたはずで、その点では私の文子のイメージとは大きく異なっていた。一般的に歴史的な事件を映画化すると、その多くは軽薄になりがちである。何としてでも多くの人に観てもらわなければならないから、でもある。
さて、四方田犬彦氏は、『週刊金曜日』誌上で、この映画を「反日国策映画」だとしていた。まだ観ていなかった私は、「反日国策映画」という規定の仕方に疑問を持ち、同編集部に問い合わせをした。そのメールをここに公開しよう。編集部としてこういう返信をしたのであるから、公開しても問題はなかろう。
私はこの編集部の意見に納得しているわけではない。「反日」は、日朝に関わる歴史的事実を示すなら、日本のあり方を批判せざるを得ない内容になること、したがってネトウヨが使って手垢にまみれた「反日」ということばの使用は慎重であらねばならないこと、そしてこの映画が、韓国の文政権との関係が証明されない限り、「国策映画」とはいえないのではないかと思う。
映画をまずご覧になってみてください。
編集部の定まった見解はありません。韓国に住み、韓国の国内事情や映画にも
造詣が深い四方田さんのひとつの「この映画の見方」を提示したまでです。
私自身は観ており、このような見方も出来ると思っております。
映画表現の解釈に「正解」はありません。
誌面化のまえに編集部(どい)と四方田さんの意見交換も行なっております。
映画を観た上で、下記の四方田さんの視点をお読みくださると
この映画の見方が、見るものの視点で大きく変わることがすこし理解出来るかもしれません。
そしてそういう議論こそ映画が望んでいた1つでもあるように思います。
わたしは1980年から数回、韓国映画祭の中心となって韓国映画を日本に紹介してきました。
その一方で、1930年代~45年までの皇民化政策期の朝鮮映画について論文を執筆し発表してき
ました。国家と映像とイデオロギーの密接な関係について、無自覚なわけではありません。
またネトウヨ的な意味でこのフィルムを非難しているわけでもありません。
今回の監督の前作(詩人ユンドンジュの評伝)についても、いかに事実を隠蔽し根拠のない
風評をそのまま映画化しているかについて、映画公開時に評論を執筆しております。
あきれかえるくらい無知をさらけ出した作品でした。
韓国では『軍艦島』以降のこうした反日「歴史」映画を、ククポン・ヨンファといいます。
国家主義のヒロポンの映画という、意味です。それが現在の文政権のイデオロギーを反映し、
歴史と称して商品化していることは、いうまでもありません。
今回のフィルムが稚拙な国策映画であるのは、以下の理由からです。
1> 同時代の日本についての時代考証がほとんどなされていない。官憲の科白は稚拙さはど
うでしたか?
2> テロリズムとは何かという倫理的問題の掘り下げがまったくない。昨年の瀬瀬の女相撲
のフィルムと比較してみてください。
3> 金子文子を、その著作からもうかがえるような知性のある女性として、充分描いていな
い。たんにコミックなおてんば娘の域を出ていない。歴史的な人物を描くときに、これはきわ
めて残念なことです。ちなみに原題は単に『朴烈』だけです。金子の存在は韓国では前面に出
されていません。
4> もっとも興味深いのは、この監督が前作に続き、英雄的な韓国男に純情な日本娘が付き
従うという物語を描いていることです。これは韓国映画しか存在しないステレオタイプで、
1960年の『玄界灘は知っている』の時点からそうでした。韓国男性の集合的オブセッションで
ある、日本女性の神話化という観点では、面白いかもしれません。日本映画でも一時期、日本
人男性と白人女性という物語が流行しました。この点はポスト植民地主義の観点から論じるこ
とができるでしょう(一部の韓国人は嫌がるでしょうが)。
以上のことは、試写会で観たときに、配給会社太秦の方々にも申し上げました。
『週刊金曜日』でこのフィルムを論じた人たちは、金子文子を論じるだけで、フィルムそのも
ののズサンさには言及していません。また金子がテロリストであった事実を正面から論じてい
ないという印象を受けました。金子を支持するということは、テロリズムを支持することだと
いうことを、論者たちはどこまで認識していたのでしょうか。しかし稚拙な映画はやはりだめ
なのです。とりわけ朴烈のような重要な人物を描くときには、もっと時間をかけて、綿密な時
代考証をし、日本人スタッフを組み込んで制作しなければだめでしょう。フランスとエジプト
はかつて『さよなら、ボナパルト』で、ナポレオンのエジプト侵略を主題に、みごとな芸術映
画を共同制作しました。
もし読者から反論の投書がきたとしたら、できれば見開き頁で書かせていただきたいものです。
映画は、おおまかな歴史的事実を示していた。三・一独立運動に於ける日本の官憲による残虐な弾圧、関東大震災のさなかでの朝鮮人虐殺は事実であり、また朴烈や金子文子らが不逞社に集っていたこと、朴烈等が漠然と下テロ計画を持っていたことなどである。
印象としては、全体として軽薄な感じがしたことは否定できない。朴烈、政治家や官僚たちなど多くの登場人物も薄っぺらな描かれ方をしていた。金子文子は過酷な人生を送ってきたはずで、その点では私の文子のイメージとは大きく異なっていた。一般的に歴史的な事件を映画化すると、その多くは軽薄になりがちである。何としてでも多くの人に観てもらわなければならないから、でもある。
さて、四方田犬彦氏は、『週刊金曜日』誌上で、この映画を「反日国策映画」だとしていた。まだ観ていなかった私は、「反日国策映画」という規定の仕方に疑問を持ち、同編集部に問い合わせをした。そのメールをここに公開しよう。編集部としてこういう返信をしたのであるから、公開しても問題はなかろう。
私はこの編集部の意見に納得しているわけではない。「反日」は、日朝に関わる歴史的事実を示すなら、日本のあり方を批判せざるを得ない内容になること、したがってネトウヨが使って手垢にまみれた「反日」ということばの使用は慎重であらねばならないこと、そしてこの映画が、韓国の文政権との関係が証明されない限り、「国策映画」とはいえないのではないかと思う。
映画をまずご覧になってみてください。
編集部の定まった見解はありません。韓国に住み、韓国の国内事情や映画にも
造詣が深い四方田さんのひとつの「この映画の見方」を提示したまでです。
私自身は観ており、このような見方も出来ると思っております。
映画表現の解釈に「正解」はありません。
誌面化のまえに編集部(どい)と四方田さんの意見交換も行なっております。
映画を観た上で、下記の四方田さんの視点をお読みくださると
この映画の見方が、見るものの視点で大きく変わることがすこし理解出来るかもしれません。
そしてそういう議論こそ映画が望んでいた1つでもあるように思います。
わたしは1980年から数回、韓国映画祭の中心となって韓国映画を日本に紹介してきました。
その一方で、1930年代~45年までの皇民化政策期の朝鮮映画について論文を執筆し発表してき
ました。国家と映像とイデオロギーの密接な関係について、無自覚なわけではありません。
またネトウヨ的な意味でこのフィルムを非難しているわけでもありません。
今回の監督の前作(詩人ユンドンジュの評伝)についても、いかに事実を隠蔽し根拠のない
風評をそのまま映画化しているかについて、映画公開時に評論を執筆しております。
あきれかえるくらい無知をさらけ出した作品でした。
韓国では『軍艦島』以降のこうした反日「歴史」映画を、ククポン・ヨンファといいます。
国家主義のヒロポンの映画という、意味です。それが現在の文政権のイデオロギーを反映し、
歴史と称して商品化していることは、いうまでもありません。
今回のフィルムが稚拙な国策映画であるのは、以下の理由からです。
1> 同時代の日本についての時代考証がほとんどなされていない。官憲の科白は稚拙さはど
うでしたか?
2> テロリズムとは何かという倫理的問題の掘り下げがまったくない。昨年の瀬瀬の女相撲
のフィルムと比較してみてください。
3> 金子文子を、その著作からもうかがえるような知性のある女性として、充分描いていな
い。たんにコミックなおてんば娘の域を出ていない。歴史的な人物を描くときに、これはきわ
めて残念なことです。ちなみに原題は単に『朴烈』だけです。金子の存在は韓国では前面に出
されていません。
4> もっとも興味深いのは、この監督が前作に続き、英雄的な韓国男に純情な日本娘が付き
従うという物語を描いていることです。これは韓国映画しか存在しないステレオタイプで、
1960年の『玄界灘は知っている』の時点からそうでした。韓国男性の集合的オブセッションで
ある、日本女性の神話化という観点では、面白いかもしれません。日本映画でも一時期、日本
人男性と白人女性という物語が流行しました。この点はポスト植民地主義の観点から論じるこ
とができるでしょう(一部の韓国人は嫌がるでしょうが)。
以上のことは、試写会で観たときに、配給会社太秦の方々にも申し上げました。
『週刊金曜日』でこのフィルムを論じた人たちは、金子文子を論じるだけで、フィルムそのも
ののズサンさには言及していません。また金子がテロリストであった事実を正面から論じてい
ないという印象を受けました。金子を支持するということは、テロリズムを支持することだと
いうことを、論者たちはどこまで認識していたのでしょうか。しかし稚拙な映画はやはりだめ
なのです。とりわけ朴烈のような重要な人物を描くときには、もっと時間をかけて、綿密な時
代考証をし、日本人スタッフを組み込んで制作しなければだめでしょう。フランスとエジプト
はかつて『さよなら、ボナパルト』で、ナポレオンのエジプト侵略を主題に、みごとな芸術映
画を共同制作しました。
もし読者から反論の投書がきたとしたら、できれば見開き頁で書かせていただきたいものです。
浜松祭で多くの市民は凧揚げに興じていたはずだが、私はシネマイーラへ。「ブラック・クランズマン」を見た。
黒人警官が白人警官とペアを組んで、KKKに潜入捜査をするという話しだ。黒人やユダヤ人に対する差別意識をもった白人警官、そしてKKK.そして黒人差別に反対する黒人の学生たちが登場人物だ。
KKKの組織の者どもが見事にだまされて、潜入捜査を受け容れてしまうという内容だが、アメリカ社会の差別意識、黒人に対する憎悪をきちんと認識させてもらった。テーマがテーマではあるが、ストーリーは深刻でもなく、あんがいさらっと流れていく。エンターテインメント的な映画である。
「白人のアメリカ」、などとKKKは叫ぶが、彼等白人は新参者で、もとから住んでいたインディアンを虐殺し、迫害してきた歴史をもっている。「白人のアメリカ」なんて言うんじゃないよ、と思う。
アメリカにはトランプはじめ、人種差別意識をもった者はたくさんいる。それに対し、黒人も黙っていない。また黒人と連帯する白人もいて、そうした差別にノンをつきつけるたくさんの人々。しかしそういう人々のなかに、暴力的な輩が飛び込んでくる。
残念ながら、わが日本にもそうしたヘイトを叫ぶ輩が増えている。
黒人警官が白人警官とペアを組んで、KKKに潜入捜査をするという話しだ。黒人やユダヤ人に対する差別意識をもった白人警官、そしてKKK.そして黒人差別に反対する黒人の学生たちが登場人物だ。
KKKの組織の者どもが見事にだまされて、潜入捜査を受け容れてしまうという内容だが、アメリカ社会の差別意識、黒人に対する憎悪をきちんと認識させてもらった。テーマがテーマではあるが、ストーリーは深刻でもなく、あんがいさらっと流れていく。エンターテインメント的な映画である。
「白人のアメリカ」、などとKKKは叫ぶが、彼等白人は新参者で、もとから住んでいたインディアンを虐殺し、迫害してきた歴史をもっている。「白人のアメリカ」なんて言うんじゃないよ、と思う。
アメリカにはトランプはじめ、人種差別意識をもった者はたくさんいる。それに対し、黒人も黙っていない。また黒人と連帯する白人もいて、そうした差別にノンをつきつけるたくさんの人々。しかしそういう人々のなかに、暴力的な輩が飛び込んでくる。
残念ながら、わが日本にもそうしたヘイトを叫ぶ輩が増えている。
今日本でもっともウソをつくのは、首相をはじめとする日本政府である。
まず平気でウソをつく、ウソであることを指摘されても訂正しない。批判が強まると居直る。そういう政府が、子どもに道徳教育を強制しようとしているのだから、日本ってすごい国だよ。
厚労省、今度は放射線量データに誤り 2カ月近く放置の 「言い訳」
まず平気でウソをつく、ウソであることを指摘されても訂正しない。批判が強まると居直る。そういう政府が、子どもに道徳教育を強制しようとしているのだから、日本ってすごい国だよ。
厚労省、今度は放射線量データに誤り 2カ月近く放置の 「言い訳」
「専守」の歯止め、どこへ 新防衛大綱と中期防
2018年12月19日
新しい防衛大綱と中期防には「いずも」型護衛艦の事実上の空母化や防衛予算の増額が明記された。専守防衛を逸脱することにならないか、危惧する。
安倍晋三内閣は、安全保障や防衛力整備の基本方針を示す新しい「防衛計画の大綱(防衛大綱)」と、今後五年間の装備品の見積もりを定めた「中期防衛力整備計画(中期防)」を閣議決定した。
安倍首相は二〇一三年にも前大綱を策定しており、同一政権が大綱を二度改定するのは初めてだ。
◆軍事的一体化を追認
前大綱も十年程度の期間を念頭に置いていたが、前倒しの改定となった。政府がその理由に挙げたのが周辺情勢の急速な変化と、宇宙・サイバー・電磁波という新たな領域利用の急速な拡大である。
その変化に対応するため「多次元統合防衛力」という新たな概念を設け、陸・海・空各自衛隊の統合運用を進めるとともに、宇宙・サイバー・電磁波の領域での対応能力も構築、強化するという。
日本を取り巻く情勢の変化に応じて安全保障政策を適宜、適切に見直す必要性は理解する。
しかし、今回の改定は特定秘密保護法に始まり、集団的自衛権の行使を容認する安全保障関連法、新しい「日米防衛協力のための指針(ガイドライン)」、トランプ大統領が求める高額な米国製武器の購入拡大など、安倍政権が進める自衛隊の増強、日米の軍事的一体化を追認、既成事実化する狙いがあるのではないか。その延長線上にあるのが、戦争放棄と戦力不保持を定める憲法九条の「改正」なのだろう。
さらに看過できないのは、歴代内閣が堅持してきた「専守防衛」という憲法九条の歯止めを壊しかねない動きが、随所にちりばめられていることである。ヘリコプター搭載型護衛艦「いずも」型の事実上の「空母」化はその一例だ。
◆ヘリ護衛艦「空母」化
航空母艦のような全通甲板を持つ「いずも」型は通常、潜水艦の哨戒や輸送・救難のためのヘリコプターを搭載し、警戒監視や災害支援などに当たっている。
この「いずも」型を、短距離離陸・垂直着陸が可能な戦闘機F35Bを搭載できるよう改修することが、大綱と中期防に明記された。
歴代内閣は、大陸間弾道ミサイル(ICBM)や長距離戦略爆撃機などと同様、「攻撃型空母」の保有は許されないとの政府見解を堅持してきた。「性能上専ら相手国の国土の壊滅的破壊のためにのみ用いられる攻撃的兵器を有することは、自衛のための必要最小限度の範囲を超える」ためである。
「いずも」型の改修に当たっても「引き続き多機能の護衛艦として、多様な任務に従事する」「憲法上保持し得ない装備品に関する従来の政府見解には何らの変更もない」と中期防で強調している。
戦闘機を常時搭載せず、保有が禁じられた「攻撃型空母」には当たらないという論法だが、運用の具体例をみると「等」という文言が入り、拡大解釈の余地を残す。
「我が国防衛の基本方針である専守防衛はいささかも変わることはありません」と言いながら、歴代内閣が禁じてきた集団的自衛権の行使を一転、認めた安倍内閣である。米軍との協力などを理由に「いずも」型が専守防衛の枠を超え、攻撃的兵器として運用されることがないとは言い切れまい。
膨張する防衛予算も専守防衛の枠を超えんばかりの勢いだ。
中期防に明記された一九~二三年度の五年間の防衛予算は総額二十七兆四千七百億円。前五年間の二十四兆六千七百億円と比べ二兆八千億円も増える。
安倍首相が政権復帰後に編成した一三年度以降、防衛予算は六年連続で増額が続いており、新たな中期防によって一九年度以降の増額も既定の方針となった。
日本の防衛予算は近年、国民総生産(GNP)の1%程度で推移してきた。抑制的な防衛予算と節度ある防衛力整備は「他国に脅威を与えるような軍事大国にならない」平和国家の歩みの象徴だ。
周辺情勢の変化を理由に防衛予算を増額し続ければ、再び軍事大国化の意図ありとの誤ったメッセージを与え、周辺情勢を逆に緊張させる「安全保障のジレンマ」に陥ってしまうのではないか。
◆平和創出の努力こそ
戦争や武力紛争は、政治や外交の失敗を意味する。日本は独立国として、自衛のための必要最小限度の実力を保持する必要性は認めるとしても、同時に平和的な環境創出の努力を忘れてはならない。
大綱には防衛の目標として「平素から我が国が持てる力を総合して、我が国にとって望ましい安全保障環境を創出する」ことも盛り込まれている。日米同盟や軍事力に偏重するよりも、外交など持てる力を傾注することが平和国家・日本の役割ではないだろうか。
某書店から依頼されて、朝鮮半島の歴史を書いた。4~5年前に依頼され、締め切りを守って提出したのだが、いまだに発刊されない。その間、3度書き加えた。11月には、編集作業に入ったという知らせが届いた。朝鮮半島は、めまぐるしく変化する。とりわけ韓国は変化が激しい。その変化をもたらすのは、民衆の闘いである。
この映画は、1987年の韓国の民主化闘争(6月民主抗争)を描いたものだ。私は、この闘いに参加した一人ひとりの勇気(意思)と行動をきちんと認識しながら書いたであろうかと、映画を見ながら思った。
残念ながら、日本人は朝鮮半島の苦難の歴史をほとんど知らない。大日本帝国が朝鮮半島へ侵略を開始し、植民地として支配した、その間の朝鮮民衆の闘い。1945年日本の支配が終わった後、アメリカ帝国の支配の下、李承晩、朴正熙、全斗煥など独裁的な体制が続いたが、その下でも民衆は倒れても倒されても、闘いをやめなかった。その壮絶な歴史を経て、今がある。
独裁政権下の韓国では、「アカ」とみなされた者たちは、激しい拷問を受け、その中には命を落とす者がいた。
1987年1月14日、Seoul大学学生、パク・ジョンチョルが拷問によって殺された。しかし当局は心臓マヒとして片づけようとした。検事や看守、新聞記者らが、それに疑問を持ち、〈真実〉を明らかにしようとする。国家からは様々な抑圧が加えられるが、それに抗して、〈真実〉を求め続ける。
その〈真実〉を求める闘いが、韓国市民の良心に火をつけ、韓国の民主化が音を立てて動き始める。しかしその渦中で、延世大学学生イ・ハニョルが催涙弾を後頭部に受けなくなる。
そのプロセスが、ドラマティックに展開していく。
〈真実〉と、それを担保する民主主義を求める闘いのなかで、斃れていく若者たち、しかしその屍を超えて民衆の闘いが〈真実〉と民主主義をみずからの手元に引きよせる。
私の眼にも涙が生じてきたが、後ろの席からは嗚咽が聞こえてきた。
すばらしい映画である。こういう闘いが、映画化されるのがうらやましい。日本にはこういう歴史的事実はあるだろうか。
韓国の今は、韓国の苦難の歴史抜きには考えられないとつくづくと思う。
なおこの映画の英語の題名は、1987: When the Day Comes である。
この映画は、1987年の韓国の民主化闘争(6月民主抗争)を描いたものだ。私は、この闘いに参加した一人ひとりの勇気(意思)と行動をきちんと認識しながら書いたであろうかと、映画を見ながら思った。
残念ながら、日本人は朝鮮半島の苦難の歴史をほとんど知らない。大日本帝国が朝鮮半島へ侵略を開始し、植民地として支配した、その間の朝鮮民衆の闘い。1945年日本の支配が終わった後、アメリカ帝国の支配の下、李承晩、朴正熙、全斗煥など独裁的な体制が続いたが、その下でも民衆は倒れても倒されても、闘いをやめなかった。その壮絶な歴史を経て、今がある。
独裁政権下の韓国では、「アカ」とみなされた者たちは、激しい拷問を受け、その中には命を落とす者がいた。
1987年1月14日、Seoul大学学生、パク・ジョンチョルが拷問によって殺された。しかし当局は心臓マヒとして片づけようとした。検事や看守、新聞記者らが、それに疑問を持ち、〈真実〉を明らかにしようとする。国家からは様々な抑圧が加えられるが、それに抗して、〈真実〉を求め続ける。
その〈真実〉を求める闘いが、韓国市民の良心に火をつけ、韓国の民主化が音を立てて動き始める。しかしその渦中で、延世大学学生イ・ハニョルが催涙弾を後頭部に受けなくなる。
そのプロセスが、ドラマティックに展開していく。
〈真実〉と、それを担保する民主主義を求める闘いのなかで、斃れていく若者たち、しかしその屍を超えて民衆の闘いが〈真実〉と民主主義をみずからの手元に引きよせる。
私の眼にも涙が生じてきたが、後ろの席からは嗚咽が聞こえてきた。
すばらしい映画である。こういう闘いが、映画化されるのがうらやましい。日本にはこういう歴史的事実はあるだろうか。
韓国の今は、韓国の苦難の歴史抜きには考えられないとつくづくと思う。
なおこの映画の英語の題名は、1987: When the Day Comes である。
先日、京都問題研究資料センターから通信53号が送られてきた。そこに、伊藤亜紗さんの『どもる体』(医学書院)の紹介があった。その紹介文、なかなか本の中身に入らないのだが、なかなか含蓄のある文で、ぜひ『どもる体』を読みたくなった。
浜松市立図書館にアクセスしたら、市では3冊購入、しかしすべて貸出中であった。自分の研究分野以外の本は、できるだけ買わないようにしているので、これも買うつもりはない。図書館に予約しておいた。
しかし、その紹介文のなかに、伊藤さんが書いた『目の見えない人は世界をどう見ているか』(光文社新書)の内容も少しだけ書かれていた。紹介者は、この本を読んでいたので『どもる体』の紹介をしているのだという。
そこで私は、新書であるという理由だけで、この本を買った。著者の伊藤さんは美学専攻だという。美学とこうした本と、いかなる関係があるかまだ了解していないのだが、読みはじめた。
最初に、美学についての説明があった。そういえば、中井正一の『美学入門』という本を、ずっとむかし読んだことがあったなあと思いだした。もうすっかり忘れている。
伊藤さんの説明は、こうだ。
美学とは、芸術や感性的な認識について哲学的に探究する学問です。もっと平たくいえば、言葉にしにくいものを言葉で解明していこう、という学問です。フランス語に、「ジェヌセクワ(je ne sais quoi)」という言い方があります。翻訳すると「いわく言いがたいもの」でしょうか。・・・・美学というのは、要はこの「ジェヌセクワ」に言葉でもって立ち向かっていく学問です。(25)
なるほど、である。絵画なんかまさにそうだな。絵画は何も語らない、それを鑑賞者はことばでそれをみた感想なり、意味などを語る、あるいは書き記す。
演劇もそうかもしれない。演劇はまだ台詞ということばがあるから、ことばで解明するのはそんなにむつかしいことではないようだ。でも、なぜか同じ舞台を見て、感想が全く異なることがある。
感性的な認識は、ひとそれぞれ個性的なのだ。ということは、美学ってなかなか難しいぞ。というのは、学問というのは、ある意味普遍性を追究するものであるからだ。個性的な感性的認識を学問の対象とする美学は、それこそ「いわく言いがたいもの」になりはしないかと思う。
この本は、ここまでしか読んでいない。このあとに本題が記されているのだろう。
浜松市立図書館にアクセスしたら、市では3冊購入、しかしすべて貸出中であった。自分の研究分野以外の本は、できるだけ買わないようにしているので、これも買うつもりはない。図書館に予約しておいた。
しかし、その紹介文のなかに、伊藤さんが書いた『目の見えない人は世界をどう見ているか』(光文社新書)の内容も少しだけ書かれていた。紹介者は、この本を読んでいたので『どもる体』の紹介をしているのだという。
そこで私は、新書であるという理由だけで、この本を買った。著者の伊藤さんは美学専攻だという。美学とこうした本と、いかなる関係があるかまだ了解していないのだが、読みはじめた。
最初に、美学についての説明があった。そういえば、中井正一の『美学入門』という本を、ずっとむかし読んだことがあったなあと思いだした。もうすっかり忘れている。
伊藤さんの説明は、こうだ。
美学とは、芸術や感性的な認識について哲学的に探究する学問です。もっと平たくいえば、言葉にしにくいものを言葉で解明していこう、という学問です。フランス語に、「ジェヌセクワ(je ne sais quoi)」という言い方があります。翻訳すると「いわく言いがたいもの」でしょうか。・・・・美学というのは、要はこの「ジェヌセクワ」に言葉でもって立ち向かっていく学問です。(25)
なるほど、である。絵画なんかまさにそうだな。絵画は何も語らない、それを鑑賞者はことばでそれをみた感想なり、意味などを語る、あるいは書き記す。
演劇もそうかもしれない。演劇はまだ台詞ということばがあるから、ことばで解明するのはそんなにむつかしいことではないようだ。でも、なぜか同じ舞台を見て、感想が全く異なることがある。
感性的な認識は、ひとそれぞれ個性的なのだ。ということは、美学ってなかなか難しいぞ。というのは、学問というのは、ある意味普遍性を追究するものであるからだ。個性的な感性的認識を学問の対象とする美学は、それこそ「いわく言いがたいもの」になりはしないかと思う。
この本は、ここまでしか読んでいない。このあとに本題が記されているのだろう。