相川地区は、佐渡市役所の西約10kmのところ
国道350号線から県道31号線へと西へ進んで
中山トンネルを貫けると相川の街です
街の手前で県道31号線は右(北)へ坂道を登って行きます
短い道遊トンネルを貫けて右へ上って行きます
道遊の割戸が見えて来ます
かつての鉱石運搬のトロッコのトンネルのようです
道遊の割戸が大きくなってきます
大切山抗跡です(ガイドツアーで入れるようです)
観光施設となった佐渡金山の坑道入口前駐車場は、観光バスや観光客のレンタカーが沢山止まっています
国指定史跡 宗太夫抗説明版です
宗太夫抗
宗太夫抗は、坑口の高さが約3m、幅2m、坑道の断面が大きい江戸初期に開抗された大型坑道である。
鉱石の運搬機能と採掘技術発達した1690年代(元禄時代・初頭)頃の主力間歩(まぶ/坑道)の一つであった。
部分的に残る「将棋の駒形」の小坑道、探鉱用の小さい狸穴、天井に抜ける空気抗、「釜の口」と呼ばれる坑口とその飾りなど、江戸期の旧抗の諸条件を完備していて、大型の斜坑はゆるやかな傾斜で海面下まで延びている。
脈幅・走行延長とも、この鉱山の最高最大とされる青盤脈の西端に当たる「割間歩(われまぶ)」抗の一鉱区として開発された。
平成6年(1994年)5月24日、国の史跡に指定された。
今回は、一番短い(約30分)コース、右の宗太夫抗へ入ります、他には約40分の道遊抗(明治期の展示)やガイドツアーの無名異抗や大切山抗への山師ツアーなどもあります
天井に丸太が組まれた階段を下りると
説明版が並んでいます
更に下ると・・・
水上輪による水の汲み上げの様子です
下側からも上げています、水上輪は、江戸時代前期の承応2年(1653)に佐渡金山にもたらされた坑内排水(揚水)ポンプです。紀元一世紀頃ギリシャの哲学者・物理学者のアルキメデスの弘安したアルキメデスポンプが祖形とされ、これを佐渡金山に伝えたのは、京都(一説には大阪)の水学宗甫と言う人だそうです。
山留大工の仕事は、落盤防止です、佐渡鉱山は固い岩盤で出来ていますが、断層や軟弱な所には、栗や楢の木材で補強していたそうです
穿子たちの出入りあらためです、坑道の出入り口には検問があって、鉱石や物資の持ち出しを監視するとともに、出入りを記録して給与支払いの管理をしていたそうです
ここから上りです
掛樋(坑内で湧き出した水は、桶で横持ちし、斜面は水上輪を、垂直にはツルベを使い、水平ではこのように樋を使って抗外に運び出した。
風送り堀子は、気絶(酸欠)を防ぐため、敷(採掘現場)に風を送る唐箕(送風機)を使う様子です
休息所です、作業は4時間交代で行われ、金穿大工は他の坑内労働者と違って、技術者として処遇されていたので、食事や休憩時間がとれ、蓆の上で横になることもできた
坑道が深くなると出水量が増えて、ツルベや手桶で湧水をかい出す重労働をしたのが水替人足です、江戸時代後期には江戸や大阪から無宿人が僅か(約90年間で1874人)ではあるが送られてきたようです
さらに上へいきます
狸穴は、細い鉱脈をたどりながら、やっと潜れるくらいに掘り進んだ坑道です
下に見えるのは、鉱脈を掘るための鏨(タガネ)を贈る桶を金穿大工に届けるところです
坑内の測量風景です
探鉱抗道の跡です、緑色の凝灰岩の間に白い石英質の部分をタガネやツチで掘り進んで鉱脈を探していました
金銀山大盛りを願った幕府の役人が行った儀式の様子です、金穿大工が竪に走る鉱脈にタガネを打ち込んでいます
まもなく出口です
地上への出口を出ました、正面のお土産屋さんが出口の通路です
さて、少し奥へ行ってみましょう
この先は大佐渡スカイラインです
大立竪(国重要文化財)の保存工事が行われています
*竪抗(立抗)とは、地下の鉱脈を掘るための垂直坑道(地中エレベータ)。
日本初の洋式竪抗。明治10(1877)年ドイツ人技師レーの指導で完成。
当初の深度は165m、地下には50m毎に3段の水平坑道がありました。
動力:馬力⇒蒸気(1880)⇒電気(1908)
現在の立抗櫓は昭和15(1940)年完成。平成元(1989)年の休山まで使用。最終深度は352m。
岩盤をくり抜いた巻揚機室には巻揚機と空気圧縮機が操業当時のまま保存されています。(内部は一般非公開)
道遊の割戸の裏側が見えました
では、大佐渡スカイラインの反対側入口へ行きましょう
国道350号線から県道31号線へと西へ進んで
中山トンネルを貫けると相川の街です
街の手前で県道31号線は右(北)へ坂道を登って行きます
短い道遊トンネルを貫けて右へ上って行きます
道遊の割戸が見えて来ます
かつての鉱石運搬のトロッコのトンネルのようです
道遊の割戸が大きくなってきます
大切山抗跡です(ガイドツアーで入れるようです)
観光施設となった佐渡金山の坑道入口前駐車場は、観光バスや観光客のレンタカーが沢山止まっています
国指定史跡 宗太夫抗説明版です
宗太夫抗
宗太夫抗は、坑口の高さが約3m、幅2m、坑道の断面が大きい江戸初期に開抗された大型坑道である。
鉱石の運搬機能と採掘技術発達した1690年代(元禄時代・初頭)頃の主力間歩(まぶ/坑道)の一つであった。
部分的に残る「将棋の駒形」の小坑道、探鉱用の小さい狸穴、天井に抜ける空気抗、「釜の口」と呼ばれる坑口とその飾りなど、江戸期の旧抗の諸条件を完備していて、大型の斜坑はゆるやかな傾斜で海面下まで延びている。
脈幅・走行延長とも、この鉱山の最高最大とされる青盤脈の西端に当たる「割間歩(われまぶ)」抗の一鉱区として開発された。
平成6年(1994年)5月24日、国の史跡に指定された。
今回は、一番短い(約30分)コース、右の宗太夫抗へ入ります、他には約40分の道遊抗(明治期の展示)やガイドツアーの無名異抗や大切山抗への山師ツアーなどもあります
天井に丸太が組まれた階段を下りると
説明版が並んでいます
更に下ると・・・
水上輪による水の汲み上げの様子です
下側からも上げています、水上輪は、江戸時代前期の承応2年(1653)に佐渡金山にもたらされた坑内排水(揚水)ポンプです。紀元一世紀頃ギリシャの哲学者・物理学者のアルキメデスの弘安したアルキメデスポンプが祖形とされ、これを佐渡金山に伝えたのは、京都(一説には大阪)の水学宗甫と言う人だそうです。
山留大工の仕事は、落盤防止です、佐渡鉱山は固い岩盤で出来ていますが、断層や軟弱な所には、栗や楢の木材で補強していたそうです
穿子たちの出入りあらためです、坑道の出入り口には検問があって、鉱石や物資の持ち出しを監視するとともに、出入りを記録して給与支払いの管理をしていたそうです
ここから上りです
掛樋(坑内で湧き出した水は、桶で横持ちし、斜面は水上輪を、垂直にはツルベを使い、水平ではこのように樋を使って抗外に運び出した。
風送り堀子は、気絶(酸欠)を防ぐため、敷(採掘現場)に風を送る唐箕(送風機)を使う様子です
休息所です、作業は4時間交代で行われ、金穿大工は他の坑内労働者と違って、技術者として処遇されていたので、食事や休憩時間がとれ、蓆の上で横になることもできた
坑道が深くなると出水量が増えて、ツルベや手桶で湧水をかい出す重労働をしたのが水替人足です、江戸時代後期には江戸や大阪から無宿人が僅か(約90年間で1874人)ではあるが送られてきたようです
さらに上へいきます
狸穴は、細い鉱脈をたどりながら、やっと潜れるくらいに掘り進んだ坑道です
下に見えるのは、鉱脈を掘るための鏨(タガネ)を贈る桶を金穿大工に届けるところです
坑内の測量風景です
探鉱抗道の跡です、緑色の凝灰岩の間に白い石英質の部分をタガネやツチで掘り進んで鉱脈を探していました
金銀山大盛りを願った幕府の役人が行った儀式の様子です、金穿大工が竪に走る鉱脈にタガネを打ち込んでいます
まもなく出口です
地上への出口を出ました、正面のお土産屋さんが出口の通路です
さて、少し奥へ行ってみましょう
この先は大佐渡スカイラインです
大立竪(国重要文化財)の保存工事が行われています
*竪抗(立抗)とは、地下の鉱脈を掘るための垂直坑道(地中エレベータ)。
日本初の洋式竪抗。明治10(1877)年ドイツ人技師レーの指導で完成。
当初の深度は165m、地下には50m毎に3段の水平坑道がありました。
動力:馬力⇒蒸気(1880)⇒電気(1908)
現在の立抗櫓は昭和15(1940)年完成。平成元(1989)年の休山まで使用。最終深度は352m。
岩盤をくり抜いた巻揚機室には巻揚機と空気圧縮機が操業当時のまま保存されています。(内部は一般非公開)
道遊の割戸の裏側が見えました
では、大佐渡スカイラインの反対側入口へ行きましょう
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