大桑町は、日光市役所の北約5kmmのところ
日光市役所の西側道路を北北東に出て、約100mで信号を左(西北西)へ、国道119号線です
約1.2kmの「春日町」信号を右(北北東)へ、国道121号線です
約2.8kmの「倉ヶ崎新田」信号を斜め左(北東)へ、旧道の国道121号線です
約2.1kmで国道が右へ直角に曲がるカーブを左(西南西)へ入ると
約100mで斜め左に入り法蔵寺参道入口です
*一度本堂前まで参道左側の車道を上がって駐車場に入りました
*このブログ 2020年04月14日で、2020年桜、栃木県日光市、大桑「法蔵寺のシダレザクラ」で一度紹介させて頂いております
法蔵寺寺号標です
参道石段をのぼって参道を進みます
山門の赤門です、柱には徳川家菩提所、新田義貞公御令孫開創と書かれています
説明版です
徳川将軍御許 赤門
江戸時代、当地には徳川御三家の本陣が置かれました。
法蔵寺は、本陣防御と徳川家歴代尊位菩提のため、正保2年(1645年)法蔵寺第9代曄運上人の時、隣村より当地に移転。大規模増築がなされました。
その際、徳川家菩提所として、将軍より赤門を冠する旨の御許が下りました。
明治戊辰戦争の戦火の難を逃れた貴重な建造物です。
参道右手南向きに六地蔵様です
左手西向きに地蔵堂「子安子授延命地蔵尊」です
右手に鐘楼です、どなたでも搗けるようです
境内案内図に説明書きです
徳川将軍より赤門を許された寺
赤門の寺「法蔵寺」縁起
法蔵寺は、正式には「真命山 心光院 法蔵寺」といい。宗派は浄土宗です。
南北朝時代、後醍醐天皇の朝廷(南朝)の総大将を務めた新田義貞公や新田家一族を弔うため、義貞公の孫にあたる良徳公により1389年(康応元年)に創建されました。
江戸時代、日光東照宮へ全国の諸大名が参拝するようになると、徳川御三家(尾張・紀伊・水戸)本陣が、日光街道から少し奥まった当地「大桑宿」に置かれました。
それに伴い法蔵寺は、本陣防衛と徳川家歴代尊位菩提のため隣邑より当地に移転。徳川家の多大な助力とご寄進により、法蔵寺は下寺約二十数ヶ寺を抱え、また伽藍が大増築され、名実ともに大規模寺院となりました。
このとき将軍家から徳川家菩提所の証として「赤門」を冠することを許されました。
明治に入り、法蔵寺は戊辰戦争(1868年)で新政府軍による計画的な焼き討ちにあい、「赤門」を残し灰燼に帰しました。
現在、本堂横にある「カシノキ」にお焼けただれた木肌が、戦火の凄まじさを物語っています。
法蔵寺のご本尊様は、女人守護・女人厄除に霊験のある「阿弥陀如来像」です。
境内には、赤門をはじめ天然記念物・とちぎ名木百選「法蔵寺のいとひば」、地域最古の「庚申塔」、子育子授延命「地蔵尊」があるほか、多数の念佛講の碑が残されています。
また、とげぬき観音「如意輪観音像(秘仏・1月ご開帳)」「徳川歴代将軍位牌」「地獄絵図十幅(十王絵図・8月公開)」「大涅槃図(2月公開)」など数多くの寺宝が伝わります。
また、当寺は天皇勅許の十夜法要(11月開催)を古くから継承しており、その法要で鳴らされる「一子相伝 十日十夜双盤念佛」は全国的にも伝承が少なく、法蔵寺が念仏を柱とする信仰の拠点である由緒を知る貴重なものです。
本堂です、目的のイトヒバの樹冠が見えています
本堂前にも六地蔵様です
本堂裏側に廻って来ました、寺務所の裏の位置に目的のイトヒバです
西側から
「とちぎ名木百選 法蔵寺のいとひば」の標柱です
説明版ですが薄くなってしまって読めませんでした(ネットからの説明文です)
日光市指定文化財
法蔵寺のイトヒバ
種類 天然記念物
員数 1本
樹高 24m
目通幹囲 380cm
枝張り 東5.0,西5.0、南5.0、北5.0m
推定樹齢 約350年
指定理由 由緒あるイトヒバの巨木
法蔵寺はもと倉ヶ崎にあったが、江戸時代初頭の正保2年(1645年頃)現在地に移封した。
この木はそのときに植栽されたものと考えられる。
戊辰戦争の際、寺は焼けてしまったが、このイトヒバは焼けずに残った。
とちぎの名木百選にも選ばれている。
昭和41年3月22日指定 日光市教育委員会
西南西側から
南西側から
南側から見上げました
では、次へ行きましょう
日光市役所の西側道路を北北東に出て、約100mで信号を左(西北西)へ、国道119号線です
約1.2kmの「春日町」信号を右(北北東)へ、国道121号線です
約2.8kmの「倉ヶ崎新田」信号を斜め左(北東)へ、旧道の国道121号線です
約2.1kmで国道が右へ直角に曲がるカーブを左(西南西)へ入ると
約100mで斜め左に入り法蔵寺参道入口です
*一度本堂前まで参道左側の車道を上がって駐車場に入りました
*このブログ 2020年04月14日で、2020年桜、栃木県日光市、大桑「法蔵寺のシダレザクラ」で一度紹介させて頂いております
法蔵寺寺号標です
参道石段をのぼって参道を進みます
山門の赤門です、柱には徳川家菩提所、新田義貞公御令孫開創と書かれています
説明版です
徳川将軍御許 赤門
江戸時代、当地には徳川御三家の本陣が置かれました。
法蔵寺は、本陣防御と徳川家歴代尊位菩提のため、正保2年(1645年)法蔵寺第9代曄運上人の時、隣村より当地に移転。大規模増築がなされました。
その際、徳川家菩提所として、将軍より赤門を冠する旨の御許が下りました。
明治戊辰戦争の戦火の難を逃れた貴重な建造物です。
参道右手南向きに六地蔵様です
左手西向きに地蔵堂「子安子授延命地蔵尊」です
右手に鐘楼です、どなたでも搗けるようです
境内案内図に説明書きです
徳川将軍より赤門を許された寺
赤門の寺「法蔵寺」縁起
法蔵寺は、正式には「真命山 心光院 法蔵寺」といい。宗派は浄土宗です。
南北朝時代、後醍醐天皇の朝廷(南朝)の総大将を務めた新田義貞公や新田家一族を弔うため、義貞公の孫にあたる良徳公により1389年(康応元年)に創建されました。
江戸時代、日光東照宮へ全国の諸大名が参拝するようになると、徳川御三家(尾張・紀伊・水戸)本陣が、日光街道から少し奥まった当地「大桑宿」に置かれました。
それに伴い法蔵寺は、本陣防衛と徳川家歴代尊位菩提のため隣邑より当地に移転。徳川家の多大な助力とご寄進により、法蔵寺は下寺約二十数ヶ寺を抱え、また伽藍が大増築され、名実ともに大規模寺院となりました。
このとき将軍家から徳川家菩提所の証として「赤門」を冠することを許されました。
明治に入り、法蔵寺は戊辰戦争(1868年)で新政府軍による計画的な焼き討ちにあい、「赤門」を残し灰燼に帰しました。
現在、本堂横にある「カシノキ」にお焼けただれた木肌が、戦火の凄まじさを物語っています。
法蔵寺のご本尊様は、女人守護・女人厄除に霊験のある「阿弥陀如来像」です。
境内には、赤門をはじめ天然記念物・とちぎ名木百選「法蔵寺のいとひば」、地域最古の「庚申塔」、子育子授延命「地蔵尊」があるほか、多数の念佛講の碑が残されています。
また、とげぬき観音「如意輪観音像(秘仏・1月ご開帳)」「徳川歴代将軍位牌」「地獄絵図十幅(十王絵図・8月公開)」「大涅槃図(2月公開)」など数多くの寺宝が伝わります。
また、当寺は天皇勅許の十夜法要(11月開催)を古くから継承しており、その法要で鳴らされる「一子相伝 十日十夜双盤念佛」は全国的にも伝承が少なく、法蔵寺が念仏を柱とする信仰の拠点である由緒を知る貴重なものです。
本堂です、目的のイトヒバの樹冠が見えています
本堂前にも六地蔵様です
本堂裏側に廻って来ました、寺務所の裏の位置に目的のイトヒバです
西側から
「とちぎ名木百選 法蔵寺のいとひば」の標柱です
説明版ですが薄くなってしまって読めませんでした(ネットからの説明文です)
日光市指定文化財
法蔵寺のイトヒバ
種類 天然記念物
員数 1本
樹高 24m
目通幹囲 380cm
枝張り 東5.0,西5.0、南5.0、北5.0m
推定樹齢 約350年
指定理由 由緒あるイトヒバの巨木
法蔵寺はもと倉ヶ崎にあったが、江戸時代初頭の正保2年(1645年頃)現在地に移封した。
この木はそのときに植栽されたものと考えられる。
戊辰戦争の際、寺は焼けてしまったが、このイトヒバは焼けずに残った。
とちぎの名木百選にも選ばれている。
昭和41年3月22日指定 日光市教育委員会
西南西側から
南西側から
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