ビーズうさぎのハナちゃんです!!

日々の生活、山登りや釣り、ドライブなどをアップします。ここの所、巨樹めぐりがメインですが!(汗)

千葉県南房総市、増間「増間日枝神社の大杉群(5樹)」(市指定)です!!

2023-11-15 06:32:00 | 巨樹・大木
 増間地区は、南房総市役所の東北東約9kmのところ

 南房総市役所を東へ出ます、約600mで十字路を右(南)へ、さくらロードです

 約300mで丁字路を左(東)へ、国道127号線館山バイパスです

 約2.7kmの那古信号を斜め左へ、県道296号線です

 約2.9kmで三芳中学校手前の歩車分離信号を左(北)へ、県道88号線です

 約4.3kmの滝田郵便局前で県道88号が左カーブになるところから右へ入ります、県道258号線です

 約3,3kmで、増間日枝神社参道が左手に見えて来ますが

 駐車場は約200m先の大日山登山者用の「大日山遊歩道駐車場」を利用しました

 駐車場前の案内図です

 七滝・大日山遊歩道庵案内図です、ここが七滝への入り口です

 増間日枝神社参道入口には、「御神的神事」の標柱が建ています

 参道を進みます、両側には過疎化のため廃墟がならびます

 神社の上と思われるところに杉の樹冠が見えました

 石段が見えて来ました

 日枝神社社號標です

 石段の上に赤い鳥居が見えます
 
 参道石段の両側に杉の大木が並びます

 参道右手(東側)の杉の大木です、注連縄が巻かれています

 境内側から


 左手(西側)の杉2本にも注連縄が巻かれています

 境内側から

 「南房総市天然記念物 増間日枝神社の大杉群 五樹」の標柱です、あとの2本は社殿裏側のようです

 鳥居は南側から撮影できませんでした、参道西側の二本の杉が正面になっています

 手水鉢です

 拝殿です

 本殿です

 御的神事の説明版です
  県指定民俗資料 日枝神社の御的神事(増間552番地)
 昭和32年、増間地区の15社が合祀され、大山咋命を祭神とする日枝神社を区の鎮守とした。
 例年3月1日、日枝神社の境内で、元正天皇の頃(715~723)を起源とする「御的神事」が行われる。これは、稲作などの豊凶を占う歩射の神事で、2月26日の的貼りから始まる。
 当日選ばれた2人の射手は、鍵元とよばれる家に赴き、新湯を浴び更に垢離の淵で水浴潔斎して衣服を整え、鍵元に伴われ弓矢をたづさえて神社に上る。神前で祭典を終え、御的神事が始まる。
 2人の射手によって23間半(約43m)離れた鳥居の側から、早生、中生、晩生に分けて矢を2本ずつ交互に3回12本、都合36本射る。矢の当たり具合で、年間の天候、適種、豊凶を占う。
 この御神的神事は、古い民俗儀式を折り目正しく伝えるものとして県指定民俗資料となっている。
    南房総市

 神事が行われる境内は、北西側に延びています

 本殿裏側の杉の巨木です

 南東側から見ると、細目の杉が見えました

 東側から見ました


 南房総市の昔話です
   海へ流れた島
 昔むかしの話ですが、増間に、2日3晩ものすごい大雨が降り、水神様を祀ってあった川の中の島が流されてしまいました。
 信心深い村人たちは、大勢で川を下りながら島を探しましたが、とうとう見つけることができず、海まで出てしまったのです。
 皆、がかりしていましたが、
 「ついでに海も探してみんべえ。」
 と、船を雇って、那古・船形の海岸沿いに多田良村の大房岬の端まできますと、そこに、よくにた島がありましたので、
 「島がえらい大きゅうなったが、俺が村から流れてきたもんに違げえねえ、それに生えている松もそっくりだ。」
 と大喜びして、一生懸命に引いて帰ろうとしましたが、どうしても動かないので、仕方なく「増間島」と名付けて水神様を祀り、村へ引き上げました。
 それを知った多田良の村人たちは、
 「そんな大馬鹿な話はあるもんか、あの島は大昔から、彼所にあったんだ。」
 と言ったそうですが、増間の村では、一人残らず、自分たちが大房岬で見つけた島には、本当に増間から流れていったものだと信じていますから、正月と秋祭りになりますと、村の代表が水禍が起きないよう願い、島の水神様へ、供物を持ってお詣りに行きました。
 真実の話は、増間村の人たちが、得意の馬鹿話を利用して、遠く離れた大房岬にある島を手に入れ、海藻や魚介類を取る拠点にしたのだと言われています。
 増間の人達の知恵による国盗り物語ですね。
        南房総市教育委員会

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千葉県南房総市、平久里中「平群天神社くすの木(夫婦クスノキ)」(市指定)です!!

2023-11-14 18:30:00 | 巨樹・大木
 平久里中地区は、南房総市役所の北東約10kmのところ

 南房総市役所を東へ出ます、約1.4kmで県道185号線に合流して東関道館山線の高架を潜って更に東へ進みます

 約8.3km道成りに進んで、安房郡市消防本部 館山消防署犬掛分遣所前で左(北)へ県道88と258号線の複合路です

 約700mで県道258号線を左へ別けて、県道88号線を進みます

 約2.4kmで、県道左に平群天神社の参道入口です

 脇の駐車スペースに車を止めさせて頂きました

 鳥居の上に見えるのは房総の名山・伊予ヶ岳です

 平群天神社の社號標です

 「とみさん・ふるさと自然のみち」の案内図です

 伊予ヶ岳遊歩道入口のプレートです、登山者用駐車場は平群天神社境内にあります

 参道進むと、参道左手に目的の夫婦クスノキが縦に並んでいます

 手前のクスノキ大木です

 説明版です
   南房総市指定文化財
     平群天神社くすの木
       昭和39年11月5日指定
 天神社参道にそびえるこのクスノキは、約1000年前に住民が植えたものと言い伝えられる。
 手前のクスノキは幹周435cm、樹高15m、神社寄りのクスノキは幹周425cm、樹高25mである。
 両者を「夫婦クスノキ」と呼び、手前を「女木」神社寄りを「男木」といい、御神木となっている。
 また、この「夫婦クスノキ」の樹霊にまつわる言い伝えには、伊予ヶ岳に住んでいたといわれる天狗の伝説が多数ある。
     南房総市教育委員会

 「女木」を東側から

 北東側から

 南南東側から「男木」です

 北東側から

 北側から

 参道奥側から二本を見ました

 平群天神社へお参りして行きましょう

 手水舎です

 拝殿です


 本殿です

 説明版です
   天神社
     富山町平久里中207番地
 1、祭神 菅原道真公
      木花之佐久夜毘売命
      天照大日孁貴命
      建御名方神
1、例祭   1月25日 大祭典
       6月25日 小祭典
     (10月24日)神輿渡御 宵祭
      10月25日 大祭典
      12月25日 大祓
1、由緒 室町時代文和2年(1353)細川相模守が霊夢により、京都北野天神をこの地に勧請し、平群9邑の鎮守として信仰を集めていた。
 天正14年(1588)里見義頼公の命で、大工飛騨守家助により本殿が改築され。
 貞享4年(1687)幣殿・拝殿が改築され。
 更に文化5年(1808)神照寺法印宥弘により再建された。
 明治6年郷社に列せられた。特に学問の神として広く信仰されている。
1、社宝 御神像
 長享3年(1489)寿命長遠祈願として領主禅栄が奉納。
     平久里天神縁起絵巻 3巻
 明徳3年(1393)~文安3年(1446)の頃、神照寺住職宥源によって納められた。菅原道真の一代記で、昭和37年県有形文化財に指定された。
     御神鏡 黄銅製 作者 伝来 不詳


 拝殿東側には打ち上げ花火の筒です

 説明書きがありました、火薬取締法のため使えなくなったそうです

 東側には神照寺観音堂です

 軒下の額です

 俚謡碑です

 説明書きです、祭りで唄われた歌の歌詞です

 伊予ヶ岳説明版です、クスノキの説明版にあった天狗伝説もあります
   伊予ヶ岳(嶽)
 伊予ヶ岳は、標高336.8mで富山・御殿山とともに富山三山の一つで”岳”と呼ばれるその山容は、高く険しく奇岩がそびえ立つ、南房総の名山である。
 幕末期江戸の文人梁川星嶽らは、その景観を漢詩に託して賞め称えている。
 山名の由来は、阿波斎部氏のふるさと四国の最高峰石鎚山・別名「伊予の大岳」からでていて、頂上の小平坦地には少彦名命をまつる石祠が安置されている。
 県立自然公園の指定をうけ、割れた岩峰からの眺望はすばらしく全方位におよぶ。登山所要時間は、4~50分「山歩きには県下最適」というお墨付きをもらっている。
 頂上近くには、雨乞いの青龍権現がまつられ、中腹には頼朝ゆかりの「鳩穴」がある。また、ふもとの天神社とともに、天狗伝説が語りつがれている。

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千葉県南房総市、久枝「蓮台寺の大いちょう」(市指定)です!!

2023-11-14 06:30:00 | 巨樹・大木
 久枝地区は、南房総市役所の北約7kmのところ

 南房総市役所北側からJR内房線の踏切を渡って北へ、冨浦駅前から県道240号線を西へ

 冨浦駅信号で国道127号線を右へ出て北へ進みます

 道成りに7kmで岩井川の岩井橋北詰の感応式信号を左(西南西)へ

 約400mで左(南)へ入ります、緩く左カーブの外側に蓮台寺の駐車場があります

 車を止めさせて頂いて、更に南東側の山門へ向かいます

 東向き参道で浄土宗蓮台寺山門です

 参道を進むと左手び鐘楼ですが逆光になってしまって撮影できませんでした

 参道左右に目的のイチョウの大木です

 説明版です
   南房総市指定文化財
     蓮台寺の大いちょう
 この大いちょうは、今から500年あまり前に植えられたと推定されている。
 北側のいちょうは、幹周り3.64m、樹高26mで、南側のいちょうは、幹周り3.68m、樹高25mで、地域の人はこれを夫婦いちょうと呼んでいる。
 蓮台寺は浄土宗のお寺で、永和年間(1375~79)南北朝の時代、到阿上人によって開創されたもので、本尊仏は恵心僧都の作との寺伝がある。
 このお寺は、江戸時代の寛政8年(1796)と大正12年(1923)の関東大震災で本堂が焼失したが、この大いちょうはそんな中でも生き続けている。
    南房総市教育委員会

 南東側から北側の一本です

 北東側から南側の一本です

 境内へ入って北側の一本です

 南側の一本です

 本堂手前の参道から二本を見ました

 左手に六地蔵様です

 本堂です

 南房総市の昔話です
   閻魔大王の首
 昔むかしの話です。久枝村(岩井)の大名主・仲右衛門が、暴風雨の翌朝、海岸線を見回りますと、村境で加知山村の漁民たちが、流れついた大きな仏の首を囲み、
 「おっかねえ顔をした首だが、一体全体、何だろうか。」「これは、俺等の村の浜へ上がった物だから、俺等の村の物になんだっぺ。」
 などと言いながら大騒ぎしていました。
 仲右衛門は、かねてから仏道に帰依されていましたので、一目それは閻魔大王の首で、しかも素晴らしい傑作だと判りましたから、何とか久枝村の所有にしたいと考え、加知山村の名主と話し合い、岩井袋の沖の漁業権と引き換えに、その閻魔大王の首を村に持ち帰りました。
 その頃の名主の権力は大層なものでしたが、それにしても個人の勝手な考えで、一部の海域とはいえ漁業権を放棄したのですから、穏やかな話ではないのですが・・・。
 ところがです、不思議なことに、閻魔大王の首が名主の家に安置されますと、久枝村には五風十雨の恵みがあり、地引網を引く浜は毎日大漁となり、村人たちの暮らしは富んで豊かになったのです。
 後に首だけの閻魔大王には、江戸の仏師によって胴体が作られ、首と胴は見事に一つの形につながれたといいますが、今、その閻魔大王は仲右衛門の檀那寺だった蓮台寺にあります。
      南房総市教育委員会 

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千葉県富津市、竹岡「薬王寺・竹岡のオハツキイチョウ」(県指定)です!!

2023-11-13 18:29:00 | 文化財・樹木
 竹岡地区は、富津市役所の南約11km、富津市役所天羽行政センターの南西約1kmのところ

 富津市役所天羽行政センター前から国道127号線を南南西へ進みます

 約1.5kmで斜め右(北側)下へ入ります、右へ右へと下って行くと和蔵酒造の前を過ぎ

 間も無く薬王寺が南東向き参道であります

 前の道路脇に車を止めさせて頂きました

 真言宗 智山派

 十宮山 薬王寺です

 境内へ入ると左手に六地蔵様です

 正面の本堂の手前に目的のオハツキイチョウです

 説明版です
  千葉県指定天然記念物
   竹岡のオハツキイチョウ 1樹
      昭和40年4月27日指定
 このイチョウは雌樹であり、樹高18m、根回り3.1m、目通幹囲2.1m、枝張り南北15m、東西14m、樹勢は極めて旺盛である。結実は非常に多い。
 この葉上種子の大きさは「神崎のオハツキイチョウ」とほぼ同種で、葉やその他生態的なことは同じである。
 このオハツキイチョウは、文化9年(1812)奥州白河藩主松平越中守定信が、本堂、薬師堂再建の大檀那として自ら領国白河より取り寄せ手植えしたものと伝えられる。
    昭和59年1月1日
         千葉県教育委員会
         富津市教育委員会

 北東側から

 南西側から


 本堂です

 本堂前には弘法大師様です

 本堂の前の形良く刈り込まれた木はカヤのようです

 境内北端には東京湾を望むように鐘楼です
 
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千葉県君津市、愛宕「愛宕神社参道のスダジイ群」です!!

2023-11-13 06:31:25 | 巨樹・大木
 愛宕地区は、君津市役所の東南東約15kmのところ

 君津市役所からふれあい通りを東南東へ、約2.5kmの「内みのわ」信号からは県道92号線です

 約1.9kmで東関道館山線の高架を潜ります、約4、6kmで信号を左(東)へ県道33号線です

 約800mで県道163号かずさグリーンラインに変わって東へ、約4.9kmで県道93号線に変わります

 道成りに約3.3kmで「かずさの地酒 飛鶴・森酒造」の看板を左(北)へ、間も無く森酒造入口を過ぎると


 道路の先に幟の支柱が建って居ます、愛宕神社参道入口です

 鳥居です、標高90m付近です、愛宕神社は愛宕山(標高192m)の山頂にあります

 愛宕神社縁起の石碑です
   愛宕神社縁起
 愛宕神社の創建は社伝によれば、坂上田村麻呂によって創建された京都・愛宕神社を天永2年にこの地に勧請したと伝えられる。即ち約900年前、軻遇突智命を主神とし埴山比売命、水波能売命を祭られ、明治期まで愛宕大権現と称した。
 これらの神は雷神、火の神、縁結び、安産、更に雨乞いの神として尊崇される。社殿脇に摂社・軍神の勝軍地蔵あり。
 中世戦国時代、里見当主にして久留里城主、里見義堯公は北条氏康と永禄年間(1560年前後)に合戦を繰り返した。
 ある夜、夢枕に「吾は乾に当たる場の者なり」と告げられ戦略を授けられる。それ以後の戦いにさしもの北条勢も打ち払われた。
 これは霊神の賜なりと、城の乾の方向の当地山中に登って草木の間を尋ねると、小堂と神像が見つかった。即ち夢に逢う所の霊神なりと、直ちに当地山頂に社堂を造営し、愛宕大権現と崇め、300石を寄進された。
 下って土屋民部少輔殿のご治世に至り、14石6斗7升を賜り、別当職は泉蔵院として、祭祀が行われた。
 宝永12年(1715)柱に瑞鳳霊獣を刻み、屋根は銅葺き瓦の改築の改修が行われた。天保6年(1835)にも黒田候の許可を受け神社修理された。
 明治維新の時、境内地外の社地は召し上げられて官有地となり、泉蔵院は廃止された。
 この時より氏子により僅かに祭式を執行するも悲境に遭遇する。更に明治22年8月14日火災の追い打ちにあい、壮麗を極めた社殿烏有となった。しかし氏子一同協力辛苦して、明治28年11月再建した。が大正11年、大風のため随身門倒壊、大正12年9月1日本殿倒壊したので、泉蔵院第15代で氏子総代の愛木政丸氏及び氏子の人々の協力尽力により、神楽殿として建て替え、本殿は同坪数で再建した。ただし本殿の瓦は太平洋戦争時に貴金属(銅)として供出され、回復されたのは昭和53年であった。神楽殿は現在失われている。
 平成15年鳥居再建の機に当神社の縁起を記し、ここに後世への記録と為す次第である。

 参道を進みましょう、向こうからニャンコが向かって来ましたが西側の藪に隠れてしまいました

 参道脇に車を止めさせて頂きました

 参道を進みます

 ここは右へ、左には住宅が有りますが廃墟のようです

 南側からの参道を歩く人は少ないようです

 ここは左へ、足元はイノシシが掘り返した状態になっています

 右へ石段が上っていますが、土砂に隠れてしまいそうなので左へ行きました

 直ぐ先の左側土手にスダジイの巨木です

 東側の参道上から見ました

 先ほどの石段のつながりを上がります

 参道に大木が倒れて塞いでいます、下を潜れそうでしたが・・・獣の足跡が見えるので、右の土手へ登りました

 鹿の鳴き声が聞こえました、鹿に猪と自然の宝庫ですね~

 平坦な部分にはイノシシの掘り返しや、ヌタ場らしいところも見られました

 間も無く右手にスダジイの巨木です

 参道上側から見ました

 また石段が現われます

 参道左に杉の大木です

 スギから二本目のスダジイの巨木です、幹に傷みが見られます

 参道上側から

 ずっと上まで石段が続いています

 ようやく社殿の屋根が見えました

 境内南端のスダジイの巨木です

 東側から

 北側から

 北西側から

 西側から見ました

 境内の水盤です、左は石で樽を模しているものです

 拝殿です

 本殿です

 縁起碑にあった「勝軍地蔵」様です

 浅間大神と小御嶽大神の石碑です

 では、参道を素直に戻って、次へ行きましょう 
 

 
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千葉県木更津市、矢那「高蔵寺(坂東三十三観音霊場)の鎌足桜祖株」(市指定)です!!

2023-11-12 18:33:53 | 文化財・樹木
 ここからは2023年11月8日取材分です

 (前日からの取材を予定しておりましたが、寒冷前線通過の影響からアクアラインが通行止めの為、一日ずれての取材です)

 矢那地区は、木更津市役所の南東約8kmのところ

 木更津市役所から清見台中央通りを東南東へ、約3.6kmで丁字路を左(東南東)へ間も無く館山道の高架を潜ります

 約2.8kmでポルシェ・エクスペリエンスセンター東京 手前を右(南)へ

 約1.7kmで丁字路信号を右(南西)へ、県道33号線ですが直ぐ先の信号を左(南東)へ

 約1.3km道成りに進んで、高蔵観音の案内板を斜め左に入ると、高蔵寺山門前の駐車場に入りました


 山門(仁王門)です

 坂東第三十番霊場

 平野山 高蔵寺です

説明版です
   坂東三十番・新上総国一番
  平野山高蔵寺(高倉観音)
 当山の興りは用明天皇(在位585~87)の代と言われ、霊験によって誕生した大織冠藤原鎌足が白稚庚戌年(650)に構建したと伝えられている。
 本尊は正観世音菩薩で天平年間僧行基の作、樟木一本彫り身丈一丈二尺(約3,6m)である。脇侍は不動明王と毘沙門天で貞観年中慈覚大師の作である。なお堂内(床下観音浄土界)には坂東・秩父・西国霊場の写し観音百体が安置されている他 、回廊には縁結び地蔵尊が祭られている。
 現本堂は大永6年(1526)に再建されたものを平成11年(1999)4月末、屋根及び基礎を修復したもので間口11  間3尺・奥行10間4尺・高さ8間8尺で、床高さ7.7尺・16面取柱数88本の重層入母屋造りで全国でも珍しい建造物   である。仁王門・鐘楼堂は江戸時代に再建されたものであり、いづれも木更津市の文化財に指定されている。

 山門右側(東)に鐘楼です


 ツガの巨木は倒れてしまっていました(2018年3月30日にこのブログで紹介させて頂いております)

 ツガの札は新しいまま残っています

 山門を潜ると左手に手水舎です

 右手には六地蔵様です

 木更津名木100選のコウヤマキです

 山門東側(南東側)から見上げました

 本堂です

 本堂前右手に、高蔵寺の縁起にある子授けの霊木(ザクロの木)です


 本堂前左手には腰掛石です

 本堂西側にはスダジイの大木です


 本堂裏側へ廻ると「鎌足桜の風」という樹木葬の墓地入口です

 フェンスを開けて入ると、右手に目的の鎌足桜が有ります


 西側から鎌足桜です

 説明版です
  木更津市指定文化財
   「鎌足桜」祖株
     平成17年2月25日指定
 この「鎌足桜」祖株は、木更津市矢那の進藤家から木更津市に寄贈され、地元要望を受けてこの高蔵寺へ移植したものです。
 元は高蔵観音に至る旧巡礼街道沿いの進藤家敷地内にありました。鎌足桜の名前の由来は、大化の改新の功臣、藤原鎌足に関する地元伝承と結びついたものと推定されます。
 鎌足桜は、天保3年の著作、「房総志料続編」に既にその名が見える淡桃白色八重咲きの山桜で、雌しべもしくは花弁の一部が細く屈曲して鎌形になるという珍しい特徴を持ち、4月中旬から下旬に開花します。
 地元の保護活動によりこの祖株の新芽から接木による増殖が行われました。それらの苗木は鎌足小学校・鎌足公民館等に、また遠くは大阪造幣局の桜並木にも植樹され、立派に成長しています。
 地元における伝承を尊重し、鎌足桜の保護増殖活動の元となったこの親木を永く伝えるため「鎌足桜」祖株として文化財に指定しました。
   木更津市教育委員会

 南側から

 東側から

 北側から見ました

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栃木県矢板市、上伊佐野「二本木の笠松」(市指定)です!!

2023-11-12 06:33:09 | 巨樹・大木
 上伊佐野地区は、矢板市役所の北約8kmのところ

 矢板市役所から旧関谷街道を北へ、約1,2kmで県道30号線に合流して更に北へ

 約6.3kmの押し釦信号で斜め左の山形有朋記念館方面へ

 *山縣有朋記念館は、栃木県指定の有形文化財です
 山縣農場 として、明治19年(1886)、那須に広大な第三種官有地の払下げを受け移住農家を招致して開墾をすすめました。
 当初小田原にあった木造洋館は、大正12年(1923)関東大震災で倒壊した翌年、長男・伊三郎によりこの農場に移して再建されました。
 財団法人山縣有朋記念館が管理しており、山縣有朋自身はこの木造洋館にほとんど滞在していない。

 約900mで道路左側に丸い樹冠が見えて来ます

 道路脇に車を止めさせて頂きました

 東側から

 北東側から

 矢板市名木10選の標柱と説明版です
  矢板市指定(天然記念物)二本木の笠松
   昭和38年10月1日指定 矢板市教育委員会
   樹高  7.3m   幹周  3.1m
   枝張 東西16.3m  南北 9.2m
   推定樹齢 500年
 天文13年(1549)の大洪水によってたたらど地区に居住していた荒井一族が、家屋田畑を流され、傷心の姿で山を越え笠松の下で仮の宿りをしたと伝えられる。
 もしそうであったとすると、既に大木の笠松であったのか、それとも現在の松は2代目か不明である。
 大正5年佳節に山縣有朋公がよんだ歌に
   かえりみぬ 人こそなけれ 伊佐野原 世に珍しき 松の姿を
 というのがある。

 *山縣 有朋は、天保9(1838)年6月14日~ 大正11(1922)年2月1日は、長州藩出身の軍人・政治家。
 最終階級・称号は元帥陸軍大将。位階勲等功級爵位は従一位大勲位功一級公爵。
 内務卿(第9代)、内務大臣(初代)、内閣総理大臣(第3・9代)、司法大臣(第7代)、枢密院議長(第5・9・11代)、陸軍第一軍司令官、貴族院議員、陸軍参謀総長(第5代)を歴任した人です。(ウィキペディア一部抜粋)

 北側から

 北西側から

 太い幹を見る事が出来ました

 西側から見ました

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栃木県那須塩原市、塩原門前「妙雲寺駐車場の実美桜(さねとみざくら)」です!!

2023-11-11 18:29:34 | 
 塩原門前地区は、那須塩原市役所の西約24kmのところ塩原温泉街の中心部です

 那須塩原市役所塩原支所前の塩原街道を東南東へ、国道400号線の一段下、箒川に沿う様に進みます

 約1.3kmで箒川を渡ると間も無く左手に妙雲寺の山門です、更に約100mの左側に塩原温泉交流広場があります

 奥の妙雲寺駐車場に入りました

 駐車場の北西角に目的の実美桜が有ります

 駐車場端から見上げました

 説明版です
  実美桜(さねとみざくら)
 私たちのふるさと塩原温泉を東西に走る国道400号線は、私たちの生活道路として重要な役割をはたしています。この道路をほぼ現在の姿にしてくれたのが、第3代栃木県令(知事)三島庸です。
 三島通庸は県令に就任すると、ただちに土木事業に力を入れます。栃木町(栃木市)から宇都宮町(宇都宮市)への県庁移転、陸羽街道(国道4号線)の改修整備、そしてこの塩原街道の開削整備は、三島通庸の3大土木事業といわれています。
 明治17年10月22日栃木県庁落成式、翼23日には塩原街道開通式が盛大にとり行われました。この式典に際して明治政府を代表して来県されたのが、時の太政大臣三條実美です。
 三條実美は、公家の出身で明治維新の功労者です。明治2年より内閣制度のはじまる同18年まで、太政官制度にあって太政大臣を務め、明治新政府の最高官となりました。
 塩原街道開通式にのぞみ、三条実美をはじめ政府の高官たちは塩原温泉へ宿泊し。その夜塩原の村人たちは妙雲寺門前において祝賀会をもよおし、当時ではまだ珍しかった牛肉と海の魚ニシンを料理し、花火を打ち上げ、盛大に道路の開通を祝いました。
 この時の塩原街道の開通と、三條太政大臣の来塩を記念して植樹されたのがこの「江戸彼岸桜」です。毎年春には、あわいピンクの花びらが私たちの目を楽しませてくれます。
    平成13年5月吉日
  塩原温泉観光協会節理地50周年を記念し実美桜整備事業といたします。
    塩原温泉観光協会 会長 深尾賢一


 西側から

 西北西側から見ました

 では、次へ行きましょう
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栃木県那須塩原市、塩原門前「妙雲寺・妙雲塔に大杉」(市指定)です!!

2023-11-11 06:36:45 | 巨樹・大木
 塩原門前地区は、那須塩原市役所の西約24kmのところ塩原温泉街の中心部です

 那須塩原市役所塩原支所前の塩原街道を東南東へ、国道400号線の一段下、箒川に沿う様に進みます

 約1.3kmで箒川を渡ると間も無く左手に妙雲寺の山門です、更に約100mの左側に塩原温泉交流広場があります

 奥の妙雲寺駐車場に入りました

 塩原街道を戻ると南西向きに妙雲寺大門です

 山門を入ると境内案内図です

 参道を進みます

 石段を上ると山門です

 境内右手(南)に鐘楼です

 本堂です

 説明版です
   妙雲寺
 平安時代の末、壇の浦の戦いに敗れた平家は、全国に落ちのびました。
 平重盛の妹、妙雲尼はここ塩原に草庵を結び、これが妙雲寺のおこりと言われています。
 明治の戊辰の役でも、住民の必死の願望により難をまぬがれ、臨済宗の禅寺としって現在に至っています。
 妙雲寺は牡丹の寺としても有名です。5月中旬から下旬の境内には、約2000株もの花が咲き乱れ、牡丹祭りが開かれます。
   栃木県


 本堂前左手には薬師堂です

 本堂脇には貝(約2千万年前の二枚貝の化石)です

 本堂左後ろには「常楽滝」です

 会津八一の歌碑「なづみきて のべより山に いあたる道 みみにさやけき 水の音かな」です

 墓地への通路の右てに妙雲塔がありすぐ後ろ側に目的の大杉です

 説明版です
  天然記念物 妙雲塔の大杉
   〔那須塩原市指定文化財・昭和43年10月23日指定〕
 妙雲寺を開山した大道妙哲和尚の時代に、平重盛公の姥妙雲禅尼の墓印として植えられたものと伝えられる古木です。
 3本のスギが根本で結合しており、樹勢は今なお盛んです。
  ①木の種類   スギ
  ②根回り   12m
  ③木の高さ 約50m
  ④推定樹齢 500年
 スギは、ヒノキ科の常緑高木で、日本特産の針葉樹です。
 葉は基部が枝に密着して先は針状に尖り、枝全体としては一面に上向きの針を並べたようになります。
 樹皮は褐色で、成長した幹の樹皮は縦に裂け、帯状に剥け易くなります。
 樹形はふつう細長く直立し、高さ50mに達するものもあり、生育条件などによっては幹が太くなります。
 屋久島から東北地方まで分布し、また、材木を目的とする人工林として、ヒノキとともに各地で植栽されます。
   那須塩原市教育委員会
 
 *スギは、裸子植物マツ綱ヒノキ科スギ亜科スギ属1属1種です。
 太平洋側に産するものをオモテスギ、日本海側に産するものをウラスギと呼んで区別することがあります。
 レバノンスギ やヒマラヤスギ はスギの名前がついていますがヒノキ科ではなくマツ科に属します。

 妙雲塔へは立ち入り禁止になっています

 南西側から

 木々の間から見上げましたが、良く解かりませんでした

 墓地への通路の左側にも杉の大木です

 プレートです
 塩原町巨木保護条例第7条による登録巨木
  登録第18号 平成元年3月10日
  所有者指名 妙雲寺
  樹種名 スギ科スギ属(針葉樹)
  樹木名 杉
  巨木周囲 3m50cm
    塩原町
 *塩原町は、平成17年(2005)年1月1日に黒磯市・西那須野町との新設合併により那須塩原市となりました。


 すぐ先には「天満宮」です

 すぐ先の通路右側にも同サイズのスギの大木です

 プレートです
 塩原町巨木保護条例第7条による登録巨木
  登録第17号 巨木幹周3m50cm
 このスギと同じ時期に植えられてものが3本根本で結合しているのが妙雲塔の大杉といえますね

 では、戻りましょう
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福島県下郷町、大松川滝大座惣乙「不動堂のカツラ」です!!

2023-11-10 18:30:28 | 巨樹・大木
 大松川大座惣乙地区は、下郷町役場の南東約4kmのところ

 下郷町役場前から国道289号線を南東へ坂道を上るように、甲子トンネル・白河方面へ向かいます

 約4.4kmで右下に直売所が見えますので西へ入ります

 直売所の直ぐ北側に「会津バス・杉の沢入口」バス停があります

 この左側道路脇に車を止めさせて頂きました

 バス停から少し下ると右手(東側)下に御堂が見えました

 不動堂は西向きにちょうど国道の下の斜面に建っています、お堂の後ろ側にカツラの樹冠が見えました

 不動堂です

 左側には、滝行用のものか水が引かれています


 御堂の北側には石仏や石碑が並んでいます

 御堂の北側から目的のカツラです

 北西側から

 近付いて見上げました、幹には注連縄が巻かれています

 根元の洞の中にはお不動様がいらっやます

 西北西側から、目通り幹囲16.1mだそうで、第二世代と第三世代が癒着した巨木のようです

 西側から見ました 

 御堂の南側の供養塔の様ですが、碑面は見えなくなってしまっていました

 では、次へ行きましょう
 
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福島県昭和村、喰丸「喰丸峠のケヤキ群」(森の巨人たち100選)です!!

2023-11-10 06:29:32 | 巨樹・大木
 喰丸峠は昭和町役場の東南東約5kmのところ

 昭和町役場前から国道400号線を南東(南会津町方面)へ進みます

 約2.4kmからは国道400号と401号の重複区間になります

 約2.5kmで標識に従って会津若松方面の左(北東)へ、ここで国道400号線と別れて国道401号線です

 約2.5kmヘアピンカーブの坂道を上って行くと


 長いスノーシェッドを抜けたヘアピンカーブの外側に「峠路とケヤキ」の案内板が見えます、標高690m付近です

 ヘアピンカーブ内側に駐車スペースが有りますので利用させて頂きました

 峠路とケヤキ森案内図です、数本のケヤキの大木が見られそうです

 森の巨人たち100選の案内板です
 No36「峠路のケヤキ」・樹種/ケヤキ、推定樹齢/500年、樹高/25m、幹周/4.2m、これより300mです

 黄葉の真っ直ぐな山路を北へ上って行きましょう

 右手に沢の対岸にケヤキの大木が見えて来ました

 山道の曲がり角(西側)から見ました

 西へ緩く上りを進みます

 土留めを兼ねた階段が、段差が大きいので歩きにくいです

 折り返して進むと

 次の折り返しの上側にケヤキが並びます
 
 山路脇にもケヤキの大木です

 また折り返して進むと

 馬頭観世音が祀られています、昔から馬による輸送が行われていた事の名残でしょうか

 まもなく大きな幹が見えて来ました

 左手には梯子と推定樹齢五百年の古木群の看板です

 森の巨人たち100選にあった、目通り幹囲4.2mのケヤキのようです

 北西側から

 北側から見ました

 すぐ先の折り返し点にもケヤキの大木です

 南側から、根張りが特徴的です




 さらに折り返しを数回続けてぼぼって行くと

 優位にはブナが目立って来ました

 間も無く標高約870mの喰丸峠です

 峠に「山之神様」「ぶな林」の看板です

 直ぐ上のマツの根元に石祠が有ります、山之神様のようです
 
 石祠の脇を上って行きましょう

 ブナ林の中を進みます


 ここまで登って来ると、途中で緑だったカエデも紅葉していました

 ベンチの有る広場です

 では戻って、次へ行きましょう

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福島県柳津町、四ツ谷高森「孫太郎マツ」(町指定・県緑の文化財)です!!

2023-11-09 18:35:00 | 巨樹・大木
 ここからは、2023年10月27日取材分です

 四ツ谷高森地区は、柳津町役場の南約14kmのところですが、今回は会津美里町側から入りました

 会津美里町役場の南西約10kmのところ、国道401号線を南へ昭和村方面へ進みます

 約5.8kmの西本簡易郵便局先で大岩観音・明神ヶ岳登山道入り口の標識に従って右(西)へ坂道を上がって行きます

 約2.2kmで左(南東)へ、柳津町と会津美里町の境の尾根通しの道路です

 約400mで左手には会津盆地が広がりました

 会津盆地の底には霧が出ています

 北東側には会津磐梯山が霞んで見えます

 手前には松岸の集落が見えました

 道成りに約6kmで、町境の橋を渡ります

 約1.8km道成りに下って行くと、道路右手に青いトタンの作業小屋が見えます(高森集落まではまだ約3kmあります)

 道路左手に、説明版見えますので道路脇に車を止めさせて頂きました

 柳津町側(道路下側)から、右手の大きな看板が「孫太郎マツ」の説明版です

 説明版の脇が孫太郎マツへの入り口になっています

 説明版です
  町指定文化財
   孫太郎マツ
    指定年月日 昭和62年10月25日
    指定番号  第5号指定
    所有者   高森区
 昔、この付近の大樹は軽井沢銀山の燃料となっていた。従ってこの松のように推定400年の大木が現存するのは極めて稀である。
 この松は、旧越後街道の通称海老山峠の頂上にあって、会津と越後方面を往来する旅人の道標となり緑陰となっていたと想像できる。
 また伝承では、名主「孫太郎」の見張りの松とも、伊勢詣りの記念に植えた松とも伝えられている。
 永年の風雪に耐えたその勇姿は人々に生命の尊厳と生きる活力を与えてくれる名松である。
 「県登録・緑の文化財第384号」
     柳津町教育委員会

 林に入ると、何やら大きな糞の様なものがあります、昨今のクマ出没のニュースが気になります

 左へ折り返すと太い幹が見えました

 目的の「孫太郎マツ」が見えました

 西側から見上げました

 北西側から、こちら側の幹は皮が剥がれてしまっています

 南西側から一段上がって見ました

 南西側から、幹の生きている部分は東側に一部だけになってしまったようです

 南側から見ました

 下側には県緑化推進委員会が建てた緑の文化財の看板が倒れていました

 では、次へ行きましょう
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新潟県津南町、赤沢反里「延命寺のゴヨウマツ」です!!

2023-11-09 06:31:00 | 巨樹・大木
 赤沢反里地区は、津南町役場の西南西約4kmのところ

 津南町役場前の国道117号線を長野方面へ向かいます

 約3.8kmで戻るように左(南)へ、坂道を上ります

 左にカーブした約300mで左手に延命寺が南向き参道で有ります

 延命寺参道です

 前の道路脇に車を止めさせて頂きました


 真宗高田派  護念山 延命寺です

 鐘楼です

 大きな屋根の本堂です、本堂の屋根の上にゴヨウマツの樹冠が見えました

 本堂裏側へ進むと、目的のゴヨウマツです

 ズームアップしてみました、目通り幹囲3.6mの大木です

 もう一枚だけ

 では、次へ行きましょう

 
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新潟県津南町、結東寅「前倉庚申様の姫小松」です!!

2023-11-08 18:32:00 | 巨樹・大木
 結東寅地区は、津南町役場の南約15kmのところ

 津南町役場傍の国道117号線大割野信号を南東へ、国道405号線です

 道成りに約13.3kmで国道右に南向きに結東神社を見て

 更に約2.5kmではちみつ専門店の先を右(南西)へ、つづら折りに坂道を上って行くと

 道路右手(北側)の木立の中に目的の姫小松(ゴヨウマツ)です

 すぐ先の道路脇に車を止めさせて頂きました


 西側から

 北西側から、目通り3.6mの大木です

 北側から

 西側道路先から見ました

 では、次へ行きましょう
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新潟県津南町、結東子「結東神社のカツラ」です!!

2023-11-08 06:32:00 | 巨樹・大木
 結東子地区は、津南町役場の南約12kmのところ
 
 津南町役場傍の国道117号線大割野信号を南東へ、国道405号線です

 道成りに約13.3kmで国道右に南向きに結東神社が鎮座します

 境内に車を止める事が出来ました


 向かい側の農産物直売所の脇に結東地区の案内図です、秋の時期はキノコが直売所のメインになっています

 赤い両部鳥居です

 境内には「佐藤佐平治翁記念碑」です

 説明版です
  津南町の宝もの
    佐藤佐平治の救済
 文政11(1828)年から3年続いた不作に見舞われた秋山郷は、天保2(1831)年の春を迎えて食べる物が皆無となった。4月、外丸村の庄屋新左衛門が村々を回り、その実情を役所へ伝え、これを機として片貝村の佐藤佐平治からの救済が始まる。
 その始めに、佐藤佐平治は天保3(1832)年正月、時の代官の了解のもとに金50両を直接結東村に貸し与えた。
 しかし、元金取立不能を配慮し、この金を佐藤佐平治が預かり、年利息7分(金3両2分)を結東村に支払うことを約束した。よってこの年利息は、天保3年から135年間の昭和42(1967)年まで長きにわたって支払われていた。
 また、天保4(1833)年の11月から翼5(1834)年3月にかけて、佐藤佐平治は当地の飢えを救うため、左記のような多量の穀物を中津の谷に届けた。
 この史実は当時の記録により確認できる。
 1、結東村      籾(5斗入)140俵2斗
            稗(6斗入)234俵
 2、箕作村枝秋山組  籾(5斗入) 93俵3斗
            稗(6斗入)156俵
 3、外に魚沼12ヶ村 籾(5斗入) 79俵4斗
            稗(6斗入)136俵5斗
 合計  籾(5斗入)313俵4斗・稗(6斗入)526俵5斗
 このような佐藤佐平治のすばらしい行いを後世へ伝えるため、昭和30(1955)年8月旧結東村9ヶ村一同は当時の秋成村の援助を得て「佐藤佐平治翁の碑」を建立し現在にいたっている。
     昭和61年8月  津南町
 *明治22(1889)年4月1日に町村制施行に伴い中魚沼郡秋成村、結東村と、中深見村のうち大赤沢が合併して秋成村が発足しました。
 *昭和30(1955)年1月1日 に 外丸村、上郷村、芦ヶ崎村、秋成村、中深見村、下船渡村の6村の合併により津南町となりました。

 手水鉢です

 石段を上りましょう

 石段上部の杉の間から目的のカツラが見えました

 石段上段の杉の大木で社殿が陰になってしまっています

 社殿です


 拝殿の西側にカツラですは、第二世代の幹がかなり失われています

 南東側から見上げました

 東側から、目通り幹囲10.5mの巨木です

 南南西側から

 南西側から見ました

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