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呂不韋について。

2023-03-20 09:52:48 | 漢詩・古典・エトセトラ

呂 不韋(りょ ふい、 紀元前235年)は、中国戦国時代の秦の政治家。荘襄王を王位につけることに尽力し、秦で王に次ぐ権力を持つ相国として権勢を振るった。荘襄王により、文信侯(ぶんしんこう)に封じられた。始皇帝の実父とする説もある

                                                                             
                                                                                                呂不韋

【奇貨居くべし】

 呂不韋の出身地は二説あり、韓の陽翟(『史記』呂不韋列伝)と衛の濮陽(『戦国策』)とである。商人の子として生まれ、若い頃より各国を渡り歩き、商売で富を築いた。

 趙の人質となっていて、みすぼらしい身なりをした秦の公子の異人(後に子楚と改称する。秦の荘襄王のこと)をたまたま目にして、「これ奇貨なり。居くべし (これは、思いがけない品だ。仕入れておくべきだ)と言った。陽翟に帰った呂不韋は父と相談し、話し合いの結果、将来のために異人に投資することで結論がまとまったといいます。やがて呂不韋は再び趙に赴き、公子の異人と初めて会見した。

 当の異人は、当時の秦王であった昭襄王の太子の安国君(後の孝文王)の子とはいえ、20人以上の兄弟が居ただけでなく、生母の夏氏が既に父からの寵愛を失っていたため王位を継げる可能性は極めて低く、母国の秦にとっては死んでも惜しくない人質であった。しかも趙との関係を日増しに悪化させていた秦の仕打ちによって、趙での異人は監視され、その待遇は悪く、日々の生活費にも事欠くほどであった。だが呂不韋はこの異人を秦王にし、その功績を以て権力を握り、巨利を得る事を狙ったのである。無論、呂不韋には勝算があったのです。

【世子を擁立】

呂不韋は異人に金を渡して趙の社交界で名を売る事を指導し、自身は秦に入って安国君の寵姫の華陽夫人の元へ行き華陽夫人に異人は賢明であり、華陽夫人のことを実の母親のように慕って日々を送っていると吹き込んだ。さらに華陽夫人の姉にも会って、自身の財宝の一部を贈って彼女を動かし、この姉を通じて異人を華陽夫人の養子とさせ、安国君の世子とするよう説いた。華陽夫人は安国君に寵愛されていたが未だ子がなく、このまま年を取ってしまえば自らの地位が危うくなる事を恐れて、この話に乗った。安国君もこの話を承諾して、異人を自分の世子に立てる事に決めたのでした。

趙に帰った呂不韋が異人にこの吉報をもたらすと、異人は呂不韋を後見とした。また異人はこのとき、養母となった華陽夫人が楚の公女だったのでこれに因んで名を子楚と改めています。

 呂不韋は趙の豪族の娘、趙姫を寵愛していたが、子楚は彼女を気に入り譲って欲しいと言い出した。呂不韋は乗り気ではなかったが、ここで断って子楚の不興を買ってはこれまでの投資が水泡に帰すと思い、彼女を子楚に譲った。このとき、彼女は既に呂不韋の子を身籠っていたが、子楚にはこれを隠し通し、生まれた子も子楚の子ということにしてしまったという。これが政(後の始皇帝)であるとされる。この説が真実かどうか今となっては確かめる事はできないが、当時から広く噂されていたようで、『史記』呂不韋列伝でもこれを事実として書いているが、秦始皇本紀では触れていません。

【秦の宰相】 

 紀元前251年、秦で高齢の昭襄王が在位55年で逝去し、その次男の孝文王が立つと子楚は秦に送り返され太子となったが、間もなく孝文王が50代で逝去したために太子の子楚が即位して荘襄王となった。呂不韋は相国(当時は相邦と呼ばれていた)となり、文信侯と号して洛陽の10万戸を領地として授けられた。呂不韋の狙いは見事に当たり、秦の相国として彼の権勢は並ぶものがなかったのです。  

 紀元前247年、荘襄王が若くして死に、太子の政が王となった。呂不韋は仲父(ちゅうほ、父に次ぐ尊称あるいは「おじ」という意味)と言う称号を授けられ、呂不韋の権勢はますます上がった。

紀元前241年、楚・趙・魏・韓・燕の五国の合従軍が秦に攻め入ったが、秦軍は函谷関で迎え撃ち、これを撃退した(函谷関の戦い)。このとき、全軍の総指揮を執ったのは、この時点で権力を握っていた呂不韋と考えられています。

【一字千金】

 この時期には孟嘗君や信陵君などが食客を集めて天下の名声を得ていたが、呂不韋はこれに対抗して3000人の食客を集め、呂不韋家の召使は1万を超えたと言う。この客の中に李斯(りし)がおり、その才能を見込んで王に推挙しました。

 更に客の知識を集めて、紀元前239年には『呂氏春秋』と言う書物を完成させた。これは当時の諸子百家の書物とは違って、思想的には中立で百科事典のような書物である。呂不韋はこの書物の出来栄えを自慢して、市の真ん中にこれを置いて「一字でも減らすか増やすか出来る者には千金を与える」と触れ回ったといいます

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