こうして色々文献を見ていて以前から「呂氏春秋」という本があったのは知っていますが呂不葦の書き示した書だと知って見て見たくなりました。
書名の由来は、1年12カ月を天人相関説(時令説)をもとに春夏秋冬に分けた十二紀から『呂氏春秋』八覧から『呂覧』とする。呂不韋は完成後に一般公開し、一字でも添削ができれば千金を与えると公言した、これが「一字千金」の由来とされています。 呂不韋は「奇貨居くべし」と言う言葉が残っていてそれが商才が優れているという意味と思われるかもしれませんが一寸違いますね。
呂不韋については、『史記』の呂不韋傳と『戦国策』の秦策五とに見える。両書の記述には若干の相違があるが、呂不韋傳を主として、その人物像を紹介しています。
呂不韋は陽翟の大賈人なり。往来して賤(値段が安いこと)に販(買う)い貴(値段が高いこと)に賈(あきな)り、家に千金を累(かさ)ぬ。(積み重ねるの意)
諸国を往来して商売をし、巨万の富を築いた豪商である。
趙の国に行った時、秦の太子である安國君の子供で人質として趙に住んでいた嬴異人(後の子楚)に出会った。呂不韋傳は記す、呂不韋、邯鄲に賈(商用で赴く)しに、見て之を憐れみ、曰く。「此れ奇貨なり居く可し。」と。これが有名な「奇貨居く可し」の出所です。
子楚に投資して、安國君の太子にさせ、将来王位につければ、巨額の富を得られると読んで、資金をつぎ込み、それを実現させた。秦の宰相となり、富と権力を手に入れた。しかし秦王政、後の始皇帝が長ずるにつれて、疎んぜられて遂に嫪毒の亂に連座して罪を得て服毒自殺をする。十二紀・八覧・六論から構成され、26巻160篇。その思想は儒家・道家を中心としながらも名家・法家・墨家・農家・陰陽家等、諸学派の説が幅広く採用され、雑家の代表的書物とされる。天文暦学や音楽理論・農学理論など自然科学的な論説が多く見られ、自然科学史においても重要な書物とされる。また「刻舟求剣」などの寓話や説話も収録されています。
呂不韋も食客を3000人集める。呂不韋は丞相となり10万戸を授けられて権力を握ると、戦国四君である孟嘗君、平原君(趙の趙勝)、信陵君(魏王の弟),春申君(楚)にならったのか食客を3000人集めたとされています。孟嘗君などは3000人の食客がいても、泥棒もいたり物まね名人がいたり玉石混交状態でした。しかし、呂不韋の場合は質にかなり拘ったようで食客たちも一流の文化人だったり学者だったりと、クオリティが非常に高かったようです。
これらの食客たちと作り上げたのが呂氏春秋であり市場で1字でも添削することが出来れば1000金を与えると宣伝しました。呂不韋は余程、自信があったのでしょう。尚、呂氏春秋は初の百科事典ともいえる様な内容です。
呂氏春秋は徳についてのお話しも多い
私も呂氏春秋を読んでみましたが、様々な事が書かれています。夏・殷・周の王様がどのように考えて政治を行ったなども多く書かれているわけです。周の文王が病に掛かった時に、災いを払うために臣下は宮殿の増設を提案しましたが、周の文王は許しませんでした。代わりに、生活を質素にして徳を積む事に努めた話もあります。 これを繰り返したところ周の文王は病が全開したとあります。他にも、甯越(ねいえつ)という人物はたゆまぬ努力を行った事で30年で成し遂げる事を15年で出来たなどの努力する事を大事だとする話も掲載されていました。現代人がみても役立つ感じの自己啓発系のネタもかなりあります。
天下は一人の天下に非ず
呂氏春秋は百科事典のような内容なので、様々な事が書かれているわけです。歴史作家の宮城谷昌光さんは戦国名臣列伝の呂不韋の部分で「天下は一人の天下に非ず」という言葉に注目しています。キングダムの呂不韋は武力による統一ではなく貨幣による秦中心の国家を理想としていました。しかし、呂氏春秋の天下は一人の天下に非ずという言葉を解釈すれば、「民主主義を提唱している」というわけです。
秦王・政は史実では、自分に権力が集中するように、中央集権化を進める政策をしています。ここが呂不韋と始皇帝が相いれない部分となるでしょう。もしかすると、嬴政は仲父とする呂不葦を尊敬する一方で呂不葦を疎ましかったか、それの反動だったのかも知れませんね。呂不葦の唱える処は諸子百家が根本であるのでそれに抗するように焚書坑儒になったとも言えます。李斯は荀子の元で韓非と共に学んだが嬴政には何一つ言えなかったのかも知れません。しかし書籍だけでなく儒家を始めとする思想家を生き埋めにしてしまうなどやはり嬴政は残虐だったと言えます。ちなみに、始皇帝は自分一人の独裁国家にしようとした為に、統一後わずか15年で滅んだとも考えられるわけです。
史実だと秦には王翦(おうせん)、王賁(おうふん)蒙恬(もうてん)李信(りしん)などの名将もいましたし、政治を行う大臣も昌平君、昌文君、李斯などがいたわけですが、秦王政に諫言する臣下はいなかったようです。
ここが秦が短命国家に終わった原因だとされています。呂不韋が秦の相国を務めた状態で、秦が天下統一を成し遂げていたら、趙高の暴政や扶蘇の廃位と胡亥の擁立なども無かったのかも知れません。陳勝呉広の乱などが発生しても、章邯や王離らは秦の中央政府と協力し、もっと楽に戦えた可能性もあります。トップに権限が集中しやすい体質だった為に、秦は滅んだ可能性もあるでしょう。
呂氏春秋の中身の抜粋【勇気の行き着く所?】
呂氏春秋は奇妙な普通ではありえない様な話も掲載されています。斉の国の東と西に勇者気取りの男がいたそうです。東と西の勇者気取りの男が道であってしまいました。
この二人は一杯飲む事になったのですが、「肉が食べたい」と言い出します。そして、醤油だけを用意して、お互いの肉を刻みあい食べたと言うのです。もちろん、交互に食べ合い結局は二人とも死んでしまったそうです。呂氏春秋では「このような勇気なら、ない方がマシだ」と述べています。こういう滑稽な話が載せられているのも呂氏春秋の特徴です。
【盗賊に助けられた男】
呂氏春秋にあるこれは正しいのか?と考えてしまうような話も紹介しておきます。ある所に潔癖な男がいて旅に出たそうです。この潔癖な男は道で飢えてしまいました。
たまたま通りかかった盗賊が潔癖な男に食べ物を与えて飢えから回復しました。潔癖な男が名を聞いた時に、盗賊だと言うと、潔癖な男は悪事に手を染めた男から食べ物の援助をもらうわけには行かない。そう言うと食べたものを全て吐き出してしまいます。その結果、潔癖な男は飢えて死んでしまいました。盗賊の食べ物を受け取る事は正義なのか?という事を考えさせられる内容です。私なら「もしかして盗賊は改心したに違いない」と勝手に判断して食料を貰ってしまう可能性もあります。しかし、道徳の授業でも使えそうな内容も含まれているのが呂氏春秋です。日本では、孫子や史記などに比べると知名度は落ちますが、考えさせられる内容も多いです。
呂不韋の思考は呂氏春秋を通じて、未だに輝き続けていると言えます。始皇帝や李斯の焚書坑儒からも残った不滅の書でもあります。『呂氏春秋』(りょししゅんじゅう)。秦の始皇8年(紀元前239年)に完成した。
先に述べたように『呂氏春秋』は秦の荘襄王から始皇帝の初期のころまで宰相を務めた呂不韋が、その権力と財力とを総動員して全国から集めた学者たちに著作編纂させたものである。その構成は、十二紀・八覧・六論の三部に分かれ、全二十六巻百六十篇からなっており、内容は多岐にわたり、一種の百科全書的な書であり、同じ性格の書として前漢に編纂された有名な『淮南子』の先駆けとなったものである。この書の成立事情について、『史記』の呂不韋傳は次のように記している。
呂不韋の家僮万人あり。是の時に當り、魏に信陵君有り、楚に春申君有り、趙に平原君有り、斉に孟嘗君有り。皆士に下り賓客を喜み、以て相い傾く(傾注、熱中すること)、呂不韋、秦の強きを以て、如かざるを羞じ、亦た士を招致し、厚く之を遇し、食客三千人に至る。是の時諸侯に弁士多く、荀卿の徒の如きは、書を著し天下に布く。呂不韋乃ち其の客をして人人の聞く所を著さしめ、集論(編集)し以て八覧・六論・十二紀の二十餘万言を為る。以為らく、天地の万物・古今の事を備う、と。号して呂氏春秋と曰う。
この書の編纂について、呂不韋は相当な自信を持っていたようである。之も有名な話であるが、呂不韋傳に以下の如く記されている。
咸陽の市門に布き、千金を其の上に懸け、諸侯の游子・賓客を延き(招きよせる)、能く一字を増損する者有らば、千金を予えん、と。
この様に自信を持って世に送り出した書であったが、歴代中国における評価は低いもので、清朝になってやっと見直されるようになったのである。
成程ね、始皇帝が李斯と共に「焚書坑儒」をしたのに反して 呂不韋は諸子百家が提唱する「徳」が基本だったんだね。しかし相容れないと言っても何でこんなに毛嫌いしたんだろう。