公子完は帰国後楚の王位を継いで考烈王となり、黄歇はその功績を認められて令尹(楚の国における宰相の地位)に任じられ、春申君と呼ばれるようになった。
政治家として辣腕を振るい、傾いていた楚を立て直すことに成功した。彼の元には優れた人材が食客として3千人も集まり、中には思想家として名高い荀子も参列していた。
その後は趙の首都・邯鄲が秦に攻められた時に魏の信陵君と共に救援に赴き救援を成功させている。
信陵君の死後、覇道を進む秦を打倒すべく連合軍を率いて侵攻するも、結果的に失敗したため考烈王からは疎んじられるようになった。
見た目は端正で非常に若々しく見えるが、活躍してきた年代を考えると中年の域に入っているとみて間違いない。見た目に似合わず歯に衣着せない荒っぽい言動の人物で、性格も意外と感情の起伏が激しい。楚を攻める白起に対し、「オレの武器は舌だ」と白起に対して殺戮をやめるよう弁舌する。が、白起は楚の王陵(王の墓)を焼いてしまい、気落ちした春申君は楚王へ和睦交渉をすることになる。
それ以前、考烈王に子が生まれなかったことを気にもんでいた春申君は世継ぎを誕生させることに腐心していた。春申君の食客の一人に李園という者がおり、その妹は美人で春申君の愛人であった。
やがてこの妹が身ごもると春申君と李園はこの子供を楚の王位に就けようと暗躍する。春申君は李園の妹を考烈王に差し出し、生まれた子供は考烈王の子として王位を約束されることとなった。こうして春申君は楚を影から支配できる立場となったが、共犯者である李園から危険視される。食客の中には李園を始末する進言もあったが、春申君は李園を軽んじていたためにその進言を取り入れなかった。その後暗殺され一族も悉く討たれてしまった。ちなみにその春申君の子が楚の幽王となった。戦国四君最後の生き残りとして名をはせた宰相の最後としてはあまりにあっけないものであった。このため司馬遷からは「春申君、老いたり」と評されてしまった。
楚の宰相。中国全土に知られるやり手の政治家で、楚の君主考烈王の右腕として活躍していて合従軍参加者の中で最も大物とされており、李牧から楚の総大将に推挙された。合従軍の敗戦後は、責任を負って左遷された。最期は食客の李園に暗殺された。
何処にも低いレベルの人間がいるものですが、そういう人間に限って、人を陥れる、暗殺する等、そういう行動に出るんですね。反対に、高い意志を持っている人は自分に照らし合わせてしまって他人も同等の人間と思い込んでしまって、悪さをしないと判断してしまうので、いとも簡単に陥れられてしまうんですね。
どっちにしても、始皇帝により国家は併合されて一つの群になってしまったわけですけど。