2011.3.13(日)晴
春らしい日となったが、地震や津波の情報がつぶさになるにつれてその怖ろしさが身に浸みてくる。昨日書いた防波堤というのは防潮堤というそうだ。さっそく記事を訂正したが、高さは10mあるそうだ。その下に行ったときはまるでビルを見上げるような感じだった。映像で見るとその防潮堤をはるかに超えて津波が浸入しているのだ。水際から20mのところでも津波が襲っている。リアス式海岸というのがいかに津波の被害を増幅するものかということがわかる。この防潮堤の高さは過去の津波を参考にして設計されたものだそうだが、いかに今回の津波が想定以上だったかということが理解できる。
今日お客さまで昭和南海地震(1946年12月、和歌山県潮岬沖震源、M8.0)を高知県で体験された方がおられた。5才の時の体験だそうだが、鮮明に記憶されており、道路が盛り上がる様子や家屋が揺れながら倒壊する様子が脳裏に焼き付いているようだ。発生が午前4時19分ということだから、目を覚まして、天井板が吹っ飛んで梁が揺れている様子が見えたそうだ。お兄さんの背に背負われて山に向かって逃げたそうだが、途中で力尽きて逃げられなくなったのだが、幸いその集落には津波が襲ってこなかったということだ。周囲は津波の被害を受けているので不幸中の幸いであったということだが、ここで少し考えさせられることがある。
1946年12月といえば終戦の翌年である。地震は体感できるので分かるだろうが、現在のように津波警報とか避難命令とかは無い時代ではないだろうか。にもかかわらず幼い子を背負って逃げたということは、地震=津波=避難という条件反射的な行動が大人から子供まで総てに備わっていたのだろう。それは情報が無いからこそ余計に鋭敏に反応し、厳格に行動したのではないだろうか。だから小さな地震でもすぐに高所に避難するということが子供でもできたのだろう。
今日では地震や気象の情報はあふれ、注意報警報、避難勧告、避難命令などしっかり出てくるので、逆にそういうものに頼ってしまいがちである。TVの報道の中で、「サイレンも放送も無かった」と言っておられた方がおられた。本当のところがどうであったかは不明だが、サイレンや放送が無くても地震は感じているのだから、すぐに避難すべきであって、津波避難模範地域の三陸の方々にそのような訓練が行き届いていたのだろうかと考えさせられるのである。
報道される映像は、高台などに避難している方々の提供されたものだと思うが、波に追われて逃げる人びととの差は、単に安全地帯までの距離だけなのだろうか。考えさせられる事象である。
2006年10月、自転車旅行中の八戸から宮古までの海岸、普段はこんなに美しい海岸なんだけど。
【作業日誌 3/13】
ガーデンシェッド、ソーラー換気扇取り付け
今日のじょん:京都からモモ姉ーさんが来た。「田舎もんは嫌いよ」ってんで相手にされなかった。それでもめげないのがじょんのよいところ。