2011.3.26(土)雪、曇
君尾山光明寺は寺伝によると推古天皇七年(599年)聖徳太子によって建立されたとある。(綾部市史上巻)その仁王門が国宝に指定されており、有名な寺院であるが、聖徳太子の建立、あるいはその年代が史実であるとしたら、なぜその時代に上林なのかという大きな疑問が沸いてくる。仏教が伝来して半世紀あまり、この地に寺院を建立するということは単に信仰上の問題ではなく、政治的に重要な理由があろうことは想像が付く。
念道橋から光明寺が見える。思わず念仏を唱えるので念道というという言い伝えもある。(2010、7月の写真)
亡くなられた土井さんは「聖徳太子は上林で生まれたんやないやろか」とおっしゃっておられた。母方が丹後の間人(たいざ)に所縁があること、君尾山光明寺の建立などがそのような想像を生むのだろうが、残念ながらそのようなことはないようだ。ただ、大唐内の聖神社のあるところをマヤゴといい、”馬屋児”だったら事件だなあと思った。聖徳太子は厩戸皇子(うまやどのみこ)と呼ばれていたからだ。上林が誕生の地では無かったとしても、それに匹敵する関係があったとしてもおかしくない。
ここで大唐内の大蜘蛛退治伝説からたどり着いた私の想像は、大蜘蛛退治→藤元善右衛門→や神→ヤ族→高句麗ときた。ところがこの高句麗と聖徳太子が深く因縁があることが解ってきた。しかもこの高句麗の渡来系の民は産鉄の民であるという。このあたりの事情については今少し調査学習して御紹介したい。
有安、草壁は光明寺と眼と鼻の先である、高句麗→産鉄技術者集団→飛鳥文化→聖徳太子→君尾山光明寺という図式が成り立つとしたら、大蜘蛛退治伝説は単なる一地方の物語に終わらない。つづく
(大唐内のこと(41)は2011.3.4)
【作業日誌 3/26】
薪割り、玉切り
今日のじょん:またしても雪が降った。といってもうっすら雪化粧という感じで、なごり雪の歌詞が浮かぶ程度である。じょん君はすこぶる元気で、最近はぽんぽこジャンプに凝っている。
ぽんぽこジャーンプ。