2012.7.15(日) 晴れ
猪鼻岩(ししばないわ)は猪鼻(いのはな)の地名の由来とも言われており、実にユーモラスな形をしている。初めて見たときには資材などが入っていて中を見ることができなかったのだが今回はきれいに掃除されておりしっかり観察できる。
昨年訪れたときの猪鼻(2011.6.24)と今回の左穴
当初は田舎の家のどこにでもある芋などの保管用の穴だと思っていた。ところが猪鼻周辺までマンガン鉱脈があることや、実際にマンガン坑跡があることを知って、マンガンあるいは他の鉱物の掘削跡ではないかと思うようになった。坑道跡と言わないのは余りに穴が浅いからである。右の鼻の穴は穴というより少し削られた痕という感じで、左の穴は横谷の方に、「学校の帰りに雨宿りした」なんて聞いていたのでそう奥の深い穴で無いことは解っていた。
そして上林の鳥垣渓谷の奥でおそらくマンガンの試掘痕らしき岩を見つけて、猪鼻岩も鉱物の試掘の跡ではないかと想像するに至った。
そして現物を見てその感を強くしたのだが、これは試掘というよりは本格的に掘られたものであろうと思う。その辺の詳細については別稿で書くことにして先を急ごう。
マンガン坑の跡があるという情報を得ていたので横谷方面を少し行くが、見つからず先を急ぐ。
府道を下るとすぐに加用に向かう府道に出合う。
加用口、ここから福知山市だ。
加用(かよ)は川合の集落の一つで、最も小さな集落である。小学生の時に遠足があって来たことと、15年から20年くらい前だろうかお墓参りの際に車で通り抜けたことがあり今回で3回目だ。
加用口の寂しさとはうらはらに中に入ると豊な田畑に作物が実り、道沿いに家も続いて人の姿もある。最奥の集落で作業中のおじいさんに会い、いろいろお話を聞く。
過疎化は見た目以上に進んでおり、ある程度残っているという家もすべてが空き家だということだ。家も集落もきれいにされているので住んでおられるのかと錯覚するぐらいだ。
加用については気になるのが子供の通学である。ここから川合小学校まで、椿峠という峠を越えて5Kmある。小学校から大原神社がちょうどそのくらいだから、分校の無い加用(ずっと以前にはあったようだが)のほうが通学は大変だったと思う。大原には分校があり、3年生から本校に通う様になっていたが、大原は神社から奥に同じくらいの距離があり、その地域では大変だっただろう。
そのことを高橋さんというおじいさんに話すと、「学校に通う子はもうおらへんのやな、うちの孫が最後やったかなあ」などという返事が返ってきた。何ともやりきれない話である。
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高橋のおじいちゃんと集落、この集落で在住しているのは一軒だけとか
わたしが車で椿峠を越えたときはもう道は草ぼうぼうで人が歩くような道では無かった。もうすでにそのとき小学生は居なかったのだろうか。
マンガン坑の話も伺ったが、加用には鉱山は無く、大身(おおみ)に行く方に鉱山があって朝鮮人労働者の飯場などがあったそうだ。今から行ってみる時間も無いのでお礼を言って椿峠に向かう。
椿峠はすぐに着くが上川合側が長い、全線舗装されているが周りが植林でなんとも薄暗くて気味悪いところだ。丁度北山の林道を走っているような気分だ。
椿峠加用側と上川合側の廃屋。
峠から少し下ったところ、道路がヘアピン状になったところに屋敷跡があり、倉だけが残っている。結構補修された倉でさほど古い離村でも無いようだ。続いて数軒の屋敷跡があり、建物は残っていないが一定の集落があったようだ。
どんどん下って行くと右手に随分古い、もう形も無いようなお地蔵が祀ってある。
古いお地蔵を過ぎると道が二分する。左が小学校への道。向こう岸の高台が川合小学校。
カメラにおさめてすぐに植林の林から開けた世界に飛び出す。 岼の渋谷神社辺りの景色が開ける。早朝に加用を出た子供達がここに来て、やっと着いたなあと実感するところだろう。このあたりは日後(ひしろ)という。反対側の斜面が日向(ひなた)である。この地名の付け方はこの地方ではよくあるが、全国的にもあるのだろうか。道が二股になり、左に行くと小学校に向かう。川合川を渡ったところに大橋屋という料理屋兼食料品店があったが随分前に無くなってしまった。それどころか川合には店というものが一軒も無くなってしまった。農協の店まで無くなるんだから地元の人はどのように買い物をしているのだろう。
村の食料品店土佐商店も随分前に閉店してしまった。
この後台頭(だいと)、質山峠、西原、上谷厄神社、広域農道を通って帰るのだが道中幼い頃の思いでのあるものに出くわす。またいつかの機会に紹介したい。
とにかく久々のライドで両足がパンパンになってしまった。おわり
今日のじょん:朝の散歩道、小ヘビが出て来た。じょんがちょっかい出すと生意気にも怒っていたが、やがて逃げ出した。このくらいならかんべんしてやろう。