2012.7.26(木)快晴
雨読で島津藩の事について書いている矢先に讀賣新聞の7月25日(水)の文化欄の記事に面白いものが掲載された。水曜日の記事は歴史関係で楽しく見ているのだが、「磯田道史の古今をちこち」という記事に、「銃で圧倒 島津の強み」というのがあったのだ。徳川は関ヶ原合戦後なぜ西軍の島津を潰さなかったのかというのが記事の主題である。
学界の通説では、西国にはまだまだ豊臣系の大名が存在しているので、最も西端の薩摩征伐は困難ということだそうだ。磯田氏はこの他に、家康が島津軍の銃を使った優れた戦法に戦慄していたからという理由をあげておられる。事実関ヶ原の合戦も終わろうとしたとき、島津軍は鉄砲を駆使した奇抜な戦法で徳川軍の中枢に大きな痛手を与えたのである。このことに戦慄した家康が土佐の長宗我部は潰しながらも、島津を残した一つの理由だと磯田氏は言っている。
著名な歴史家が言っているのだから、紙面に現れていない多くの史料も根底にあっての言かと思うのだが、わたしはもっと現実的な打算的な事由があるのではないかと考えるのである。
沖縄航路から佐多岬、うっすらと開聞岳が望める。
徳川は島津の利用価値を考えたのでは無いだろうか。ひとつは奄美を含む琉球の支配、その背後にある明との貿易ではないだろうか。関ヶ原以前に島津にこれ等の実績があったかどうかは不勉強のわたしには解らないところだが、徳川の時代になって島津藩が琉球支配、明貿易で莫大な利益を上げているのはその伏線があったと考えていいのではないだろうか。
もうひとつは薩摩の豊富な鉱物資源とそれを活かす技術に島津の利用価値を認めたのでは無いだろうか。
種子島に鉄砲が伝来したのはだれもが知るところだが、それはポルトガル人の漂着という偶然によってもたらされたものである。その偶然が二年間というすこぶる短期間で日本の鉄砲の大量生産という画期的な発展を見せたのは、種子島に於ける鉄生産と加工の素地が無くては考えられない。このことは「鉄の生活史」(窪田蔵郎著)でも述べておられることである。種子島の良質な砂鉄と加工技術を徳川が注目したいたとしてもおかしくは無い。つづく
今日のじょん:オウンゴール、ラストんのボールは易しいにもかかわらず、前足で蹴飛ばして超難関なところへ入ってしまった。これがオウンゴールである。
なでしこは予想に反して快勝したが、予想に違わないのが阪神である。なんともなちゃけない。