晴徨雨読

晴れた日は自転車で彷徨い、雨の日は本を読む。こんな旅をしたときに始めたブログです。

別所探訪(31) 菟原中-30 11/3

2012-11-04 | 歴史・民俗

2012.11.3(土・祝)曇

 友渕川は単なる土師川の支流と考えがちであるが、地図を広げるとその奥深さが解る。源流まで土師川とかわらないくらいの距離があり、支流も沢山集めている。水量の少ない時期ではあるが土師川も友渕川もそうかわらない水量である。
 旧京街道は馬船口から宿(しゅく)に至るとある。どこかで友渕川を渡る必要があるのだが、馬船谷の少し上流、宿からの道が友渕川に辿り着く地点が最有力と思える。まだ確認していないのだが、その地点が馬船口と言われ、白蛇伝説の権現様があるところだと考えている。P1030182




この地点が馬船口の渡渉地点ではなかろうか。かつては堤防も無いので葦などが茂っており、流路も広く、水の流れも悪くよどんでいたのではないか。P1030183




渡渉地点と思われるところから、真っ直ぐの道が坂を登り、右に大きくターンして宿に向かっている。

 問題はその地点が徒渉点だとして、結構水量があることだ。もちろん河川改修された今日の流路と多少の違いはあるかも知れない。最も渡りやすいところを渡るのが道づくりの常套だと思うが、水量に関してはこのあたりだとどこでも同じなので、水の流れが一番静かな地点が選ばれたのだろう。当初は橋も無いだろうから渡渉、もしくは渡し船が使われたのだろう。少なくとも物資の移動には舟が使われたと思う。これこそが船底の平な馬船(まぶね)だったのではないだろうか。
 馬船金属地名説でなかったらこれだろうと言うのが、馬船渡し船説である。この二つの説を馬船の語源として提唱したい。
 そんな時、「炭焼長者伝説」全国調査の概要(羽場睦美)という論文に、ある調査報告を見つけた。馬船バス停があるという浜松市和合の南に鴨江寺という真言宗の寺院があり、曳馬拾遺という書に炭焼長者伝説があるという。炭焼長者伝説というのは産金をはじめとする金属関連伝説といえるが、先に指摘した伊場(わたしが指摘したのは東伊場だが、伊場、西伊場、南伊場という地名が存在する)に鉄滓が発見されているという。伊場は漢字で表せば鋳場であったのだろう。
 このように馬船のある地域がアトランダムに選んだごく少数の地域にもかかわらず金属関連地だとすると、もしやという気もするのである。
 実は常々思っていることなのだが、根拠も確信も無いので発表していない一つの説がある。この際に恥を忍んで公表しておきたいと思う。つづく

【晴徨雨読】95日目(2006.11.3)吾妻小富士、阿武隈洞、高湯温泉
 自動車で周遊すると遠いところも、高い所も関係ない。どこへでも簡単に行けるのだが、その道中だとか、目的地そのものも記憶に残っていない。道中のスピードもそうだが、苦労無しで到着するもんだからありがたみが無いのだろうか。今から思うと阿武隈川の右岸地域は魅力のあるところなんだが、福島原発の事故による後遺症は尾を引きそうである。また訪れることはできるのだろうか。Img_1595 Img_1600




吾妻連峰と阿武隈洞の採鉱跡駐車場。


【作業日誌11/3】ウッドデッキ作業2日目、塗装
ちょっとずつ買ってきて防腐の塗装をする。P1030195




安物のSPF材なので、防腐剤、塗料など都合4回は塗らんなんやろな。

【今日のじょん】:遂に爆発、というほどでもないけど破けてきやした。オニフスベ。P1030206

コメント
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