2012.11.8(木)曇
別所周辺の地名考証がずいぶん手間取って、継続中の街道探索の記事がなかなか書けなかった。まず肝心の不寝の森の探索から紹介してみよう。
不寝大明神は現在ゴウドの森に影清稲荷などと共に祀られているが、もともとは京街道沿い、宿の手前の山腹にあったそうだ。
京街道は案内板や「京街道を行く」(三和町郷土資料館)にある図や写真と少し異なり、バンド坂から来た道が府道を渡るやや左手から山の斜面を横切って、ヴェルディ三和の分譲地に入るあたりから宿に出ていたそうである。
バンド坂からの道が府道97号線渡る地点、清水(しゅうず)バス停がある。
一応しゅうずの交差点と呼んでおこう。
この山沿いの道の取り付きあたりが大門垣内といわれ、番屋があったと伝えられている。
不寝の森は山沿いの道が尾根を回り込む突端あたりの道の山側にあったといわれるが、杉林となっており、その跡ははっきりしていない。いずれにしても不寝大明神が寝ずの番ということで関所や番所の神様として存在することは普通に考えられることで、番屋とセットで存在したのだろう。
不寝の森のことは菟原中の年配の方なら誰でも知っておられて、詳しい位置や移転した理由や時期を聞き取ることは容易であった。
移転した理由は「辺鄙なところで誰もお参り出来ないので」と言うことだったが、住居や道路からすぐのところで決して辺鄙ではない。おそらく通常通らないところだから、ゴウドの森に祀った方がお参りする機会もあろうかということだろう。移転時期については昭和の年代には違いないが、話を統合すると5,60年前ということである。
宿からしゅうず交差点に向かう街道の途中、この右上に不寝の森はあったそうだ。左下は平らな地形が続いており、住居があったのかも知れない。
これ等のことから、柴田氏の不寝大明神は別所にあって、不眠不休で働くタタラ師に係わる神だと言う説は完全に見当違いだといえる。
さて宿のあたらし屋のご主人の言によると、但馬屋、油屋、さかもと屋という三軒の旅籠がこの山沿いの部分にあったという。これだけ具体的なことを一体何で知っておられたか確認していないのだが、おそらく口伝では無いかと思う。特に但馬屋については、但馬国豊岡町の町名主由利六左衛門の「参宮道中記」に、昼弁当をとり、出された茶が宇治茶にも劣らぬ絶品と賞している様子が三和町史(上巻)に記されている。ただし宿垣内の中の一軒だろうと書かれているのみで、詳細な位置は不明なようだ。
この道の間に一軒だけは確実な住居跡を見つけたが、おそらく三軒の内のいずれかであろう。
確実な住居跡はこの一軒、正面の棕櫚の木の附近に井戸跡も発見。
この山沿いの道を順に紹介していこう。つづく
【晴徨雨読】100日目(2006.11.8)白河~久慈~袋田
やっと本格的なサイクリングに戻る。天気も回復したが、猛烈に寒い。遠くの山が白くて、蔵王や吾妻は雪だろうなと感激する。
100日目にして関東に突入、袋田の滝の上方に日帰り温泉が有り、宿もあるが満杯で泊まれなかった。
関東に入る、何となく感激。袋田の温泉に泊まりたかったなあ。
【作業日誌 11/8】
薪入れ作製
先日古城山でもらってきた桜の根元、難物だぜ。
【今日のじょん】:これは何を見てるのでショーか?
答え、川向こうをどんべーが散歩しておるのです。
なんじゃいそれだけのもんか。