晴徨雨読

晴れた日は自転車で彷徨い、雨の日は本を読む。こんな旅をしたときに始めたブログです。

別所探訪(35) 菟原中ー34 11/7

2012-11-09 | 歴史・民俗

2012.11.7(水)曇

 馬船は単純な地名だが、重要な地名だと思われる。一応、鉱峰説、渡し船説と怪しげなマ舟説(砂鉄、鉱石の溜まっているところ)を提唱しておこう。
 さて、馬船谷の反対側に義経谷という谷がある。義経谷と薬師谷が出合う辺りが義経というところで、小字名となっている。P1020957
 
義経と義経谷


 柳田国男氏が、荘園の盛時に貴族や大寺院のもとで開墾を担当した身分の低い武士が自らの名と好字を組み合わせて名付けたものだろう、という風に述べておられる類かなと思っていた。それにしても義経とは大仰な名を付けたものだと感じていたのだが、「金属と地名」の中の「金売り吉次の」伝承という太宰幸子氏の論文の中に気になる文章を見つけた。金売り吉次は金属関連の伝承で、特に東北地方で平泉の藤原氏や義経に関連のあるものとなっている。
 金売り吉次の実体についての文中、源義経と関わっていたという項目で、吉次は多聞天を信仰し、さらに源義経は多聞天(毘沙門天)の生まれ変わりとの伝承もある、というものだ。
 別所に毘沙門堂があり、それが現在の影清稲荷つまりゴードの森にあることは既に述べたところである。かつて別所に住まいした人物が、あるいは別所に毘沙門堂を建立した人物が毘沙門天と義経とが関わる伝承を知る人物であったら、義経谷、義経の名を付けたと考えられる。
 別所の毘沙門堂がどの辺りにあったのか解らないが、京街道の旧道が毘沙門谷から登って行くという聞き取りからすると、毘沙門谷の奥、街道沿いに存在したのではないかと想像する。
 もうひとつ別所の北、土師川に向かった平坦地である馬場についてであるが、単に馬の調教場と考えて良いものかと気になっていた。
馬場という地名は全国に数多くあり、そのほとんどが馬の調教場という風に伝わっている。「地名の語源」(鏡味完二)で見ると、(1)崖(ハマ・ハバ・ママと同様)、(2)馬の調練場、(3)広場、(4)山上の平坦地という風に載っている。概して(1)と(2)~(4)グループに分かれるのだが(1)の崖という意味には土手、傾斜地、畦なども含まれるようである。(全国方言辞典)P1020958
 



馬場、この尾根の上が別所、もし地形がそう変わらなかったとしたら、旧京街道は渕脇から馬船口まで別所の尾根を回り込む方が楽なのだけど、二つの尾根を越えているのは、福林寺、元龍源寺の存在があるからだろうか。

全国方言辞典には、通り、街道(長崎、鹿児島)、前庭(長崎)という意味が載っている。
 「白山信仰の源流」(本郷真紹)に白山社についての文中、次のように記されている。
 越前・加賀・美濃の三国で白山への登山口(馬場)が開かれるが、加賀の馬場すなわち白山本宮を除けば、越前と美濃の馬場には式内社は所在しなかったのである。

 この馬場の場合街道、参道という風にもとれるが、山岳信仰のための登山口、つまり山への登り口の門前町的な広場、前庭というような意味があるのだろう。
 別所毘沙門堂の棟札(むなふだ)に、「往古大伽藍有之霊地而遠近男女群成集、、」とあり、常套的な文章と雖も、常々参拝者のおとずれるお堂であったと思われる。地形的に見ると馬場は別所の正面にあり、そこに参道があるとしたら、登山口、前庭という意味がぴったり当てはまるのだが、アクセスの状態を見ると、毘沙門堂の参道は尾根の両脇の旧京街道ではないかと思われる。
 そういう意味で別所の下の馬場の意味は(1)馬の調教地(2)土手、畔(3)広場を候補として挙げたい。つづく

【晴徨雨読】99日目(2006.11.7)那須~白河
やっと自転車の旅に戻る、同時に長かった東北も明日去ることになる。冷たい雨が降る中、どこかへ行こうという気も起こらず、白河の街中を散策する。
「朝によし昼になおよし晩によし、飯前飯後その間もよし」小原庄助の辞世の句だと。Img_1617




お銚子と杯のお墓には参った。小原庄助さんのお墓。


【作業日誌 11/7】
古城山薪拾い最終P1030220




今日は大物の桜の根元もやっつけた。最終日の記念写真、バックは蓮ヶ峯。

【今日のじょん】:超難関コース
ぽんぽこぽんのボールが草むらとか木の下に入ると怖くて取れないのだ。「出た手足に目鼻をつけて、、、」とやるんだが、なんともかんとも。
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YouTube: 超難関コース

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別所探訪(34) 菟原中-33 11/6

2012-11-09 | インポート

2012.11.6(火)晴れ

 もしマ=砂鉄、鉱物といった突拍子も無い説が当たっていたとしたら馬船はまた違った意味を持ってくる。舟、池というのはものを溜めておくところという意味がある。
川の流れが緩くなったところに鉄分の高い砂鉄が沈殿して積もったらそれはマブネ(馬船)といえるだろうし、山に鉱脈があり、鉱物が溜まっていたらそれもマブネ(馬船)といえるだろう。もしこれが当を得ているとしたら、別所が産鉄の地である事は明白となる。ただし残念なことに確実に産鉄の地であるところに馬船地名が無いということである。
 金属関連地にあるのは馬船ではなくて湯舟である。大江山の鉄滓が出土している北原遺跡の東方、内宮を中心として対照的な位置に湯舟山(368m)がある。
 また「猪鼻のこと」で金属関連地帯として紹介した和束町の和束川沿いにも湯船がある。
 このように湯舟(ゆふね)は金属地名として認知されており、ほとんどの説が「金属の溶けた様子を湯という」という根拠を上げている。これは当然のことで当を得ているのだが、湯舟となるとどうなるのだろう。鉄をはじめとした金属の溶けたものが溜まっているところが湯舟なのだろう。
 たたら製鉄の絵巻物として有名な隅屋鉄山絵巻で鉄の溶けたものが溜まっている様子を見ると、それは鉄池であったりユツボという名称で書かれている。つまり炉から取り出した溶融した鉄を溜めるところは湯舟ではないのだ。
 湯舟というとたたら製鉄の炉そのものを考えがちだが、文献で見る限り炉が湯舟とは書いてないのである。
 たたら製鉄で舟が出てくるのは、炉を作る際に湿気を嫌い、炉内を高温に保つために床という地下構造を作る、その床を作る際(床釣りという)に大舟、小舟という構造が出てくるのである。これは炉そのものではなく、湯を溜める構造のものではない。
 「青森県の地名」(松田弘州)では次のように書いている。
タタラ製鉄では、「炉床となる築造部分を大舟といい、この大舟の両脇にあって防湿保熱の役をする空気溝を小舟と称した」(和鋼風土記・山内登貴夫氏)から、タタラ炉は”ふね”でもあった。また、鰺ヶ沢の湯舟神社の御神体は”鉄塊”だそうである。従って、湯船地名の場合、タタラ製鉄をした所と推定できる。

 
誠にごもっともな話なのだが、何か腑に落ちない。湯が溶けた鉄を表すのでは無くて、砂鉄や鉱石を表すとしたらどうだろうか。確たる根拠が見つからないので辛いところなのだが、そうすると各地の金属関連地の湯地名の解明ができるというものだ。
 大江山の北側、古代製鉄地帯温江(あつえ)の南に湯の谷という谷がある。和束町には湯谷山(381m)がある。上林にも湯の付く谷がいくつかあり、温泉伝説も付随している。たたら候補地の浅原(あずら)には夕船(ゆふね)という小字もあImg_3226る。



浅原の谷、夕船は林地の小字だがこの谷のどこにあるのだろう。




  武吉町にも湯舟という所が有り、その山側が笹尾という林地である。Img_3341




今年の金比羅大祭は武吉町である。3年前の写真であるが湯舟はこの手前の所である。


 湯舟とは砂鉄や鉱石の溜まっている場所と考えてみたいのだ。湯舟について長々と書いたが、わたしの想像が当たっていたら、湯舟と馬船は同義語ということになる。つづく

 【晴徨雨読】98日目(2006.11.6)那須湯元温泉鹿の湯
 【作業日誌】古城山の薪拾い
 【今日のじょん】:キョート銀行
 
 
 

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YouTube: キョート銀行

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