2012.11.10(土)曇
菟原村史にある旧の京街道が如何なる根拠に基づいて書かれたのかと考えるが、どこの古文書だどこの古地図だということで無く、この土地のだれもが知っていることだったのではないだろうか。京街道といったって京に向かう道というだけのことで、現在の国道のようにどこからどこまでどこを通って何Kmというものでは無いだろう。
元の京街道が、増水時の迂回路として使われていたという文言は土木技術の進んでいない時代に如何に合理的にルートを作ったか、まさに道路の神髄として値打ちがあるのではないだろうか。
そんな先人の残した知恵の結晶とも言うべき街道を発掘してみたいという気持もあるし、別所が閉塞された地というイメージを払拭するという目的もある。
菟原村史にあるルートは、柏田ー猪ノ倉ー淵脇ー清水坂ー別所ー馬船口ー宿である。清水坂を除いて総ての地点が確認できているが、その詳細なルートは模糊としている。少しずつ聞き取りなどしながら確認しているところだが、現在予想しているルートを紹介してみよう。
(1)柏田~猪ノ倉
柏田には有名な道分け地蔵がある、「右さ々山道 左り京」と書かれており、明らかに柳瀬で土師川を渡る新京街道ができた後の道標だろう。
もちろん猪ノ倉に行くには右に道をとる。三和タオルの工場の前で府道710号線と右の谷沿いの道との三叉路となるのだが、自転車で走っているとどうしても右に行ってしまう。それは府道が田園地帯の真ん中を一直線に走っている新しい道で、なんとなく古い道の雰囲気が無いからだ。山裾の道を街道跡の遺跡など無いか注意して進むがそれらしいものは無い。この土師川の支流は上部に牛谷と書かれているが、何という谷なのだろう。いくつもこの谷を渡る道があり、防獣柵の無いところを渡る。山裾から田圃に出ると府道が近づいてくる。このあたりが猪ノ倉らしい。かつての屯倉とも伝えられているがどうだろうか。
山沿いの道は雰囲気はよいが合理性を考えれば府道710号線沿いが短距離で理想的だ。ただし、新しい広い道となっているので昔の様子を探ることは出来ない。このあたりは民家も少なく、古地図でも無い限り結論は出せない。
山沿いの道と府道、どちらが古道か?
(2)猪ノ倉~淵脇
猪ノ倉から最初の左下に下る道に古い地蔵さまが祀ってある。街道沿いにあったものを集めて祀ってあるとしたらこの道が街道かもしれない。この道は先程の山沿いの道から府道を横断して道なりに進入するもので、道なりに進んで行くと鹿倉大橋に出る。この大橋は新しいもので、橋の手前を右に急坂を下ると岼ヶ鼻川を渡り、土師川にぶつかる。
左:土師川を渡る小久保橋、古道は土師川を渡れなくて右手の尾根を行く。
中:尾根に取り付くのは岼ヶ鼻川を少し遡って取り付くのか。
右:はたまた尾根の末端から取り付くのか。
ここから淵脇に到る土師川左岸の尾根を登るのだが、取り付きが解らない。岼ヶ鼻川の右岸に道らしきものが見え、手前の家で聞くと高杉に行く道だといわれた。この谷沿いに遡っても高杉には行けず、桑原(篠山市)方面である。そうするとその途中から尾根に取り付き、淵脇から別所、馬船を通って高杉に行くと言うことかもしれない。
土師川沿いは崖になっており通行は難しそうで、やはり尾根の上を行くのだろうが、尾根の末端から行くのが最も容易いと思われる。
尾根末端は木が生え込んでおり、獣道らしき空間が続いている。ここの部分は両方歩いてみないと解らないが、淵脇の細見さんが知っておられるかも知れないので再度聞いてみたい。つづく
この尾根の中を通り淵脇に着く。
【晴徨雨読】102日目(2006.11.10)水戸~石岡
早朝、偕楽園など見て歩くが庭や建物にはあまり興味が沸かない。150mはあろうかという南崖の洞窟(神崎岩という石の砕石址)など変なものに興味が沸く。
道中旧知の新田穂高君がこの辺で田舎暮らし始めたというのを思いだし、電話して訪ねることにした。いやあ、凄い家で驚いた。
【作業日誌 11/10】
薪保管箱作製、制作費無料
【今日のじょん】:深夜にガタンという音がして、じょんがえらく吠えた。起きて様子を見るが何も無い、じょんも静かになったので再度寝てしまった。そして朝、じょん桜を見てびっくり、鹿がやってきたのだ。今までつる草や龍のひげなどは食べられたが、樹木は初めてで、ショックを隠せない。