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晴徨雨読

晴れた日は自転車で彷徨い、雨の日は本を読む。こんな旅をしたときに始めたブログです。

地震三題 3/15

2011-03-16 | 日記・エッセイ・コラム

2011.3.15(火)曇、雨

 地震列島
 深夜に静岡で地震が起こった。東海東南海南海地震が高い確率で予想されているだけに恐怖を感じる。映画日本沈没を見た世代にとっては、ああいうことが現実になるのではという根拠のない恐怖がなきにしもあらずということだ。防災といっても噴火や地震は止められない。対策すべきは災害後の生活なんだろうが、今回の東北の災害で西日本でも物不足が起こってきているという。乾電池や乾麺などを被災地に送ってあげるためなどと報道されているが、輸送が中断している現在それは理由にならないのではないか。もし自らが備えたいのなら、阪神淡路大震災後に買いそろえた防災グッズを物置から引っ張りだしてきたらどうだ。当時どこの家庭にも玄関先にリュックサックに入った非常用食料や衣料、乾電池、ラジオなど災害時グッズが置いてあった。それも2,3年ですっかり姿を消して、物置だかゴミ捨て場だかに行ってしまった。ニュースではトイレットペーパーまで品薄になっているという。オイルショックを思い出しぞっとするが、この日本人の付和雷同性格は何とかならないものか。

 天罰発言
 石原都知事の天罰発言には驚いた。真意は東北の被災者に向けられたものではないだろうが、言ってはならない発言である。謝罪、撤回されたそうだが、それで良しとするわけにはいかない発言だろう。ましてや、出馬しないと言っていた都知事選に再度出ようという矢先である。こんな人物を都知事に選んだら、それこそ東京都には天罰が下りそうだ。

 綾部は大丈夫
 綾部には「大本さんが地震の起こらない地を選んだので、ここは地震の心配はない」という言い伝えがあるそうだ。まさかと思うのだが、複数の人がそういっているのでやはりそういう言い伝えが存在している。確かに丹波は比較的安定した地盤の上にあるのかも知れない。しかし上林断層をはじめ地震の起きる可能性は充分にあり、綾部は大丈夫なんてことは絶対に言えない。
 大本に関する「大地の母」全12巻を読んだが、開祖なおが福知山から綾部に嫁いだ際も王仁三郎氏が綾部に来た際にも地震が来ない土地を選んだなんて話は出てこない。この迷信のでどころは判らないが、本当に信じて備えをしなかったらとんでもないことになってしまう可能性がある。なんとも罪作りな迷信ではある。Img_3885

大本みろく殿



【作業日誌 3/15】
木樵
椎茸植菌(9本、250コマ)Img_2507

今日の収穫


 今日のじょん:ユキちゃんが遊びに来た。メーパパがささみのジャーキーを作ってくれたのだが、初めてのものをすんなり食べたのは珍しい。Img_2508

 

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報道と通信 3/14

2011-03-15 | 日記・エッセイ・コラム

2011.3.14(月)曇、雨

 朝目が覚めるとこの大惨事が夢であったのではないかという想いがする。テレビをつけてやっぱり現実なんだと思い知る。水栓をひねれば温水が出る、温かいコーヒーやふっくらと焼けたパンで朝食をとることが、被災者の方に申し訳なく思われる。
 阪神淡路の震災の時に報道のあり方が問題になったことがある。家屋に挟まれて脱出できない被災者を火災の炎が襲ってくる、これをカメラをまわして報道し続けていたことだ。「そんなことしていないでお前が助けに行けよ」という声が多く問題になった。もちろん記者にもカメラマンにもそのようなことは不可能だったのだろうが、報道すべきでは無い場面なんだろう。
 今回の災害の報道でもちょっと気になることがあった。某被災地域の病院を取材しているのだが、そこは多くの患者をかかえているにもかかわらず、ライフラインは切断され、通信も出来ず、医薬品が底をつき始めていることを伝えていた。特に人工透析用の消耗品など在庫が後2日分ということで、模造紙にそれら必要なものを書いて報道して貰い、映像を見た関係者に伝えようという内容だった。電話もファックスもつながらない状態で藁をもつかむ想いでなされたことだと思うが、少し変な気がする。どこにも誰にも連絡できない状態というが、その報道陣はどうやってそこにたどり着いたのだろう。カメラを担いで歩いてたどり着いたのなら納得できるが、おそらく車、あるいはヘリコプターかなんかで行ったのだろう。もしそうだとしたら、カメラを回してる間に医薬品を調達することが出来るのではないかと勘ぐってしまうのである。「いえ、私の仕事は報道ですから」なーんてことならば、前述の報道陣と同じようなものだ。
 もう一つは、通信のことだ。これも阪神淡路の災害の後のことだが、防災や災害発生後のサバイバルな生活の仕方がクローズアップされた時期があった。クイズで、「災害時に最もつながりやすい電話は、固定電話、携帯電話、公衆電話?」というのがあった。当時のことを知っておられる方はすぐに分かると思うが、公衆電話が正解である。公衆電話に長蛇の列が出来ていたのを憶えている。しかし16年前と今日では個人の通信というものは大きく変わっている。私も16年前は携帯電話は持ってなかった様に思うが、まだ今日のようには普及していなかっただろう。Img_2479

お金が無くて、今も私のケータイはただのカメラになっている。


 阪神淡路の震災時に携帯電話が全然通じなかったようだが、今回も携帯電話は役立たなかったようだ。もちろん固定電話も駄目なようで、かつて大活躍した公衆電話はつながるつながらない以前にそれ自体が姿を消してしまった。ということは16年たって、災害時の通信は大きく後退したということだ。特にだれもが持つようになった携帯電話がもの凄い進化をして、わけの解らん機能がいっぱい付いたにもかかわらず、ここ一番の肝心な機能が無くて、災害時に使えないという情けない状態になっている。私は技術的なことは分からないが、これだけ日進月歩で技術が進み、携帯電話会社も大儲けしているわけだから、災害時でもつながる電話を開発することは可能だったのではと思う。だとすると携帯電話会社の怠慢としか思えない。

【作業日誌 3/14】
ガーデン復旧
薪割り

今日のじょん:「原発の議論、愛犬反省し」かみさんが時事川柳に投稿すると言っている。「身内の者しか解らないから止めとき」と言ってるいるんだが、、、。Img_2499 ソンナノカンケイネエ。


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地震 3/13

2011-03-14 | 日記・エッセイ・コラム

2011.3.13(日)晴

 春らしい日となったが、地震や津波の情報がつぶさになるにつれてその怖ろしさが身に浸みてくる。昨日書いた防波堤というのは防潮堤というそうだ。さっそく記事を訂正したが、高さは10mあるそうだ。その下に行ったときはまるでビルを見上げるような感じだった。映像で見るとその防潮堤をはるかに超えて津波が浸入しているのだ。水際から20mのところでも津波が襲っている。リアス式海岸というのがいかに津波の被害を増幅するものかということがわかる。この防潮堤の高さは過去の津波を参考にして設計されたものだそうだが、いかに今回の津波が想定以上だったかということが理解できる。
 今日お客さまで昭和南海地震(1946年12月、和歌山県潮岬沖震源、M8.0)を高知県で体験された方がおられた。5才の時の体験だそうだが、鮮明に記憶されており、道路が盛り上がる様子や家屋が揺れながら倒壊する様子が脳裏に焼き付いているようだ。発生が午前4時19分ということだから、目を覚まして、天井板が吹っ飛んで梁が揺れている様子が見えたそうだ。お兄さんの背に背負われて山に向かって逃げたそうだが、途中で力尽きて逃げられなくなったのだが、幸いその集落には津波が襲ってこなかったということだ。周囲は津波の被害を受けているので不幸中の幸いであったということだが、ここで少し考えさせられることがある。
 1946年12月といえば終戦の翌年である。地震は体感できるので分かるだろうが、現在のように津波警報とか避難命令とかは無い時代ではないだろうか。にもかかわらず幼い子を背負って逃げたということは、地震=津波=避難という条件反射的な行動が大人から子供まで総てに備わっていたのだろう。それは情報が無いからこそ余計に鋭敏に反応し、厳格に行動したのではないだろうか。だから小さな地震でもすぐに高所に避難するということが子供でもできたのだろう。
 今日では地震や気象の情報はあふれ、注意報警報、避難勧告、避難命令などしっかり出てくるので、逆にそういうものに頼ってしまいがちである。TVの報道の中で、「サイレンも放送も無かった」と言っておられた方がおられた。本当のところがどうであったかは不明だが、サイレンや放送が無くても地震は感じているのだから、すぐに避難すべきであって、津波避難模範地域の三陸の方々にそのような訓練が行き届いていたのだろうかと考えさせられるのである。
 報道される映像は、高台などに避難している方々の提供されたものだと思うが、波に追われて逃げる人びととの差は、単に安全地帯までの距離だけなのだろうか。考えさせられる事象である。Img_1143 Img_1151 Img_1178 Img_1181 Img_1215 Img_1225 Img_1232
 



2006年10月、自転車旅行中の八戸から宮古までの海岸、普段はこんなに美しい海岸なんだけど。

【作業日誌 3/13】
ガーデンシェッド、ソーラー換気扇取り付けImg_2504





 今日のじょん:京都からモモ姉ーさんが来た。「田舎もんは嫌いよ」ってんで相手にされなかった。それでもめげないのがじょんのよいところ。Img_2502

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津波 3/12

2011-03-14 | 日記・エッセイ・コラム

2011.3.12(土)晴

 東日本巨大地震の規模の大きさ、被害の甚大さが明らかになってきた。2006年の10月、自転車旅行では八戸から久慈、宮古、大槌など太平洋岸を南下し、その後遠野や花巻など内陸部に入るが、やがて仙台、名取など海岸部へ出てくることとなった。今回の地震、津波の映像を見ると通ったであろう街並みが見るも無惨な姿となっており、悲痛な気持になってくるのだ。
 三陸の海沿いの町にはとてつもない大きな防潮堤があり、過去の大きな津波の水線や到達点の表示がある。この大きな防潮堤をも乗り越えて津波は侵入している。過去の被害による想定以上のものが起こったということだろう。Img_1218
 旅行から帰ってから小さな地震があり、三陸地方に津波による避難勧告だか命令だか出たことが数回あった。その時にニュースで避難の指示をしてもほとんど避難されることが無いとうったえており、避難所にぽつりと人が居るだけの映像が映っていた。確かにその際の津波の高さは数センチというもので、いわゆる狼少年状態とでもいう現象が起きていたようだ。今回の惨事についても、生死の明暗を分ける要因としてそのようなことがあったのではないだろうか。
 ラジオを聞いているとリスナーの意見が述べられており、「被災者の方はとんでもなく悲惨な目にあっておられるのに私は普通に暮らしている。申し訳ない気がして何かしてあげられないかと思うのだが一体何をすれば良いのでしょうか」というような意見が多く寄せられていた。これは皆の共通の想いだと思う。アナウンサーが、「あなたの出来る今最善の行動は、募金をすることです」と答えていたが、これは一見当を得ているようで、実は不用意な発言ではなかろうか。いまのところ表だってはいないが、必ず募金をかたる振り込め詐欺は出てくるだろう。信頼できる募金収集先の団体をある程度絞って政府が広報すべきではないだろうか。人の不幸につけ込んで不正をはたらく火事場泥棒のような輩は必ず居るものだ。

【作業日誌 3/12】
ガーデンシェッドセンサライト取り付け、塗装

今日のじょん:散歩の時、山の方へ行くように訴える目をすることがある。そういうときは素直に連れて行くのだが、その辺りを臭ぎたおしている。きっと何か動物が来ているんだろうけど、毎日来てると思うんだけどなあ。Img_2498

 

くんくんくん、アヤピー。 

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大島 3/11

2011-03-13 | 歴史・民俗

2011.3.11(金)雪

  東北の大地震の報が入ってきた。当初は「ああまた地震か」などと気安く考えているが、どうも今回は違うみたいだ。2006年青森県八戸から茨城県水戸まで太平洋側を南下した、被害は丁度この地域に当たる。阪神淡路の大地震が思い起こされ陰鬱な気持ちになる。人間の幸せ、人間の生活というものが如何に薄氷の上で営まれているかと思わざるを得ない。原発の事故が懸念されている、これもチェルノブイリの事故が思い起こされて怖ろしい。
 さて若狭大島半島には大飯原発がある、我が家から直線で30km弱というところだろうか。臨界事故などあった場合には確実に被害範囲に入るわけだが、もっと近くに高浜原発もあり、上林断層とあいまって今回の地震が他人事とは思えない。
 沖縄の奥武島(おうじま)に始まり、青島、蒼島、粟島なども同じ意味を持つ島であることを書いてきた。では大島はどうだろうか。私は大島も同類の島だと考えている。青島を探るために日本海側の地図を繰ってきたのだが、青島同様陸地からすぐのところの決して大きくない大島がいくつか見られる。但馬海岸、江津市、萩市、長門市の海岸線に大島がある。Img_4210

萩市の笠山(日本で一番小さな火山)からたまたま撮った写真、右端の島が大島である。


 瀬戸内海の大島はなるほど大島だが、日本海の大島は決して大きくない。それらが総て海辺の島であっていわゆる青島地形だが、海人族に関係がありはたまたかつての葬地であるかどうかは調べてみないと解らない。ただ長門市の大島は青海島の隣にあり、海人族に関係ありそうだ。また、おおい町の大島は海人族の地であろう。杜の文化が残っており、産屋の習俗もあったようだ。青戸入江は青への門、青への入口と解釈できる。私は戸は渡の意味も有力ではないかと考えている。
 なお、大島は現在は島ではなく大島半島だが、天長二年(825年)までは完全に島であった記録があるそうだ。(「日本の地名」)大島の東にある小さな蒼島もかつては青島と呼ばれていたそうだ。「福井県大飯郡大島村民俗誌」(安間清著)の地図にも青島と書かれている。若狭には二つの青島があると見て良いのではないか。
奥武島=青島=粟島=蒼島=大島と追ってきたが、山間部にある大野、大原、大島などは不思議な存在である。決して大きくないのに大原だったり、大野だったり、内陸なのに大島だったりする。これはまた次回に考察してみよう。

今日のじょん:今年は雪が多かったが風は今のところ例年より弱いようだ。といっても春の上林の風は半端じゃないので、風の日はおかーやおとーの居場所でぬくぬくと過ごしている。甘やかしてるというより医療費節約の意味が強い。Img_2481

 
 
 

 

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青地名 3/10

2011-03-12 | 歴史・民俗

2011.3.10(木)雪、曇

 朝起きるとまたしても雪景色で、慣れっこになったとはいえそのしつこさに呆れかえる。上林の春は遠い。Img_2485

 もう最後にして欲しい雪景色。


 沖縄の奥武島に始まり青島、蒼島或いは粟島などが同じような位置、意味を示すことが解った。綾部市にある青野が内陸ではあるけれど、居住地から離れた水辺にあることも同類のいわゆる青地名のところといえるだろう。Img_2496

グランドの向こうが青野、手前は由良川。現在は新しい住宅が建ち並んでいるが、古代には人里離れた川沿いの湿地帯であっただろう。

 青といえば鳥取の青谷(あおや)は自転車旅行中に訪れた。青谷上寺地遺跡は山陰における巨大な弥生遺跡で土製品、木製品、鉄製品、人骨など豊富な出土品が出ている。遺跡は海岸線から1Km程山手に入るが、縄文海進、弥生海進などから見ると海岸線近くにあったのではないかと思われる。青(アオ)は海辺を表し、谷(ヤ)は谷地(ヤチ)即ち低湿帯を表す地名と見ていいのだろう。なお、ここを流れる川は日置川といい気になるところである。また鉄製品の原料は輸入品である旨も書いてあった、山陰地方の朝鮮半島に対する窓口であった可能性がある。Img_5677
 
青谷上寺地遺跡の展示館(2007.5.16)


 まだ訪ねたことは無いが、若狭の青は青地名の最たるものだろう。高浜町にあり、JR小浜線の青鄕駅があるように、古代の青鄕である。この地も海岸から1Kmほど入ったところだが、古代には海岸線であっただろう。「日本の地名」(谷川健一著)に青鄕から平城京へ鯛スシや鰯と貽貝(いかい)の贄物(にえもの)が送られているという木簡が発見されているとある。また青鄕の北西には青葉山があり、ここには玖珂耳の御笠の伝説がある。もっと気になる地名は大島半島の入り江が青戸入江(あおとのいりえ)と呼ばれていること、
垜山(あずちやま)という山があり、死人が巓(しぶとがづく)というところがある。昔掠奪があり、その戦死者を葬ったという伝説があるそうだ。島の北西側は居住が無く断崖となっており、どこか地形的に似ていると思ったら、沖縄の伊平屋島であった。伊平屋島も北西側は居住が無く、海岸からそそり立つ山の中腹に洞窟が沢山あり、かつては風葬の葬地であったということだ。伊平屋村にも青地名が無いものか地図を繰ってみたら、島の南に阿波岳という山があった。これも青の同種かも知れない。Img_2596
 
手前の黒い影が阿波岳(野甫島から、2007,2,21)


 高浜町の青で気になるのは、鳥取の青谷同様に日置川があることだ。そして日置川と関屋川の合流するところにある青海神社から青が海人族の地であることを谷川氏は説いている。私はこの青の文化が日置峠あるいは胡麻峠を経て上林の大唐内にもたらされたのだろうと考えている。

今日のじょん:もうこれが最後と何度となく思った雪景色、”犬は喜び庭駆け回る”というのを地でいっている。芝生広場の白樫の周りを5,6周全速力で廻る姿は最高。Img_2491

あーしんど、ゼイゼイゼイとやってるところ。 

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青島 3/9

2011-03-10 | 歴史・民俗

2011.3.9(水)曇

 奥武島(おう)が葬送の島であるとすると、青島、蒼島も同様に考えられる。もちろん総てがそうではないだろうし、それという証拠も遺跡も残っていることは少ないだろう。ただ、青島という島は共通して陸地からそう離れた場所でないところにあるようだ。有名な宮崎の青島もそういう地形だが、伊豆諸島の青ヶ島は八丈島の南で本州からは2,3百キロ離れている。
 私の自転車旅行中では鳥取の空港の南にある湖山池という湖の南岸にぽっかり浮いている青島がある。東岸にある布勢天神山城跡を訪れたのだが、青島については意識も無かった。湖とはいえ湖岸から少し離れたところにあり、青島らしい地形といえる。「日本の地名」(谷川健一著)にはこの島がかつての水葬の島であったらしいというようなことを書いている。Img_5697
 
布勢天神山城跡の案内板。


 私が訪れたことのある青島は宮崎の青島と鳥取の青島ぐらいだが、若狭湾周辺にも青島がいくつかあるようだ。ひとつは伊根にある青島で、伊根の集落に囲まれる感じで浮いている。この島についても古老の話として、海難で溺死した者や幼児の死亡者をこの島に葬ったということが「日本の地名」に書いている。
もう一つの青島は小浜湾にあるもので、蒼島と表記する。この島はナタオレノキの北限とか、暖地性の植物群落で有名だが歴史については不明である。陸地から1Km程のところにあり、やはり青島らしい位置関係である。
 アヲの地名語源は水辺、海辺を示すというのが「古代地名語源辞典」にあるそうだ。そういう意味では青島が陸地のすぐそばにあることがわかる。しかし青が葬送の地であるという意味は解らない。
 「西丹波秘境の旅」(澤潔著)に綾部の青野について、この地が葬地であること、青は「アオ」「オウ」で「うたかた」のアワ(泡)に通じ湿地、海辺、水辺の意があるという風に書いている。泡がはかないものだから、青が葬地とまでは言えないかもしれないが、青地名が葬地である場合は確かに多いようだ。

【作業日誌 3/9】
薪割り

今日のじょん:今日はじょんの病気記念である。昨年の今頃は何日も食べないで、下痢を繰り返し大変だった。舞鶴のキャドックさんで点滴をして貰ったのが今日である。それでもよくならず病院通いをすることになる。嫌いな風のストレスが一つの原因かなと、風の日は部屋に出られるようにしている。お客さんにも目に付くようで、まあいいかという感じだ。Img_2480

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年金問題 3/8

2011-03-08 | 日記・エッセイ・コラム

2011.3.8(火)曇

 私もいよいよ年金を戴く歳を迎えた。先日から厚生年金、共済年金の受給手続きについて案内が来ている。ご丁寧で親切なことなんだが、誕生日はまだまだ先なので実感は湧かない。「失念のないように」と書いていただいている。誰が失念するかい。誕生日が来ないと手続きできないんだから、それから通知いただければ良いのではないか。
 それにしても昨今またしても年金問題が浮上している。3号被保険者の払い込みの失念を2年間の払い込みで何年分でも免除になろうという誰が考えても不合理な救済制度の問題である。従前問題になっていたものとは本質的に違うものだ。
どう決着がつくのかわからないけれど、今回この機会に根本的な問題にメスを入れるべきじゃないかと思う。それは払い込みがなんらかの理由で出来なかった人について、2年が限度なんていうことなく、無制限に不足する分だけ払えるようにすることだ。そうすれば今回の問題は一挙に円満解決となるし、だれもが納得することとなるだろう。
 もう一つは年金受給の要件となる年数の問題だ。25年というどこから来たか解らない年数にだれもが矛盾を感じるだろう。20数年払い続けて25年に満たなくて受給されない人の無念というかやるせなさは推して知るべしであろう。例え1年でもいい、1/40の年金を支払うべきだろう。
 そして今、年金教育というのか、年金に対する知識や理解を促す授業の時間が減っているということだ。もともとそんな授業があったのか、年金って歳いっていざ貰うようになってから初めて気づくような状態じゃないのか。私自身学生時代はもとより、働いている間も年金に対する知識も興味もなかった。18ヶ月働いた会社での厚生年金手帳についても見たこともなく、意識もなかったのだ。基礎年金番号が出来たときに初めてそのことに気づき、調べて貰って私の経歴に足して貰ったのである。無関心のままでいたら宙に浮いていたことだろう。おかげさまで厚生年金18ヶ月分の報酬比例部分を今年から貰うことになる。こういう事って、学校でも会社でもしっかり教えるべきじゃないかな。特に年金制度の基本的な理念や知識は教えないと、若い世代では無知であるか、誤解をしている現状なのだろう。

【作業日誌 3/8】
木樵Img_2477

とりあえず持ち帰ったクヌギ。


今日のじょん:鹿事件が起きた昨晩、何か起きてるでと訴えてるじょんの写真。朝の散歩時も鹿の遺体が転がっていないかと現場周辺を見回ってみる。幸か不幸かそれらしいものは見あたらなかった。Img_2476


衝突現場の川側、ガサガサ音がしていたので薮の中に居るかもと思ったのだが、、、、。

 

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マーフィーの節約術 3/7

2011-03-08 | 日記・エッセイ・コラム

2011.3.7(月)曇

 従来の年金生活者と違ってこれからの年金生活者は厳しい老後を送ることとなる。仕事柄ファイナンシャルプランを手がけていたが、退職後夫婦二人が生活するには27万円、豊かな老後を送るためには30数万円なーんて勝手な数字を並べていたが、そんな額の年金を受け取る人はそういないと思う。団塊の世代の夫婦二人の年金額はおそらく合わせて20万円ぐらいが平均となるのだろう。しかも年金先送り世代でもあるので、65才までは10万円~15万円が収入となるのだろう。現役時代の1/3、1/2の生活費となる。これをどうするかはその人次第の考え方なんだが、やはりなんらかの形で仕事を続けるというのが一番無難だろう。しかし体よく仕事が見つかるとは言えないし、見つかったところで現役時代の収入は望めない。
 私のように55才から無収入となってしまうと、如何に現役時代に消費というものに浸かっていたかがわかる。しょーもないものに湯水のようにお金を使っていたのだ。これらを総てそぎ落とすことが、老後の第一歩である。節約倹約をストレスとしないで楽しむことが第一である。ストレスとなる節約倹約ならしない方が良い。
 節約倹約の基本は食費、光熱水道費である。良いものを安く購入する、無駄な光熱水料をそぎ落とすことが肝要であるが、田舎の生活はここのところの余地が大きい。都市生活では節約量がある程度決まってくるが田舎は工夫次第で大きく節約できる。それは食料の自給が可能なことと光熱水料の自給化は不可能ではないことだ。ただしそれは厳密な原価計算が必要である。自給したからといって経費が余計にかかっていたら何の意味もない。少なくとも電機メーカーが勧めている太陽光発電などは自己満足以外の何でもない。
 てなわけで、今回の私の節約倹約は携帯電話を止めること、宝くじを買わないこと、がん保険の余計な特約を解約することである。これだけで年間5,6万は節約できるだろう。年に4,5回の通話である携帯電話を解約し、宝くじ売り場には行かないことにする。保険会社も解約用紙を請求し、準備は整った。Img_2479

ただのカメラとなった携帯電話。


 ここでマーフィーな事件が起こる。待ち合わせをしていて、相手が少し遅れる事となったらしい。携帯電話に連絡すれば済むことだが、既に解約している。家に電話したり大変だったらしい。いままであれほど使わなかった電話が、解約した途端必要となるのだ。でもこれはままあることだから許してあげよう。いつも買っていたナンバーズ4の番号が来たのだ。ネットで過去の当たり番号を確認し、2年間来ていないことを確認し、納得して購入を止めた途端に当たったのだ。セットのボックスなので22,000円程度の少額だが、今まで一度も当たったことがないのが、止めた途端にきたもんだから頭に来る。
 それでもトータルで考えれば止めた方が節約になるだろうと慰めている。そしてがん保険は据え置くことにした。これがマーフィーになると大変だから、、、。

【作業日誌 3/7】
ガーデンシェッド壁板仕上げ
薪割り

今日のじょん:午後10時前、急にじょんが吠える。いつもより迫力あるので外を見に行く。道路を懐中電灯持った人が歩いている。そしてその先に映ったものは、、。
何か動物が暴れている、どーも鹿に当たったみたいだ。寒いので見に行く気もしない。明日になればわかるさ。Img_2475なーじょん。


ここが衝突現場、昨年の鹿事件と同じ場所。

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奥武島 3/6

2011-03-06 | 歴史・民俗

2011.3.6(日)曇

 女子プロゴルフの開幕戦ダイキンオーキッドレディスが琉球GCで行われている。藍ちゃんが予選落ちとか、いまいち盛り上がっていないが、2007年私はこの開幕戦第一戦をギャラリーとして観戦した。プロのゴルフを後にも先にも目にしたのはこの一戦だけである。初戦だけにスターが勢揃いして迫力満点だが、TVと違ってプレー全体をみることができず、なにかよく解らないままに一日が終わった様に思う。Img_2935
この大会では米山みどりが優勝した。

 宿泊は琉球GCを南に海まで下ったところにある、奥武島(おうじま)の民宿であった。奥武島は南城市玉城という住所になるが、橋で繋がった周囲1,5Km程度の島である。この島に2日間逗留したわけだが、特段なんて事のない島で、ただ食べ物だけは安くて美味かった。みなと屋という天ぷら屋さんが観光客に有名で、行列が出来ていた。旅行を終えて数年後、谷川健一著「日本の地名」にこの島の名を見つけてびっくりする。この島が葬送の地であるという内容である。奥武(おう)という地名は沖縄には多くあり、名護市の屋我地島に渡る手前に奥武島というのがある。ここも葬送の地であるということだ。沖縄の民俗学者仲松弥秀氏の説によると奥武(おう)は青に繋がり、アフ、アウ、アホと表記され、漢字では阿鳥、阿符などと書かれる場合があるそうだが、やはり青が最も多いということである。Img_2941
 
奥武島には多くの拝所(ウガンジュ)がある。これはその一つ観音堂だが、お寺でも神社でも無いようだ。


 沖縄で葬送の島といわれても、海岸であれ洞窟であれそこいら中が葬送の地なのだから、いまさら特別な葬送の島とはどのようなものか疑問に思うのだが、「日本の地名」ではそこまで詳しくは書いてなかった。
 沖縄の奥武島は前記の他に久米島、慶良間島などにもあるが、共通して言えることは大きな島の隣に付属してあるような小さな島である。平常の生活の地から少し離れて、しかもその間に海があるということは葬地として絶好の地であろう。
 奥武島を去る日、島で葬儀があった。仏教でない葬儀とは一体どのようなものかのぞいてみたい気持はあったのだけれど、自転車旅行中で凄い派手な恰好をしていたし、見知らぬ者がカメラを持ってうろうろするのはどうかと思い見ることはなかった。僧侶でも神主でも神父でもない誰かが取り仕切るだろう沖縄の葬儀とはどのようなものだろう。
 ゴルフのシーズンが始まるといつもこの島を思い出す。

【作業日誌 3/6】
ガーデンシェッド、樋つくり

今日のじょん:ぽんぽこぽん上級編の訓練が続いている。とにかく複雑なところにボールを投げて、探しだし、取り出す訓練だ。過去には絶対に取ることが出来なかったところのボールも時間はかかるが取ってこれるようになってきた。凄い進歩だ。Img_2466 Img_2467

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雨読 葬制の起源 3/5

2011-03-06 | 雨読

2011.3.5(土)晴

 「葬制の起源」大林太良著、角川新書、昭和40年9月初版、定価240円、購入価348円
 両墓制について考察してきたのだが、どうもはっきりしない。この際葬制について根本的に知りたいと選んだのがこの書である。40年以上前の発行で最新の学説とは乖離があるだろうけど、葬制に関する原典の様な気がして購入したものである。
 残念ながら両墓制に関する認識あるいは葬制全体に関する認識がこの書によって明解になったとは言えない。はっきり言って一体何が何だか解らないという状態だ。それは私の読解力の問題でもあろうが、葬制という人類の習俗が単にその民族特有の所作というだけでなく、人間の人間たる哲学的、宗教的な行動に基づいて行われているという複雑な事情が不可解な原因だろう。Img_2472
 世界には様々な葬制がある。その表面的な形態を追っても時間経過の分類、地域的な分類も困難である。日本にだってそうである。例えば両墓制をみても、本書では改葬の発展形という風に書かれているようだが、それは太平洋岸の改葬分布をみれば、沖縄の洗骨習俗などがその根本になっていると判断しても良いようだが、近畿北部の両墓制の分布を見る限りそのような結論は出てこないのではないだろうか。
 葬制の基本には他界観という哲学的宗教的観点がある。「あの世は存在する」という他界観が葬制の基本だろうと思う。例えばあの世なんて存在しないという考えの人は葬式も墓地も意味をなさないだろう。
 そしてもう一つは死穢の問題である。人が死して肉体が腐敗する。そこが死穢の発生源である。そして白骨となったときにそれは消えて逆に崇拝すべきものと変わる。これは一体何だろう。
 とまあ哲学的宗教的な課題となるので、葬制に対する考えは少しもまとまらない。
 この書が哲学的宗教的といっているわけではない。むしろその逆で、世界中の葬制に対する各論を網羅し、科学的にその根拠を突きとめようという真面目な本である。ただ私自身がこの書を読んで、「ああそういうことだったのか」という結論を導き出せないということである。

【作業日誌 3/5】
ガーデンシェッド、内装、化粧板、樋つくり。Img_2471

写真ではわかりにくいかもしれないが、屋根に雪があるとしずくがたれて、そのへんびしょびしょになるのだ。



今日のじょん:ユキちゃんがきた。いつもどおり大喜びで、仲良く遊んでいる。一緒につないでおくと、見ていないところでは両方ともシラッとして、寝そべっている。人が行くと仲良くじゃれ合っている。これってどーよ。Img_2468  

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大唐内のこと(41) 鬼伝説 3/4

2011-03-04 | 歴史・民俗

2011.3.4(金)雪

 や神さまと善右衛門氏のお墓を見てみたいと思っていたのだが、相変わらず雪が降り続いて延期とした。文ばかりでなく写真も見て欲しいと思ってのことだが次の機会にお見せしたい。
 さて、インターネットのサイトで見つけた「や族」に関するものだが、「や族」とは高句麗人のひとつの部族で熊族と呼ばれるものだということだ。高句麗人にはイェ族(虎族)とヤ族があり、イェ族が先に日本に渡来し、後から渡来したヤ族は鉄の技術が旺盛で、先住の自国民族と領土争いをするということだ。力関係は歴然としており、ヤ族のバックには国家権力が後押しをしており、最大のフィクサーは藤原不比等だというのだ。新生ヤ族、熊族は朝廷の名の下に新しい国家を作り上げ、各地の山奥に潜む先住イェ族、虎族を鬼だ妖怪だとして討伐するのである。
 とまあこんな感じで述べられているのだが、朝鮮半島の歴史に疎い私にはこれが史実であるのか嘘ごとなのか判断つきかねる。半島の歴史に詳しい方なら一笑に付すところかもしれない。日本の古代を探るとき、大陸、半島の歴史は必須科目である。これが私は苦手なのだ、高校の時日本史は100点満点だったが、世界史は20点ほどだった。同じ歴史なのにどうしたことだろう。半島の歴史を勉強すべく「日本古代史と朝鮮」という本を手始めに買ったが、半年たっても読み始めていない。Img_2461
 「ヤ族」の裏をとるためには是非とも朝鮮の歴史を学ばねばならない。そのためには少し時間を頂きたいが、もしこの「ヤ族」のことがある程度真実であって、有安、多分草壁の一部なんだろうが、に移り住んだ部民が「ヤ族」あるいはその子孫、あるいは所縁の者であったとしたら、大唐内の古代、大蜘蛛退治伝説、有安との関連は一挙に解決することとなる。こりゃあ大発見と興奮しているところだが、果たして「ヤ族」なんてのが居たのか、この地に移住する可能性があるのか、「や神さま」は「ヤ族」なのかなど絶対に証明しきれないものを探究していくのは気が遠くなりそうだ。
つづく (大唐内のこと(40)は2011.3.3)

【作業日誌 3/4】
ガーデンシェッド、換気扇、センサーライト配線

今日のじょん:犬の気持がわかる本なんてのがよく本屋さんに並んでいる。TVでは犬と話せる女性なんて怪しげなのも出てきている。そういえば犬語翻訳機なんてふざけた商品が有名な玩具会社から出たりしたがどうなってるんだろう。本の方は真面目な内容でかみさんが好んで読んでいる。何冊読んでもじょんに当てはまらないことがあるという。犬だって人間同様千差万別の性格があり、一概には言えないのだろう。Img_2459  

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大唐内のこと(40) 3/3

2011-03-03 | 歴史・民俗

2011.3.3(木)雪

 ひな祭りに雪が降った、別に珍しいことでもないのだが春の景色が一気に冬景色に戻るのは見事なものだ。積雪4cmってところか。Img_2452
 京都下鴨神社では恒例の流し雛が行われ、ニュースなどで放映されている。ところで雛の乗っているあの舟は桟俵(さんだわら)といわれる。米俵や炭俵の底と蓋に当たる部分で藁などで編んで作られるが、流し雛や精霊流しに使われている。これは桟俵があの世とこの世を繋ぐものとされているためらしい。いずれこのことについては発表しようと考えているが、それが小唐内の奥にある丸山、飯森山の別名サントラ山のいわれに関係するのではないかと調べているところだ。なお、桟俵石(安山岩の柱状節理と思われる)はこの丸山に存在する。
 さて、「や族」に関する調査だが、インターネットで調べてみるとタイ族の中にヤ族というのがあり、少数民族としてトレッキングで訪問できるようで、観光旅行の対象にもなっているようだ。これは私の探している「ヤ族」では無いようだ。さらに検索を進めているとあるHPに行き着いた。
 ここでインターネットでの情報について現在の私の基本的な考え方について述べておきたい。何かを調べたい、知りたいと思うときまず、自持ちの書籍、辞書で調べるわけだが、それでも解決しないときはインターネットに頼るわけだ。ただ、ネット上の情報は信頼できるもの、そうでないものの差が激しい。その取捨選択は自らの判断能力によるところが多いのだが、仮にネットの情報で解決したとしてもそこに示される文献等で再度確認をするようにしている。文献、書籍だから正確な情報が掲載されているというものではないが、それらは少なくとも情報の出所と責任が確定されている。つまり、ネット上の情報に基づいてひとつの説を作り上げたとしても、その情報源は既に無くなったり、内容が変更されたりする可能性があるということだ。そういう意味でネット上の情報には大いに参考とさせて貰ってるにもかかわらず、直接使用することはなく、再度文献、書籍で確認の後それらの書名を明示して使用することとしている。このことは裏を返せば、真面目にネットに記事を掲載されている方の情報をヒントにし、しかもそのことを公表しないというなんとも理不尽な態度となろうかと思うが、玉石混淆の情報があふれる今日やむを得ない状態かなと思っている。
 前置きが長くて本論に入れないのだが、これから述べることはインターネットの情報をその裏付けの確認をしないまま採用しているので、私の仮説というより想像、あるいは夢物語という程度にとって欲しいということである。つづく
(大唐内のこと(39)は2011.2.28)

【作業日誌 3/3】
ガーデンシェッド、内装
薪割り

今日のじょん:また雪が降った。やっぱり雪は好きみたい、はしゃぐことはしゃぐこと。ぽんぽこぽんも大騒ぎなんだが、ボールが雪だるまみたいになって見失うわ、咥えられないわでおもしろいこと。Img_2451 Img_2456 Img_2454 

歯にしみるのよね。 

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久高島のこと 3/2

2011-03-02 | 日記・エッセイ・コラム

2011.3.2(水)雨

  先日NHKで岡本太郎氏についての特別番組があり、イザイホーなどの映像も映し出されていた。翌日検索サイトから当ブログに多くのアクセスがあった。元々久高島、岡本太郎、グソーなどの語句から検索されてのアクセスはコンスタントにあるようだ。過去30日で9件、「日置氏」に継いで2位である。
 なぜ岡本太郎が久高島なのかというと、「沖縄文化論」という著書とグソーにおける棺桶開披事件があるからだろう。
 私が沖縄の久高島を訪れたのは2007年2月28日と3月1日である。彷徨の旅なので特別に行く予定もしていなかったのだが、連絡船に自転車搭載可だったので行っただけのものだ。「沖縄文化論」は読んでいたが、久高島の民俗、文化については未知のことばかりだった。ただ行ったところでは何か目的を持って行動していたので、久高島ではグソーというのをこの目で見てみたいという不謹慎な目的で島を巡っていた。詳しくは当ブログの2007、2/28,3/1を見ていただきたい。
 民宿さわでお借りした本、郷土史のようなものだったと思うが、の中に棺桶開披事件のことが書いてあった。ペンチで針金を切ってとか具体的に書いてある割にその犯人については「外国の記者」という風に書いてあったと思う。これは「沖縄文化論」にある「神々の島 久高島」に書かれている、那覇からきている新聞記者のことだろう。そこには古
グソーにある人骨やそれらにカメラを向ける岡本氏の写真も掲載されている。また、その事件以来風葬をすることを止めたということが書いてあったと思う。
 風葬だの洗骨だの自分たちの習慣に無いものについては興味を覚え、深入りしたり暴露したりという気持は解らないでもない。私自身、グソーを見てみたいとなんて真剣に思っていたのだから同罪である。
 今、葬制や墓制について研究するうちに風葬だろうが樹上葬だろうが鳥葬だろうがいわゆる死体遺棄だろうが何とも思わない。文化の違いというだけだ。死体の処理を風に任せるか鳥に任せるか、はたまた土中の菌に任せるかの違いだけなのだ。
 毎年この時期となると久高島で過ごした二 日間の強烈な印象を思い起こすのである。Img_2895

イザイホーの行われた御殿庭(ウドンミャー)

Img_2862


古グソーは西海岸沿いに4箇所あったという。



今日のじょん:昨年の三月じょんが大病をしたため、かみさんが神経質になっている。直接の原因は大の苦手の風と雨だろう。風に対しては異常なほどの反応を示す。出生時にどのような影響があったのだろうか。風ったって上林の風は半端じゃない。今朝も怖ろしい音がしていた。心理的なものが身体に影響するのは人間だけではない。なんとかこの時期を乗り切って欲しいと願っている。
Img_3999


去年病気の時こんなに雪が降ったんだ。(2010.3.10)
 

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また来ん春 3/1

2011-03-02 | 日記・エッセイ・コラム

2011.3.1(火)雨

 最近当ブログのアクセス数が減っている。歴史民俗の話、特に鬼伝説や葬制墓制の話など興味のない人にとっては耐えられない内容だろう。というわけで今日は別の話題を提供したい。
 また来ん春と人は云ふ、、、、中也の哀しい詩だが、春は間違いなく、約束通りにやってくる。永久に存在するかに思えた雪の壁もすっかり消え、汚い土が現れてきた。あれもこれもせんならんとうっとうしいのだが、基本的に春は嬉しいものである。
 一番早く春を知らせたのが君子蘭である。本来なら3月か4月に咲くものらしいが、2月の中旬に咲いてしまった。薪ストーブの熱気の一番当たる我が家で最も暖かいテラスに居たので、早咲きしたのだろう。昨年下のベランダで一度だけ雪に当たり葉の多くが枯れてしまった。かみさんが慌てて枯れた葉を取り除き、店に飾ってある。他に花の少ない時だから橙の色がとても美しい。Img_2403 Img_2434
 次がご存じ、蕗のとうである。これも2月下旬に第一号を戴き、今が盛りである。蕗味噌作ってみるかな。
 そして2,3日前から梅の花がぽつぽつ開花している。初めてこの地に越してきたとき、雨は降るは肌寒いはで陰気だったが梅の花が満開だったのが心強くて印象に残っている。昨年は不作で、連続して作ってきた梅干しも梅肉エキスも作れなかったので今年は期待したい。特に梅肉エキスは毎日飲用しているので購入すると5,6千円遣っている。今年こそ気合いを入れて2年分ほど作りたい。Img_2437 Img_2435
 チューリップも2月下旬から芽が伸びてきた。先日ご近所でイノシシに根こそぎやられたことを聞いた。今のところ大丈夫だが、何とも不安なことだ。
 そして椎茸小屋を修繕したお陰で猿にやられることなく椎茸が育っている。冬の間も出来ていたが寒さで大きくならなかった。これから美味しく戴けるが、新しい原木にも植え付けなければ、、、、。
 良いことばかりでなく、カメムシの発生も目立ってきた。最盛期は秋だが春にもひとつのピークがあって、当分悩ませられることとなる。
 まだまだ降雪もあるだろうけど、三寒四温でじょんのびの春は確実にやってきている。

【作業日誌 3/1】
薪集め(戸田)Img_2445
今日の収穫




今日のじょん:三月はじょんの誕生月である。信太山の林で生まれたので確実とは言えないが一応3月20日が誕生日である。今年で3才となる。Img_2446

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