間もなく、終戦68年目を迎える 8月15日。
昭和20年7月、私は満6才のころ大牟田市内に居住。
大牟田空襲 (インターネットより、一部を抜粋しました)
大牟田空襲の記録
昭和19年11月15日
午前10時頃、有明海北西より飛来したB29爆撃機7機が、市の東北部工業地帯及び農耕地4ヶ所に焼夷弾・250kg大型爆弾を投下。
罹災面積17,000坪、罹災戸数33戸、罹災人数182人、死傷者33人。
昭和20年 6月18日
午後11時、60機のB29編隊が天草方面より飛来、市街中心部の家屋密集地帯を目標に油脂焼夷弾・黄燐焼夷弾・爆弾を4時間にわたり波状攻撃。
罹災面積355,000坪、罹災戸数2,551戸、罹災人数12,700人、死傷者360人。
昭和20年 7月27日
午後11時、60機のB29編隊が天草方面より飛来、
市街全域に油脂焼夷弾・炸薬エレクトロン焼夷弾を3時間にわたり投下。
罹災面積728,700坪、罹災戸数8,230戸、罹災人数41,088人、死傷者867人。
昭和20年 8月 7日
午前11時頃、B29及び戦闘機約40機の編隊が島原方面より飛来、工場地帯を目標に
重爆撃を行った。高射砲で敵一機を撃墜したが、その積載弾の誘爆により被害が拡大。
罹災面積1,200坪、罹災戸数245戸、罹災人数1,320人、死傷者23人。
昭和20年 8月 8日
午後6時頃、市東北部の一修集落に爆弾投下、
他都市空襲の帰途に残存弾を投下したものと推定される。
罹災面積2,400坪、罹災戸数23戸、罹災人数120人、死傷者8人。
泣き叫ぶ赤ん坊を抱いた母を、疎開先のおばさん(嫁さん)が怒った。
「S子さん! 赤子ば泣かすんな! 飛行機に聞こゆっぞッ!!」
火がついたように泣き続ける、空腹の赤ちゃん(弟)
農家の床板をめくり、畳を屋根のように2枚合わせ、床下の穴に入る。
防空壕代わりにもぐった複数の家族たちは、息を殺して敵機の通り過ぎるのを待った。
その時に、同じ防空壕にいた私の家族は、父母、私(6才)と妹(4才)、
産まれたばかりの6ヶ月余の弟、それに父の母親(67才)の6人が一緒だった。
屋根すれすれに飛ぶ、大きな眼鏡がついた帽子をかぶったアメリカ兵の乗った操縦席が
丸見えのB29敵機襲来は、私たちを恐怖のどん底に落としいれていた。
静かになった・・・
空襲警報解除!の知らせがはいると、ようやく蒸し暑い防空壕から怖々と首をだして・・・
68年過ぎ去った今でも、このときの光景が脳裡から消え去ることはない。
住んでいた我が家を空襲で焼かれて、
熊本の遠い親戚に疎開していた私たち家族。
あの時、着の身着のまま、空腹をかかえた大家族を
親戚の農家は、決して快くは受け入れてはもらえなかったことを、子ども心に私は知っていた。
ただでさえ食量難の時代、しかし田舎になるとそうでもなかったとは思うが、
それでも一家6人は、気がねしながらの疎開生活だったと思う。
そんな時、親戚の当主の妻 (嫁さんの姑女にあたる)
やさしかった◎◎お婆ちゃんは、畑仕事の途中で
「ほら、杏子ちゃん、ひだるかろ? これば食わんね」
紺色の広い前掛けでなすびを拭きながら、ちぎったばかりのなすびを手わたしてくださった。
ずんぐりした、濃い紫色のなすび
(パソコンを習い始めたころ、画像加工処理の ”なすび”)
すぐにむしゃぶりついた
6才になったばかりの私の空腹を満たしてくれた
太くて甘い、生のなすび
そのおいしかったこと! 真夏の太陽をいっぱい浴びた、生のなすび
私は、大人になった今でも茄子は、生で食べる方が好きだ
なすびの季節になると、一度は生のままでかじってみる・・・
戦争は、もうイヤだ!! 戦争は、してはいけない!