病院廊下の壁にかけてあった入院患者さん手作りの
涼しげな あさがおの花壁掛け
昨日、近くの大型ショッピング・ホールで、思いがけない66年前の悲惨な写真を目にした。
少なくとも記憶はまだのこっている、原子爆弾投下の写真を数枚を
見つめて、立ちすくんでしまった。
広島・長崎に原爆が落とされてから、66年の歳月はあっというまに流れた。
悲惨でむなしく、悲しい経験を初めてうけた日本。
むかし、昔の幻のような事で、ピンとこない若い人たちが今は多いだろう。
66年も経過すると、もうそのことを正確に伝えるべく人たちも高齢になり、
数少ない語り部の話を聞くこともなくなってゆく。
悲しさをこらえて小、中、高校生などに、どうしても伝えなくてはと
気力をだしきって、現実と未来にも向かって残しておきたいと思われる方々は
少なくはないだろう。 私も其の中の一人でありたいと思う。
昨日、目にした数枚の中で、特に一枚の写真は胸をえぐった。
一面焼け野原に立ちすくむ おさげの少女の瞳は、はてしなく続く焼けた町並み先の方を、
呆然とみていた。セラー服の上着、下はもんぺ姿。
顔、髪も服も灰で白く覆われていた。
『この家が、わたしの家なら、
ここに黒く焦げて横たわっているのは、きっと母でしょう・・・妹と弟も』
と 写真の下段に説明が添えてあった。
ふと、小さな女の子の声がして
「ね、お母さん これはなに?」と指差していたのが
数枚の立て看板に貼ってある、20枚ほどの原爆写真だった。
若いお母さんは、ベビカーに男の子を座らせて、聞こえなかったのか
黙って通りすぎてゆく。まったく興味もなさそうにみえた。
女の子に、私は腰をかがめて言った。
「あのね、これはほんとうにあった悲しい出来事のお話の 写真なのよ」
キョトンとして聞いていたけど、走って母親のあとを追っていった。
女の子には、まだ理解はできないと分かってはいたが・・・
どうしても口に出して言いたかった。
私達の家も、大牟田市への一斉空襲で、焼滅してしまった。
その時のわたしは、6才だった・・・