竹森神社の裏にある道を再び歩く。なぜかあまり自転車やバイクの違法駐車も少なく、ただ暗渠の上を通る細長い道を行く。
江戸通りの前には小さな園地がある。渡る際の信号も川も橋もないが『鞍掛橋』の名前が残されている。鞍掛橋はなかなか数奇な運命を遂げた橋である。
初めて橋が架けられたのは浜町川の開削と同じ1691年で当時の地図には土橋と描かれていた。1837年には接続する龍閑川の埋立により、浜町川は溝として残る程度になってしまう。しかし、1883年には再び龍閑川が開削され、神田川まで繋がったため、鞍掛橋も鉄橋に架け替えられた。というのは市電室町線が経路変更して橋の上を通ると共に電停が作られたのである。しかし、1923年関東大震災、1945年東京大空襲で周囲は焼け野が原となった。そして空襲により発生した灰燼の処分に悩んだ行政は流れの緩い川の埋立という政策を採用、浜町川北部分は埋立られることになり、1948年に他の橋と共に鞍掛橋は撤去されたのである。
細い道は続くが、さらに道幅は細くなり、横山町問屋街の道に出る。
さらに行くと大伝馬町、再び少し道幅が広くなる。暗渠の上の道沿いに初めて店舗が出てくる。『おひげ寿司』という寿司屋さんだが、店を見ると比較的新しい構えであった。
しかし、その先でこの暗渠上の道が突如なくなり、奥には鋼矢板に囲まれたビル建設現場となる。かつては小さなお店が並んでいたが、半年ほど前から取り壊しが始まり、新しいビルの建設が始まっていた。
次の通りにはかつて千鳥橋が架けられていた。その近くに現在は東京アフロディーテという結婚式場となっている洋館がある。形から銀行の支店かなと調べてみると『旧古河銀行元浜町支店』(1926年竣工)であった。
建築現場をやや大回りして歩くと日本橋休日応急診療所の前に出る。すぐ隣には久松小学校、また、暗渠は久松児童公園の中を通過して行く。夏になると水が張られるプールも今は小学生たちのドッジボールの会場となっていた。(以下、次回)