hokutoのきまぐれ散歩

ブログも12年目、4000日に到達。ネタ探しはきついけどまだまだ毎日更新を続けるつもりです。

吾妻橋

2016-12-11 05:00:32 | 日記

『ぶらっと橋めぐり』その18。隅田川に架かる橋の代表格である吾妻橋を渡ってみる。吾妻橋は雷門通りが上を走り、雷門から東京スカイツリーに向かう途中にある。台東区側から前をみると川の向こうにアサヒビール本社や東京スカイツリーなど代表的な建物が並びまさに東京観光という写真が撮れる。


1769年に地元の人が幕府に嘆願し、その5年後にできたもので当時は武士以外は2文の通行料を支払っていた。

はじめは大川橋と言われたが江戸の東にあるため『東橋』と呼ばれ、のちに縁起の良い名前から『吾妻橋』となった説と向島にある吾嬬神社に通じる道から『吾妻橋』となった説がある。1887年に隅田川では初の鉄橋として建て替えられ、関東大震災後の1931年に今の橋が建設された。


橋の長さは150m、幅が20mあるが、フラットな橋で、赤く塗装され、歩道との境には巴の飾りがある。

すぐ隣には東武浅草駅(浅草松屋)のクラシックなビルがあり、また、東京都観光汽船の浅草ステーションがその横に立派に建て替えられ、いつも混雑している。


因みに名前のついた本所吾妻橋駅(都営浅草線)は墨田区側に500mほど行ったあたりにある。橋の袂には小さな地蔵さん、そして隅田公園に続き、春の花見、夏の花火大会の頃が最も賑やかになる。


善國寺

2016-12-10 05:00:53 | 日記

『古刹を巡る』その40。久々のこの企画、今回は神楽坂の坂上にある善國寺を訪問した。飯田橋駅から風情のある坂道を登り、しばらく行くと左側にその寺はある。

善國寺は由緒ある寺で1595年に池上本門寺第12代貫主日惺上人により日本橋馬喰町に創建。現在の地に移ったのが1793年のこと。本尊の毘沙門天像は江戸三大毘沙門天と言われ、神楽坂の毘沙門天として信仰を集めた。

朱塗りの門を入ると鉄筋造の立派な本堂があり、階段を上って入る。今も参詣者は絶えず、毘沙門天像は本堂の中を見ても御簾の後ろにあり、1・5・9月の虎の日にしか開帳されない。見たければ次は1月3日とのことである。

また、本堂手前には狛犬がわりに石の虎が一対いるのだが、工事中で横から覗いてようやく見ることができた。また、本堂隣の出世稲荷社にも参詣者は多い。

人混みの神楽坂に広い空間があり、ゆったりお参りできるが、開帳の日にはかなりの人が出入りするのであろう。

酔蝶花

2016-12-09 05:00:53 | 日記

知らない花や実を見つけて、その植物の名前がわかると実に気持ちがいい。子供の頃、ある高原で植物採集をした際にどうしても分からない植物があり、先生に聞いても枯れてから見てもなかなか分からない。花が咲いたり、実がなったりした時に写真でも撮らないとと言われたことをiPhoneになってから実践している。

最初の写真にある美しいピンク花。私は初見だが、伸びた雄しべが特徴で花もヒラヒラして美しい。葉は麻のような形状をしている。これを見つけたのは約1か月半前の近所のお庭、珍しいなあと思っただけだったが、パソコンで調べて見てもなかなかでてこない。『秋の花』『ピンクの花』あたりで検索しても全く分からない。こうなるとかえって気になる性分である。


そして、前の日曜日にふと『雄しべが長い』『ピンクの花』と入れて検索、幾つもの候補があったが、発見したのが『スイチョウカ(酔蝶花)』という植物。英語では『スパイダーフラワー』、花の名前の由来は4枚の花弁を蝶の飛ぶ様子に、ピンクから白に変色する花弁を酔った蝶に見立てたからとのこと。

別名がクレオメ、花の巻き方も数もいろいろな種類があるようである。

さらにおまけの情報として福井県の朝日酒造では『酔蝶花』というモンドセレクションで金賞を取った酒もあるとのことでした。

土壇場

2016-12-08 05:00:14 | 日記

『改めて日本語を考える』その13。比喩とか故事成語とか、まあ日本語にはいろいろな表現があるが、言葉が古くてその語源がわからないものや間違えて使ってしまうものも多い。
例えば相撲や野球の解説などでよく使う言葉に『さあ、9回裏2アウトランナーなし、この土壇場で頑張ることができるのか●●(選手名)』と使うが、この『土壇場』の意味を知ると怖くなる。土壇場とは最後の最後、進退窮まる状態を指す言葉であるが、これは江戸時代に斬首の刑を執行する際に罪人を土を盛って築いた壇に横たわらせ、首を刎ねたことからきたものである。まあ、何方かと言えば『最期の最期』の方が適切なのだろう。

同じような言葉に『切迫つまる』というのがある。切迫とは刀の鍔の両面に添える薄い楕円形の金物のことで、これが詰まると刀が抜けなくなる。

そのため、窮地に追い込まれた際に刀が抜けないというシュチュエーションを意味するのである。相手側の武士に襲われた際に手入れを怠っていたことから刀が抜けず焦る武士を想像するとまさに切迫詰まった状況なのだろう。

次に『たたらを踏む』という言葉がある。これは目標が外れ、勢いあまってから足を踏み出す、踏み越すことを言う。


『たたら』とは製鉄する場所のことで、また、たたら吹きとは鞴(ふいご)つまり、足で踏んで空気を送る送風機を意味している。そのため、たたらを勢いよく踏む様が空ら足を踏むのとよく似ていることからできた言葉である。

最後に間違いやすい言葉。『焼け木杭(ぼっくい)に火が着く』を『焼けボックリ』と間違えて使われていることが多い。男女の仲を指し、一旦疎遠になったカップルがふとしたことから出会い、また、熱く愛し合うようになる様の時に使うのだが、なぜ、松ぼっくりが焼けるのかと思う人もいるだろう。実は山焼きなどをした際に燃えさしの切り株や焼けた杭は消えているように見えても風が当たるなどしてまたすぐ燃え上がる様から来た言葉である。
日本語は難しい。

駒形橋

2016-12-07 05:00:02 | 日記

『ぶらっと橋めぐり』その17。久々に隅田川に架かる橋を渡ってみる。まずは『駒形橋』、都営浅草線浅草駅からすぐのところにある。


橋自体は1927年に竣工した比較的新しい橋であり、名前は西詰にある駒形堂に因むもの。橋ができるまでは駒形の渡しという船が運行されていた。


駒形橋は昭和2年に作られた三連ヒンジアーチ橋で長さが149m、幅が22mあり、浅草通りが上を走る。橋の袂にはモニュメントがあるが、橋の位置は厩橋と吾妻橋に挟まれている。


橋からはすぐ前に東京スカイツリー、アサヒビール本社など有名な建物が並ぶ。橋の途中にはバルコニーのようにせり出した部分があり、川や船などをゆっくりみることができる。

駒形堂は最近立て直したものが西詰にある。ここは浅草寺本尊聖観音像の示現の地とされ、江戸時代は船でくる参拝者はここで下船し、まずは駒形堂の馬頭観音に参詣し、それから観音堂に向かったとされている。そのため、当時は大変賑やかな場所であり、料理屋や茶屋が軒を連ねていたようである。


その名残か、橋の近所には『駒形どぜう』(川魚料理)、『浅草むぎとろ』(とろろ料理)、前川(鰻料理)など老舗の料理屋が残されている。こうした店で江戸の粋を味わい、橋から夜の街を眺めるのも一興であろう。

『It's a Sony展』

2016-12-06 05:00:05 | 日記

来年には取り壊し、リニューアルする計画のあるソニービルでは現在、カウントダウンイベント『It's a Sony展』と題して歴代の商品とともにソニービル50年を振り返るイベントが開催中である。


まず、1階に入ると黒でできたSonyの文字がお出迎え。そこから1フロアごとに企画を凝らした展示がなされている。


当時の雑誌ポパイとともにトレンドであったソニー商品を各界の著名人が紹介しているが、その中で私の目を引いたのは1973年に売り出されたスカイセンサー5800というラジオである。現在の社長である平井一夫氏が始めて買ったソニー商品として紹介しているのだが、当時ブロードキャスディングて言って海外の日本語短波放送を聞くのが流行っていた。例えば南米のアンデスの声などという放送に手紙を送り、べリカードを集めるのに私も親にねだって買って貰った機種である。


その上のフロアは日本初のトランジスタラジオや天皇陛下が女官を呼ばれる際にお使いになったインターホンなど珍しいものが時代順に並び、ソニー坊やなどを久々に見た。



画面が回り縦にも横にも置けるテレビ、カセット・ラジオ・テレビ一体型のマシンやフラミンゴという携帯できるレコードプレーヤーなどソニーの創意工夫が詰まったけどあまり売れなかった商品も並んでいるのが面白い。


さらに時代は飛んでウォークマンの猿のCMやカセットテープからMDまでの展示。ソニーが生産していたMSXやワープロ。さらに日本初の有機ELコンパクトテレビなど我々の世代なら懐かしいと言わない人はない展示会。



限定品のラバーストラップも販売、ガチャガチャの機械で出たのは初代ウォークマン型の物であった。もちろん無料である。(〜2017/3/31)

皇帝ダリア in 三鷹農業公園

2016-12-05 05:00:29 | 日記

ポインセチアを買いに久々に三鷹農業公園に行く。だんだん、冬が近づくとここにも茶色と常緑樹の緑ばかりになってくるが、ひときわ鮮やかなのが公園の中心部にあるイチョウの黄葉。今日は風も少なく、与謝野晶子の句のように『金色の小さな鳥の形して…』ていう感じである。



他には濃いピンクの山茶花がまだ花をつけているくらいと思ってあるいていると3メートルくらいの高さから見下ろしているのが皇帝ダリアである。

昨年もこの一角に美しいピンクと紫の間のような大きな花をたくさんつけて咲いている。幸いに今年は霜があまり降りていないので葉の方もしっかりしている。


毎年、この高さまで伸びて、よく風で倒されないなあと茎を見るとあたかも竹のように節のある太い茎。

これですっくと立つ様はまさに皇帝の風格である。後は霜が降りないことを祈るのみである。

旧芝離宮恩賜庭園

2016-12-04 05:00:03 | 日記

まだ、紅葉は残っているかなあと旧芝離宮恩賜庭園に足を向ける。ちょうど浜松町に用事があったので、昼休みを使ってぶらぶら。浜松町駅北口から徒歩1分で入り口に到着。周りには世界貿易センタービルなど高層ビル群の谷間にしっとりした庭園が残されている。


入場料は150円、しかし、600円で年間パスポートが買えるため、私の前に入っため2人は定期券のように見せるだけで入場。この辺りのサラリーマンが羨ましい。


中に入ると大きな池の中に手入れをされた松の見事な枝ぶりが生える。池をぐるりと回ることもできるし、橋を渡りながら少し小高い島から池を臨むこともできる。また、もう雪吊りも施されている。


この庭園は江戸幕府の老中大久保忠朝の上屋敷に作庭された楽寿園を起源とし、作られた頃は海に面し、汐入の庭であった。

しかし、現在は周りも埋め立てられ、海岸から離れて、池も淡水である。その後、紀州徳川家が拝領、さらに明治時代には有栖川熾仁親王邸となった。その後、芝離宮となったが、関東大震災で庭も洋館も焼失、1924年に東京市に下賜され、今の形となった。


まだまだ、紅葉も楽しめ、池に映る高層ビル群が中々面白い都会のオアシスで浜松町駅から徒歩1分とはとても思えない名勝である。


師走雑感

2016-12-03 05:00:32 | 日記

日記やブログを書いていると色々なことに気がつく。1つは多少のずれはあるものの、自分はほぼ毎年同じことをしていること。例えば11月の中旬にはお取り寄せで蟹を買ってカニパーティをしていること。

紅葉も遠くにはいかないけど都内の公園を順繰りに回っていること。

正月前には必ず浅草に出かけることなどである。特にFBには時折過去の記事が出るが、それを見るとまるで同じことを書いていることがあり、驚くやら、呆れるやら。


一方で年によりずれはあるが、3〜4月と11〜12月のこの2週間で本当に季節がうつろうこと。通勤路にあるセコイヤも先週の土曜日は前の写真、後は12月2日だが、あっと言う間に色づいていて、これから1か月もしない間にすぐに葉っぱは全て落ちる。


スーパーの横にあるゆりの木の大木も先週の始めは見事な黄葉であったが、雨と風でもう半分くらい葉が落ちて寒そうになってしまった。

人の世ではやれ韓国の大統領が失脚だとか、アメリカの新大統領で大きく変わるとか、イギリスのEU離脱だとか、いつの間にか都知事が変わり、今年の年末もやはり築地市場が主人公になるとか、昨年の今頃では予測もつかなかったことが起きているが、自然社会は大災害でもない限り、殆ど変わらない。このギャップが妙な昨今である。

目白台付近の坂道(2)

2016-12-02 05:00:50 | 日記

『江戸の坂、東京の坂』その79。今回も前回に引き続き目白台付近の坂道を歩く。豊坂を登るとまだ目白通り、日本女子大の前に出る。これを左に曲がり、しばらく行くと護国寺からくる不忍通りとの交差点がある。


その少し手前を左に曲がると急坂となるが、これが小布施坂。細い坂道だが、途中から階段となる。坂の名前は明治時代にこの辺りに屋敷を構えた小布施新三郎の苗字からきている。

元に戻り。少し先を左に曲がると二股になり、これが共に急坂となっている。(真ん中の三角地帯には以前から廃屋がある。)


向かって左側にある方が『日無坂』、日陰の坂から付いたのだろうが、この坂が文京区と豊島区の区界になる。


もう一つの右側の坂道が『富士見坂』、名前はかつて富士山が望めたからだろう。今はビルが建って見えないが、ある本には東京では数少ない富士が見える富士見坂と書かれていたので最近までは見えたのかもしれない。

この富士見坂を下るが、中々いい風景である。坂を降りてすぐに右に丁度V字のように登る坂が『稲荷坂』。坂の途中には小さな稲荷が今もある。


坂の下の道を少し歩くと目白不動金乗院の前に出る。これを右に曲がると坂道となるが、この坂道が『宿坂(しゅくざか)』。

中世には『宿坂の関』があったとされるが、この坂道を言っていると思われる。宿坂は長い坂で昔は樹木が生い茂り、狸や狐が飛び跳ねて人々をたぶらかしたといわれている。


音羽の谷からの坂道もきつい勾配の坂道が多いが反対の早稲田側に向かう坂道も負けてはいない。富士見坂に着いた頃には日が傾いて太陽がよく見えたが、ここからの眺めは素晴らしかった。