hokutoのきまぐれ散歩

ブログも12年目、4000日に到達。ネタ探しはきついけどまだまだ毎日更新を続けるつもりです。

冬至あれこれ

2016-12-21 05:00:59 | 日記

本日、12月21日は冬至、つまり昼(日の出から日の入りまでが)最も短い日である。日の出は6時47分、日の入りは16時31分、つまり昼は9時間42分(東京)しかない。これを地域で比べると札幌は9時間、沖縄は10時間30分だからこの小さな日本でも随分差があるのである。

昔の中国では『冬至は一年の始まり、太陽の復活する日』であり、大変めでたい日とされていた。2014年はさらに冬至と新月が重なったので『朔旦冬至』と呼んでさらにおめでたい日としていた。これは19年に一度しかないので次は2033年のはずなのだが、実は2052年。これは2033年は冬至の日と新月を含む日が若干ずれるためなのだが、残念ながら私は94歳だから、もうこのめでたい日には生きていないだろう。

面白い考え方であるが、本来冬至は太陽の力が最も弱い日と考えられるが、逆に以降は太陽の力が強くなるため、一陽来復といってこの日を境に運が向上すると考えた。そして、語呂合わせだが、さらに運が良くなるように『ん』がつく物を食べたのである。そこでダイコン、レンコン、ニンジン、ギンナン、寒天など『ん』が二個入るものを好んで食べたのである。では、なぜ南瓜も食べるのか。それは昔は南瓜をナンキンと呼んだからである。

しかし、別の説もあり、冬至の『と』を取り、『と』のつくものを食べるといい、そこからドジョウ、豆腐、唐辛子などとともに『唐茄子』つまり、カボチャを食べると良いとなるのだ。

最後にオマケ。今年の冬至は12月21日なのだが、20年間をとっても21日だったのは5回目、あとは12月22日が冬至なのである。何か、日がやけに短く損をしているように感じるが、めでたい日である冬至と再認識した。

鉄板焼東洋〜日本橋ランチグルメ

2016-12-20 05:00:20 | グルメ

なぜか老舗洋食店に『東洋』がつく店が多い。日本橋にある『TOYO』、赤坂見附の『東洋軒』、京都市上賀茂の『東洋軒』。最後の東洋軒には大阪にもいくつか支店がある。その中で今日は『鉄板焼 東洋』にお邪魔した。場所は日本橋三越を反対側にわたり、鰹節の老舗を越えた左側。創業80年の鉄板焼店である。

店に入ると鉄板を取り囲むように席が配され、それ以外は2人のボックスが3つ、6人のボックスが1つとこじんまりしている。人気があるのは千円札1枚で食べられるじゅうじゅう焼。


私はミックス焼き(1350円)にした。注文の傾向はじゅうじゅう焼、若鳥焼の千円メニュー、次がミックス焼のようで目玉焼きをトッピングする人も多い。


すぐにタレの入ったお椀とサラダが登場。やや、酸っぱめのドレッシングが食欲を増す。目の前で2人のコックが焼くが、役割分担され、向かって左側が肉を焼く担当、もう1人が野菜を焼く担当である。ランチは早く作るため、分担制にしている。次々と焼かれて行く肉を見るのもいいが、高いステーキを奢る人は皆無。

3回目に焼いたものが我々の前に。我々と言っても知らないサラリーマンだが、同じタイミングで同じ料理が登場。

1人用の鉄板にもやし・パプリカ・人参・キャベツを炒めたものが山となり、その上に牛肉、豚肉、ベーコンが並ぶ。すぐにライスと味噌汁が登場。


まずは味噌汁を一口、やや甘めの味噌だが、出汁がよく効いている。次に野菜から食べるが中々の量、次にまずは豚肉から。脂が焼けて香ばしい。牛肉も柔らかく、赤身のうまい肉である。ベーコンはやはりベーコンで普通だが。野菜を食べ、肉を食べ、ライスを口に運びと繰り返すが、タレがそれほど主張せず、いい感じ。

店はどんどん混んでくるが、さすがに長居する客もおらず、せいぜい待つのは2人程度。少し高いけどガッツリ食べるにはいい店である。ちなみに2人先の若者はご飯を2回お代わり、おかずは十分ある。ごちそうさま。


鉄板焼き 東洋
中央区日本橋室町1ー5ー2
0332410003

高橋(亀島川)

2016-12-19 05:00:55 | 日記

『ぶらっと橋めぐり』その21。亀島川にかかる高橋を渡ってみる。亀島川は上流から霊岸橋、新亀島橋、亀島橋、高橋、南高橋と続き、亀島水門から海に流れ込む。高橋は海から2本目の橋に当たる。

橋の名前は『たかばし』と濁る。橋の上には鍛冶橋通りが通っていて、右手にまっすぐ行くと二重橋、左は永代橋近くまでいける。

橋の上から下流を見ると水色の鉄骨造の南高橋が見え、その先には亀島水門、さらに対岸の高層マンション群を見ることができる。


高橋の橋そのものは歴史があり、かつては江戸城大手門付近に架けられたものを移築したのだとか。その欄干が今も袂に残されている。名前の由来は運河である亀島川の入口近くのため、船の通行に配慮して太鼓橋にしたので背が高い橋からきているようである。1882年に吊り橋式の鉄橋となり、現在の橋は1983年に改架されたものだが、シンプルな橋である。

橋のすぐ脇にはキリンビール本社、かつて江戸下り酒を荷下ろしし、倉庫に入れた名残である。


橋の隣にはJR八丁堀駅の入口があり、児童公園もあるが、その周りは高層ビルやマンションが建築ラッシュとなっており、さらに風景は変わって行くのであろう。

『酉・鳥』のつく駅

2016-12-18 05:00:50 | 日記

『鉄道シリーズ』その156。毎年翌年の干支にちなんだ駅名のことをこのブログに書きはじめてもう随分になる。確か始めたのが『ヘビ年』で次の『馬・午年』は駒まで入れるとたくさんあったが、翌年の『羊・未年』には参った、何を探してもないのである。やっと見つけたら中国の駅名。昨年は確か『中央本線猿橋駅』まで写真を撮りに行った。

では来年の干支の『鳥・酉年』はどうなんだろう。実は『酉』の字が入った駅はない。しかし、『鳥』はというと同じ中央本線の『鳥沢駅』が猿橋駅の隣にあるではないか。他にも探せば『鳥』のつく駅は結構ある。近くから挙げると都電荒川線『飛鳥山』、京急羽田線の『大鳥居』、東急池上線の『千鳥町』など。

ほかにも、山陰本線の『鳥取』『鳥取大学前』、鹿児島本線の『鳥栖』『千鳥』、九州新幹線の『新鳥栖』、阪神電鉄阪神なんば線の『千鳥橋』、京阪電鉄の『鳥羽街道』、JR参宮線・近鉄鳥羽線の『鳥羽』、JR予讃線の『鳥ノ木』、ほかにも『鳥浜』『石鳥谷』『小鳥谷』『大鳥羽』『一の鳥居』『鳥取ノ荘』『信濃白鳥』『讃岐白鳥』などまあ沢山ある。

本来は色々な鳥の種類がつく駅名、例えば『鷺ノ宮』(鷺)なども調べたいが、これは次回にしておこう。

暮れの浅草散歩

2016-12-17 05:00:45 | 日記

今年もあと僅か、いつものように年末には浅草にやってきて散歩かたがた買い物をする。今年は2人の孫と娘がわが家に帰って来ているため、私1人で浅草を歩く。浅草はいつも人が多く、最近はフランス座や木馬館のような演芸にも高齢者だけでなく、外国人や若い人も並んでいる。脇の方から浅草寺の本堂を見るが、やはりその姿に圧倒される。

お守りなどを扱う建物の裏には鳩ぽっぽの記念碑。あの歌がここで出来たことを初めて知る。
その後、観音様にお参りに行き、小舟町の提灯をしげしげとみるが、やはり大きい。

そのあと裏道に入り、いつもの藤屋で干支の手ぬぐい(1800円)を購入。今年の鶏は中々堂々としている。これは毎年我が家の正月に飾る。さらにすこし歩き、やげん堀の七味(中辛540円)を購入。

また、仲見世に戻り、お正月向けの飾りを見て回る。3mほどの高さに羽子板や羽、獅子舞、お飾り、来年の干支の酉などがずらり並んでいる。お正月ほどは混んでいないので一つずつ写真を撮りながら歩く。

雷門を入ってすぐのところにある黒田屋という正月飾りやハガキなどを扱う店を見て回るが、張り子を中心にかなりの種類を置いている。ただ、やはり鶏はあまり可愛くない。ひよこはかわいいのだが。

雷門を出て、向かいの観光会館を8階まで登る。ちょうど目の下に雷門、そして仲見世、浅草寺の本堂を鳥瞰できる。右を見るとスカイツリーと隅田川、やはり東京一の風景が広がって、これが冬晴れの空によく似合っているが、師走の風は強く寒い。

しかし、その先の吾妻橋を渡り、墨田区側に向かう。佃煮の海老屋の脇を抜け、まっすぐ清澄通りまで歩く。向かいに渡るが、この中央分離帯からみるスカイツリーは迫力がある。そういえばこの横にある歩道橋で写真を撮り、年賀状に使ったこともある。そして、向かいにあるのが昆布の岩崎。ここでいつもの『おぼろの実』を購入。簡単に言うと即席のお吸い物で真ん中に麩が入り、その周りに調味料、吸い口など、周りをおぼろ昆布で包んだもので、キャンディーのように紙に包まれとおり、紙を剥いてお椀にいれ、お湯を掛けて食べる。8個入りで920円だから安いわけではないが、これが中々美味い。これで買い物も終了である。なんとなく昨年と同じブログになったかも、ご容赦あれ。

赤い実

2016-12-16 05:00:18 | 日記

赤い実の話。お正月には千両を飾るが、現在、庭にはたわわに千両が赤い実を付けている。ただし、野鳥の餌がなくなるこの時期は網をかけないとあっと言う間に鳥たちのバイキングレストランに化してしまい、一夜でほとんどの実を食べられるため、我が家の千両は網の下。


しかし、三鷹農協では冒頭の写真のごとく、千両が赤い実を付けて色鮮やかに咲いている。

花の少なくなるこの時期にはなぜか赤い実を付けた木が多くある。まずはナンテン(南天)、先日訪れた芝離宮でも多くが赤い実を付け、葉も赤くなり、中々美しい。


三鷹農協にもナンテンはいくつも売られていて、小さい木にも赤い実はたくさん付いている。小さいので3000円、大きい木は1万2000円くらいで売られている。

ナンテンに似ているのがソヨゴ(冬青)、モチノキ科の常緑樹である。

ナンテンと異なり、赤い実には柄があり、小さなサクランボのように成る。ソヨゴも実がたくさんつき、美しい。

さらにホーリーというヒイラギ(柊)の一種にも小さな赤い実が葉の間に点在して可愛らしい。小さな木では実もまとまってつくが、近所の大きい木では葉と葉の間に実がなっているように見える。


花のない寂しく、鳥の餌が少ない時期だけに植物も赤く目立つ実を付けて、鳥に食べさせ、子孫繁栄を狙うためにこの寒い時期には赤い実が多く成るのかもしれない。


亀島橋

2016-12-15 05:00:34 | 日記

『ぶらっと橋めぐり』その20。今日は亀島橋をぶらっと渡ってみる。亀島橋は日本橋川の支流亀島川に架かる橋であり、上を八重洲通りが通り、東京駅から深川に向かう都バスが通過する橋である。場所は地下鉄日比谷線八丁堀駅から約1分のところにある。

『亀島』とは付近の古い地名だが、そもそもは町に瓶を売るものが多く住んでいたという説と町内の入堀の地蔵橋が架けられた亀に似た小島があったという説がある。橋はかなりフラットな橋で欄干が亀の甲のような模様が施され、両端には丸い可愛らしいランプが付けられている。


橋の袂には芭蕉の句碑『菊の花 咲くや石屋の 石の間(あい)』が残されている。その隣にはこの辺りに住んでいたとされる東洲斎写楽と平賀源内の解説板。さらになぜか銀座の柳・四世が植えらている。

橋の上から上流を見ると新亀島橋の向こうに日本橋水門、さらにその先には東京スカイツリーを臨める。

一方、下流には高橋が見える。

反対側に渡ると堀部安兵衛の顕彰碑もある。川沿いにはツワブキの花が咲き乱れ、川面には渡り鳥たちがノンビリと浮かんでいる。

昔はこの先に桜川とも言われた八丁堀があり、それこそ目明しや同心が住んでいたのだろう。そんなことを考えながら歩いて見るのも面白い。

ポインセチア

2016-12-14 05:00:27 | 日記

毎年、12月になるとポインセチアを買うことにしている。というのはクリスマスを迎えるにあたり、なんとなく華やかな色をしており、価格も比較的廉価で、長持ちするからという当たり前の理由である。

ポインセチアは草のように見えるがトウダイグサ科の常緑低木であり、正式な和名はショウジョウボク(猩々木)である。クリスマス頃にちょうど赤くなるが、これは紅葉しているからで売り物は短日処理(日を当てる時間を短くして植物に早く冬が来たと思わせる園芸技術)して赤くするのである。

花は真ん中に黄色く咲く部分で赤いのはあくまで葉の部分。最近は赤以外にも白、ピンク、斑入りなど多種類にわたるが、今回農協に行って驚いた。何と青やエメラルドグリーン、紫まであるのだ。しかし、やはり私はピンクの可愛らしいのをチョイスした。

しかし、毎年枯らせてしまうのは勿体無いと昨年は極寒時や雪が降る時には部屋の中に置き、春になってから外に出したので昨年購入した一株は今もしっかり庭の一角で咲いている。


ただ、短日処理はしていないのでまだ殆ど緑の葉だが、それでも一枚の葉が何と赤くなり始めた。いつまで経ったらあの赤いポインセチアになるのだろう。しかも、確か昨年購入したものもピンクの葉だったはずなのだが。いや、もしかしたら、この葉はピンクなのかもしれないが。

(これは今年買った方である。)

江戸橋

2016-12-13 05:00:20 | 日記

『ぶらっと橋めぐり』その19。今回は日本橋川に架かる江戸橋を渡ってみる。江戸橋の上には昭和通りがとおり、とにかく幅は44mもある橋である。

歴史は古く、1631年というから江戸時代の初期に作られた。場所は現在の橋より60mほど上流にあったと考えられるが、魚河岸と倉庫街をつなぐものであったと考えられる。今の江戸橋は1927年に関東大震災後の復興事業の一つとして昭和通りが作られた際に架けられたもので走っているとあまり、橋の感覚がない。

その後、日本橋川沿いに高速道路が作られ、川幅が広いこの辺りを使って川の上には江戸橋インターチェンジが作られたのである。

橋を渡るとすぐ横には新しいビルが作られ、反対側には野村証券本社、また、小さな通りを挟んで日本橋郵便局がある。この日本橋郵便局こそ郵便局発祥の地である。(東京中央郵便局ではない。)日本橋側から橋をわたると銀杏並木が黄葉しており、美しい。

あまり覚えている人もいないかもしれないが、都営地下鉄浅草線日本橋駅は1967年の開通から1989年まで江戸橋駅と称していた。当時から銀座線日本橋駅とは乗換ができたが、200mも離れていたため、別の名前をつけたようである。

江戸橋はあまりに幅が広く、道路の一部のようになってしまっているが、並行して架けられた送水管の上にはカモメがとまり、下には広々とした日本橋川が流れており、立派な橋であることを再認識した。

東京の『区』の変遷

2016-12-12 05:00:55 | 日記

『東京23区よもやま話』その2。東京に『区』というものが置かれたのは1878年に遡る。その頃は中心部(千代田、中央、港、文京、台東の各区の全部と新宿・江東・墨田区の各一部)を15区としたのである。その周りは荏原郡、南豊島郡、東多摩郡、北豊島郡、南足立郡、南葛飾郡の6郡が置かれ、これが現在の23区にほぼ合致する。その後1896年に南豊島郡と東多摩郡が合併して豊多摩郡となり、5郡体制になった。

しかし、20世紀に入り急速に都市化が進み進んだため、1932年に5郡2町村を東京市に編入、これを20区に分け、従来の15区と共に35区体制になった。そして1943年7月に東京市と東京府を廃止して東京都とした。(ただし、東京都の首長は公選制ではなく、現在とは異なる。)

戦後になり、1947年に各区の人口と面積を揃えるため、35区を22区に統合、その後、板橋区から練馬区を分割、現在の23区となった。

この時に旧15区を中心に区の合併を推進した。そのあらましが、千代田区(麹町、神田)、中央区(日本橋、京橋)、港区(芝、麻布、赤坂)、新宿(淀橋、牛込、四谷)、文京区(小石川、本郷)、台東区(下谷、浅草)、墨田区(本所、向島)、江東区(深川、城東)、品川区(品川、荏原)、北区(滝野川、王子)、大田区(大森、蒲田)となる。しかし、合併したのはいいが、その名前を決めるのに紆余曲折があるが、そのあたりは次回。