2年位前にシチズンのプロマスターという電波ソーラーの時計を買いまして、これが見た目もいいし、故障もなくガラスもぜんぜん傷つかないすごいガラスでもちろん電波ソーラーだから時刻合わせも電池交換も不要なので大変重宝していたのですが、うっかり高い位置から床に落としてしまって、カレンダーの表示が少しずれてしまいました。そこで買った先の新宿のさくらやウォッチ館に持って行って修理を頼みました。2週間後に連絡があって取りに行ったところ、なんと修理代は無料とのことで本当にびっくりしました。気に入った時計なので1万とか2万とか修理代を覚悟していてそれでも払うつもりでしたが、メーカーから今回の修理は無料ということで連絡がありましたとのことでした。うーん、シチズンさんは偉い。
その後仕事の件で会社の人と一緒に昼食を食べると全額おごってもらった上に電車で帰る途中の乗換駅のホームから富士山が見えたので今日はなんだかものすごく得をした気分の一日でした。富士山というのは日本人の琴線に触れるもので、♪ふーじーはにっぽんいちのやまーという歌の通りに富士山が日本一の山だと誰もが思っているし実際に高さも大きさも形も日本一です。だから日本人として富士山を誇りに思う人もいるでしょうし、現実の富士山がゴミの山だということを本気で何とかしようとしている人たちもいます。外国から来た人たちが富士山を見てきれいだと言ったり、ジャパンカップに来た馬に帯同してきた厩務員の黒人が、「日本に来てマウントフジも見ることができたし、もう思い残すことはない」とべた褒めしてくれたりすると、自分が褒められたような気がしてうれしくなっちゃう人もいると思います。日本中に富士見荘や富士見町、富士見台なんかがあるくらい、日本人は富士山が好きなんですね。
その気持ちに水を差すわけではないのですが、どうして日本人は富士山が好きなんでしょう? そしてこの富士山が好きだという心理は外国人にどのように映るのでしょうか? 逆に外国人が自国の自然を自慢する心理は日本人にどのように感じられるものでしょうか? たとえばロシアにバイカル湖という湖があってこれは深さや透明度について世界一であり世界遺産にも登録されていますから地元の人がこれを自慢するのは何の不思議でもないし、そのことで目くじらを立てることもありません。しかし何か違和感がある。どこか引っ掛かるものがある。
それが何かを考えると、どこか気の遠くなるような昔にまで遡って感情の源泉を探検しなければならない気がします。富士山が見事な山、美しい山なのかどうかは美意識の変遷によって変わってくるのかもしれませんし、あるいはピタゴラスの有名な言葉、「地球は幾何学的に完璧な形、すなわち球でなければならない」に代表される形に対する感覚というものが古来より変わらず、それが富士山のように極めて珍しく完成された形に対して美しいと感ずる感覚なのかもしれません。だから富士山は大昔から美しいのだと。
美しさとはなにかなどという哲学的な問題をここで論じるつもりはありませんが、ただ単に富士山は美しいと感じるのではなくて、なぜそう思うのか、なぜ日本人として富士山を誇らしく思い、またそれがゴミだらけになることになぜ心を痛めるのかを考えるとき、共同体とその象徴的存在と個人との係わり合いを抜きにしては真相に至ることはないでしょう。
日本に生まれ日本という国家の共同幻想の中に生き、そこにある富士山を日本一世界一とすることで生まれる帰属意識と共生感が私たちを高揚させるのかもしれないし、日本人の富士山好きは案外そんな単純なところに理由があるのかもしれません。
危険なのはみんなが日ごろはあまり意識していない富士山が好きだということに代表される感情を利用して国家主義に走ろうとする政治家がいることです。
「関西人なら阪神タイガースを応援するのは当たり前のことだ」
「日本人なら日本のチームを応援するのは当たり前のことだ」
「日本人なら富士山を美しいと思うのは当たり前のことだ」
「日本人なら日本を美しい国だと思うのは当たり前のことだ」
「日本人なら日本を愛するのは当たり前だし日の丸君が代を尊ぶのも当たり前のことだ」
そういった石原慎太郎に代表される盲目的な国家主義者たちが帝国主義者軍国主義者に変わるのは横断歩道を渡るのよりずっと簡単なことなのです。
そして権力を握る彼らが国家主義者から軍国主義者に変わるのは単に仮面を外すだけのことで、彼らが仮面を外すというのはとりもなおさず徴兵制度の復活であり赤紙召集のはじまりでもあるわけです。だから彼らを支持する人は自分の子供が兵隊に取られて戦地に送り込まれる覚悟をしなければなりません。
「富士山のどこがきれいなんだ。あんな山はクズだ、バーカ」
そういう発言をしたら、それは国家に対する重大な侮辱であるとして宣戦布告しかねない人を国家主義者と呼びます。富士山は日本の象徴的存在でありそれを侮辱するのはすなわち日本国を侮辱するのに等しいと、そういう論理ですね。そして日本人の多くがそういう論理に同意してしまう傾向にあるのが現在の日本で、これは本当に危険なことなんです。
富士山は美しいという感情をどこまでも信じてどこまでもそれが正しい感情であり決して傷つけてはいけない神聖な感情なのだとそのように感じている日本人の感性を打破しない限り、危険を回避することはできないでしょう。日本人は日本という国家と日本人とを別々に考え共同体と個人の関係性の中で冷静に判断すべきことについても、感情で判断し感情的な結論を出しそして感情的に投票し今は国を戦争に追いやろうとする政府を支持しようとしています。誰がどこで歯止めをかけることができるのでしょうか。
ま、人類全体がそういう流れであり、誰も歯止めをかけようとしていないのが現実でもありますけどね。今日もたくさんの人が殺されたくさんの人が自殺したくさんの人が餓死しています。想像力の欠如が世界を悪くしたと、たしかジョンレノンがそう言っていました。しかし明日もまたたくさんの人が殺されたくさんの人が自殺したくさんの人が餓死するのでしょう。そういう世の中です。富士山を好きな気持ちそれを自慢する気持ち誇りに思う気持ちが、世界のどこかで誰かを殺すことにつながらなければいいのですが。