三無主義

 ~ディスパレートな日々~   耶馬英彦

心理ブレーキ

2006年10月09日 | 政治・社会・会社

 このブログをはじめた動機というのがそもそも、書きたいことを思い切り書きなぐりたいというものでした。ブログをはじめる動機なんてものは営利目的の人を除けば大体そんなものですよね。飲食店に行ってそこで食べたものがうまかったとか、秋の湖のヘラブナにはこの餌がとてつもなく有効だったとか、または世の中にはこんな馬鹿がいると紹介するとか、そういった個人的な趣味みたいな動機で書きはじめるわけですが、いざ書いてアップした文章がネット上で不特定多数に閲覧される可能性を持つとなると、これがまあ、まったくの腰砕けというか、書きたいことを書きたいように書けなくなります。公開するということは読み手を想定して文章を書くということですから、不愉快な表現や事実とかけ離れていることや嘘やデタラメを書くのが躊躇われるからで、私もそうですが書きながら読むといいますか、書いているその場で文章を検証しながら書いています。

 もし2ちゃんねるに垣間見るようなひどい表現でブログを書いたら、読んだ人は意味がわからなかったり非常に不快な気持ちになったりして二度とそのブログを訪れることはないでしょう。2ちゃんねるでは人を罵倒したり中傷誹謗したりするのが目的のようなところもありますが、個人のブログでそれをやる人はほとんどいません。WEB上に書くということは他人に対して表現することですから、まったく意味不明のことや支離滅裂のことを書くのは意味がないという訳ですが、それだけではなく、書いている本人の心にも自動的にブレーキが働いていると思います。

 こういった自動的な心理ブレーキはブログだけでなく、さまざまな場所で働いています。電車の中で座り込んだりしないとか、人前で裸になったりしないとか、むやみに道でつばをはかないとか、そういったことにはそれぞれ微妙にニュアンスは違いますが、心理的ブレーキの働きによるものです。簡単に人を殴れないのも同じことです。これは共同体が自己崩壊を防ぐために人々に植え付けた心理で、倫理だとか道徳だとか呼ばれています。悪い言い方をすれば囲い込まれた羊であることの条件です。
 しかし全員が羊だと共同体自体がうまく機能しません。よくしたもので共同体には必ず支配層を目指して狼になろうとする人々がたくさん出現します。そのうちの何割かが実際に支配階級となって派閥争いや権力闘争などをしながら共同体を維持していきます。負けた人やハナから諦めている人は羊のまま共同体の中の一要素となるだけです。

 経営者になる教室のようなものがありまして、そこは心理ブレーキを破壊することを目的のひとつとしています。恥ずかしいことの書かれたプラカードを肩から胸と背中の両方にぶら下げて何時間も街を歩かせたりする訓練をして、普通はできないことを平気でできるようにしていきます。この教室を卒業すると、平気で人を罵倒したり殴ったりときには殺したりできるようになるそうでして、経営者に必要な資質のひとつ、「あいつは何をしでかすかわからない」という恐怖の印象を周囲に与える性格になれるそうです。羊のような経営者に比べて狼のような経営者のほうが成功する確率が月とすっぽんくらい違うのは私たち誰もが知っているところでして、経営者にその経営手腕を問う人がいても人格を求める人はいません。経営者であること、支配層であることと人格者であることは相反することですから、経営者に人格を求めてはいけないのは当然のことです。政治や経済の現実で成功者となるためには人格を捨て去らねばなりません。あらゆる心理ブレーキを取り除かねばなりません。それができない人は羊、すなわち弱者として切り捨てられていきます。社会を支配する論理は成功者の論理、強者の論理であって、弱者は強者の論理に従う振りをしつつも弱者である自分を自覚し、その自己撞着を日常生活の中でなんとかごまかしながら生きています。

 社会で成功するため、東大に合格するための本や講座や教室や塾は世の中にあふれかえっているのに、どうして社会で成功しなければならないのかという根本的な疑問に答える人はいません。「このままでは日本は滅びてしまう」と懸念する人はいますが、「どうして日本が滅びちゃいけないの?」という疑問に答える人はいません。それは「どうして人を殺してはいけないのか?」という疑問とまったく同じ疑問でして、答えも実は簡単です。もし人を殺すのを許していたら共同体が共同体として存続するのがあやうくなるから、人を殺してはいけないという心理ブレーキを人に植え付けました。これが道徳であり倫理であるわけでその歴史は共同体の歴史と長さが等しいものです。同じように、共同体の存続が共同体の構成員にとって自分の生命と同じくらい重要なことであるという心理も植えつける必要があります。そこで「このままでは日本が滅びてしまう」ということと「このままではあなたは生きていけなくなる」ということが同義語であるように感じさせるようにしたのです。

 もし仮に経営者教室のようなことがあまねく行なわれるようになって、日本国民全員の心理ブレーキが外されたらどうなるのでしょうか。一度そうなってみれば面白いと思います。誰もが平気で人を怒鳴りつけたり脅したり殴ったり殺したりする社会。暴力団の存在意義がなくなってしまう社会。無法の原始時代のようです。しかし一旦そんな社会が来ても、また歴史が繰り返して元に戻るんでしょうね。個人より組織が強いからみんなが組織を作って組織抗争をしてどこかが生き残りどこかが消えていく。まさに戦後の暴力団抗争そのままです。あれは実は人類の歴史の縮図そのものだったのですね。親分子分を親と子と呼んで「親に手をかける」ことをタブーとして心理ブレーキをかけるところも共同体の存続の手法とまったくそっくりです。

 それにしても巷の親たちは自分の子供を塾へ通わせたりなんとか東大に合格させようとしたりして支配層の仲間入りをさせたがっていますが、もし子供が「私は人に勝とうとか人を従わせようとかするよりも人の役に立つ人に尽くすことを一生低収入でかまわないからやっていきたい」と意志表明したらどのように感じるのでしょうか。
 この疑問についてはまた後日書きたいと思います。