犯罪容疑者の人権についてはえらく神経を尖らせるマスコミも、被害者の人権やプライバシーについてはそれほど考慮しない、という問題はよく巷で言われているところです。
耐震偽装事件の姉歯建築士とは私は何の関係もないし彼の人権やプライバシーを守りたいとも思っていませんが、公判で川口政明とかいう裁判官が姉歯に向かって「弁解になっていない」とか「あなたには切迫感がない」と言ったのには驚きました。
たしかに姉歯被告の発言は反省とは程遠いものではありました。しかしそんなことは初めからわかっていることで、心証を悪くしたのならそれを判決に反映させればよろしい。ただ黙って被告の発言を聞き、有罪無罪や刑の軽重を決めればいい。もともと裁判なんてそのレベルのものです。
しかし被告に向かって説教する裁判官というのは、どうも変です。そもそも裁判というのは人間が人間を裁く制度なのですから、人間に他人を裁くことができるのか、裁くことが許されるものなのかどうか、そういった反省が常になければならない。人を裁く人はどこまでも謙虚に、出された証拠や証言を基に虚心坦懐に判決を出すことを心がけなければなりません。原告側や検察側にも被告側にも偏らない、あくまでも法律と判例のみによって、裁かなければならない。もし法律でも判例でも判断できない場合は、裁判官自身の法律解釈によることになりますが、その場合でもあくまでも公平な平静な立場から判断しなければなりません。
今回の川口政明さんの発言は、そういった裁判制度に係わる人間に必要な反省をどこかに置き忘れてきたような傲慢な発言のような気がします。どうも誰かの発言に似ているなあと思って思い出したのが、石原慎太郎さんの「電車の中でお年寄りが立っているのにその目の前で座っている若者を誰も注意しない情けない世の中になってしまった」という言葉です。
何度も書きましたが私は坐骨神経痛で電車の中で立っているのが特につらいんですが、それでもお年寄りが目の前に立っていたら、席を譲ります。かといって他の人にそれを強制するつもりはありません。もしかしたらお年寄りが目の前に立っているのに座っているその若者は、私と同じように坐骨神経痛で立っていられないほど痛いのに電車で通勤しなければならないのかもしれないからです。
目に見えるだけ、自分の常識で判断できる部分だけが真実ではないことに最も気づかねばならない裁判官や都知事という立場なのに、川口政明裁判官は安易な判断で無責任に発言しています。そして誰もそれを咎めない。中には川口政明さんを「立派な裁判官」と勘違いして褒める人さえいます。これでは「裁判や裁判官なんてその程度のもの」と思ってしまうのも仕方がない状況です。国民は自分たちのレベルの政府しか持てない、という格言を持ち出すまでもなく、石原さんのレベルがすなわち東京都民のレベルであり、小泉さんのレベルが日本国民のレベルであるわけですから、仕方のないところではあります。
レベルといえば、ディープインパクトの凱旋門賞は、彼我のレベルの差を痛感させられるものでした。ちょうど夏前に行われたイギリスのG1レースキングジョージ6世アンドクイーンエリザベスダイヤモンドステークスで日本のハーツクライが負けたのと同じような負け方で、底力という点でいまひとつ及ばなかったというのが本当のところだと思います。競馬ファンとしては、ディープインパクトが怪我をすることなく無事に回ってこれてホッとしています。岡部幸雄さんも同じことを言っていました。勝ってもよし負けてもよし、とにかく無事でよかったというのがほとんどの競馬ファンの本音です。まあ、勝つに越したことはありませんけどね。
日本では先週の日曜日は秋華賞でした。実は馬券を買おうと思っていたのですが、土曜日に久しぶりに仕事でずっと立っていて、立っているうちにだんだんと神経痛がひどくなり最後には動けなくなってしまって、仕事が終わった後は這うようにして家に帰ったものですから、日曜日は起き上がることができず、馬券を買いそびれてしまいました。レース結果は井崎脩五郎さんの言う、無敗の馬はデータや常識を覆すということわざの通り、無敗のオークス馬カワカミプリンセスが見事に差しきりました。実は予想ではアサヒライジング、フサイチパンドラ、アドマイヤキッス、シェルズレイ、カワカミプリンセスの5頭に○をしていて、この5頭が1着から5着なんですから、普通に買えば当たっていたかもしれません。「かもしれない」というのは「なかった」と同じことでして、買おうと思っていた馬券と買った馬券は往々にして異なるものですし、5頭の中でいちばん気があったのがアサヒライジングとフサイチパンドラで、外そうかなと思っていたのがカワカミプリンセスとアドマイヤキッスですから、買っていたらまた例によって惜しい外れ方をして地団太を踏んでいるのが関の山で、井崎さんの名言「予想上手の馬券下手」がまたしても実現するところだったかもしれません。人間万事塞翁が馬です。
石原さんや安倍さん、小泉さんといった政治家、川口政明さんのような裁判官の存在も、ひょっとすると「塞翁が馬」なのかもしれませんが、それは歴史にとっての「塞翁が馬」なわけですから、答えが出るのは多分何百年も先の話でしょう。少なくとも現在の私たちにとっては彼らの存在は「塞翁が馬」ではなく「駄馬」以外のなにものでもありません。そのあとを浅はかな「鹿」の群れが追いかけているような気さえしています。石原さんではありませんが、情けない世の中になってしまいました。