映画「燃ゆる女の肖像」を観た。
ジェンダーフリーの風潮のせいか、このところ邦画でも洋画でも同性愛の作品が多く上映されているように感じる。最近では「おっさんずラブ」というテレビドラマまであった。映画では2016年に鑑賞した「アデル、ブルーは熱い色」が最も印象に残っている。その4日前に観たのが邦画の「リップヴァンウィンクルの花嫁」だ。黒木華の演技に舌を巻いた記憶がある。
同性愛は太古の昔からあって珍しいものではない。古代ギリシアでは同性愛が当たり前だったという説があり、カエサルはバイセクシャルで、映画「テルマエ・ロマエ」で市村正親が演じたハドリアヌス帝は同性愛者という話だ。日本では在原業平は老若男女何でも来いだったようだし、江戸時代は男色が日常的だったらしい。
いつからか、同性愛は生殖を伴わない性行為として、キリスト教によって禁止されたり、または国家によっては法律で禁止されたりした。しかし聖職者が実は少年愛者で沢山の少年が児童虐待の被害にあったという「グレース・オブ・ゴッド 告発の時」みたいな映画もあったりする。
人間の性は個性と同じように、古来から多様なのである。フェチやマニアという言葉には沢山の接頭語がつく。性的な快楽は人それぞれであり、故に相性というものがある。相性のいい相手、言い換えれば同じフェチ、同じマニアであれば性的な快楽は増大し、そうでなければマイナスになる。人が浮気したり離婚したりする理由の「性格の不一致」は主に「性の不一致」なのだ。だから少し前まで結婚式の挨拶では「昼は淑女のように、夜は娼婦のように」という言葉が使われていた。多分いまの結婚式で使うと炎上必至の言葉だが、真実を衝いている言葉であることは間違いない。
国家という共同体の中の個人は、国家に守られている従順な羊の群れで、共同体が何かを禁止したら、それを悪いことだと思ってしまう傾向にある。精神的な自由を投げ出してしまうのだ。日本の男色や浮気を悪と定めて一夫一婦制を導入したのは明治の国家主義者である福沢諭吉たちである。ちなみに国家主義とは国家に主権があるとする考え方で、国民に主権があるとする民主主義とは正反対である。ナチスも国家主義だ。明治維新の国家主義者たちは、国の労働力や兵力を増強するため人口増加策として一夫一婦制を提唱したのであって、国民の幸福を願った訳ではない。
さて従順な日本国民は国家主義者の横暴に従い、一夫一婦制に背く行為を悪としてしまった。同性愛についても一部のマニアックな人の特有のものとして限定的な扱いを受けるようになったのである。「LGBTは生産性がない」という発言をしたのも国家主義者の国会議員だ。浮気が不倫として咎められるようになったのは人類の歴史で言えばごく最近の話なのである。民主主義国家は個性の多様性を認めるわけで、同時に性の多様性も人権として認めなければならない。
民主主義国家フランスには不倫という言葉はない。ミッテラン大統領の浮気や隠し子の報道があっても、それによって大統領が責められることはなく、逆に報道したマスコミの方が「プライベートに立ち入るのはよくない」と非難された。フランスの人々は性の多様性を認め、人間が物や人に飽きることも認めているのだ。
新しいものは誰しも試したくなるが、思い切って試す人と怖気づいて我慢する人がいる。我慢する人は試す人が許せない。不自由な人は自由な人が許せないのだ。他人の浮気を非難する人の心理はそれで、つまりは不寛容で狭量な精神性である。嫉妬や羨望もある。日本ではそういう精神性が支配的だ。だから浮気した有名人が、違法行為でもないし国民に迷惑をかけている訳でもないのに謝罪を強要される。非難する人たちの精神性はほぼ国家主義のネトウヨたちと同じである。日本に民主主義は根付いていないのだ。
本作品はフランス映画である。だから性の多様性が広く認められているという前提の上で作られていると思う。本サイトの解説によると、主人公の相手役となるエロイーズを演じたアデル・エネルは本作品の監督セリーヌ・シアマと交際しているそうだ。レズビアン監督が交際相手の女優を出演させてレズビアン映画を撮るのが普通の時代になったのは、古代の性に対する自由な精神を取り戻したようで、喜ばしい限りである。本作品の美しいレズビアンシーンを非難する人はいないだろう。
18世紀のフランスと言えば、1789年7月14日の市民によるバスチーユ監獄の襲撃事件が有名で、そこからフランス革命がはじまった。本作品はおそらくそれよりもかなり前の話で、貴族による封建主義の支配体制が残っており、女性の権利は認められていない。女性画家は男性を描くことが出来なかったり親が決めた相手と結婚しなければならなかったりする。
殆ど二人芝居のような映画で、互いの会話やアップで映される表情には、性衝動や人格のせめぎ合いや諦めや運命を受け入れる覚悟みたいなものが混ざりあったような、複雑な意識と感情が見て取れる。主人公の画家マリアンヌを演じたノエミ・メルランは、力強い目を存分に生かして繊細な女心を演じきった。対するエロイーズを演じたアデル・エネルは、主演映画「午後8時の訪問者」で見せた冷静さよりも、はじめて胸がときめいた性的な衝動と快楽、それに別れの予感に心が揺り動かされる感情を前面に出して、相手役としての存在感を十分に発揮した。両女優ともに見事である。
こんな時代をこんなふうに生きた女たちがいたという実存的な表現であり、冷たい潮風や固いパンや暖炉の熱が、あたかもその場にいるように感じられた。カメラワークも音響も秀逸だ。世界を実感するためにマリアンヌは絵を描き、アデルは海に入る。歌う女たちのシーンは素晴らしい。焚き火の向こうで火のついたドレスを気にせずすくっと立つアデルが印象的だ。そして音楽。女たちの心を解き放つのは自然と恋と芸術なのだ。ヴィヴァルディの「四季」は名曲だと、あらためて思った。