映画「Deux Moi」「パリのどこかで、あなたと」を観た。
フランス映画やアメリカ映画では屡々精神科医のカウンセリングのシーンが登場するが、邦画ではあまり見かけたことがない。その理由は社会構造に由来すると思う。
日本は忖度社会だ。それは日本の社会が未だに封建的であることを示している。忖度するのは常に立場が下の者であって、部下が上司を相手に、官僚が大臣を相手にするのが忖度である。その動機はと言えば、どうすれば相手の望むようになって、結果的に自分が不利にならずに済むかという保身に過ぎない。忖度は思いやりでも配慮でもないのだ。
そういう精神性は当然カウンセリングの場でも現れる。日本でカウンセリングを受けるのは、会社が契約している産業医の定期カウンセリングを受けるか、鬱病で会社を休んだり退職したりするために自分で病院に行くときである。そしてカウンセリングでは本当のことは言わない。自分が鬱だと判断されずに済むためにはどう言えばいいか、あるいは逆に病気だと判断されて会社を休んだり辞めたりするためにはどんな台詞が相応しいかを忖度しながら発言する。カウンセラーは深入りしないから、本人の発言を尊重する。結局問題は何も解決しない。日本ではカウンセリングはまだまだ一般的ではないのだ。だから邦画のシーンに登場しない。
本作品はたまたま住んでいるアパルトマンが隣の建物で、部屋が隣り合っているだけの男女の話である。舞台はパリ。それぞれが仕事に悩み、親族との関係に悩んでカウンセリングを受ける。自分の心の中を探っていくうちに、さらなる迷宮に迷い込む。しかしやがて一筋の光のようなものに辿り着く。それが必ずしも正解とは言えないのがカウンセリングの限界でもあるが、最終的には本人が決めることだ。自殺も否定されない。
レミーとメラニーは隣とは言っても建物が違うから交流はない。パリも東京と同じように殆どの隣人は他人なのだ。近くに住んでいるからアパルトマン周辺で何度もすれ違うが、他人にいきなり話しかけることはない。ストーリーが進むにつれて、観客はこの二人はいつ出逢うのだろうかと疑いながら観ることになる。出逢いそうで出逢わない二人だが、それぞれに抱えている問題に向き合ううちに、少しだけ心が自由になっていく。
なるほどと思った。心が病んでいる状態で出逢ったら、互いに行き場のない悩みをぶつけ合って傷つけ合ってしまう。カウンセリングの成果が吹っ飛んでしまい、以前にも増して苦しい日々となるのだ。だから敢えて出逢わない設定にしたのかもしれない。粋な作品である。同時に、自分の悩みは自分でしか解決できないという突き放した実存主義的でもある。スーパーのオーナーの、おせっかいの一歩手前ぎりぎりとも言える親切でエスプリの効いた声掛けが凄くよかった。近くにこんなスーパーがあれば毎日通うだろう。フランス映画らしく、哲学的だが恋愛の度合いも高いという国民性をよく描いている。地に足のついた優しい作品である。観ていて楽しかった。