三無主義

 ~ディスパレートな日々~   耶馬英彦

映画「Deux Moi」「パリのどこかで、あなたと」

2020年12月13日 | 映画・舞台・コンサート
 映画「Deux Moi」「パリのどこかで、あなたと」を観た。
 フランス映画やアメリカ映画では屡々精神科医のカウンセリングのシーンが登場するが、邦画ではあまり見かけたことがない。その理由は社会構造に由来すると思う。
 日本は忖度社会だ。それは日本の社会が未だに封建的であることを示している。忖度するのは常に立場が下の者であって、部下が上司を相手に、官僚が大臣を相手にするのが忖度である。その動機はと言えば、どうすれば相手の望むようになって、結果的に自分が不利にならずに済むかという保身に過ぎない。忖度は思いやりでも配慮でもないのだ。
 そういう精神性は当然カウンセリングの場でも現れる。日本でカウンセリングを受けるのは、会社が契約している産業医の定期カウンセリングを受けるか、鬱病で会社を休んだり退職したりするために自分で病院に行くときである。そしてカウンセリングでは本当のことは言わない。自分が鬱だと判断されずに済むためにはどう言えばいいか、あるいは逆に病気だと判断されて会社を休んだり辞めたりするためにはどんな台詞が相応しいかを忖度しながら発言する。カウンセラーは深入りしないから、本人の発言を尊重する。結局問題は何も解決しない。日本ではカウンセリングはまだまだ一般的ではないのだ。だから邦画のシーンに登場しない。
 本作品はたまたま住んでいるアパルトマンが隣の建物で、部屋が隣り合っているだけの男女の話である。舞台はパリ。それぞれが仕事に悩み、親族との関係に悩んでカウンセリングを受ける。自分の心の中を探っていくうちに、さらなる迷宮に迷い込む。しかしやがて一筋の光のようなものに辿り着く。それが必ずしも正解とは言えないのがカウンセリングの限界でもあるが、最終的には本人が決めることだ。自殺も否定されない。
 レミーとメラニーは隣とは言っても建物が違うから交流はない。パリも東京と同じように殆どの隣人は他人なのだ。近くに住んでいるからアパルトマン周辺で何度もすれ違うが、他人にいきなり話しかけることはない。ストーリーが進むにつれて、観客はこの二人はいつ出逢うのだろうかと疑いながら観ることになる。出逢いそうで出逢わない二人だが、それぞれに抱えている問題に向き合ううちに、少しだけ心が自由になっていく。
 なるほどと思った。心が病んでいる状態で出逢ったら、互いに行き場のない悩みをぶつけ合って傷つけ合ってしまう。カウンセリングの成果が吹っ飛んでしまい、以前にも増して苦しい日々となるのだ。だから敢えて出逢わない設定にしたのかもしれない。粋な作品である。同時に、自分の悩みは自分でしか解決できないという突き放した実存主義的でもある。スーパーのオーナーの、おせっかいの一歩手前ぎりぎりとも言える親切でエスプリの効いた声掛けが凄くよかった。近くにこんなスーパーがあれば毎日通うだろう。フランス映画らしく、哲学的だが恋愛の度合いも高いという国民性をよく描いている。地に足のついた優しい作品である。観ていて楽しかった。

映画「The kindness of Strangers」(邦題「ニューヨーク 親切なロシア料理店」

2020年12月13日 | 映画・舞台・コンサート
 映画「The kindness of Strangers」(邦題「ニューヨーク 親切なロシア料理店」を観た。
「ニューヨーク 親切なロシア料理店」という邦題から、てっきりレストランを舞台の悲喜交交を描いた映画だろうと踏んでいたが、少しだけ違っていた。原題は「The kindness of Strangers」である。映画を鑑賞したあとで邦題をつけるとしたら、当方なら「ニューヨークの優しい人々」か、直訳の「他人たちの親切」としたい。邦題をつけた人はちゃんと作品を観たのだろうか。
 ニューヨークには様々な問題を抱えた人たちがいる。明日をも知れぬホームレスから大金持ちまで、或いは社会で上手く生きていけない精神的な悩みを持つ人から世渡り上手だけで贅沢な暮らしを手に入れる人まで、縦も横も雑多な人々の集まりと言っていい。
 そして大半の人は、自分が上に行くよりも下に墜ちる可能性の方がよほど高いことを知っている。いつどんなきっかけで自分がホームレスにならないとも限らないのだ。雇われている人は目の前の人が困っていると分かっていても、雇い主の金でその人を助ける訳にはいかない。そうしたら解雇されて自分が目の前の人と同じ立場になってしまう。助けるのも助けないのも、どちらも辛い選択だ。他人に優しくすることはとても勇気のいる行動なのである。
 主人公クララは二人の男の子を連れて、逃げるために家を出た。行くあてもなく自動車を走らせ、ニューヨークに辿り着く。IDカードとクレジットカードだけが物を言うニューヨーク。金持ちに優しく、貧乏人に冷たい街だ。クララに必要なのは温かい食事と雨風をしのげて安全に寝られる場所である。しかしIDもクレジットもないクララには、そんなものは提供されない。
 本作品のリアリティは、クララが必ずしも善良なだけではないことだ。嘘も吐けば盗みもする。人は追い詰められたら普段は出来ないこともやってのける火事場の馬鹿力がある。だがいつもうまくいくとは限らない。次第に追い詰められるクララだが、無償で食事を提供してくれる場所を発見してひと息つく。しかしそこに寝場所がある訳ではない。
 看護婦のアリスはロシア料理店の常連で、病院の仕事以外の時間はボランティアでホームレスたちに無償で食事を提供したり、立ち直りたい人たちのための会話サークルを運営している。そこに加わったマークは刑務所を出たばかりだが、ロシア料理店に拾われてマネジャーとなる。友人のジョン・ピーターは彼の裁判で尽力してくれた。
 クララのように親切な他人に巡り合うのは極めて稀だと思う。ニューヨークに生きる多くの貧乏人は救いがない。冬の寒さに勝てずに凍死したり、夏の暑さに衰弱死する。または生きる希望をなくして自殺する。本作品は不運の中の幸運に恵まれたケースを描いているが、恵まれない人も沢山いることも同時に描いているし、今は寝るところと食べ物にありついている人も、いつそれらが失われるかもしれないことも描いている。クララの奇跡的な僥倖を描くことで、その他の人々の不幸を浮き彫りにしているのだ。
 アリスを演じたアンドレア・ライズボローがとてもよかった。優しい人は時として他人を突き放す。自立を促すためだ。頼ってばかりではなく他人から頼られる存在にならなければならない。人を否定せず、受け入れる寛容さが大切なのだ。しかしアリスは受け入れてばかりで疲弊している。アリスにも頼る相手が必要だ。そういったアリスの心模様を上手に表現していたと思う。名演である。
 映画「マイ・ブックショップ」に重要な役どころで出ていたビル・ナイがホテルのオーナー役で登場。この人がいると作品の厚みが増す。クララ役のゾーイ・カザンは初めて見たが、母親の顔と女の顔の使い分けが見事だったと思う。