超常現象は、その存否に関する議論はさておき、ファンタジーやホラーには欠かせない要素である。それ以上に、日常的に欠かせない要素かもしれない。というのも、我々は得てして実現しないことを考えがちであり、妄想と言っていいその想像は、超常現象に近いものがある。
約束の時間に間に合わなくなると、瞬間移動できたらとか空を飛べたらとか思うし、お金に困ると、競馬の予想が100%的中したらとか、財布の中にどれだけ使っても常に百万円はいっていたらとか考える。漫才のネタになりそうな話だが、こういった妄想も超常現象のひとつである。
そう考えると、超常現象は我々の日常を愉快にしてくれているひとつの要素かもしれない。トロイの木馬の時代から、人はもっと速く移動できたり剣の一振りで何百人も殺せたりしないかと考えていたと思う。超常現象を妄想することで、その後の歴史では速く走れる車や強力な攻撃力を持つ戦車を生み出してきたのだ。いいことかどうかは分からないが、進歩は進歩である。
さて本作品の超常現象は北欧のトール民話と結びつけて、なかなかにリアルである。雷のCGは迫力があった。マーベルの「マイティ・ソー」とは世界観において月とスッポンの開きがあると思う。作用反作用なのか、超常現象を起こす度に主人公エリックの身体が傷ついていくところがそれである。受け継いだ力は強大だが、当人は普通の人間に過ぎない。だから耐えられずに身体が傷つけられてしまう。映画の序盤で、因縁をつけてきた青年を殺してしまうのは、その父親の復讐シーンに繋がって、エリックがあるいは銃で撃たれても死なない身体の持ち主なのか、あるいは既に身体は死んでいて痛みを感じないのかのいずれかであることを暗示する。
現在の世界に奇跡を起こす人間が出現したら世界の精神性はどうなるのか。それも並の奇跡ではない。神の怒りと表現したくなるような、広範囲に亘る破壊なのだ。アメリカ政府のエージェントと思われる女性は、エリックを危険な存在と看做して排除を企てる。神を信じる宗教、主にキリスト教とイスラム教だが、その信徒たちは、新たに現れた神のような存在を目の当たりにして混乱に陥るだろうというのが彼女の論理である。しかし本当にそうだろうか。
大江健三郎の小説「同時代ゲーム」に登場する「壊す人」は村の創建者であり、死と再生を繰り返す。本作品のエリックも「壊す人」と同様に、腐敗して行き詰まった共同体を破壊するために再生した「神」のひとりだと考えれば、トール民話との整合性も取れる。そしてそういう強大な力を持つ「個人」が現れば、キリスト教とはそれをイエスの再来と看做すだろうし、イスラム教徒はムハンマドの再来と看做すだろう。従って世界は多分混乱しない。
エリックは暴力に対するアンチテーゼでありながら、その強大な力を使って人を殺してしまう。それは創造と破壊が一体化した神話の世界の価値観のようで、矛盾をそのまま現実として受け入れるところに、エリックの存在が意味を成す。世界を作り直すために、ノアと彼が方舟に乗せた生き物以外をすべて洪水によって死滅させた、旧約聖書の神のようである。
アンドレ・ウーブレダル監督は前作のホラー映画「スケアリーストーリーズ怖い本」でも凡百のホラー映画とは一線を画していると高く評価したが、本作品は更にスケールを増していて、北欧の一地方の民話を題材に、共同体とは何か、人類とは何かというテーマを投げかけているように感じた。神話のような壮大な映画である。
力を制御できない現世のエリックが、前世のエリックから力を制御できる道具を受け継いだとしたらどうなるのか。物語は続いていく。