三無主義

 ~ディスパレートな日々~   耶馬英彦

芝居「ある八重子物語」

2020年12月24日 | 映画・舞台・コンサート
 東京芸術劇場でこまつ座&劇団民芸の芝居「ある八重子物語」を観劇した。
 第一幕は第二次世界大戦も佳境の1941年。暮れには真珠湾攻撃が実行されて太平洋戦争が勃発する年である。戦争で物資の乏しい中での柳橋にある古橋病院を取り巻く人々の人となりの紹介である。次に何が起きるのか、人々はどのように反応するのかが第二幕の見どころとなる。篠田三郎が演じる古橋院長が水谷八重子と声が似ていると言う芸者、有森也実が演じる花代との淡い恋心の行方も気になるところだ。
 第二幕には別の芸者が登場して、弟のことを語る。語られた弟は、陸軍に徴用されたが、何日も徹夜で論文を書いていたために当日に寝過ごしてしまった。しかしこれも御仏の思し召し、ならば論文の続きを書き上げようとして一週間が過ぎた。この辺りで心配している姉のもとを訪ねてきたと、舞台に登場する。女形の歴史を4つに分けて書いてきたが、最後に女形と女優のぶつかり合いとその後を書きたい、そのためには水谷八重子に会って話を聞きたいと言う。古橋病院のみんながそれを実現するために努力する。
 第三幕は戦争が終わった1946年。焼けずに済んだ古橋病院に柳橋芸者の置屋が間借りしてくる。女将を演じるのは日色ともゑだが、加齢のためか、見事に台詞がつっかえて、観ているこちらがハラハラした。その後はなんだかんだと言いながら全員が舞台に登場する。取り敢えず全員無事で、戦地に行った弟も帰還したようだ。古橋院長と花代の恋は緩慢だが進展している様子である。バカボンのパパみたいにコレデイイノダという感じの終幕であった。とても面白かった。

映画「この世界に残されて」

2020年12月24日 | 映画・舞台・コンサート
 映画「この世界に残されて」を観た。
 ときどき頓珍漢な邦題をつける配給会社だが、本作品の「この世界に残されて」という邦題は秀逸だと思う。まさに戦争のあとに残された者たちの悲哀を描いた作品である。第二次大戦後の1948年からスターリンが死んだ1953年までのハンガリーの首都ブダペストが舞台となっている。
 ホロコーストによって家族を失った16歳の少女クララと42歳の医師アルドが出逢い、寂しさのあまり同じ心の傷を持つアルドのところを訪れてきたクララに対し、父親代わりのような日々を送る。家族がいない境涯をなかなか受け入れられず、世の中に対して斜に構えているクララだが、アルド医師は決してそのことを否定したり説教したりしない。クララがみずから自立の道を歩み始めるのを待っているのだ。
 ナチスドイツが去って平穏な日々が訪れたと思ったら今度はソ連だ。一元論の価値観を押し付けて人格を蹂躙するのはナチスと同じである。自分を持たない人は共産党に入党し、スターリニズムという全体主義を錦の御旗にして、共産党員でない人々を睨めつける。自分が虎の威を借る狐であることに気づかない。何度か登場する居丈高な女教師がその典型だ。アルドもクララもそんな連中を相手にしない。
 しかしスターリンの弾圧はハンガリーにまで及んでくる。常に覚悟を決めているアルドは、いつ何時であっても即座に逃げ出す準備を怠らない。緊張感の続く日常に厭世的になってもおかしくない筈だが、クララもアルドも正気を保ち続ける。このアルド医師の落ち着いた精神性が物語を安定させている。クララは素晴らしい人に出逢ったのだ。
 そして3年が過ぎて、クララは21歳になった。もう落ち着いた大人である。ラストシーンの森の中を走るバスの中では、窓に溢れる光がクララの表情を美しく照らし出す。その光の温かさは、今を生きていこうとするクララの心を優しくあたためているようだ。もう過去を振り返ることはない。

映画「MORTAL」

2020年12月24日 | 映画・舞台・コンサート
 映画「MORTAL」を観た。
 超常現象は、その存否に関する議論はさておき、ファンタジーやホラーには欠かせない要素である。それ以上に、日常的に欠かせない要素かもしれない。というのも、我々は得てして実現しないことを考えがちであり、妄想と言っていいその想像は、超常現象に近いものがある。
 約束の時間に間に合わなくなると、瞬間移動できたらとか空を飛べたらとか思うし、お金に困ると、競馬の予想が100%的中したらとか、財布の中にどれだけ使っても常に百万円はいっていたらとか考える。漫才のネタになりそうな話だが、こういった妄想も超常現象のひとつである。
 そう考えると、超常現象は我々の日常を愉快にしてくれているひとつの要素かもしれない。トロイの木馬の時代から、人はもっと速く移動できたり剣の一振りで何百人も殺せたりしないかと考えていたと思う。超常現象を妄想することで、その後の歴史では速く走れる車や強力な攻撃力を持つ戦車を生み出してきたのだ。いいことかどうかは分からないが、進歩は進歩である。
 さて本作品の超常現象は北欧のトール民話と結びつけて、なかなかにリアルである。雷のCGは迫力があった。マーベルの「マイティ・ソー」とは世界観において月とスッポンの開きがあると思う。作用反作用なのか、超常現象を起こす度に主人公エリックの身体が傷ついていくところがそれである。受け継いだ力は強大だが、当人は普通の人間に過ぎない。だから耐えられずに身体が傷つけられてしまう。映画の序盤で、因縁をつけてきた青年を殺してしまうのは、その父親の復讐シーンに繋がって、エリックがあるいは銃で撃たれても死なない身体の持ち主なのか、あるいは既に身体は死んでいて痛みを感じないのかのいずれかであることを暗示する。
 現在の世界に奇跡を起こす人間が出現したら世界の精神性はどうなるのか。それも並の奇跡ではない。神の怒りと表現したくなるような、広範囲に亘る破壊なのだ。アメリカ政府のエージェントと思われる女性は、エリックを危険な存在と看做して排除を企てる。神を信じる宗教、主にキリスト教とイスラム教だが、その信徒たちは、新たに現れた神のような存在を目の当たりにして混乱に陥るだろうというのが彼女の論理である。しかし本当にそうだろうか。
 大江健三郎の小説「同時代ゲーム」に登場する「壊す人」は村の創建者であり、死と再生を繰り返す。本作品のエリックも「壊す人」と同様に、腐敗して行き詰まった共同体を破壊するために再生した「神」のひとりだと考えれば、トール民話との整合性も取れる。そしてそういう強大な力を持つ「個人」が現れば、キリスト教とはそれをイエスの再来と看做すだろうし、イスラム教徒はムハンマドの再来と看做すだろう。従って世界は多分混乱しない。
 エリックは暴力に対するアンチテーゼでありながら、その強大な力を使って人を殺してしまう。それは創造と破壊が一体化した神話の世界の価値観のようで、矛盾をそのまま現実として受け入れるところに、エリックの存在が意味を成す。世界を作り直すために、ノアと彼が方舟に乗せた生き物以外をすべて洪水によって死滅させた、旧約聖書の神のようである。
 アンドレ・ウーブレダル監督は前作のホラー映画「スケアリーストーリーズ怖い本」でも凡百のホラー映画とは一線を画していると高く評価したが、本作品は更にスケールを増していて、北欧の一地方の民話を題材に、共同体とは何か、人類とは何かというテーマを投げかけているように感じた。神話のような壮大な映画である。
 力を制御できない現世のエリックが、前世のエリックから力を制御できる道具を受け継いだとしたらどうなるのか。物語は続いていく。